第71回 岩礁ピット(上島町岩城八幡山城跡)
岩城八幡山城跡の南下の海岸には岩礁ピットまたは柱穴と呼ばれる穴がある。これは直径20cmほどの岩に開けられた穴で、船の繋留施設や防御施設の跡だと言われている。
波打ち際に平行に一列だけあれば繋留用にロープを結ぶための棒を立てた穴だと思えばよい。しかし、沖に向かってほぼ等間隔で何列かの穴がある。これをどう考えるかである。
この穴に棒を立て、その棒を支柱として横に板なり棒を並べて桟橋のようなものを作ったのではないかと想像するのが妥当であろう。
そういうわけで、海に近い城跡周辺でこのような穴があれば、その付属施設の遺構として重要なものになる。ただ、日々波に洗われており、保存は難しい。また四百年以上も前のものだから、それ以後に作られたものであるということを完全に否定することもできない。
しかし、多くの城跡近くの海岸で見られるものだから、近くで養殖などが行われたというよう話がない限り、水軍時代の遺構だと考えてよいだろう。
岩礁ピットもよいが、目の前の海水の流れも見事だ。まるで急流の川のように潮が右へ向かって流れる。また、清流と呼びたくなるほど海水はきれいだ。対岸の赤穂根島の東西が広い海域だから城の鼻と呼ばれるように、突出しているこのあたりで流れが速くなる。
下りの船は滑るように走り、上りの船は進めなくて喘いでいるようである。潮が左に流れ出したら満ち潮だから引き返さねばならないが、右へ流れている間は存分に楽しむことができる。
72 島本陣跡(愛媛県上島町岩城)
島本陣跡の岩城郷土館に寄ったのは、ついでであったが、ここに書くのはついでではない。
書くべき理由がある。ここは岩城の名望家三浦氏の旧宅であるが、三浦家の初めの2代は因島村上氏と姻戚関係がある。
また重井村の庄屋長右衛門家と姻戚関係のある岩城の庄屋白石家と、ここ三浦家とは深い関係があった。そして、白石家の後に庄屋も勤めている。
さて、この岩城郷土館は無人で、ご自由にご覧くださいと書いてあった。ただし、猫が入るので入口を閉めておくようにとも。猫とゆっくりとご覧したかったが、帰るときになって猫と追っかけっこはしたくないので、入口は閉めておいた。
藩主の部屋と呼ばれた客間などの部屋や、調度をゆっくり眺めていると時間の経つのを忘れる。また、ここは歌人若山牧水や吉井勇が泊まったところでもある。
窓前の瀬戸はいつしか瀬となりぬ
白き浪立ちほととぎす啼く 牧水
牧水がむかしの酒のにほひして
岩城の夜は寂しかりけり 勇
以上二首は当地での作。
牧水が三浦邸に泊まったのは28歳の5月18日から5日間。 にじゅうはち
わが廿八歳のさびしき五月の終わるころ な い
よべもこよひも崎は地震する
歌集にある牧水のこの歌は、この地でのものか、あるいは既に他地へ移っているのか。
73 芋菓子元祖の碑(上島町岩城)
芋菓子の話を書くのは、ついでである。しかし、ここで車を停めたのはついでではない。想定内の行動であった。岩城に行ったら、できたての芋菓子を買って帰らないとフェリー代がもったいない。それに岩城郷土館では只でいい物を見せてもらったのだから、少しは散財して帰らないと・・。
芋菓子製造所の前で車を停めた。干拓地が広がる。その道端に芋菓子元祖の碑があった。岩城の芋菓子は長くて立派だが、長い歴史があった。
石碑で顕彰されている益田谷吉氏は船乗りとなって若い頃、阪神地方で働いた。神戸の果物問屋で芋菓子と出会い、岐阜市の製造元に製法を教えてもらいに行ったが、断られた。垣間見た概要を手掛かりに、神戸で試みるも、いいものはできなかった。岩城に帰ってからも研究を続け、満足なものが得られるようになった時には、50歳を過ぎており、大正時代に入っていた。
益田氏はその秘法を独占せずに近隣の者にも伝授した。岩城の芋菓子として人気を呼び、全国はもとより戦時中は宇品から中国北部まで届けられた。製造業者が30軒を超えた時もあったというから、その品質の良さが高く評価されたということであろう。
石碑には「芋菓子元祖 益田谷吉翁之碑」と書かれており、裏面には「益谷や初勢の音も千代八千代」「芋かしや益々のびる金の津る」などの句が記されていた。
74 トウビョウ鼻(今治市伯方島町北浦)
海を見ているとその先に行ってみたくなるものである。いろいろな島を訪ねるとそれぞれの島にはそれぞれの顔があり、楽しい。
伯方島の東北端へ行った。ここでも岩礁ピットを見た。さらに歩いて岬の先端にある岩に立った。トウビョウ鼻である。北に生口島。目を右に転じると狭い水道を隔てて岩城島。その水道の彼方に因島が見える。岩城島の右に、さらに狭い水道を隔てて赤穂根島。反対の左に目を転じれば、多々羅大橋。
もちろん目の前は海。満ち潮だった。多々羅大橋の下と大三島橋の下を流れてきた潮が目の前でぶつかって右へ流れる。渦を巻きながら川のように流れる。泡が流れながら浮いてくる。左前方から音が聞こえる。こういうのを潮騒というのだろう。
右手に潮の行方が二本の筋となって見える。太い方が赤穂根島と岩城島との間へ連なる。これが岩城八幡山城跡の前を流れる急流である。小さいのが生口島と岩城島の間を通って因島の方へ流れる。
本家芋地蔵さんの話はいずれ書く予定ではあるが、この流れがサツマイモの来た海の道ではないかと思った。サツマイモだけではない。多くの文化が伝播した道である。例えば、因島では「雨ばかり降る」というのを「雨ばあ降る」という。これは生口島、岩城島、大三島を経て伯方島まで共通しているという。
海ばあ書あて忘れるとこだったが、ここは因島村上氏
た ゆ う ど
に属した大夫殿城跡の一角である。船隠し、見張り台、そのほか同規模ほどの砦の集合体からできており、群廓複合式の海域と呼ばれる。一帯が貴重な史跡である。
75 竹島城跡(愛媛県越智群上島町生名)
因島総合支所沖合に浮かぶ亀島は生名島の属島である。
字(あざ)亀島乙六六四番地であるが竹島とも呼ばれる。竹島というのは、矢に適した竹があったからだという説もある。釣島箱崎浦の戦いの釣島が鶴島と呼ばれるようになって後、こちらが亀島と呼ばれるようななったのではないかと想像する。
その亀島は因島村上氏の城跡で竹島城跡と呼ばれている。岩城八幡山城主、因島の島前城主でもあった村上直吉が支配していた。岩城八幡山城は岩城亀山城とも呼ばれるので、ここを亀島と呼ぶようになったのなら、その後に釣島が鶴島と呼ばれるようになったということもあり得るだろう。
村上直吉は田熊村上氏の祖となった人で、天文18年(1549)に田熊八幡神社を創建した。田熊八幡神社は亀甲山八幡宮と称され、その参道の延長線上に亀島があるのだから、やはり、亀島が先で、それにあわせて鶴島と呼ぶようになったと考える方がよいのだろうか。
頻出する亀の字と関係があるのかどうかはわからないが、村上直吉は水泳の達人だったと伝わっている。
亀島の南には浅いところがあるのか岩がいつも見えている。重ね岩と呼ばれているから、周辺の岩を積み上げたものか。小さな祠もあるようだ。
76 村上直吉の墓(因島田熊町浄土寺)
竹島城主で岩城八幡山城主でもあった村上直吉は島前城跡である因島図書館のあるところにも住んだと言われ、その墓は田熊町の浄土寺にある。竹島にも墓跡があると書かれている。浄土寺のものは改葬されたものか。
因島村上氏の菩提寺であった長源寺(因島図書館下)が焼失した時、移転先を浄土寺にしたいと岡野氏に相談し、整備したのが直吉だと言われているが、そうはならなかった。その浄土寺の直吉の墓は田熊八幡神社を抜けて南側から入って登ったところにあった。ということは墓地、八幡神社、竹島がほぼ直線上にあり、さらにその先に岩城八幡山城跡があるということになって、まことに興味深い。
さらに興味深いのは、直吉の終焉である。直吉の夫人は能島村上氏の出で、絶世の美人であった。その夫人に横恋慕した直吉のいとこが毒を盛ったという話である。こういう話は偉い人物の早すぎる死を惜しんで作られることが多いが、文禄3年(1594)のことであるから、何らかの資料がありそうである。
しかし、夫人の死後あの世での二人の世界が鶴亀のように仲むつまじくあるようにと、隣の鶴島と並んでいる竹島を亀島と呼ぶようになったという話は、やや無理があるように思われる。
77 大可島城跡(福山市鞆町)
因島村上氏の分家筋について、田島、大浜、百島、岩城、田熊と書いてきたので、最後は福山市鞆町へ鞆分家ゆかりの地を訪ねた。
因島村上氏六代吉充の弟左衛門大夫祐康(亮康) は、鞆古城山城主であった。 これは鞆浦の先端にある陸繋島
で大可島(たいがしま)城のことである。当時は島であったが、現在鞆の浦歴史民俗資料館の建つところへ福島政則が鞆城を築いた時に陸続きになった。
大可島城跡には現在は真言宗円福寺がある。仙酔島への渡船場横に駐車場があるので、 そこに車を停め、路地を南西へ向かう。「夾明楼(きょうめいろう)」の石柱が目立つので、そこを上がるとよいだろう。
この地は五代尚吉が天文13年(1544)に大内義隆から得たものであり、その後祐康に与えられた。祐康の鞆での活躍は因島村上家文書から伺えるが、鞆分家は2代で絶え、関係文書は本家で保存された。
円福寺内の夾明楼からの瀬戸内海の眺めは素晴らしかった。
幕末のいろは丸沈没事件の談判では、紀州藩の宿所として円福寺が利用された。また、隣りの林家別邸は宮崎駿監督が滞在し「崖の上のポニョ」の構想を練ったところである。
時間の許す限り町内を散策した。最後は保命酒の酒粕を試食し、2袋買って帰った。
78 阿伏兎観音(福山市沼隈町能登原)
因島から鞆町へ行くには、松永から沼隈半島の西側を南下するのが便利である。南下して道なりに南東へ方向を変えるとそのまま鞆町に行くのであるが、方向を変えた直後に細い道を更に南下すると阿伏兎観音で有名な磐台寺の駐車場へ着く。
阿伏兎岬南端の険しい崖の上に建つ観音堂の歴史は古く、場所的に見ても信仰以上に灯台的な役割を担っていたことは十分考えられる。
元亀年間に毛利輝元によって再建された。ちょうど因島村上氏が向島余崎から重井青木へ移った頃であるから、鞆との往来の目印になったことだろうと想像される。
朱塗りの観音堂は崖下から見るだけでも奇観を楽しめるが、お参りすると、その回廊は外側に傾斜していてスリル満点であった。事故が起こらないのは観音さまのご加護か、参拝者の自己責任の自覚によるものであろう。
なお、駐車場の隣には、青年の父山本滝之助の顕彰碑がウバメガシの群生に覆われて建っていた。説明板によると、今では死語になりつつある「青年団」の創立を呼びかけた人だということであった。
79 葛原しげる生家(福山市神辺町八尋)
福山市へ行ったついでに、 ぎんぎんぎらぎら夕日が沈
くずはら
むという有名な歌の作詞者である童謡詩人葛原しげる氏の生家を訪ねた。
土生高等女学校、土生小学校、土生中学校、三庄小学校、田熊小学校、田熊中学校、因北中学校、そして確認はできなかったがおそらく大浜中学校も、葛原しげる氏が校歌を作詞した。ということは、因島の小中学校に通った人で、この人の名前を知らない人の方が少ないのではないかと思われる。また、その多さに驚かされるのは私だけではあるまい。
約4000の童謡の他にも驚くほど多数の校歌・社歌などを作詞されており、その全貌は未だつかめていないと言われている。
生家は岡山県井原市に近い福山市の東北端にある。
「葛原勾当 ( こうとう)葛原しげる生家」という表示が出ていた。
勾当氏は琴・三味線の名手で、しげる氏の祖父。三歳で失明したにもかかわらず、自ら考案した木製印版を使って日記を書き続けた。それを、しげる氏が『葛原勾当日記』として出版した。その文体に魅かれた太宰治が「盲人独笑」という小説を書いた。
しげる氏のもう一つの業績に箏曲家の宮城道雄氏を世に出したというのがあったと書けば、祖父から継承した才能が詞作品として結実しているということがわかるだろう。
生家の門の前には「夕日」の童謡碑があった。西に傾いた太陽を見ながらボタンを押すと、早春の静かな田園地帯に元気のよい唄声が流れた。
80 三庄小学校校歌碑(因島三庄町四区)
平成27年3月の三庄小学校閉校式があった日の朝、突然電話が鳴った。校歌の「夕日にうるわしく えまいて高き」の「えまいて」の意味を録画に来ているNHKのディレクター氏に尋ねられてわからないのだという電話だった。
卒業生にわからないのに、私などにわかるわけがないと思ったが、三庄町からはるばる早春の奥山を越えてかかってきた電話なので、中学校卒業時に肖像画を描いていただいた松本賢校長先生が編集された『ふるさと三庄』で歌詞を見ればわかるかも知れないと思い、調べてみると言って電話を切った。本はすぐに出てきたが、校歌があると思ったところにあったのは「三庄盆地踊りのくどき」だった。名作で、感心しながら読んだが、えまいては出てこない。隣を見れば、「三庄町イロハかるた」というのがあった。こちらも面白く読んだがやはり、えまいては出てこない。
その次はパソコンで打った。一文字打つごとに候補が変わる。えま、と打った瞬間「笑まう」と出て消えた。だから「笑まいて」ということだとがわかった。
後に、校歌はその本のもっと前のページにあったとわかった。
葛原しげる氏は格調の高い多くの校歌を作られたが、歌碑になっているのは多くないであろうから、元三庄小学校の校歌碑は貴重な一つである。