2021年2月14日日曜日

ふるさとの史跡をたずねて 増補版 61-70回

本館 白滝山 いんのしまみち 

第61回 千人塚(因島大浜町)

 大浜の齋島(いむしま)神社から少し北に行くと写真のような供養碑がある。


田島、百島の連合軍が大浜幸崎城を攻めてきた時の戦死者の霊を弔ったもので、千人塚と言われている。少し北の入り江が戦場で、元はその近くにあったが、埋め立てにより山が削られたので移った。粗末に扱ってはよくないと、近くの人々により丁寧に供養されている。

 その戦いは永正年間(一五〇四~一五二一)のことと言われており、その理由はよく分からない。その後で田島村上氏が能島村上氏に変わったのだが、能島村上氏武吉の家督争いはもう少し後のことだから、関連付けるのは難しい。

 田島分家が因島村上氏二代吉資の弟から始まるのに対して、大浜分家は四代吉直の弟村上丹後守吉房から始まる。

 丹後守吉房は百島も支配し、茶臼山城に嫡子吉高を住ませた。その吉高が田島分家の村上範和とともに大浜を攻めたということだから、話はいささか複雑になる。

 さて、重井村上氏には備前屋系、丸本屋系、長右衞門系があるが、その備前屋系は四代吉直の弟、すなわち丹後守吉房の兄弟を祖としていると伝えられる。では、同じ頃に重井に住んだのかというと、そうではなく重井に土着するまでにはまた別の歴史がある。


62 幸崎城跡(因島大浜町才崎)

 

 齋島神社(いむしま)があるところが、幸崎城跡である。村上丹後守吉房の居城である。齋島神社の北のさらに高いところが中心だったと言われているが、そこには芋神様と呼ばれている神社があり、天照大神と月読之大神の兄弟神を祀ってある。なぜ芋神様になるのか、しばらくわからなかった。

 その答えは大楠山にあった。大楠山頂上に文政9年に保食の神が祀られた。それが大正2年にこの地に移され

大正7年に食饒神社として造営されたという。




                     

 天照大神が月夜見尊へ保食神(うけもちのかみ)に会えと命じる穀物起源神話が『日本書紀』神代上五段十一にあるから、ここに天照月読の兄弟神を祀っているのであろう。そして、瀬戸内各地にある芋地蔵信仰が大浜では保食神信仰となったものだと、私は思う。なお、本殿裏手の石作りの小祠には食饒の文字が読める。

 

 さて、芋神様のあるここを中心に北側と齋島神社の境内も入れるとかなり大きな砦があったことになる。標高 36m、今はやや内陸部にあるが、かつては海がもっと近くまで来ていただろうから、場所的にも良いところだとわかる。弓削瀬戸を見張る美可崎と布刈瀬戸を見張る幸崎で、因島の東側が守られたということであろうか。


63 土居城跡(因島大浜町土居)

 幸崎城跡の他に大楠山の東山麓にある土居城跡も村上丹後守吉房の居城だと言われている。土居というのは住居と砦を兼ねたもので、後に砦が城郭へと発展していくのだが、その初期の段階と考えられるものだから、こちらが屋敷跡で幸崎が砦跡と考えるのがよいだろう。

 江戸時代になって畑地として整地されたことと思われるが、その広さから往時の繁栄が偲ばれる。今は竹藪で遮られて見えないが、八重子島が眼下にあり、備後灘そしてはるかに燧灘を望む、戦略上重要な場所であるが、風光明媚なところだったに違いない。

 丹後守吉房の母は能島村上氏雅房の娘であり、また吉房の姉(または妹)が雅房の孫である義雅(吉雅)に嫁しているので、この頃の因島村上氏と能島村上氏との関係は深かったものと思われる。そ一例が次男大浜内記の活躍である。大浜内記は弟の右京進とともに能島氏に召置かれていた。心仁に有りてその上算術に達者だったということで重宝されたようだ。

 大浜内記は村上武吉に従い筑前へ行っている。これは秀吉の命で小早川隆景の領地へ移った時のことであろう。秀吉の死後、武吉は竹原に帰るが、内記はそれにも従った。竹原では奉行となったことが能島氏の分限帳に書かれている。




64 村上家祖先之碑(因島大浜町)

 島四国7番十楽寺から8番熊谷寺までは、大楠山の西の峠道がかつての遍路道であった。4番の大日寺から見える山にも峠道がありそうなので、目指した。そこで出会ったのが写真のような村上家の祖先の碑であった。永正17年(1520)に亡くなった江羅太郎右衛門の名が刻んである。



 村上丹後守吉房の次男大浜内記の話の続きを記そう。能島の村上武吉は後継者の元吉を伊予松前(ま さ き)城の戦いで失った。毛利氏の関ヶ原敗退後の防長移封で、因島村上氏が解体したのと同様に能島村上氏も四散した。元吉の墓を残して竹原を去った武吉に、大浜内記も従った。八代島(周防大島)で大浜内記は老役であったが相果て、村上休庵嫡子大浜九郎左衛門が跡目を相続した。

 一方、大浜村庄屋は初代から三代までが太郎右衛門、四代から六代までが九郎右ヱ門である。

 単純に考えると強羅村上家を四代から大浜九郎左(右)衛門が継いだことになる。それとも初代からであろうか。 

 さて、石碑の背後にある峠道であるが、道とは言えないようなところを登って峠を越えると、ほどなく農道に出た。下ると鼠屋新開へ出た。思ったより近いのであるが、今では通る人はほとんどいないのだろう。




65 福泉寺(因島大浜町)

 村上丹後守吉房のゆかりの真言寺院ということで福泉寺を訪ねた。福泉寺に行くには、島四国5番大日寺を目指せばよい。齋島神社の前を少し南に行ったあたりの右方向である。遍路道の道標に従って旧久保田邸の南側の塀沿いの小道を登る。登りきったところが福泉寺で、その境内西側に島四国大日寺がある。紛らわしい書き方をしたが、大日寺の境内に福泉寺があるのではない。



 小さな本堂の前には西国三十三観音に囲まれるように、一石五輪塔などの古い墓が集められている。



丹後守吉房が天文年間に建立したというから古い。さらに興味深いことには、江戸初期に重井村細島から浄慶法印という山伏が来て住んだということである。細島の松本屋西原氏はこの浄慶法印の弟を祖とする。

 本堂の中には立派な観音様やお不動さんがあって、格子の隙間からではあるがいつ行っても拝めるのはうれしい。



それ以上に、境内から眺める景色も素晴らしい。海も悪くないが南の山と青空がじつによい。

 村上氏先祖碑のある谷の先には峠がある。交通手段の発達とともに、遠くなっても、より低いところを人は通るようになった。歩くということだけなら峠道が最短であったはずである。だが、一度失われた峠道は戻ってくることはないだろう。





66 如意輪観音像(因島大浜町大楠山)

 因島四国八十八ケ所は明治45年に作られたのだから、その当時の交通事情を反映したものだったに違いない。だから、意外なところを訪ねることになるので、それも楽しい。

 大浜町最後の7番十楽寺もその二つに該当する。山道から外れた竹藪の横にあるのは意外だった。その次へは、今は引き返して、海岸道路を行く人が大部分だろうが、当初の遍路道はさらに山道を南へ登った。農道として整備されている。登りきったところに農小屋がある。まっすぐ沢を下れば唐樋である。右手の竹藪の中を通って下りていき、突き当たりで右折すれば鼠屋新開へ続く。これが初期の遍路道の跡である。イノシシが荒らしていたので、今は通れるかどうか・・。

 さて農小屋の前で左折するのが、大楠山への登山道で

                                        

ある。中庄湾の入り口の北に聳(そび)える標高174mの大楠山の稜線は印象的だ。少し登ると大浜町中庄町の二方面が見える。島内最大だと思われる丸池を鳥瞰できるのもうれしい。 

 さらに、少し登れば如意輪観音像がある。



風に揺れる雑草の中で、忘れられていることを恨みもせず、時おり訪れる人を変わらぬ微笑で迎えてくれる姿は美しい。・・ここで引き返してもよいのだが、せっかくなので左前方へ進んで、保食の神が祀られていたところと、



海が見えるところまで行ってみよう。


67 八重子島(因島大浜町)

 大楠山の頂上を東に進むと大木の隙間から八重子島が見える。

 八重子島の近くを因島の二見が浦と呼ぶかどうかは知らないが、とにかくよいところである。満潮時の形もよいが、潮が引くに連れて現れる大小二島の姿や、やがて二島がつながるのを見るのは楽しい。

 お鳥喰い神事の島として知られるが、岸べとの間は遠浅で、夏には毎日のように誰かが沖合を歩いていて、いかにも楽しそうだ。それに島に渡っている人もいる。

 小八重子島からこちらへは、潮が引くと砂州が伸びてくる。陸続きになるのを待っていても、ならない。諦めて近くの浅いところを選びながら、長く伸びた砂州の先端を目指して海中を歩いて渡った。満ち潮に転じても、渡ったとき以上にならないうちに引き返せばよい、と波打ち際の状況を確認してまず小八重子島を回る。

 そして次は八重子島である。ここには海食門があって大人でも通り抜けることができる。子供にとってはヒトデやウニなどの海岸動物の観察もできる。

 考えてみれば、陸続きになった時歩くよりも、海水の中を長く歩いて渡る方がはるかに刺激的で、磯遊びとしては最高である。

 因島八景にも取り上げられている八重子島も、鷺と鵜の棲家となったせいか、松は枯れ、遠くから見ると山肌が白くなっているのが気にかかる。春になって緑が少しは戻るがこれからが心配だ。




68 百島茶臼山城跡(尾道市百島町)

   

 百島(ももしま)には、細島と同じようなドクターヘリのヘリポートがあるのだが、ドクターヘリには乗せてもらえないので、通常の航路で行く。向島の歌港からフェリーが出ている。対岸にある浦崎の戸崎港経由で高速船を使うと便数が増える。



 茶臼山は百島の北東にあるのだが、標高90mほどで、南に更に高い山があって、船上から何度もシャッターを押したが、いい写真は撮れなかった。

 その茶臼山へは、百島村上氏ゆかりの西林寺の隣の坂を登る。突き当たりの右手が目指す茶臼山である。竹藪の中を登り抜けると、ウバメガシの群生する尾根に出る。樹下は日当たりが悪いせいか草が生えてなく、快適である。段差のある尾根を北へ進む。頂上付近には砦があったのであろう。また、低い山だから、方々に登山道があったと考える方が自然であるが、潅木に覆われていて見えない。



 さて、茶臼山は大浜の村上丹後守吉房の嫡子吉高の居城だと言われている。なぜ嫡子かと言うことになる。丹後守吉房も百島に移住していたということからなのだろうか。それでは百島田島連合軍が大浜幸崎城を攻めた千人塚の戦いは、誰を攻めたのかという疑問が生じる。丹後守吉房は大浜に帰っていたのか、あるいはもう一人別の丹後守がいたのかということになる。・・確かなことはわからない。


69 百島村上家墓地(尾道市百島町西林寺)

 百島の西林禅寺の裏山に百島村上家の墓地がある。北側の石碑に「當山開基當村茶臼山城主村上高吉墓」と書かれている。さて、その高吉とは誰のことであろうか。



 大浜の千人塚がその古事を語る幸崎城攻めでは、百島の村上吉高と田島の村上範和のうち、範和は討死し、吉高は百島へ逃げ帰った。その吉高は因島村上氏の報復を受け、軍戸山で討たれたと伝わっている。後に、嫡子喜兵衛高吉が再興して、西林寺を建てて、亡父吉高の菩提を弔った。その高吉の墓だというわけである。親子で名前の文字が上下反対で、まことに紛らわしい。ご理解いただけたであろうか。

 西林寺が開基された頃には、吉高のことはすでに人々の記憶から遠ざかっていたことであろう。

 高吉は文禄の役にも参加し、「三島海賊家軍日記」を口述した。『因島市史料第七集』の52頁にある村上喜兵衛がその人である。

 石碑の右側に文禄四乙未八月(1595)の文字が見える。没年だろう。

 帰りのフェリーまでに少し時間があったら、赤松氏の先祖碑を訪ねるのもよいし、島四国や神社を訪ねるのもよいが、小径を歩くのも楽しい。ちょっと歩けば山、ちょっと歩けば海である。歩いていたら百島せんべいというのが目に入ったので、ゴミだけ置いて帰る観光客にならないために、一袋買って帰ることにした。



70 岩城八幡山城跡(愛媛県越智郡上島町岩城)

 因島総合支所の沖合にある亀島は竹島とも呼ばれ、竹島城跡のあるところである。そこの城主村上直吉は岩城亀山城主を兼ねていたと言われるので、まず岩城島から訪ねてみよう。

 岩城島の積善山は因島西部からいつも見えており、春は桜の名所として有名である。その時期を外せば対向車もほとんど無いので、車で登ってみよう。生口島の洲江港からフェリーに乗ると、上陸してすぐの所に登山口がある。頂上近くまで車で登り、山頂駐車場から少し歩く。山頂には展望台があり、ここからの眺望は抜群である。反対側に下山すると岩城港に出る。上島町役場岩城支所のあるところだ。港から東に見える小山が岩城亀山城跡で、岩城八幡山城跡とも呼ばれる。海沿いの道を歩いて八幡神社を目指せばよい。石段はかなり長いので休みながら、玉垣に書かれた寄付者の名を見るのもよいだろう。往時の繁栄ぶりが伺える。



 さてたどり着いたその境内が城跡で、本殿のあるところが中心である。



広い敷地と海岸からの高さを考えると良い立地である。南へ進むと一段下がった廓跡があり、その先が海岸であるので、往時には何らかの通路があったに違いない。その跡らしきものもあるが、降りるには厳しい。




 向かいの赤穂根島との間の岩城水道を押さえていたことは十分考えられる。またその海流沿いの伯方島北東部の北浦にある大夫殿(た ゆ う ど)城跡も、因島村上氏の支配下だったことを思うとなかなか興味深い配置である。




本館 白滝山 いんのしまみち