源氏坂
源氏物語は,私にとっては挫折の歴史である。岩波文庫や谷崎訳の中公文庫,與謝野晶子訳の角川文庫と多方面から登攀を試みたが,いずれも撤退である。ならば粗筋をと,岩波新書の「源氏物語」に目を転じても,進捗の気配は感じられなかった。さらに円地文子訳というのが新潮文庫で出たので,これにもと食指を動かした。こちらは,今まで以上に進んだと思われたが,やはり複雑な人間関係の網の中で溺れてしまった。
あれやこれやとしているうちに,やっと何とか感じが掴めたのは,村山リウさんの三巻本の「源氏物語」あたりからだろうか。そうこうしているうちに,新日本古典文学大系が出始めた。巻ごとに,系図と粗筋がついているのが,多いに役立った。
そしてやっと出会ったのが,舟橋聖一さんの現代語訳である。これは,平凡社 世界名作全集という文学全集の37巻と38巻に入っているものである。上巻が昭和35年,下巻が昭和36年の出版である。これより後,舟橋さんは月刊太陽にやはり源氏の現代語訳を連載されていたが,これとの関係は知らない。この本は文庫サイズではあるが厚みは相当ある布装のしっかりした本である。しかし,下巻は「幻」の巻で終わっている。
そこで,次は與謝野晶子「全訳 源氏物語」である。これは角川文庫では上中下の3巻がある。これの下巻が,舟橋さんにない,「匂宮」から入っている。與謝野晶子訳は河出の文学全集の中にもあって,このうちのどの版かが,かつて草加次郎という名前の爆発魔によって時限爆弾に利用されたことを覚えている人は少ないと思う。河出の文学全集は,某古書店で安く出ていたが,角川文庫があるのでいいかと,買わなかったが,今思うと買っておけばよかったと思う。なお,WEB上にも與謝野訳があります。入力された方,ご苦労様でした。
三島さんの「春の雪」は作者自ら「浜松中納言物語」を典拠としたと記してあるから,その通りなのであろうが,源氏との類似も指摘されている。清顕の美男ぶりは「桐壺」を読めばよくわかる。聡子が尼になるところは,浮舟の末路を思い起こせばいいだろう。三島さんの源氏理解は一流で,今年(2004年)出た「決定版 三島由紀夫全集」41巻は「音声」ということで7枚のCDが入っているが,その中の徳大寺公英さんとの対談で,戦後学習院大学の教授になられた松尾聡さんが,自分よりうまく解釈する三島のいるクラスで源氏の授業をするのを厭がったというようなことを,徳大寺さんが語っておられる。
平家の夢
平家は,吉川英治の「新・平家物語」からはじめたい。講談社の豪華な吉川英治全集というのは,ものが溢れている現在では邪魔ものなのか,先日某スーパーのリサイクルコーナーに1冊100円で大量に出ていた。残念ながら「新・平家物語」はなかったが,短編があったので少し買ってきた。その「新・平家物語」は,章ごとにタイトルがついていて「貧乏草」から始まる。例の清盛落胤説が登場したりして情感たっぷりに描かれる。
窓の外にみかん畑が見えている高校の図書館で読みはじめたのは,はるか昔のことである。私と吉川英治とは,よほど縁がないらしく,未だに「新・平家物語」は終わっていない。「宮本武蔵」「新三国志」も終わっていない。それなりにおもしろいのに,どういうわけか,最後までいかないのである。さて,肝心の平家のほうは,話しばかりが伝わって清盛義経の話くらいに思ってほっておいたのか,あまり苦労していない。それでも,岩波新書の「平家物語」や小林秀雄さんに刺激されて,やはり本文にあたっておこう思ったときに折良く,新日本古典文学大系本が届いたので,はじめから読むことにした。古い大系本も捨てがたかったが,結局最後まで新しいほうで通すことにした。
当たり前の話しだが,平家は西日本を主な舞台とする。少し,平家物語ゆかりの地を紹介する。
テキストはヴァージニ大学から参照できる。
平家物語の旅 敷名の千年藤(巻四 還御) 広島県福山市沼隈町常石
厳島詣でからご帰還中の高倉上皇にまつわる話しで,この故事以来,この岬に生えていた藤を「千年藤」と呼ぶようになり,地元の人々は代を重ねながら,大切に育ててきた,と「沼隈町誌 民俗編」の646頁にある。
この地に行くには,沼隈町千年から内海町方面へ向かえばよい。内海町は沼隈半島から内海大橋を渡って行くが,その橋の手前の喫茶店(右手)の駐車場に石碑がある。このあたりが,備後國敷名。
夜半許に浪も靜に風も靜まりければ、御船漕ぎ出し、其日は備後國敷名の泊に著せ給ふ。此所は去ぬる應保の比ほひ、一院御幸の時、國司藤原爲成が造たる御所の有けるを、入道相國御設にしつらはれたりしかども、上皇其へは上らせ給はず。今日は卯月一日衣更と云ふ事のあるぞかしとて、各都の方をおもひやり遊び給ふに、岸に色深き藤の松に咲懸りたりけるを、上皇叡覽有て、隆季の大納言を召て、「あの花折に遣せ。」と仰せければ、左史生中原康定が橋船に乘て、御前を漕通りけるを召て折に遣す。藤の花を手折り、松の枝に附ながら、持て參りたり。心ばせありなど仰られて、御感有けり。「此花にて歌あるべし。」と仰ければ、隆季の大納言、千年へん君がよはひに藤なみの、松の枝にもかゝりぬる哉。(巻四 還御)
平家物語の旅 藤戸(巻十 藤戸)・・・・・岡山県倉敷市藤戸
藤戸の合戦地は,今では陸続きになっているが,島だった。島に陣取る平家を奇襲しようと,近くの漁師に浅瀬の位置を尋ねた盛綱は,作戦が漏れるので殺してしまうという,ギリシア悲劇のような話しが伝わる。これが謡曲「藤戸」の元になった話しである。藤戸は倉敷市の南である。近くの人は是非訪ねて,盛綱橋,藤戸寺などに行ってみよう。そして名物,藤戸饅頭を食べて,気に入ったらおみやげに買って帰ろう。藤戸饅頭本舗は,かつては藤戸寺の傍にあったが,少し離れたところに新しい(といってもかなり経つが)店舗がある。
源平の陣の交ひ、海の面五町計を隔たり。舟無くしては輙う渡すべき樣無かりければ、源氏の大勢向の山に宿していたづらに日數を送る。平家の方よりはやりをの若者共小舟に乘て漕ぎいださせ、扇を上て、「こゝ渡せ。」とぞ招きける。源氏「安からぬ事也。如何せん。」と云ふ處に、同廿五日の夜に入て佐々木三郎盛綱浦の男を一人語て、白い小袖、大口、白鞘卷など取せ、すかしおほせて、「此海に馬にて渡しぬべき所やある。」と問ひければ、男申けるは、「浦の者共多う候へども、案内知たるは稀に候。此男こそよく存知して候へ。譬へば川の瀬の樣なる所の候が、月頭には東に候、月尻には西に候。兩方の瀬の交、海の面、十町計は候らん。此瀬は御馬にては、輙う渡させ給ふべし。」と申ければ、佐々木斜ならず悦で我が家子郎等にも知せず、彼男と只二人紛れ出て、裸になり、件の瀬の樣なる所を渡て見るに、げにも痛く深うはなかりけり。ひざ腰肩にたつ所も有り、鬢の濡る所も有り。深き所は游いで、淺き所に游ぎつく。男申けるは、「是より南は、北より遙に淺う候。敵矢先を汰へて、待ところに、裸にては叶はせ給ふまじ。是より歸らせ給へ。」と申ければ、佐々木「げにも。」とて歸りけるが、「下臈は、どこともなき者なれば、又人に語はれて、案内をも教へむずらん、我計こそ知らめ。」と思ひて、彼男を刺殺し、首掻切て棄てけり。(巻十 藤戸)
平家物語の旅 義経上陸の地(巻十一 逆櫓) 徳島県小松島市立江町 源義経上陸の地碑 遠景
判官宣ひけるは、「各の船に篝な燃そ。義經が船を本船として、艫舳の篝を守れや。火數多く見えば、敵も恐れて用心してんず。」とて終夜走る程に、三日に渡る所を、唯三時計に渡りけり。二月十六日の丑刻に、渡邊福島を出て、明る卯の時に、阿波の地へこそ吹著たれ。(巻十一 逆櫓)
この阿波の地が小松島市立江町だ。上陸の地の石碑のあるところからは海などは見えない,内陸部だが,あたりは,ミニ運河のような水路を水が静に佇み,その地が埋め立て地であることがわかるから,かつては,このあたりまで海岸線が延びていたのだろうと想像できる。ここへ行くには,四国霊場第十九番立江寺を目指して行けばよい。
平家物語の旅 屋島 香川県高松市屋島東町
扇の的で有名な,屋島の合戦の古戦場。今も観光地として賑わっている。といっても島ではない。四国香川県に陸続きである。ケーブルカーもあるが,山頂駅から歩くと,かなりの距離がある。車,タクシー,バスでドライブウエイを登ると早い。駐車場のすぐ前が四国霊場第八十四番屋島寺。
平家物語の旅 下関
下関の赤間神宮はもちろん後世の建立になるものだろうから、その建物を愛でても仕方がない。しかし、この地に立つと平家の哀歌も極まれりという思いがするのは、私だけではあるまい。目の前を流れる海峡の潮の速さは、今も往時も変わるものではあるまい。その海の藻屑と化した兵者どもの姿もあわれなれば、入水するも引き上げられる者もまた哀れであった。海戦の舞台かあるいは船泊まりであった彦島や早鞆の瀬戸というのは下関駅の裏手に、今では小さな小川のような海を隔ててつながる島のあたりのことだろうか。河豚の水揚げで有名な市場もその先にある。
赤間神宮から出て、安徳天皇陵の垣根の下を西へ向かうと、日清講和会議の会場となった春帆楼( しゅんぱんろう)がある。これも往時の面影はなく写真でみるほかはない。なお、日露講和会議はポーツマスでおこなわれたことは、吉村昭さんの「ポーツマスの旗」に書かれている。
平家物語の旅 京都(寂光院、六波羅蜜寺)
万葉の歌's
万葉集は,岩波文庫と教養文庫の「万葉の旅 上・中・下」(犬養孝著)である。これがテキストであった。それは国文学(4単位)で,大学に入った年で,担当は「神皇正統記」の校訂などをされた岩佐正先生だった。定年退職を前にした最後の年の講義だと,先生自ら話されていた。講義ででてきた歌には歌番号に印をつけてあり,卒業後一番よく開いたのが岩波文庫のほうだった。
大系本は古いほうで,新しいほうは,最近のものでもあるし,あまり見てないが,新大系本は,索引がしっかりしているので,最近では,こちらも何かと便利である。
岩波新書にある斎藤茂吉の「万葉秀歌」や土屋文明の「万葉名歌」(教養文庫)も併せて読んだ。島木赤彦の「万葉集の鑑賞及び其の批評」(講談社学術文庫)とか梅原さんの一連の作品は,学術文庫や集英社の著作集が発刊されたのは,ずっと後だから,それ以降のことになる。茂吉の「万葉秀歌」を取り出して読んでみると、茂吉の鑑賞力に驚く。さすがに、実作者で博学な研究家の面目躍如たるところが横溢している。
さて,今ならWeb 上にもテキストは溢れていることと思われるが,ヴァージニ大学の頁を紹介しておく。 http://etext.lib.virginia.edu/japanese/manyoshu/AnoMany.html
左側の検索窓に歌番号を,次のあかねさすの歌だったら,20というように入れて,Submit検索 ボタンを押せばよい。
長くなったが,古代人の世界に入っていくには一足飛びに行くよりはいろいろ回り道をしながら,足慣らしをして入るのがいいと思う。まあ,現代風に解釈したい人はそれはそれでいいのだが,やはり万葉は昔の作品である。例えば,額田王の
あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る
(あかねさす むらさきのゆき しめのゆき のもりはみずや きみがそでふる)(2-20)
と 大海人皇子の
紫のにほへる妹を憎くあらば人妻故に我れ恋ひめやも
(むらさきの にほへるいもを にくくあらば ひとづまゆゑに われこひめやも)(2-21)
というのを,現代の不倫小説,例えば渡辺淳一さんの「愛の流刑地」などを読むような感覚で,人妻故に我れ恋ひめやも と思っていたらちょっとおかしいと思う。このとき,額田王は天智天皇の人妻なのだが,それ以前に大海人皇子との間に十市皇女があるという関係だから,この人たちの関係というのは,松本清張さんの説を持ち出すまでもなく,現代の感覚からは少し離れたところがある。だから,この歌は一種の言葉遊びのようなもので,相聞風に洒落ている,というようにとっておくのが無難だと思う。
東の野にかぎろひの立つ見えてかへり見すれば月かたぶきぬ
(ひむがしの のにかぎろひの たつみえて かへりみすれば つきかたぶきぬ)(1-48)
というのは,人麻呂の有名な歌だが,芭蕉の 菜の花や月は東に日は西に の句の影響か,単純な叙景歌のように思いがちである。いかがなものであろうか。早朝の寒い時間になぜ人麻呂は起きているのか。トイレにでも立ったのだろうか。東のほうを見れば,今まさに冬の日が昇ろうとしている。うすい朱色の空に,空気がゆらめいて見える。月はどちらにあるのかと,眺めれば,まもなく沈んでいく下弦の月が西に山の上にある,という感じだろうか。ただそれだけで歌をつくるというのは何かと暇で,タネを探している現代人の感覚で,文房具も十分になかった時代に敢えて作歌するのだから,もっと深い思いを読みとらねばならない。東と西のわが想う人はもう起きているのだろうか,「小樽は寒かろ 東京も・・」という感じではないか,と思う。
(付録)万葉紀行・・・鞆の浦
備後,鞆である。現在は広島県福山市。広島県東部の沼隈(ぬまくま)半島先端の,潮待ち港の街。関門海峡と鳴門海峡から入ってきた潮が,このあたりでぶつかるのだそうである。(実際にぶつかるところを見たことはありません)
それは,ともかく,ここは旅人のむろの木の歌で有名なところで,「むろの木」というお菓子(饅頭?)もありますから,万葉愛好家は,是非おみやげにどうぞ。
我妹子が見し鞆の浦のむろの木は常世にあれど見し人ぞなき(わぎもこが,みしとものうらの,むろのきは,とこよにあれど,みしひとぞなき)(3-446)
鞆の浦の礒のむろの木見むごとに相見し妹は忘らえめやも(とものうらの,いそのむろのき,みむごとに,あひみしいもは,わすらえめやも)(3-447)
礒の上に根延ふむろの木見し人をいづらと問はば語り告げむか(いそのうへに,ねばふむろのき,みしひとを,いづらととはば,かたりつげむか)(3-448)
また,巻七にも,鞆の歌があります。
海人小舟帆かも張れると見るまでに鞆の浦廻に波立てり見ゆ(あまをぶね,ほかもはれると,みるまでに,とものうらみに,なみたてりみゆ)(7-1182)
ま幸くてまたかへり見む大夫の手に巻き持てる鞆の浦廻を(まさきくて,またかへりみむ,ますらをの,てにまきもてる,とものうらみを)(3-1183)
七卿都落ち縁の太田家住宅は保命酒発祥の地でもあります。保命酒の職人さんが作ったのが養命酒ですから,その元祖のようなものでしょう。かのペリー提督への供応でも出されたいう話しです。ここの港から南を見ると,素晴らしい構図になっていることがわかります。「鞆の浦」という感じですね。そのうちここに橋がかかるかもしれませんから,早めに一度目に(あるいはカメラに)入れておかれたらよいかもしれませんね。
仙酔島渡船の桟橋近く,対潮楼の異名をもつお寺の下に,文学碑があります。対潮楼からの眺望も絶景ですので,時間があれば,是非拝観してみてください。
岡山県・牛窓(うしまど)
ついこの前まで,邑久(おく)郡牛窓町だったが,瀬戸内市になった。JR赤穂線の邑久駅から,南へ車で20分ほどで着く。古来,潮待ちの港として,東の室津,西の鞆とともに有名なところだ。
牛窓の波の潮騒島響み寄そりし君は逢はずかもあらむ(,うしまどの,なみのしほさゐ,しまとよみ,よそりしきみは,あはずかもあらむ)(11-2731)
風土記逸文に「名づけて牛轉(うしまろび)と日(い)ひき。今,牛窓と云ふは訛(よこなま)れるなり。」とある。(岩波 古典文學大系2 p.488)
美しい海がある。断崖に建つペンションも素晴らしい。そこからの眺めも素晴らしい。オリーブ園からの眺望もよい。東のほうには,映画「砂の器」のラストに出てくる,長島愛生園のある,長島が見える。(映画とはアングルが違うが)。手前の海が錦海湾。埋め立てられて,塩田跡には化学会社がある。
竹取物語
これはSFと神仙思想が混ざったようなもので,ユニークで貴重な一冊です。短いし,まだ読まれてない方はぜひ,全文を読んでいただきたい。岩波文庫が何かにつけ,よい。人間性に深みがないなどというのは,近代病に取り憑かれた人のいうことで気にしなくてよろしい。竹取はプリミチチブで素朴なのがいいところですから,それをじっくりと味わえばいいのです。
伊勢物語
昔,歌謡映画というのがあった。ヒットした歌謡曲の歌詞に併せて映画が作られる。歌った歌手も出演して,それらしきところで,その歌謡曲が流れる,という何とも不思議な世界である。それと似たようなものだと,思えばいい。短歌がある。詞書きが添えられているものもある。ないものもある。後の人が詞書きを勝手につくって,少し長くなって,ショートショートになった。星新一の作品のように,うまく決まっているものもいくらかある。そういうのを読むと,芸術には暇と余裕が必要なことがよくわかる。そこに優雅なものが感じられるのは,作者の教養のしからしむところか。
岩波文庫も手軽でよいが,新潮日本古典集成も読みやすい。ということで,古典文学大系本は新旧にあるも,あまり見てないないようだ。
枕草子
嫌な女だ。でも,その感性と写実の技は凄い。まさに神業。 春はあけぼの,やうようしろくなり行く,山ぎはすこしあかりて,むらさきだちたる雲の・・・ 紫だちたる雲を見る清少納言は高血圧だったのか,と私は思います。ならば,高血圧だったらこういう文が書けるのかというとそうでもないでしょう。やはりたゆまぬ精進が背景にあるようです。
実は枕草子のテキストはどれも,しっくりいきません。しいていえば,日本古典文学大系本と岩波文庫本(同じですから)くらいでしょうか。新日本古典文学大系のほうは読みにくい。新潮日本古典集成は漢字とひらがなのバランスは良いが,句読点が多すぎる。分かち書きは,おもしろいしいいが,朱色の傍注が,こういう詩的な作品には合わない。ということで,下のほうは書棚にない。そのうち気が向けば,下も買うかもしれなが,読むかどうか。
鬼才・橋本治さんの「桃尻語訳 枕草子」というのがあって,これはよかった。・・なーんちゃってとか,ウッソーとか,あって,うふふはあったかどうか忘れたが,清少納言は今風にいえば跳んでる女だから,ぴったりくるんですね。案外正解だったりして。これは図書館本で済ませて,いまだにない。買っておけばよかったなあ。そのうち買いたいものだ。河出の文学全集には,田中澄江さんの現代語訳があって,こちらもまずは満足。
弘法大師空海
空海は平安仏教の輝ける星だから,大抵の文学史では無視されているが,このあたりの位置でいかかだろうか。さて,司馬遼太郎さんによると,空海はこの頃の流行のバイリンガルのはしりのような人であったらしい。まあ,それはいいとしても,空海のまわりには不思議なことばかりである。天才だといってしまえば,それだけだが,確かに天才であるには違いないが,天才を越えたそれ以上のものが,空海にはあるように思われる。
空海の著作は手っ取り早いところでで,日本古典文学大系の71巻に「三教指帰 性霊集」が入っている。中央公論社の日本の名著に「最澄 空海」がある。空海の部分だけが,中公クラッシックス「空海 三教指帰」としても出ている。福永光司氏の現代語訳で「三教指帰」と「文教秘府論 序」というのがある。それに漢文の原文と注。古典文学大系のほうは,読み下し文と原文が並んでいるので,好都合。
岩波の日本思想大系5「空海」には,空海の主著ともいうべき「秘密曼茶羅十住心論」がある。読み下し文で,原文は巻末である。
空海が開いた霊場高野山は既に熊野古道などともに世界遺産に登録されている。高野山も素晴らしいが,空海ゆかり四国八十八寺も歴史的価値がある。こちらも世界遺産登録運動がなされているようだが,実現すると,改めて空海の偉大さがわかろうというものである。ノーベル賞を2つ受賞するようなものだ。
空海の解説本では,まず司馬さんの「空海の風景」(中公文庫など)がよい。それから,渡辺照宏・宮坂宥勝「沙門空海」(ちくま学芸文庫),宮坂宥勝「空海」(ちくま学芸文庫)が読みやすい。
徒然草
気楽に書かれたエッセーなどだと思ったら大間違いだ。小林秀雄さん流に言うと,徒然草のあの有名な冒頭が後世の読者を誤らせた,ということになろうか。つれづれなるままに,・・・そこはかとなく書きつくれば,というのは当時常套の謙遜表現であるということはしっかり頭に入れておきたい。よく錬られた兼好の芸術作品をこそ味わいたいものである。もし1冊の本を持っていくならば,と尋ねられたとき,無人島へ行くのなら,本などもっていかないが,日本沈没から避難する船にならば,岩波文庫の「徒然草」を一冊ポケットに忍ばせるのが,軽くていいと思う。もし残れば,さまよえる日本人の旧約聖書の代用ぐらいにはなると思う。そして,そのときは時々声に出して読み,海中に没した大和の国を偲ぶよすがにしよう。
西行
西行は日本古典文學大系の29巻に「山家集 金槐和歌集」としてあり,新日本古典文学大系では46巻の「中世和歌集」の中に「山家心中集」がある。
桜と旅の歌人西行は,出家する前は佐藤義清(のりきよ)といって,鳥羽上皇の北面の武士だったというから,今で言えば,宮内庁の役人か。あるいは,バッキンガム宮殿の衛兵やバチカン市国の入り口に立つ衛兵を想像すると,少しずれてくるかもしれない。どちらにしてもまあいいが,佐藤義清はその,国家公務員の職を擲って,保元6年10月15日に(旧暦だから,満月の日か),23歳の若さで出家した。その時の気持ちは,「砂の器」の主人公がどのようなルートを通って山陰・亀嵩に辿り着いたのか主人公父子しか知らないように,誰にもわからない。以来,夥しい西行伝説が生まれ,その流れは留まるところを知らない。最近では,辻邦生さんの「西行家伝」などという,畢竟の大作もあるが,それらはひとまず置くとして,吉川英治さんの,(まだ,終わりまで読んでいない)「新・平家物語」にも出てきたということを,取りあえず書いておこう。
ねがはくは 花の下にて 春死なむ そのきさらぎの もち月のころ
というさりげない歌にも,西行の美的センスの良さが伺える。まさに春宵一刻値千金のことであろう。そして西行は,建久2年2月16日に亡くなったから,願いはほぼ満たされた。「今年も桜 咲きますか なのに淋しい なぜか淋しい」(早坂暁作詞,夢千代日記)望月の頃である。
西行という人はディスカバージャパンの走りのような人であるから,全国至る所に足跡を残したらしい。(それを真似たのが芭蕉であるのは言うまでもない。)まずは,雨月物語で有名な白峰に崇徳上皇御陵参拝の旅から。怨霊史観というのを信じる人はあまりいないが,わかりやすい説である。例えば,平家が滅びたのは,崇徳上皇の怨霊,明治維新で徳川家が負けたのは安政の大獄で憤死した勤王の志士の怨霊,太平洋戦争の敗北はいうまでもなく,226事件で銃殺された兵士の怨霊という具合。
その怨霊の中でも最も怖いのが崇徳上皇の怨霊であるというわけ。西行にとっては,かつての主人筋,血で大乗経を写経して死して怨霊とならんとした上皇の霊を慰めるのに西行ほどうってつけの人はいない。これが有名な西行の四国行きである。仁安2年の事という。西行はまず瀬戸の児島にわたる。今は,児島半島,倉敷市児島に名を留める岡山の南端,瀬戸大橋の本土側架橋地は,かつては備前の国児嶋と呼ばれた島だった。その児嶋,日比・渋川の海岸から渡船した。今の玉野市である。渋川海水浴場の隣に西行の銅像があるので,近くへ行かれた方は是非見てきていただきたい。
道元禅師
我が宗祖道元禅師,すなわち道元さんである。道元と言えば,川端康成さんのノーベル賞講演を思い出す人も多いことと思う。川端さんの作品は,「眠れる美女」や「雪国」をはじめとして,退廃的で,あまり好きではない。「伊豆の踊子」だって,何回か映画化されて,その一つに吉永小百合さんなどが出て,青春小説のようなイメージがあるが,考えようによっては,随分退廃的な小説だ。それはさておき,川端さんのえらいところは,道元や明恵上人(だったか,もう忘れたが)の自然観が日本文学の伝統の中に脈々と流れ続けているということを自覚されているということである。
その永平寺道元禅師の著作は,日本古典文学大系の81巻に「正法眼蔵 正法眼蔵随聞紀」としてあり,若い頃から求めているのだが,とらえどころがなくて長い間うっちゃっておいた。要するに難しくてわからないのだ。ところが最近になって,といってももう10年も前の話しだが,ちくま学芸文庫から,水野弥穂子さんの現代語訳なる「正法眼蔵随聞記」が出た。この本は,読み下し文の原文,注,現代語訳と交互に配置され,大変読みやすい。また,同じ頃,フランス文学者で詩人の栗田勇さんの「道元の読み方」(詳伝社)を入手したので,少し読んでみることにした。
しかし,何も私如きが道元禅師の入門書をくどくどと紹介しなくても,古書ネットやアマゾンの検索をかければ,いくらでもでてくるので,このへんでやめておきたい。本文に当たっていただきたい,などと常套句を一応書いておくが,やはり道元禅師の思想は西洋の翻訳哲学書を読むよりも,難しい。
芭蕉
芭蕉はそんなに好きではないが,短いのとわかりやすいので,結構買った。岩波文庫の「芭蕉紀行文集」は異本なども収めていて,便利である。有名な 「山路来て 何やらゆかし すみれ草」 の句は,「野ざらし紀行」(p.22)の中にある。
さて,芭蕉の不易流行論について述べよう。不易と流行というのは古い話しで恐縮だが20年ほど前に教育臨調というのがあって,そのとき使われて,私如きものも知るようになった言葉である。要するに教育改革を進めて行くには,いつの時代にも変わらぬ,不変なるもの(まあ,読み書きそろばん,のようなものと言っておこうか)と,時代に応じて変化適応させないといけないものがある(例えば,コンピュータ教育とか,環境教育とか,国際理解とか)というものだった。
これが不易と流行である。こういう二元論は小生が如き単純な頭には実によくわかる。ということで,日々の生き方においても,テレビや新聞で流れるように押し寄せてくる情報を流行として,他方,不易なるものを求めて黴香に噎せながら,紙魚と競争をしている日々だが,どちらかというと後者(不易)に力点をおいているのは,いうまでもない。
その不易流行という二元論は芭蕉に発するというので,その元を辿ろうというのが,今回の目的である。服部土芳の「三冊子」(さんぞうし,と読むらしい)に出てくるというので,探したところ。日本古典文学大系の66巻に「連歌論集 俳論集」というのがある。「三冊子」は「白雙紙」「赤雙紙」「わすれみづ(くろさうし)」から成っていて二番目の「赤雙紙」の冒頭に出てくる。
「師の風雅に萬代不易あり。一時の変化有り。」と。その後「変化にうつらざれば風あらたまらず」とか「せめず心をこらさざる者,誠の変化をしるといふ事なし」
とある。不易なるものにしがみついていてはいけない。変化に挑戦してはじめて不易に匹敵する変化を為すことができるという,まことに革新的で進歩的な態度が芭蕉の不易流行論ということになる。古典主義をロマン主義で止揚するようなものか。
西鶴
「好色一代男」は故・吉行淳之介氏の見事な現代語訳があって楽しく読める。「好色一代女」のほうは,新潮日本古典集成本が第三回の配本で,こちらを読んだ。これはいい本で,傍注も図版もよい。とはいえ,西鶴の才覚は短編にある。「日本永代蔵」「世間胸算用」の描写の迫力は凄い。
西鶴プロダクション説というのがあった。西鶴が書いたのは「好色一代男」とわずかの作品で,あとは別人の作だといういう説である。残念ながら,私には一つ一つの作品の文体からこれは別人の作だというようなことを判定する能力は持ち合わせていない。もう50年生きようが,100年生きようが,私にはできない。だから,通説通り,西鶴は一人でよいのだ,というのが私の基本的な立場。
近松
芭蕉,西鶴とくれば,この人を落とすわけにいかない。しかし,巣林子は苦手である。天才の作品はは凡人の生半可な接近を拒むものらしい。ギリシア悲劇が運命悲劇で,シェイクスピアは性格悲劇を主とするといわれるが,近松はどちらに属するのか。どちらでもない封建社会の桎梏の中でもがく主人公のぎりぎりの選択が観客の涙を誘う。義理人情などというからますますわからなくなる。小西甚一教授は世間でいう義理人情と近松の義理人情は違うといい,近松の義理にdramatic situation という英語を当てられる。
馬琴
芭蕉,西鶴,近松が文学で,馬琴は文学でないような風潮はまことに嘆かわしい。しかし,岩波の新日本古典文学大系には87巻に「開巻驚奇侠客伝」,80巻に「曲亭伝奇花釵児」(きょくていでんきはなかんざし)が入っているし,旧大系本では「椿説弓張月」が上下二巻になって入っているから,決して専門家に冷遇されている訳ではないのかもしれない。八犬伝は岩波文庫本があるので買ってないが新潮日本古典集成の別巻にあるし,「近世説美少年録」は小学館から出ているので,取りあえずは退屈しない。
漱石
漱石ほど長い間,日本人に多く読まれてきた作家は珍しい。しかし,その漱石にすら翳りがみられだしたのは寂しい。小学生から老人まで,男女を問わず楽しめて,なおかつ言葉と社会と人間の心理と我が儘と,日本の伝統を理解するのにテキストとして,漱石の作品に勝るものはない。著作権は既に切れ,各社から出版され,web上にも,百均ショップにも溢れている。また漱石論も夥しくある。そして漱石を置いてない図書館は図書館としての存在価値すらなかった。・・と,過去形になりつつある。
「吾が輩は猫である」は,高等遊民の世界である。すなわち,反サラリーマン小説である。趣味人の廻りに集う閑人のエピソードを連ねたものであるが,明治以降の,いや日本史上と言ったほうがいいと思うが,第一級の人物である漱石夏目金之助のまわりに集う人たちだから,それ相応の知性と教養の持ち主だから,諧謔に満ちていてもレベルが下がる訳がない。しかし,この世界には労働がない,年上の者に気を使うということもない。極論すれば,読書好きの教師の閉ざされた世界である。よって,大学人や教師のメンタリティを養うのに大いに作用し愛好された。また,精神的にそれに連なる読書を愛する社会層によっても。そして,それはそれらの人たちによって鼓舞され次の世代に伝えられた。
しかるに,大学では,会議と業績評価に追い回され,初等中等教育機関に於いても,これまた会議と,生徒指導と,報告書の作成に追われ,風変わりな黒猫の人間観察記楽しむ余裕は既に無い。
小林秀雄さんの巻
小林さんのもので,まず1冊あげるとすると,角川文庫の「私の人生観」である。これほど楽しい本は他にはなかなか見あたらない。この本には,舟木一夫の歌ではないが,「若さがいっぱいとんでいた」。「処女講演」には,ビールを一杯ひっかけて行ったことが書いてある。井守を山椒魚の子だと間違えて佃煮にしたら,と言ったりする話しもどこかにあった。と,どうでもいいようなことばかりしか,今では覚えていないが,この本一冊で私は小林さんの大ファンになった。そして圧巻は講演録「私の人生観」である。文化人というサルはラッキョウの皮ばっかり剥いて・・・という有名な文句も出てくる。
小林さんの晩年の講演を聴く機会が一度だけあった。正宗白鳥さんの生家が取り壊されて,その後に文学碑が建って,そのときの記念講演だった。足が少しふらついていたし,赤い顔をされていたので,やはりビールをひっかけておられたのではなかろうか。正宗さんについては,一杯書いてあるので,話すことはありません,と言われながら,いくらでも話しが出てきた。すごい人だと思った。その時,安岡章太郎さんと大江健三郎さんも,正宗さんについて話しをされた。
付録:正宗文庫のことなど。 正宗白鳥さんの兄弟はすごい。画家もおられれば,国文学者もいる,という案配だ。その国文学者の正宗敦夫さんが白鳥の弟で,白鳥は東京に出てしまうので,田舎の家を守る形になった。とはいえ,次男故にか,生家には住まず,少し山のほうに登ったところに分家した。本家より少し小さいのは,分家という配慮か。その正宗敦夫さんは独学で万葉集総索引を完成される。その敦夫さんの蔵書が正宗文庫で,白壁の土蔵で,母屋よりも立派であるから,いかに古典の蒐集に務められたかが偲ばれた。敦夫さんの息子さんと,その奥さんがおられ,息子さんは昼間から酒を飲みながら何か書かれていた。宇田川容庵の「舎密開宗」の版本が見たいと来意を告げると,快く,重々しい土蔵の扉を開いて見せてくださった。白鳥のことなどもお聞きすることができた。
次に手に入れたのが筑摩の現代日本文學大系60「小林秀雄集」(昭和44年2月)この全集は全巻は持っていないが,今から思えばまことに贅を尽くした,戦後文化の,まだ元気な頃の雰囲気が伺われて,楽しいのだが,思い出してみれば,この全集の刊行中に筑摩書房は会社更生法を申請しているから,単純には喜べないか。しかし,この小林さんの本は中身も装幀,紙質も豪華で今でも大切に扱っている。さて,中身だが,様々なる意匠,Xへの手紙,おふぇりあ遺文,ドストエフスキイの生活,ランボオⅠ,Ⅱ,Ⅲ,無常といふ事,などなどと,タイトルを見ただけで血が湧き肉が踊る作品のオンパレードである。
小林さんの全集は新潮社のものをもっております。これで、「本居宣長」などを読みました。でも、全ては読んでいないと思います
三島由紀夫さん
今までに一番ん熱心に読んだのは『春の雪』であるが、「豊饒の海」4巻の最終巻である「天人五衰」について書く。これはまさに三島さんが辿り着いた最後の境地だと思う。そしてそれは認知症の文学でもある。認知症の文学といえば、有吉佐和子さんの『恍惚の人』が有名だが、シェイクスピアの『リア王」とヘミングウェイの『老人と海』も優れた認知症文学である。
「天人五衰」の最後は、ということは三島由紀夫さんの人生の最後の認識であもあるが、主人公の本多繁邦が1巻から見てきたことが否定される。否定されても読者にはそれは事実であって消えていくものではない。すなわち、小説上の結末でそのような認識論に到達するのである。いやその認識論は「春の雪」ですでに到達していたのであるが、それを具体的に書いただけであった。それを三島さんは大乗仏教の唯識論だという。唯物論でも唯神論でもない。唯識論である。
主人公の本多繁邦は、聡子から松枝清顕はいなかったと言われて、それを否定できない。そんなことはない、と言ってみたところで、それを否定される。あると思えばあったのだし、なかったと思えばなかったのだと思う。人生の最後は、来し方を見れば、すべて遠い幻である。
三島由紀夫さんの本はたくさん持っていますが,いわゆるお値打ち品はありません。そういうものを集める趣味は今も昔もありませんので。普通の出版物と古本屋に安くあったものを求めただけです。 強いて珍しいものを探せば,婦人公論の付録の「文章読本」というのがあります。といっても,読むだけなら中公文庫にも全集にもありますから,珍しくも何でもありません。
せっかくですから,紹介しておくと,婦人公論昭和34年新年号付録ということです。旧仮名使い,新漢字です。159ページで,「特価本誌とも150円」とあります。中身は勿論おもしろいです。
完全な全集は、二度出ております。一度目が黒、二度目が赤茶っぽい煉瓦色です。二度目のものは少し買っただけです。一度目のものは、インフレの時代で、定価改定の前に揃えました。昭和51年のことです。広島で市内の大型書店にないものは、郊外までバイクで周り、店頭に残っているのを買ってきました。
2・26事件
三島さんはよっぽど2・26事件が好きだったようで,いろいな作品がありますが,旧全集(旧全集というのは,没後刊行された最初の全集のことです)の35巻補遺の214ページに「壮年の狂気」(原文は旧漢字,以下同じ)という未発表エッセーがあります。「旧臘のクー・デタ未遂事件」とか「私自身の同世代の三十半ばの人」「新年だからと云って」というような表現がありますから,昭和35年頃の12月に書かれた原稿だと思われます。このクーデター未遂事件というのは,聞いたことのある,外電がスクープして,政府筋が否定したというのと同じかどうかわかりませんが,今思い当たりません。この文と,集英社の文学全集の磯田光一氏の解説は見事に符合しておりますから,興味のある方は是非,併せてお読み下さい。
「青春と読書」というのは集英社の月刊PR誌だが,その200.5に森詠「はるか青春」という連載小説がある。そこに,あの11月25日のことが出てくる。「空はあくまで澄み切った秋晴だった。」(p.104)
このように,三島さんの生前に若年だった人たちの回想のようなものは,印象的なものがままあるが,総じて,没後数年後の三島論やその類のものは面白くない。だから,雑誌の特集号などは買うが,2・3行読んだだけで,ほとんどうっちゃっている。そんな中にも時々例外がある。「すばる」200年10月号の瀬戸内寂聴・三輪明宏両氏の対談「今こそ語る三島由紀夫」はなかなか良いお話に溢れいて,結局最後まで読んでしまった。
辻邦生さん
辻邦生さんの亡くなられてからの最初の全集の目録を見ていて,「フーシェ革命暦」の第三部というのがあって,驚いたものです。ある年,ニートからの足を洗う見込みがたったことと,少し経済的余裕があって,1月号から,「新潮」「文学界」「群像」「海」「文藝」という,今では死語となった「純文学」誌を定期購読することにしました。そのときの,文学界で「フーシェ革命暦」は連載が始まったので,目を皿のようにして読んだことを今でもはっきりと覚えております。しかし,配達の本屋さんのエリアの外に出てしまい,購読が止まりました。それに忙しくて全てに目が通せなくなって,それにあまりおもしろくない小説が大部分で・・・・。ということで,雑誌購読が止まり,単行本になってから買って読んで,私の頭の中では,第二部で完結していると思っていた訳です。どこかで読んだのですが,第三部は。未完ということで,単行本になる可能性はないでしょうから,いつか,全集で買って読むしかありませんね。
三島さんと辻さんは,ほぼ同世代なのですが,辻さんの著書が爆発的に出版されていくのは,三島さんが亡くなられてからです。ということは小生が成人した後ですから,辻さんの本はほとんどを購入してきましたので,全集は買うつもりはありません。「背教者ユリアヌス」は中公文庫。「春の戴冠」は新潮社の単行本という具合です。「パリの手記」や「モンマルトル日記」などの日記に近いエッセーや,その他の作品もいつも発売と同時に買って読んだものです。
シェイクスピア
これもずっと昔の話しになるが,コスモス同人のN氏からHamletの輪読会に誘われたことがあった。そのときN氏が選んでくださったテキストがArden Shakespeare のUniversity Paperbacks版だった。Hamletはいろんな幽霊がでてきて(いろんな言葉の幽霊が,とかくべきであろう),辟易したものであるが,原文を読むのも,結構面白いと思った。それにこの頃から,翻訳に何が使われているか注意するようになった。卵を破ってでてきた雛鳥といっしょで,最初に目にしたものが親しみやすい。以後,Arden で揃えようと思ったが,結局,Romeo and Juliet とAntony and Cleopatoraを買ったところで,complete worksが欲しくなり,Oxford Shakespeare が店頭にあったので求めた。今となってはweb版でたいていのものが読めるので,必要ないように思えるが,これはこれで重宝している。少し大きいので,寝ころんで読むときは,枕のかわりぐらいにしかならないが,ちょっと気にかかるところを見ようというときには便利である。
The general editor of the Arden Shakespeare have been W.J.Crag(1899-1906),R.H.Case(1909-1944) and Una Eliis-Fermor(1946-1958) の W.J.Cragこそ,ロンドン留学中の夏目漱石が通ったベイカー街の個人教授のクレイグ先生である。このことは江藤淳さんの「漱石とその時代 第二部」のp.87以降に出てくる。
あのシャーロックホームズで有名なベーカー街であるから,ホームズパロディに漱石が登場しても,理由のないことではない。
シェイクスピア別人説というのがある。「月光仮面は誰でしょう」というのとちょっと違うが,「シェイクスピアは誰でしょう」というのだ。ソネットと詩劇の作者を同時代の別の人の作品ではないかというのものだ。これも私にはあまり興味がない。あの瓢箪型をしたシェイクスピアと呼ばれている人でいいではないか。また,最近,シェイクスピアの作と称せられる2つの作品が見つかって,翻訳も出たという。これにも私は興味がない。だいたい中野好夫さんや福田恆存さんが御存知なかったような作品などなくても,シェイクスピアは十分に完結しているのである。
後年,全作品を読んでみることにチャレンジし,2008年秋からはじめて,2009年秋に結願しております。これは夕凪亭閑話でその都度記しております。
ニーチェ
因島高校の二年というのは特別な学年であった。というのは、コース別にクラスが編成された。理系と文系。就職(非進学)は文系と同じだったが、進学と就職とと考える者もいて、理系のの中に文系進学希望者も混ざっていた。だから理系でも高3の物理と並行して生物が設けられていた。その理系に入っていたのだが、同じクラスにニーチェを読んでいる生徒が二人もいて、その二人が別々に私に勧めた。今から思えば凄いことだ。高校や大学は有名校がいいと血眼になっている人が多いが、どこへ行こうとその人の能力が変わるわけではない。だからどこでも良いのだ。そうであるが、高校二年の時、そういう生徒が二人もいたというのは、因島高校へ行っていたからであった。別の高校なら別の高校で、別の出会いがあったのであろうが。
それで、私も「世界の名著」のなかの『ニーチェ』を買った。
小林秀雄さんの「ニイチェ雑感」に,再読してみると,昔読んだニーチェがどこにもいないと書いてある。かように,ニーチェはとらえどころがない。鰻ようなものだ。掴んだと思ってもつるりと逃げてしまう。しかし,あの脂ぎった魅力は捨てがたい。私はといえば,その脂ばっかり喰っているせいか,いつまでたっても血や肉にならない。
世界の名著の「ニーチェ」を買ったのは1969年の11月29日である。この本は世界の名著の第一回の配本である。初版は昭和41年2月4日で,私が買った本は昭和44年10月15日発行の22版である。 「編集・解説」と「ツァラトゥストラ」の翻訳が手塚富雄さん,「悲劇の誕生」の翻訳が,当時電気通信大学講師の西尾幹二さん,付録の対談は三島由紀夫さんという,まことに豪華な取り合わせである。
その頃,岩波書店の販売店信山社がReclam文庫を扱っていて,郵送してもらった。〝Also sprach Zarathustra〟が600円,〝DIE GEBURT DER TRAGöDIE AUS DEM GEISTE DER MUSIK〟が300円だった。昭和48年の話し。
その頃,ニーチェの全集は理想社から出ていて,買いたいなあと思って,在庫を電話して確認したりしたことを思い出します。多分全冊揃ってなかったのか,結局買わなかった。ずっと後になって,これは,ちくま文庫に収録された。
そのうち,白水社から,3期に分けて本格的な全集が出ることになったので,求めることにした。そして,いつしか月日が流れ,そのころのことが記憶の彼方に去り,今,隣に並んであるこの全集を見ても,Ⅱ期で終わっている。Ⅲ期はどうなったのかしら,と思って,終わりの頃の月報を探しても,白水社のホームページを見ても何も書いていない。それに,古書ネットで捜しても,Ⅲ期のものはない。
Ⅱ期の別巻が「ニーチェ研究譜」となっているので,終わったのでしょうね,きっと。
岩波文庫は,氷上英廣訳で「ツァラトゥストラはこう言った」が上下2巻。・・・下巻が手元にないぞ。亡くしたのか,もともと買ってないのか,わからなくなった。上のはうは,いろんなところへ持っていったので,かなり痛んでいる。本はすべて墓場まで持っていけないので,せめてこの岩波文庫を棺桶にいれてもらうようにしたいと思っているので,やはり,下も捜しておかなければ。(その後購入しました。安心して死ねます。)
秋山英夫訳「悲劇の誕生」。こちらもよい訳だと思う。木場深定訳で「道徳の系譜」と「善悪の彼岸」。手塚さんの訳で「この人を見よ」。以上が岩波文庫。
その他,西尾幹二訳さんの訳で「アンチクリスト」(潮文庫)。この書の成り立ちについては,白水社版のニーチェ全集に収録されたときに,西尾さん自身によって明らかにされた。何と,世界の名著に入れる予定だったのが途中で中止となったということである。
阿倍六郎訳「人間的な,あまりに人間的な」(新潮文庫)。このあたりが,乏しい小遣いで買うことのできたもの。
コナン・ドイル
有名なシャーロック・ホームズ物語は短編・長編ともに新潮文庫ですべて読みました。全編に貫く論理レトリックに魅了されない人はあまりいないでしょう。すべてを忘れて読み耽けることができたということは、しあわせな時間をもっていたということでしょうか。
アーネスト・ヘミングウェイ
高校時代にカミュとあわせてスタインベックを出たばかりの大部な新潮世界文学で読んでいたのに、ヘミングウェイは読んだことがなかった。読み始めたのは、ペンギンブックの「老人と海」を買った浪人時代よりあとではないかと思う。その後、短篇集や「武器よさらば」などをやはりペンギンで買って読んだ。特に、「武器よさらば」の冒頭の原文には感心した。
聖書
聖書は,世界の名著12にあり,旧約聖書も新訳聖書もほどよく選択され,丁寧に訳されていて読みやすい。聖書には,実にいろいろなものが含まれている。神話,歴史,伝承,民族学,信仰(当たり前だが),語源,オカルト・・・と,まさに豊饒である。
筑摩書房の文学全集にある「聖書」は文語訳の旧約聖書,新約聖書を,それぞれ関根正雄氏,木下順治氏が編集したものである。
旧約はユダヤ教の教典だから,ヘブライ語で書かれている。新訳は不思議なことにギリシア語で書かれている。コイネーという方言だと思っていたら,高津春繁著「比較言語学入門」(岩波文庫)のp.50に
「西紀前四世紀後半アッティカ方言にイオーニア方言の要素が加わり,アッティカ方言にのみ特有な形を除いたものに種々の方言に共通な要素を加味した一つの共通語コイネー(Κοινη)なるものが生じて,これがマケドニア帝国の勃興とともにその広大な版図に広がり,ヘレニズム時代に東地中海の一種の共通語として行われるに至った。原始キリスト教会の用語はコイネーにほかならない」
とあって,単純ではない。これでは,方言どころか標準語ではないかと思ってしまう。込み入ってきたので,古典ギリシア語と,新訳聖書のギリシア語は少し違うようだと,書いておきましょう。
ヘブライ語の参考書は,池田潤著「ヘブライ文字の第一歩」(国際語学社)というのを,1冊だけ持っているのですが,全く進歩しません。文章は読めなくてもいいから,文字だけは,60歳になるまでに読めるようになりたいものだと思っております。この本の15ページにアルファについて説明があります。フェニキア語の牛(アルファ)の頭文字から来ている。祖シナイ文字のアルファは牛の頭の絵です。それを右回りに90°回転されると。フェニキア文字になり,さらに90°回転させるとAになるというものです。ギリシア文字のアルファは牛なのです。
Albert Einstein
20世紀の物理学に大きな影響を与えた,特殊相対性理論,光電効果,ブラウン運動についてのEinsteinの論文は1905年に発表され,2005年がちょうどそれから100年ということで,昨年は様々な催しが開かれ,また多くの本が出版されたことと思うが,そういう流行とは距離をとる小生としては本を買わなければ読みもしないが,そろそろその騒ぎ(というほどでもないか)も収まったようなので,昔買った本などを取りだして,整理してみよう。
手に入りやすいものとしては,岩波文庫。内山龍雄訳・解説「アインシュタイン 相対性理論」。1905年の特殊相対性理論の原論文の翻訳と詳細な解説。
次が,矢野健太郎「アインシュタイン」(講談社学術文庫)。矢野健の解法のテクニックというのはある年代の方には懐かしい記憶があることと思うが,その矢野健さんの本だから一読の価値はあろうというものです。これは講談社からかつて出版された人類の知的遺産シリーズの1冊です。このシリーズは伝記,解説,著作の一部が入っているというなかなか便利なシリーズだったが,哲学者の多くの作品は一部しか収録されてないし,他に全訳が出版されているというような事情があったせいだと思うが,多く出回らなかったようで,現在ではなかなか手に入りにくいようです。しかし,そのせいか,そのうちのいくつかが学術文庫に入っていて,求めることが可能です。 原論文の翻訳も8編入っているので,いいと思います。
以上2著が出る前の,若い頃買ったのが,東海大学出版会から出ている物理学古典論文叢書の4「相対論」。これにはプランクやミンコフスキーの論文の翻訳も入っているので,一読の価値有り。他の巻にも有り。
さらに,本格的なものであれば,共立出版から出ている,湯川秀樹監修「アインシュタイン選集」(全3巻)が解説も詳しくていいでしょう。
原論文がweb上にあるのではないかと,調べてみたら,アインシュタインの主な仕事が発表されたAnnalen der Physicという学術雑誌が,昨年増刊号を出し,再掲載しております。Historic Paper として載っているEinsteinの原著論文はpdfで閲覧可能ですので,興味のある方はどうぞ。
これは概論で,入門書ですが,アインシュタイン,インフェルト著,石原純訳「物理学はいかに創られたか」(岩波新書,上下)。これは歴史的には古く,岩波新書の50,51という番号がついております。旧赤版で,一番最初のデザインの赤版です。翻訳の初版が1939年です。そして今でも,勿論改版され赤いきれいなカバーがかけられて店頭にありますからたいしたものです。
アインシュタイン著,中村誠太郎,南部陽一郎,市井三郎訳「晩年に想う」(講談社文庫)。これは“Out of My Later Years”という論文・評論・講演集の翻訳である。記事解題として目次に対応して,各文の初出があきらかされてあるので,上述の学術文庫と併せて読むとよい。なお,本書は日本評論社より刊行されていたのものの文庫版である。
アインシュタイン関係の参考書,すなわちアインシュタインの著作でないものもたくさんあります。
矢野健太郎「アインシュタイの不思議な世界」(日本放送出版協会)の105頁には,プラハ(プラーグ)のドイツ大学で,幾何学者のゲオルグ・ピック教授と知り合いになり,ここで一般相対性理論に必要な数学の知識を得る準備ができたことが書かれております。