2015年5月19日火曜日

因島土生町 長崎城跡物語

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とロマンの島 因島城跡物語 著者 柏原林造、住原俊治、村上知之

長崎城跡物語


2015.7.14. 

城郭配置図。Yahoo地図へ田中稔「因島史考」の図を参考に書き加えたもの。

生名島立石山から。

[所在地]因島土生町荒神。
[標高]
[城廓]本丸、南西に三段の郭。
船隠し。
[城主]1378〜村上吉豊。以後、180年間村上氏。
2代・吉資(吉安)、3代・吉光(吉充)、4代・吉直、5代・直吉、6代・吉充
[史跡]
杭穴(干潮時2個)。
[現状]本丸跡はホテルになっており、テラスがある。
[その他]
[交通]土生港より徒歩5分。
[歴史]1377天授3年霜月15日、村上師清が釣島箱崎浦の戦いで南朝方の今岡通任を破り、因島は北朝方に復した。師清の末子村上吉豊が因島本主家を継承して因島村上時代が始まった。村上氏が向島余崎城へ移るまで180年間因島村上氏の本城であった。

この村上吉豊を因島村上氏の初代とするのが一番わかりやすい。いま、田中稔「因島史考」p.116によれば、2代・吉資(吉安)、3代・吉光(吉充)、4代・吉直、5代・直吉、6代・吉充となっており、5代までが長崎城主、6代・吉充が長崎城主、余崎城主、青木城主となっている。

古い呼称で恐縮だが、日立の正門の隣りにそのホテルはある。
今は数社が同居しているから、紹介するのは控えるが、その門は多くの船舶を浮かばせたばかりではなく、因島そのものをも浮かばせていた日立造船株式会社因島工場のかつての正門である。
ホテル・ナティーク城山へは、駐車場の隣りの急な階段を上がってもよいが、正門との間を奥へ入ってエレベーターを利用してもよい。そのエレベーターへ向かうとき、ホテルの建つ丘の南面に掘られた防空壕の跡をよく見ておいてほしい。長く保存すべき産業遺構であろう。
防空壕の他にはこれといって対抗する手段を持たなかったから、昭和の造船所は空からの攻撃には弱かった。
しかし、エレベーターで上がったところにテラスがあり、そこからホテルを見たり、海のほうを望むと、ここのお城は海からの攻撃にはめっぽう強かったのではないかと、しろうと目にもわかる。後ろへ控える荒神山城と天狗山までを考えると、ここを村上水軍が180年間も本城としたのも納得できるだろう。
向いは生名島。正面の高い山が立石山である。左手方向に進むと、ちょうど佐島とを結ぶ生名橋が架かっている辺りに高松城があった。これまた因島、弓削島、佐島、生名島に挟まれて海の要衝であった。
ここ長崎城を因島村上氏が180年間6代にわたって本城としたわけであるが、海に突き出た城は造船所の立地にもよかったと見えて、弓削島対岸になる因島の南海岸は山が削られ、海が掘られて巨大な造船所と化し、昔日の面影はない。それでもこの長崎城が因島村上氏の本城の跡だということで、工場の拡張がここで止まったことを感謝しないといけない。そして日立はこの城跡に城山クラブを建て、船主をはじめとする要人の迎賓館として活用したということである。そして、クラブの経営者に麻生イト女史も当たったことが在るという歴史的な建物だ。それが現代的な意匠のもとにホテルとして絶佳のロケーションを生かしているわけである。ついでに書けば、重井の西洋館も同じように使われていた。もともとこの西洋館は昭和の初期に牧師が住んでいたということだが、重井でキリスト教の布教がなされたことは知らないから、おそらく諜報活動の目的で建設されたものだと私などは思っている。その西洋館は戦後のある時期から日立不動産の所有となり船主などが宿泊滞在していた。後に個人に売却され「因島ペンション白滝山荘」として、これまたホテル業に活用されている。だから、建物の名称は「西洋館」でよいでのある。

いんのしまみち はぶみち