2021年2月14日日曜日

ふるさとの史跡をたずねて 増補版 81-90回

本館 白滝山 いんのしまみち

第81回 宇多城跡(愛媛県越智郡上島町久司浦)

 弓削島の東端、久司浦港の近くにある東泉寺は「お薬師さん」と呼ばれ、ご本尊の薬師如来が有名で5月5日の祭日には多くの人で賑わうそうである。



 その東泉寺の駐車場から東へまわると窪地に鯨公園というのがあって、鯨が泳いでいるのかと思ったが、そうではなかった。それはさておき、さらに東を見上げると、東端の岬からなだらかな傾斜地が南へと続いている。宇多城跡である。




 ちょうど三庄の地蔵鼻にある美可崎城跡と向かいあっているので、海岸近くに何か痕跡でもないかと探したが、それらしきものは無く、結局、お薬師さんから行くのが一番よいとわかった。写真の一番高いところが中心で、遊具の屋根の上に見えるこんもりしたところが、江戸時代の狼煙台跡である。鞆、岩城とともに伊予の藩主の通過を連絡しあったのであろう。

 宇多城の主、宇多氏は二代で田頭と改姓し、江戸時代の初期、鯨田頭家本家が十代の時両親を伴って中庄へ移住したことは、以前にも書いた。またほぼ同じ頃、鯨田頭家から外浦へも移住した。それぞれ中庄田頭氏、外浦田頭氏の祖となった。

 弓削に残った田頭氏が各地の庄屋を勤めた話は『弓削町誌」に詳しい。


82 逆針羅針盤(愛媛県越智郡上島町佐島八幡神社)



 佐島へ行ったら八幡神社へお参りし、拝殿の天井を見上げてみよう。十二支で書かれた方位盤が吊り下げてある。



 国語辞典の巻末付録などで確認できるが、子(ね)が真上で北になり右回りに丑寅卯(東)辰巳午(南)未申酉(西)戌亥となる。これを天井に貼ってその場所の方位を示そうとすると、東西が逆になって使えない。(国語辞典のその頁を南を向いて開いて、下から眺めてもらいたい)。ということは、神社の天井にある方位盤は、そのために東西を逆にしたものか、あるいは逆にして使っていたもののお古、のどちらかである。

 佐島八幡神社のは、甲種船長繁村清太郎氏奉納のもので、船上で、中心に方位磁針を置いて使われていたものである。それでは方位がわからなくなるではないかと、思われるだろう。その通りである。方位はわからなくても、進行方向がわかると書くと、ますます混乱する。ここからが今回の主題である。

 磁針は常に北を指す。方位盤は船に固定しておく。その時舳先を北にする。船が北を向いている時、磁針の指している方位盤は北を示す。右へ90度回転して東に船を向けると、左にあった方位盤の東が90度回転して磁針の指している北の位置に来る。すなわち、磁針が指すところが船の進行方向になっている。

 方位盤の東西が逆になっているので、逆針羅針盤と呼ばれる。同様のものは重井町の伊浜八幡神社にもあるが、その意味は佐島八幡神社にある岡本馨氏によって奉納された説明板によってわかった。



白石一郎『海狼伝』、文藝春秋社、p.55


83 高松城跡(愛媛県越智郡上島町生名)

 弓削島、佐島、生名島は現在は通航料無料の橋で結ばれているので、それぞれの島が大きくなったようなものである。その二つの橋を地図で眺めていると、かつてアフリカ大陸と南アメリカ大陸がくっついていたという大陸移動説を思い出した。

 二つの橋の下を通ってきた船は因島を前にして右と左に分かれる。すなわち、佐島の北端は海の三叉路となっている。因島を入れると歪んだ十字路である。実に複雑な地形をしている。そのせいか、土生港から出る魚島行きの高速艇は下弓削港に寄って佐島と弓削島の間にかかる弓削大橋の下を通ってから東に向かう。

 佐島から生名島へ行くには生名橋を渡る。渡ったところが高松で、南側の岡が高松城跡、北側にある113mの小山が妙見山城跡である。いずれも海に近く見張所として使われたものだろう。特に高松城跡は、生名橋への接続道路が通っており、元の地形を想像することはできないが、昭和61年の調査記録図を見ると東西に四つの廓があったようであるから、かなりの規模の砦であったことがわかる。

 生名橋のかかる海を隔てて佐島八幡神社がある。佐島八幡神社の地形は岩城八幡神社や田島八幡神社の地形と驚くほど似ているから、ここにも砦があっても不思議ではない。

 高松城跡の役割が佐島生名島間の監視になるだろうから、佐島弓削島間を通過する船の監視場所として妙見山城跡があったと考えることができる。






84 三秀園(愛媛県越智郡上島町生名島)

 さて、生名島から帰る前に、もう一つ寄っておきたい所がある。麻生イトさんが別荘として作った三秀園である。

 三秀園は土生港から生名島へフェリーで渡って、右へ行くとすぐのところにある公園である。あるいは、立石山への登山口を目指せばよい。

 三秀園の池には海水が入っていたと書かれている。また、注連縄をめぐらせた巨岩はかつて海の中にあった。今は公園の外は立派なアスファルトの道路があり、さらに頑丈な護岸があって、かなり埋め立てられている。元は、海もよく見え、見事な眺めだったのではないかと想像される。

 周囲の建物は古びていて、どれが元の瀟洒な別荘だったのかわからないが、麻生イトさんはここで晩年を過ごした。また立石山の中腹には立石観音と呼ばれている子安観音が岩穴の中にあり、麻生イトさんが整備した参道が立石山の登山道になっている。

 だから、周辺には麻生イトさんゆかりのものが多いので、それらの由来を一つひとつ見ていけば、麻生イトさんのことがよくわかるだろう。

 しかし、「悪名」や「続悪名」の映画や、その原作である今東光の小説『悪名』には、そのままの名前で出てくるし、その印象は強烈である。フィクションとはいえ、実際の本人を知らない私には、半分以上は映画や小説に描かれたような人だったのだろうと思う。だから、麻生イトさんについては、私流の印象を押しつけるよりも、読者の方が各自で確認されるのがよいと思う。






85 堂崎山城跡(因島外浦町)

 因島には因島村上氏とは関係の薄い城跡と呼ばれるものがいくつかある。外浦町の地蔵院裏の山頂にある堂崎山城跡もその一つである。



 南朝の年号で言えば興国4年(1343)に南朝方の広沢五郎や大舘右馬亮が伊予から北上し、ここに立て籠もって北朝方と戦った。4月14日に負けたということが鼓文書に書いてあるので、史実として理解できる。

 こういう話から、南北朝の動乱というのは稀にみる地方の時代であったのではないかと思う。その動乱期がかくも長引いたのは、足利尊氏が後の信長や秀吉ほど強くなかったからであろう。それ故、結局は敗者となる南朝方の忠臣たちの行く末が哀れである。その哀れな話の新田義貞と脇屋義助の子孫たちが大島経由で、因島村上氏の家老となるのであるから、南北朝の話を思い出しておくのも悪くはないのである。

 さて、その堂崎山へ行くには地蔵院の寺標のあるところから鏡浦町へ続く峠道を登る。


イノシシに荒らされてなければ10分もかからないが、ほぼ登りきったところに高圧送電線の鉄塔がある。そのあたりが城跡で北に下がる尾根筋にあったのだろう。この峠道もかつては幹線道路だったのだろうが、付近の畑が山に戻るに連れて、荒廃するのは仕方のないことである。鉄塔の近くには塞の神も祀られていて、かつてはかなりの往来があったことが推定される。



86 平田道路改修寄付碑(因島外浦町)

 中庄町から鏡浦町を目指して県道を進む。外浦町の秀策記念館の方に入らずに少し進むと池があり、春には周辺の土手に植えられた桜が見事である。ここは蘇功新開の灌漑用水池で、多くの干拓地の堤防寄りにあって、海水位が下がるまで水をためておく汐廻しとは異なる。

 その池の東の端のところから南の山へ入る。急な山道を越えると鏡浦町へ至る峠道があり、平田道路と呼ばれる。

 外浦町と鏡浦町の境となる峠は切り通しになっていて、かなり道幅が拡張されている。この切り通しの鏡浦町側で、鏡浦町の方へ降りずに、右手・南に登ると堂崎山城跡の方へ続く小道がある。

 峠にさしかかる手前左手には平田道路改修寄付碑がある。その先を登れば梶ケ鼻に続く尾根となる。

 その寄付碑から、この道路改修が大正十年に行われ、その費用が大浜町出身の久保田権四郎氏の寄付でなされたことがわかる。久保田権四郎氏は久保田鉄工(現・クボタ)の創業者で発明家。郷里のために多額の寄付をされたことは有名で、因北各地に久保田氏の名を記した石碑が多数ある。

 現在でこそ、島内には自動車道が各町を結んでいるが、かつては海岸線は至る所で行き止まりとなり、幹線道路は山道・峠道だった。そして周囲は畑で、よく整備されていた。

 この平田道路も歩行者だけが通る道だったのが、この時の改修で荷車も通れるようになったのではないかと思う。しかし、傾斜は急である。




87 平田城跡(因島外浦町・因島鏡浦町)

 外浦町の堂崎山城は鏡浦町の岬にある古城と一連のものであった、と書かれている。その古城をどこにするかは難しい問題であるが、「一連」と「岬」という言葉から、梶ノ鼻に続く尾根の最頂部近くがよいのではないかと思う。その尾根は外浦町側も鏡浦町側も平田という地名であるから、平田城跡と呼ぶことにする。


 平田城跡へ行くには平田道路の切り通しから、久保田権四郎さんの寄付碑のある側へ登る。ただし、鏡浦町側から入る方が登りやすい。尾根筋を登っていくと、やがて最頂部へ至る。南北朝時代で水軍の時代ではないから、海に近い必要はないので、この辺りが城跡だと思えばよい。

 百島の茶臼山城跡と似ている。両側が急な傾斜であり、防御の面からもよい立地だと思われる。しかし、広沢五郎らは北朝側の小早川氏に負け、勝った小早川氏は、ここに住まず椋浦町へ移った。おそらくここでは狭いと思ったのだろう。

 帰りは尾根筋を引き返さずに、東へ進んだ。かつてはそのまま東に下れば海に出たのであろうが、現在は水軍スカイランで切れている。その絶壁は勇気だけでは降りることはできないので、少し手前で左右の畑へと迂回しなければならない。







88 因島八景・第八景(因島外浦町)

 梶ノ鼻に続く尾根は現在では水軍スカイラインで切断されるので、そこで下降をやめる。一般道に出て、駐車場まで歩くと、因島八景の石碑がある。「梶ノ鼻から因島大橋への展望」と書かれている。



 因島大橋を真横から見る位置である。しかし、この石碑と因島大橋を一枚の写真に収めるのは難しい。これは求めるのが無理であって石碑は設置しやすいところに置かれているに過ぎない。

 そう考えると、不完全ながらも、因島大橋と石碑を同時に写せるので、まだよいほうである。海側へ手を伸ばせば、八重子島まで入れた写真を撮ることができる。



 因島大橋は昭和58年(1983)に開通した。因島市になったのが、昭和28年。尾道市に統合されたのが平成18年(2006)である。

 因島大橋に関する数値はたくさんあるが、橋長1270m、中央支間長770m、桁下高50mで、工事費は約465億円である。また、トラス下路部に幅4mの自転車歩行者道を併設しているのも大きな特徴である。ただ、自転車道はバイクと共用なのが難点である。



89 流紋岩の大岩脈(因島鏡浦町)

 かなり前に写した梶ノ鼻の古い写真を眺めていたら、鏡浦町側の海岸の見事な流紋岩の岩脈があった。梶ノ鼻は次第に低くなって海に注ぐ手前に大きな切れ目があるが、それより少し手前の崖である。粘板岩を貫く流紋岩の幅1.2mの大岩脈で、珍しい地質である。

 こう書くと鏡浦海岸の、すなわち厳島神社の東側にある花崗岩の大岩脈を思い出して、頭の中が混乱されている方がおられることと思う。それと、これとは違うのである。まったく別の話をしているということをお断りしておきたい。

 さて、崖の途中にある流紋岩の一部は砕けて落下し、下に転がっている。その辺りは海食台になっていて粘板岩と砂岩の互層などが海の中まで続いている。

 梶ノ鼻自然海浜保全地区に該当するところである。これは人工的に壊してはいけないが、自然が壊す、あるいは自然に壊れるのはよいということであろうか。

 技術は人間の管理下にあり、技術で自然は制御できるという楽観論が成り立たないということは、想定外という言葉がよく示している。また、技術もその進化を誰も止めることができないように、至る所で主客が逆転している。

 だからと言うわけではないが、風雨をしのぐようにしてこの岩脈を保護する必要もないと思う。そして壊れ、やがて忘れられるのも、それはそれで仕方のないことである。







90 小鏡城跡(因島鏡浦町)

 因島四国八十八ケ所札所巡りは大浜埼灯台近くの1番霊山寺から始まり、大浜町、中庄町、外浦町、鏡浦町と因島を時計回りに巡る。鏡浦町では、外浦町から峠道の平田道路を越えて、峠を下り町内に入ったところに25番津照寺があり、さらに東へ進んでそこから水軍スカイラインへ出る。椋浦方面へ向かって坂道を登ると鏡浦港を望む最初の岬があり、そこに26番金剛頂寺がある。

 松岡進氏の「中部瀬戸内文化財地図」には、その金剛頂寺のある岬に小鏡城と記されている。しかし、それ以上のことはわからない。近くの堂崎山城跡、一ノ城跡との関連も考えられるが、 北側の厳島神社周辺の地形を見

れば、備後灘に面した良港を控えていたことがわかる。

                                                     うたせぶね

鏡浦漁港の名が示すように、かつては打瀬船の停泊地でもあった。

 さて、島四国の金剛頂寺の前へ立つと、三庄町地蔵鼻の美可崎城跡と立地が似ているのに驚く。景色もよく、また上から見る波打際も美しい。また、美可崎城跡と向島・余崎城跡とのほぼ中間に位置することも興味深い。

 港へ行くのに、水軍スカイラインを回るのは不便なので、近道はないのかと探した。岬の先端近くには小路はなかったが、崖を下りると厳島神社の横に出たので、かつてはそのような通路があった可能性はあり、この岬の城と港は一体のものだったと想像できる。










 



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