2021年2月2日火曜日

せとうち抄

  夢には眠っているとき見る夢の他に、それに向かって努力する夢と、努力しない夢がある。元来が怠け者の私には圧倒的に後者が多い。

 その錆びついた夢の数々の中の一つに、因島で教師をしながら、「瀬戸内海文化」という月刊雑誌を発行し、かつ執筆するというものがあった。瀬戸内海地方を題材にした文芸やら歴史研究やら、生徒たちの研究も載せるつもりだった。例えば気候と海水の塩分濃度の研究とか、雲の研究とか・・・。

 ・・何しろ、それは努力しない方の夢だから、まず地元に帰るということの努力からしてしていないのだから、それ以上のことはできなかった。

 退職後、父が亡くなり、母が一人になったので因島に帰って、多くの人たちと知りあい、また考えていることの発表の機会を与えられた。そして何よりもインターネットという、子供の頃には思いもしなかった発明品によって、まさに文化的革命的発明品によって、似たような機会が与えられたと云ってもよいだろう。

 しかし、既に、これまでに生きてきた時間に比べれば、これから生きる可能性のある時間の方が圧倒的に少ないことは厳然たる事実であるから、昔日の夢を追うつもりは毛頭ない。が、せめてその千分の一、万分の一ぐらいなら、錆びついた夢の錆び落としぐらいはできそうである。だから、瀬戸内海文化ではなく、せとうち抄。

 半農半漁という言葉は貧しさの代名詞のように使われ、それに猫の額ほどの耕地という言葉が付け加えられれば、山と海に挟まれた狭い土地に生まれた先祖たちの、生きるための戦いの場を見事に表した言葉だった。

 その先祖たちは前を見、上を見て、まず山を上へ上へと耕していった。次に前を見、下を見て、海の中へと陸地を広げていった。それが私の生まれて育った島、因島と瀬戸内海の関わり。・・・それ以下でもそれ以上でもない。毎日海はあったし、海があるのが日常であった。 


買い物衝動

 スーパーのあの鮮やかな展示は万人の買い物衝動を煽っている。誰がその衝動に打ち克つことができようか。人は乞食になるまで買い物衝動から免れることはできない。・・・そして私は買い物衝動も過食や拒食と同じ根から生じているし、それはまた煙草の喫煙とも重なる。

 私も若い頃はヘビースモーカーだった。そしてそれは日々エスカレートしていった。ついにロングピースを1日に1箱でやめることができなくなった。その時その先を想像することは怖かった。そこで私は、どうやってタバコをやめようかと言う思考を巡らす代わりに、なぜ日々吸うタバコが増えるのか考えてみた。

 小説やレポートを書いていて、行き詰まるとタバコを吸う。それが癖になると、タバコを吸う頻度が増す。なぜか、タバコを吸うという理由をつけて休憩しているのだ。これは食べることにも通じる。すなわちそれが嫌な作業から自分を一時的にも解放する時なのだ。こう考えると、過食も拒食もそれが目的なのではなく、自分の気に入らない時間や気分からの逃避になっていることがわかる。

 おそらく買い物衝動も同じようなものだろう。そのことが目的ではない。直視し難い見たくない自分から逃げる手段なのだ。


 法然も親鸞も偉大な宗教家だったと思う。なぜなら理不尽な死とその後の過剰に想像れる悲惨な世界の中にいる庶民を、簡単に極楽浄土へいける方法を説いたからだ。まことに庶民のための宗教家だったと思う。

 しかし、その極楽浄土などというものは無く、現在の我々には信じることはできない。そのことをはっきり述べた上で、法然と親鸞の偉さをかんがえなければならないと思う。

 そのためには法然や親鸞の態度が自己と真摯に向き合うことを教えたと解釈するのが一つのステップだろう。そしてそこに人間の誠実さ、すなわち偉大さがあるに違いない。


 フランスという国は面白い国だ。一番面白いのはフランス語でエッセーを書けば、それが哲学になるからだ。それがフランスの国民性によるのか、フランス語によるのか、フランスという国土によるのかわからない。

 パスカルでもアランでも、あれはエッセーである。なのに形式的な分類では哲学に入るようだ。モーテーニュもモンテスキューも似たようなものだろう。

 そのせいか、森有正さんも辻邦生さんもだんだんと日記かエッセーか哲学か分からなく。

 それは小林秀雄さんにも言えることだが、小林さんの場合は、哲学に流れることを自戒しているようなところがある。そうしても彼の文章は哲学的にならざるを得ない。そしてわざと文芸評論のふりをして哲学論を書く。

 

 アランで思い出したが、あの『幸福論』は幸福についても不幸についても何ら深い思索は認められない。むしろ日常生活に潜む、いわば服の裏地のちょっとしたほつれを、執拗に追求したものである。幸福とも不幸とも無縁である。強いて有縁にしようと思えば、幸福も不幸も本当は同じ現象であって、心しだいだと言っているに過ぎない。そういうエッセーを毎週毎週書き続けた、いや、書くのは毎日であったかもしれない、だから毎週発表し続けたプロポというものを、哲学のジャンルに入れるというのはフランスの習慣なのか日本の出版社の気まぐれなのか私には分からない。

 正直言って、『幸福論』は退屈である。まして幸福感などどこにも感じることは出来ない。・・それにもかかわらず、私はアランという人に対して幾らかの尊敬を持っている。生涯あのスタイルで書き続けたということに対してである。その愚直さに感心している。一見不器用に見えるが、本当は器用な人で、いわゆる哲学入門のようなものだけでなく、本格的な哲学書もいくらでも書けた人ではないかと思う。しかし彼はそれをしなかった。そこがすごい。

 おそらく彼は思考が止まるのを嫌ったのではないかと思う。本を書くということは日々の思考を中断してまとめるという作業がつきまとう。そういう中断を嫌い、毎週毎週ということは毎日毎日思索し続けたのだと思う。

 蛇足ながら、一週間に一度発表の機会が与えられても、誰もができることではないことは確かだろう。


蟻地獄

 埼玉県で起こった下水管の陥没にトラックが落ちた事件は、現社会の負の面を改めて考える機会となった。あの衛生的で文化的な下水道という施設が、本当にいいものなのか考え直してみよう。

 鉄は必ず錆びる。特に水分や塩分が多いとますます錆びやすくなる。今年は昭和100年ということである。昭和30年頃から高度経済成長が始まり、首都圏を中心に大改造といっても良いほどの都市基盤の整備が進んだ。単純に考えて早いものでは70年が経過しようとしている。70年の風雪に耐えて来た鉄の運命はどうなるか、ということはたいていの大人なら知っている。また一部の人は状況によってはもう鉄ではなくなっているというであろう。また、どんどん取り替えているのでそんなに恐ることはなかろうという人もいるに違いない。その通りである。取り替えられたところは問題ない。しかし取り替えにくいところもたくさんあるのではないかということの方が問題だ。

 下水管は極端な例だろう。現在使用中の下水管をドン取り替えることができるのか。またその工事をする人が日本にはいるのか、ということを考えて見れば、我々はとんでもない世界に生きているということに気がつくであろう。

 下水道という制度は良い制度である。汚染水を河川に流さない最善の方法である。現在、トイレ、台所、風呂の汚水は下水道に直接排出される。雨水だけは通常の水路・溝を流れるようになっている。そして下水道代は上水道に比例して徴収されている。そのおかげで市民は健康で衛生的な生活を送ることができる。

 しかし、それで良かったのだろうか?


昭和100年

 広島まで新幹線が来たのは昭和50年頃だった。それまで、光は岡山までだった。西へ西へと延びて博多まで行ったのである。その頃セメント不足が話題になった。各所でセメントが使われるのだから無茶な話だった。


 





2回

 創作 「デベラ」


3回 子守娘

 子供の頃は私の家の周囲を見回してもたいていの家が3人兄弟で、多い家は4人いた。だから小学校から帰るとすぐにランドセルをほうり投げて外に出ると必ず何人かがいた。そして日暮れまで一緒に遊んだ。