2021年2月14日日曜日

ふるさとの史跡をたずねて 増補版 211-220回

ふるさとの史跡をたずねて(211)

 藤井忠三墓(因島重井町善興寺)

 

 重井町善興寺の墓地の東の端、かつて天理教教会のあったところの上の一角、一段高くなったところにブロック塀で囲まれた立派な墓地がある。藤井家の墓と書かれているからすぐにわかるだろう。



 墓誌からもわかるが、明治23年2月生まれの藤井忠三氏は明治40年17歳の時、家族の反対を押し切って単身ペルーにわたった。日本からのペルーへの移民は4回目で、1月5日に出航し2月8日にカヤオ港へ着いた。452人でそのうち広島県人は43人だった。これで合計3188人となり、広島県人は699人で府県別では全国1位である。移民船は翌年第1回ブラジル移民を運ぶ有名な笠戸丸であった。

 藤井忠三氏は日本人の多い耕地で須貝商店に勤め、スペイン語や商業を勉強し、後に日用雑貨食料品店を設立して独立した。第一次大戦中の大正6年に首都リマに進出後、やがてペルーのデパート業界のトップとなり、また多くの社会事業を行った。昭和8年には日本に帰り貿易業に進出した。東京都港区の邸宅へは多くの人が出入りし、日本ペルーの親善に尽くすとともに、郷里の人々の面倒もよくみられた。また重井町の別邸は、後に修養団捧誠会因島支部が置かれ、ここから月刊誌『反省ノ泉』が全国へ配信された。

 藤井忠三氏は昭和42年8月19日に77歳で亡くなった。早く別れ他家に嫁いだ妹さんの墓が近くにあるのも故人にとっては喜ばしいことであるに違いない。

 なお、多くの店舗を所有されたが、フジイではスペイン語での発音が難しいということで、企業名としては使われず共同経営者の姓を用いた。しかし幸い藤井忠三氏の事績は『日本人ペルー移住の記録』(ラテンアメリカ協会、昭和44年)や尾塩尚『天界航路』(筑摩書房、1984年)で伺うことができる。



ふるさとの史跡をたずねて(212)

柏原神社(因島重井町上坂)

 

 島四国についてはいづれ書くつもりであるが、場所を示すのに私のような無精な者にとっては極めて便利なのである。今回も島四国81番白峯寺のあるところ、と書いておけばそれでわかってもらえるだろう。わからない人は誰かに聞けばすぐわかる。

 そこは北向きでいつも日陰で、本四国の崇徳院の御陵のあるところと似た感じがするので、設置場所もよく考えられたものだと感心する。島四国の隣には重井村四国7番十楽寺もあるのだが、参道を登りきったところにある、ちょっと変わった神社を見てほしい。



柏原神社と呼ばれているが、柏原氏が変わった宗教をしているという訳ではない。これを作った柏原米太郎氏が、台湾で成功した人だからである。とは言え、私は台湾の神社など見たことはないから、どこが台湾風なのかはわからない。

 慶應3年に重井村に生まれた柏原米太郎氏は大阪で働いたのち、明治33年台湾に渡り、海運業を起こし成功した人である。多くの船舶を所有し、基隆市の市政にも関わった。柏原神社のある荒神社へ、大正3年に柏原土廟碑、昭和2年に本殿・拝殿を建てた。現地で設計し加工した材料を持ち帰り建てたものであろう。ただ、私が理解できないのは柏原氏という一氏族の先祖を祀る神社に多数の現地の人たちが寄付金を拠出されていることである。先祖を祀ることに高い価値があり、他氏族のものでもそれに協力することが善根であるというような価値観が当時の台湾にあったのであろうか。

 また米太郎氏は重井村の電話設置に尽力されたり、金光教教会を建てたりされた。墓は善興寺にある。北東部の高いところにある、これまたブロック塀で囲まれた広い墓地だから探すには容易である。



ふるさとの史跡をたずねて(213)

ダバオ(因島重井町須越)

 

 重井小学校がまだ木造校舎の頃、踊り場の壁に山本卓先生が指導して児童に描かせたガリバーの壁画があった。個性の異なる子供たちに一つのテーマで共同して絵を描かせるという稀有な指導力を持たれた先生であった。そのベニヤ板一杯に描かれた壁画の隣に、それよりもさらに大きなワニの剥製が掲げられていた。その下には柏原達象氏寄贈と書かれた板が打ちつけられていた。恐竜図鑑などまだない時代であったから剥製とはいえ本物であるからよい教材であった。

 当時は給食はなく、多くの児童は昼休みには昼食を食べに家に帰っていた。だから、1日に4回私は柏原達象と書かれた大きな門柱のあるお屋敷の前を通った。そして、このお屋敷は荒神社の下にあり、ダバオと呼ばれていた。



 ダバオというのは、フィリピン南部のミンダナオ島にあるフィリピン第三の都市で現在はダバオ市と呼ぶ。ダバオでは1903年に太田恭三郎氏によりマニラ麻のプランテーションが開かれ、以来多くの日本人が住んだ。

 明治17年生まれの柏原達象氏はダバオで最初のホテルを経営し町の発展に寄与された。人格者で多くの人の信頼も厚かった。

 ダバオでは現地の子供たちがワニの子を取る。大人は数人で親ワニを取る。時には足を喰い千切られたり、死んだりした。獲物は剥製にして日本人に売りに来る。彼らにとっては生活の資であるから、それを買う日本人もあながち道楽ばかりともいえまい。善意で買った人も多かっただろう。

 戦争が起これば海外移住者は敵国人になるのはわかっている。移民が国策であった以上、海外で戦争してはならない。それが守られなかったのだから棄民政策だったと呼ばれても仕方がない。

 柏原達象氏の資産も戦争の犠牲になったというから、私が見た剥製はかろうじて日本に持ち帰れらたものの一つだったに違いない。

 さて、ここには、ペルーのデパート王藤井忠三氏の遠縁にあたる方が、藤井氏の勧めで東京で学んできて、因島でも最先端の技術をもった美容師として経営されていた美容院があった。また、それ以前の歴史を見れば台湾米と呼ばれた柏原米太郎氏が住んでいたところであった。

 ということで、この地は奇しくも波濤万里・海外雄飛の3人のアドヴェンチャラーのゆかりの地ということになる。

 ▶️因島ふるさとの歴史を学ぶ会(柏原達象) 写真




ふるさとの史跡をたずねて(214)

大出万吉翁頌徳碑(因島重井町重井幼稚園)


 われわれ卒園生の間では「上の幼稚園」、正式には「学校法人重井学園 重井幼稚園」の園舎に隣接して「大出萬吉翁頌徳碑」と書かれた立派な石碑が門扉の外からでも見える。「キリストを信ずる者は死すとも生くべし」と左側(東側)の面には書かれている。






 大出万吉氏は大阪で人力車を引いていたが、水害に会い避難所となったキリスト教会の心温まる応対に感動してキリスト教に改信した。67歳であった。明治36年、教会を建設しようと郷里重井村に帰り布教活動を始めた。幸運なことに、福音丸で島々を伝道中のビッケル船長と出会い大正5年まで周辺の島へも布教活動を行った。

 日本バプテスト同盟によって大正9年に私立重井幼稚園が設立され、翌年園舎が完成した。福音丸のマストが遊戯室の柱に使用されている。 



 その万吉翁ゆかりの幼稚園に1年間通えたことは良い経験だった。しかし純農村の子供たちにとっては、キリスト教のありがたい教えもただ珍しく「アーメン ソーメン」とはしゃぐだけだった。半年もすれば慣れたせいか、クリスマスに行われる恒例の劇はわかりやすく、聖書の中にそのシーンを見つけては今でも懐かしく思い出す。

 大出万吉翁のご尽力にもかかわらず、キリスト教と仏教の違いがわからない人は多いのか、いまだに白滝山では伝六がキリスト教と仏教などから「一観教」を作ったと書かれている。そのように言うことが双方に対して背信であり背教であることもわかっていないのは嘆かわしい。伝六生存中にも伝六没後にも、「一観教」を名乗った宗教者集団は存在しなかったし、そしておそらく現在も存在しないと思う。もし読者の中に「一観教」の信者であるという方がおられたら、そのキマイラのような宗教がどのようなものなのか是非教えていただきたい。




 ふるさとの史跡をたずねて(215)

亀井文龍先生墓碑(因島三庄町六区)


 三庄町六区の五柱神社へは折古浜へ通じる昔懐かしいトンネル近くの大鳥居の下を通ってもお参りできるが、表参道は北側の丘の西端を通る道である。その表参道は真新しく広くなっているが、注連柱を過ぎるとすぐ左の石垣の上にお堂があり、その前に円形の石板を載せた珍しい形の石碑がある。幕末から明治にかけての教育者、亀井文龍先生の墓碑である。


 亀井先生は田熊村、重井村でも寺小屋で教えていたと言われている。明治になって公教育が始まったが、因島では明治6年4月に「振徳舎」(重井村善興寺)と「研幾舎」(田熊村浄土寺)が許可され、それぞれ沼田良蔵、村上万之助が教師として任命された。一方、三庄村では『ふるさと三庄』によると、場所はわからないが明治8年8月に「六行舎」が開設されている。

 したがって、他の時期はともかく、この2年4か月間だけについて見れば、亀井文龍先生は田熊村、重井村で教えることはなく、三庄村だけで教えられたと考えることができる。

 亀井文龍先生は明治24年10月に81歳で亡くなった。円形の石板には「仁義忠孝」の文字が彫られている。先生の教育理念であるとともに生活の信条であったものと思われる。

 よく見るとその円形石板は亀の上に乗っているではないか。おそらく「亀先生、亀先生」と子どもたちや村民に慕われたのではないだろうか、と私は想像する。 




ふるさとの史跡をたずねて(216)

村上萬之助先生顕彰碑(因島田熊町元田熊小学校跡)


 三庄町の亀井文龍先生を紹介したので、その次は田熊町の村上萬之助先生顕彰碑を紹介すべきであろう。幸い田熊小学校の跡地は残っており、そこに行けばその顕彰碑を見ることができる。


その石碑には、「久敬舎の開設者」の文字が見える。その久敬舎については、田熊小学校閉校記念誌の目次の下に「慶応元年四月 久敬舎が開設された これが田熊教育のおこりである 昭和四十一年 田熊小学校創立百周年記念」と書かれた石碑の写真がある。私はそれ以前に浄土寺等で行われた寺子屋教育があるかも知れないと思うのだが、それらは田熊小学校の前身と考えられなかったと言うことであろうか。 

 しかし前回書いたように、公教育として、明治6年4月に「研幾舎」(田熊村浄土寺)が許可されたわけであるから、それ以前の「久敬舎」は寺子屋であった。そして教師として村上万之助氏が任命されたり、初期の頃には久敬舎が使われたのも、全国的な寺子屋から公教育への転換の傾向とよく似ている。ただ、万之助氏が教師として任命された時には「尚純舎」と校名が変更されている。

 以上が、石碑に記された文字と『因島市史』記載の公文書に基づく考察であるが、やや不可解な印象を受ける。特に名称の変更が短期間のうちになされていることは理解しがたい。この問題に関して興味深い見解が『田熊の文化財』第7巻に記されている。まず、豊富な基礎資料の収集に対して敬意を表したい。

 公教育の開設の認可がまず地元からの要請に基づくものであったということがわかった。そして、「研幾舎」というのが浄土寺の寺子屋であり、初めはこちらが認可されたのであろう。それが認可後、神主家の久敬舎の方へ移った。そして、久敬舎はお家の事情により「尚純舎」と寺子屋名を変更していた。

 だから、研幾舎や亀井先生の寺子屋が始まった時期がわかれば、「田熊教育のおこり」はもっと古いかも知れない。


ふるさとの史跡をたずねて(217)

久保田権四郎翁頌徳碑(因島大浜町斎島神社前)


 明治の公教育が明治6年から始まったのであったが、その頃に生まれた人に久保田権四郎(旧姓大出)さんがいる。大きな久保田権四郎翁頌徳碑が大浜町の斎島神社前にあって、権四郎さんがいかに地元の人たちから尊敬されているかがわかる。



明治3年のお生まれだと書けば、まさに初期の小学生ということになることはすぐにわかるだろう。今のように新しく小学校ができて4月から全校揃ってスタートというイメージで考えることはできない。まさに試行錯誤、制度はできたものの子供は集まらず、と言ったところだった。教師も十分集まらなかった時代であったから、それでよかったのだろう。次第に学校というものが整っていく、そのスタートであったのだ。ということは、権四郎さんにとっては行っても行かなくてもよいということだったに違いない。しかし、学校制度が充実していくことは、学校に行ってなくても世の中が大きく変わっていることが、子供心にもわかるという大きな教育的効果はあった。そしてその効果は外から教えてもらうものではなく自分で感じるものであるということはいうまでもない。

 このような時代の中で権四郎さんは、15歳で単身大阪に出て、鋳物技術を身につけ19歳で大出鋳物を創業する。その後久保田家の養子となって久保田鉄工所となるのは明治30年であった。久保田権四郎さんは数々の発明をするが、特に水道管の製法は多くの特許となって会社を飛躍させた。だから日本の上水道の歴史はまさに久保田の歴史であった。

 ところが皮肉なことに、因島市時代の水道料金は日本一高いと言われていた。私の住むところに市の水道が伸びてくるのは尾道市になってからであったから、その話が嘘か本当かはわからないが、もし晩年の権四郎さんが聞かれたら、その辺の水道管を好きなだけ持って行けと言われたに違いなかろうから、権四郎さんが亡くなってからの話であろうか。

 自動車のエンジンは鋳物だから、初期の自動車産業も牽引した。後に売却されて、そこから日産自動車になった。民生品としてはトラクターが有名で久保田鉄工といえばトラクターメーカーだと思っている人は多かったが、その技術は初期の頃からあったのだ。現在の社名は株式会社クボタで、世界的な大企業であるのはいうまでもない。




ふるさとの史跡をたずねて(218)

久保田権四郎寄付碑(因島大浜町相川)


 水軍祭りが行われるしまなみビーチは、現在のような人工海浜になる以前も長い砂浜があった。そして因島大橋がかかる前は向島の津部田との間にフェリー航路があった。

 そのしまなみビーチの入り口の横断歩道のところに久保田権四郎さんの寄付碑がある。「一金千円 新設道路 寄附者 久保田権四郎」と書かれている。右側には「大正十四年竣工」、左側には「大濱村建之」の文字が見える。





 中庄町から大浜町へ向かう海岸道路脇の花壇に、この海岸道路を作った時の寄付碑があり、現在のしまなみ海道の側道に該当する旧道工事の寄付も記録されていることは以前にも書いた。

 それとここのしまなみビーチの入り口の寄付碑を加えると、大浜町から中庄町、重井町へ通じる3つのルートが全て久保田権四郎さんの寄付で作られたとことがわかる。

 それ以前にはどうなっていたのだろうか。古い山道の名残が少し残っている。一つは島四国の歩き遍路道で、大楠山の西側の峠を通ってネズミ屋新開に出るルート。峠からまっすぐ唐樋へ降りることも可能だ。次は更に北側の峠を越えるルートで、大浜町の村上家先祖碑の隣を登ってからネズミ屋新開へ降りる。さらに北側の白滝山南尾根を越えて重井町川口へ出るルート。これは重井村尋常小学校に高等科ができてから大浜村尋常小学校に高等科ができるまで大浜村の子供たちが通った道だと言われている。さらに大浜町から白滝フラワーラインの三叉路のところに出るルートがあるので、こちらも利用されたのかもしれない。いずれも険しい峠道だから途中からは歩行のみが可能だったような山道である。

 これらの峠道はいずれも耕して山頂に至ると言われたように、畑とその道であったので今では想像もできないほど明るく開けていたと考えた方がよさそうである。しかし現在はそれらの畑が山に変わり、道も潅木で覆われたりイノシシに荒らされたりして、多くが通行不可能になり、やがて忘れられていく運命にある。



ふるさとの史跡をたずねて(219)

久保田権四郎寄付碑(因島重井町一本松)


 重井町一本松の重井川沿いにも久保田権四郎さんの寄付碑がある。正面には「一金参千八百円 特別寄附者 久保田権四郎氏」と書かれている。また、左側に「内訳 金二千八百円 自三反田 至広道 道路改修費 金一千円 字崩岩 道路改修費」、右側には「昭和五年五月建之 重井村」と記されていて、およそ90年前に設置されたことがわかる。 因島大橋がかかり、しなみ海道ができてから、この辺の道路事情は一変したので、それ以前のことだと思っていただきたい。



 内訳に書かれている2つの工事区間は白滝山南麓を通る大浜町と重井町を結ぶ道路である。現在、因島北インターを出ると中庄町重井町境界付近から大浜町の第三久保田橋へ通じるしなみ海道の側道がある。これが重井大浜往還の新道である。かつて因北消防分署があった辺りに塞の神がある。ここから奥へ入る道が旧道である。町界をなす峠は切り通しになっていた。その辺りが崩岩であり、この旧道を改修するのに一千円が寄付された。それ以前から利用されていたのが古道で、自転車も通れない山道であった。だから、少し大回りになるがより低いところにあった畑道を広くしたのであった。しかし、自転車や車が通れるようようになってもその先が昔のままであったならば意味がないので、中庄町重井町の境界から一本松までの道路も拡張したというわけである。これが三反田より広道に至る道路改修費二千八百円の意味である。この道路は現在と同じルートで、今ではカーブと坂が無くなっている。

 従って、一本松から中庄町、大浜町に至る道路の改修が権四郎さんの寄付でなされたというわけである。

 古道は大浜町から白滝山への参道と一部が重なっていた。しかしその部分は公団のフェンス沿いに北に移って残っていたが、樹木で覆われ今は通れない。旧道はしまなみ海道によって消滅しており、その痕跡を探すことは難しい。


ふるさとの史跡をたずねて(220)

久保田権四郎氏顕彰碑(因島中庄町浜床)


 中庄町の浜床団地入口には、久保田権四郎氏顕彰碑とともに、升浜道路改修記念碑と島四国の道標もあるが、今回は久保田翁顕彰碑だけについて述べる。



 まず、右端に「従一位勲一等侯爵浅野長勲纂額」と書いてある。これは幕末から明治大正昭和と活躍された最後の広島藩主浅野長勲(ながこと)氏の額が上部に彫られていることを示す。この装飾性に富んだ四文字は篆書(てんしょ)と呼ばれる書体で、右から「切切念郷」と読むのだろう。なぜならば、本文のうしろの方に「切々念郷稜々赴義」は真に君の如き者を謂うべしと書いてあるから。君の如きとは、久保田権四郎君のごとき、という意味である。それで「切切念郷」は、切々と郷を念(おも)ふと訓読し、深く郷里を思うという意味である。あるいは切々たる愛郷の念と解してもわかりやすい。

 さて、それではこのような顕彰碑がなぜここにあるかというと、昭和2年1月に中庄重井道路が久保田権四郎翁の寄付で改修竣工されたからである。その道路の北端は中庄村重井村の境界で、前回述べた、三反田広道線と接続していたと思って間違いはなかろう。しかし南の端についてはわからない。この場所であれば、もう一つの改修記念碑に書かれている升浜道路に接していたことがわかる。あるいは更に南へ伸びて別の幹線道路と接していたのかもしれない。

 いずれにせよ大浜村からは崩岩の切り通しのあった大浜重井往還(旧道)を経て重井村、中庄村への往来が便利になるとともに、中庄村重井村の交通の便に益すること大であったということは、本文に書かれてある通りだっただろう。


                                     写真・文 柏原林造



本館 白滝山 いんのしまみち