伝説とロマンの島 因島城跡物語 著者 柏原林造、住原俊治、村上知之
幸崎城跡物語
2015.7.14.
城郭配置図。Yahoo地図へ田中稔「因島史考」の図を参考に書き加えたもの。
[所在地]因島大浜町黄幡。あるいは大浜才崎。
[標高]36.7m
[城廓]本丸(頂上)から北へ段状に二カ所の削平地。
[城主]村上吉房
[史跡]千人塚(東北部道路脇)
[現状]中腹の郭跡に斎島神社がある。本丸跡に天照皇大神社(いも神社)。
[その他]西側に黄幡会館がある。
[交通]JAおのみちから徒歩10分。
[歴史]永正年間(1504〜1520)、城主吉房と田島・百島の能島村上氏との戦いでの戦死者を供養したものが千人塚だと伝えられる。城主吉房は、因島村上氏4代吉直の弟で、村上丹後守吉房という。
大浜町黄幡にある斎島神社のある山にある。
いきなり大浜町黄幡と書かなくてもよいところを敢えて書いたことから話を始めたい。
因島には黄幡社が3つある。そのことを話題にしたかったのである。田熊の島四国のところ。重井の厳島神社(明神さん)の北側の道路の上、そして大浜のここである。
斎島神社についても書かなければならないことは多いのだが、まず石段を上がる前に右手の記念碑から述べよう。
久保田工業、現「クボタ」の創業者、久保田権四郎氏の顕彰碑である。久保田氏はここ大浜で生まれ育った。旧姓は大出である。乞われて久保田家の養子となった。それまでは大出権四郎氏と書かねばならないところだが、紛らわしいので、久保田権四郎氏で通すことにしよう。
久保田氏の寄附碑は町内外の至る所にあり、いかに多くの浄財を郷里のために捧げられたかおそらく全てを集計できないのではないかと思われる。
久保田工業は大阪で誕生した。権四郎少年がどのような経路を通って大阪へ行ったのかは、「砂の器」の主人公父子がいかなる経路を経て亀嵩に着いたか、誰も知らないのと同様、わからない。そこのところを社史「クボタ100年」では、石炭船で働きながら九州と大阪を何度か往復し、ある程度お金が貯まったところで、大阪で下りたと記す。
当時、大浜には石炭船会社があったから、そうかもしれない。
クボタといえばテレビコマーシャルのせいで農機具メーカーだと思っている人が多いが、水道管メーカーである。権四郎氏は大阪で鋳物工場で働きつつその技術を獲得し、その頃ドイツから輸入されていた水道管に変わる独自のものを発明した。その後の勢いは例えば、「日本の上水道の歴史はクボタの歴史」と呼ばれるほど、新しい水道管を発明すればそれだけ日本の上水道は進歩した。しかし、皮肉なことに合併前の因島市の水道料金は日本一高いという伝説があった。このことを権四郎氏がお聞きになっていたら、水道管なんかただで、いるだけあげなさいとおっしゃったに違いない。残念ながらそういう話は聞かないから、この話は生前の権四郎氏のところには届いていなかったのだろう。
近くに千人塚と呼ばれているところがある。
千人塚 ©623crystal
近くに千人塚と呼ばれているところがある。因島村上家の分家であった田島の村上範和と百島の村上吉高が本家である幸崎城を襲った。その時の戦死者を弔ったものと伝えられている。
いんのしまみち おおはまみち