1回。
夢には眠っているとき見る夢の他に、それに向かって努力する夢と、努力しない夢がある。元来が怠け者の私には圧倒的に後者が多い。
その錆びついた夢の数々の中の一つに、因島で教師をしながら、「瀬戸内海文化」という月刊雑誌を発行し、かつ執筆するというものがあった。瀬戸内海地方を題材にした文芸やら歴史研究やら、生徒たちの研究も載せるつもりだった。例えば気候と海水の塩分濃度の研究とか、雲の研究とか・・・。
・・何しろ、それは努力しない方の夢だから、まず地元に帰るということの努力からしてしていないのだから、それ以上のことはできなかった。
退職後、父が亡くなり、母が一人になったので因島に帰って、多くの人たちと知りあい、また考えていることの発表の機会を与えられた。そして何よりもインターネットという、子供の頃には思いもしなかった発明品によって、まさに文化的革命的発明品によって、似たような機会が与えられたと云ってもよいだろう。
しかし、既に、これまでに生きてきた時間に比べれば、これから生きる可能性のある時間の方が圧倒的に少ないことは厳然たる事実であるから、昔日の夢を追うつもりは毛頭ない。が、せめてその千分の一、万分の一ぐらいなら、錆びついた夢の錆び落としぐらいはできそうである。だから、瀬戸内海文化ではなく、せとうち抄。
半農半漁という言葉は貧しさの代名詞のように使われ、それに猫の額ほどの耕地という言葉が付け加えられれば、山と海に挟まれた狭い土地に生まれた先祖たちの、生きるための戦いの場を見事に表した言葉だった。
その先祖たちは前を見、上を見て、まず山を上へ上へと耕していった。次に前を見、下を見て、海の中へと陸地を広げていった。
2回
創作 「デベラ」
3回 子守娘
子供の頃は私の家の周囲を見回してもたいていの家が3人兄弟で、多い家は4人いた。だから小学校から帰るとすぐにランドセルをほうり投げて外に出ると必ず何人かがいた。そして日暮れまで一緒に遊んだ。