2021年11月2日火曜日

BIBLIOTHECA

 源氏坂

  源氏物語は,私にとっては挫折の歴史である。岩波文庫や谷崎訳の中公文庫,與謝野晶子訳の角川文庫と多方面から登攀を試みたが,いずれも撤退である。ならば粗筋をと,岩波新書の「源氏物語」に目を転じても,進捗の気配は感じられなかった。さらに円地文子訳というのが新潮文庫で出たので,これにもと食指を動かした。こちらは,今まで以上に進んだと思われたが,やはり複雑な人間関係の網の中で溺れてしまった。

  あれやこれやとしているうちに,やっと何とか感じが掴めたのは,村山リウさんの三巻本の「源氏物語」あたりからだろうか。そうこうしているうちに,新日本古典文学大系が出始めた。巻ごとに,系図と粗筋がついているのが,多いに役立った。

   そしてやっと出会ったのが,舟橋聖一さんの現代語訳である。これは,平凡社 世界名作全集という文学全集の37巻と38巻に入っているものである。上巻が昭和35年,下巻が昭和36年の出版である。これより後,舟橋さんは月刊太陽にやはり源氏の現代語訳を連載されていたが,これとの関係は知らない。この本は文庫サイズではあるが厚みは相当ある布装のしっかりした本である。しかし,下巻は「幻」の巻で終わっている。

 そこで,次は與謝野晶子「全訳 源氏物語」である。これは角川文庫では上中下の3巻がある。これの下巻が,舟橋さんにない,「匂宮」から入っている。與謝野晶子訳は河出の文学全集の中にもあって,このうちのどの版かが,かつて草加次郎という名前の爆発魔によって時限爆弾に利用されたことを覚えている人は少ないと思う。河出の文学全集は,某古書店で安く出ていたが,角川文庫があるのでいいかと,買わなかったが,今思うと買っておけばよかったと思う。なお,WEB上にも與謝野訳があります。入力された方,ご苦労様でした。

 三島さんの「春の雪」は作者自ら「浜松中納言物語」を典拠としたと記してあるから,その通りなのであろうが,源氏との類似も指摘されている。清顕の美男ぶりは「桐壺」を読めばよくわかる。聡子が尼になるところは,浮舟の末路を思い起こせばいいだろう。三島さんの源氏理解は一流で,今年(2004年)出た「決定版 三島由紀夫全集」41巻は「音声」ということで7枚のCDが入っているが,その中の徳大寺公英さんとの対談で,戦後学習院大学の教授になられた松尾聡さんが,自分よりうまく解釈する三島のいるクラスで源氏の授業をするのを厭がったというようなことを,徳大寺さんが語っておられる。

 

平家の夢

 平家は,吉川英治の「新・平家物語」からはじめたい。講談社の豪華な吉川英治全集というのは,ものが溢れている現在では邪魔ものなのか,先日某スーパーのリサイクルコーナーに1冊100円で大量に出ていた。残念ながら「新・平家物語」はなかったが,短編があったので少し買ってきた。その「新・平家物語」は,章ごとにタイトルがついていて「貧乏草」から始まる。例の清盛落胤説が登場したりして情感たっぷりに描かれる。

 窓の外にみかん畑が見えている高校の図書館で読みはじめたのは,はるか昔のことである。私と吉川英治とは,よほど縁がないらしく,未だに「新・平家物語」は終わっていない。「宮本武蔵」「新三国志」も終わっていない。それなりにおもしろいのに,どういうわけか,最後までいかないのである。さて,肝心の平家のほうは,話しばかりが伝わって清盛義経の話くらいに思ってほっておいたのか,あまり苦労していない。それでも,岩波新書の「平家物語」や小林秀雄さんに刺激されて,やはり本文にあたっておこう思ったときに折良く,新日本古典文学大系本が届いたので,はじめから読むことにした。古い大系本も捨てがたかったが,結局最後まで新しいほうで通すことにした。

 当たり前の話しだが,平家は西日本を主な舞台とする。少し,平家物語ゆかりの地を紹介する。

 テキストはヴァージニ大学から参照できる。

平家物語の旅  敷名の千年藤(巻四 還御)  広島県福山市沼隈町常石

 厳島詣でからご帰還中の高倉上皇にまつわる話しで,この故事以来,この岬に生えていた藤を「千年藤」と呼ぶようになり,地元の人々は代を重ねながら,大切に育ててきた,と「沼隈町誌 民俗編」の646頁にある。

 この地に行くには,沼隈町千年から内海町方面へ向かえばよい。内海町は沼隈半島から内海大橋を渡って行くが,その橋の手前の喫茶店(右手)の駐車場に石碑がある。このあたりが,備後國敷名。

夜半許に浪も靜に風も靜まりければ、御船漕ぎ出し、其日は備後國敷名の泊に著せ給ふ。此所は去ぬる應保の比ほひ、一院御幸の時、國司藤原爲成が造たる御所の有けるを、入道相國御設にしつらはれたりしかども、上皇其へは上らせ給はず。今日は卯月一日衣更と云ふ事のあるぞかしとて、各都の方をおもひやり遊び給ふに、岸に色深き藤の松に咲懸りたりけるを、上皇叡覽有て、隆季の大納言を召て、「あの花折に遣せ。」と仰せければ、左史生中原康定が橋船に乘て、御前を漕通りけるを召て折に遣す。藤の花を手折り、松の枝に附ながら、持て參りたり。心ばせありなど仰られて、御感有けり。「此花にて歌あるべし。」と仰ければ、隆季の大納言、千年へん君がよはひに藤なみの、松の枝にもかゝりぬる哉。(巻四 還御)

 

平家物語の旅  藤戸(巻十 藤戸)・・・・・岡山県倉敷市藤戸

 藤戸の合戦地は,今では陸続きになっているが,島だった。島に陣取る平家を奇襲しようと,近くの漁師に浅瀬の位置を尋ねた盛綱は,作戦が漏れるので殺してしまうという,ギリシア悲劇のような話しが伝わる。これが謡曲「藤戸」の元になった話しである。藤戸は倉敷市の南である。近くの人は是非訪ねて,盛綱橋,藤戸寺などに行ってみよう。そして名物,藤戸饅頭を食べて,気に入ったらおみやげに買って帰ろう。藤戸饅頭本舗は,かつては藤戸寺の傍にあったが,少し離れたところに新しい(といってもかなり経つが)店舗がある。

源平の陣の交ひ、海の面五町計を隔たり。舟無くしては輙う渡すべき樣無かりければ、源氏の大勢向の山に宿していたづらに日數を送る。平家の方よりはやりをの若者共小舟に乘て漕ぎいださせ、扇を上て、「こゝ渡せ。」とぞ招きける。源氏「安からぬ事也。如何せん。」と云ふ處に、同廿五日の夜に入て佐々木三郎盛綱浦の男を一人語て、白い小袖、大口、白鞘卷など取せ、すかしおほせて、「此海に馬にて渡しぬべき所やある。」と問ひければ、男申けるは、「浦の者共多う候へども、案内知たるは稀に候。此男こそよく存知して候へ。譬へば川の瀬の樣なる所の候が、月頭には東に候、月尻には西に候。兩方の瀬の交、海の面、十町計は候らん。此瀬は御馬にては、輙う渡させ給ふべし。」と申ければ、佐々木斜ならず悦で我が家子郎等にも知せず、彼男と只二人紛れ出て、裸になり、件の瀬の樣なる所を渡て見るに、げにも痛く深うはなかりけり。ひざ腰肩にたつ所も有り、鬢の濡る所も有り。深き所は游いで、淺き所に游ぎつく。男申けるは、「是より南は、北より遙に淺う候。敵矢先を汰へて、待ところに、裸にては叶はせ給ふまじ。是より歸らせ給へ。」と申ければ、佐々木「げにも。」とて歸りけるが、「下臈は、どこともなき者なれば、又人に語はれて、案内をも教へむずらん、我計こそ知らめ。」と思ひて、彼男を刺殺し、首掻切て棄てけり。(巻十 藤戸)

平家物語の旅  義経上陸の地(巻十一 逆櫓)  徳島県小松島市立江町 源義経上陸の地碑   遠景

判官宣ひけるは、「各の船に篝な燃そ。義經が船を本船として、艫舳の篝を守れや。火數多く見えば、敵も恐れて用心してんず。」とて終夜走る程に、三日に渡る所を、唯三時計に渡りけり。二月十六日の丑刻に、渡邊福島を出て、明る卯の時に、阿波の地へこそ吹著たれ。(巻十一 逆櫓)

この阿波の地が小松島市立江町だ。上陸の地の石碑のあるところからは海などは見えない,内陸部だが,あたりは,ミニ運河のような水路を水が静に佇み,その地が埋め立て地であることがわかるから,かつては,このあたりまで海岸線が延びていたのだろうと想像できる。ここへ行くには,四国霊場第十九番立江寺を目指して行けばよい。

平家物語の旅  屋島  香川県高松市屋島東町

 扇の的で有名な,屋島の合戦の古戦場。今も観光地として賑わっている。といっても島ではない。四国香川県に陸続きである。ケーブルカーもあるが,山頂駅から歩くと,かなりの距離がある。車,タクシー,バスでドライブウエイを登ると早い。駐車場のすぐ前が四国霊場第八十四番屋島寺。

平家物語の旅         下関

 下関の赤間神宮はもちろん後世の建立になるものだろうから、その建物を愛でても仕方がない。しかし、この地に立つと平家の哀歌も極まれりという思いがするのは、私だけではあるまい。目の前を流れる海峡の潮の速さは、今も往時も変わるものではあるまい。その海の藻屑と化した兵者どもの姿もあわれなれば、入水するも引き上げられる者もまた哀れであった。海戦の舞台かあるいは船泊まりであった彦島や早鞆の瀬戸というのは下関駅の裏手に、今では小さな小川のような海を隔ててつながる島のあたりのことだろうか。河豚の水揚げで有名な市場もその先にある。

 赤間神宮から出て、安徳天皇陵の垣根の下を西へ向かうと、日清講和会議の会場となった春帆楼( しゅんぱんろう)がある。これも往時の面影はなく写真でみるほかはない。なお、日露講和会議はポーツマスでおこなわれたことは、吉村昭さんの「ポーツマスの旗」に書かれている。

平家物語の旅         京都(寂光院、六波羅蜜寺)

 

 

 

   

万葉の歌's

 万葉集は,岩波文庫と教養文庫の「万葉の旅 上・中・下」(犬養孝著)である。これがテキストであった。それは国文学(4単位)で,大学に入った年で,担当は「神皇正統記」の校訂などをされた岩佐正先生だった。定年退職を前にした最後の年の講義だと,先生自ら話されていた。講義ででてきた歌には歌番号に印をつけてあり,卒業後一番よく開いたのが岩波文庫のほうだった。

 大系本は古いほうで,新しいほうは,最近のものでもあるし,あまり見てないが,新大系本は,索引がしっかりしているので,最近では,こちらも何かと便利である。

 岩波新書にある斎藤茂吉の「万葉秀歌」や土屋文明の「万葉名歌」(教養文庫)も併せて読んだ。島木赤彦の「万葉集の鑑賞及び其の批評」(講談社学術文庫)とか梅原さんの一連の作品は,学術文庫や集英社の著作集が発刊されたのは,ずっと後だから,それ以降のことになる。茂吉の「万葉秀歌」を取り出して読んでみると、茂吉の鑑賞力に驚く。さすがに、実作者で博学な研究家の面目躍如たるところが横溢している。

 さて,今ならWeb 上にもテキストは溢れていることと思われるが,ヴァージニ大学の頁を紹介しておく。 http://etext.lib.virginia.edu/japanese/manyoshu/AnoMany.html

左側の検索窓に歌番号を,次のあかねさすの歌だったら,20というように入れて,Submit検索 ボタンを押せばよい。

 長くなったが,古代人の世界に入っていくには一足飛びに行くよりはいろいろ回り道をしながら,足慣らしをして入るのがいいと思う。まあ,現代風に解釈したい人はそれはそれでいいのだが,やはり万葉は昔の作品である。例えば,額田王の

あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る

 (あかねさす むらさきのゆき しめのゆき のもりはみずや きみがそでふる)(2-20)

 と 大海人皇子の

紫のにほへる妹を憎くあらば人妻故に我れ恋ひめやも

 (むらさきの にほへるいもを にくくあらば ひとづまゆゑに われこひめやも)(2-21)

 というのを,現代の不倫小説,例えば渡辺淳一さんの「愛の流刑地」などを読むような感覚で,人妻故に我れ恋ひめやも と思っていたらちょっとおかしいと思う。このとき,額田王は天智天皇の人妻なのだが,それ以前に大海人皇子との間に十市皇女があるという関係だから,この人たちの関係というのは,松本清張さんの説を持ち出すまでもなく,現代の感覚からは少し離れたところがある。だから,この歌は一種の言葉遊びのようなもので,相聞風に洒落ている,というようにとっておくのが無難だと思う。

東の野にかぎろひの立つ見えてかへり見すれば月かたぶきぬ

 (ひむがしの のにかぎろひの たつみえて かへりみすれば つきかたぶきぬ)(1-48)

というのは,人麻呂の有名な歌だが,芭蕉の 菜の花や月は東に日は西に の句の影響か,単純な叙景歌のように思いがちである。いかがなものであろうか。早朝の寒い時間になぜ人麻呂は起きているのか。トイレにでも立ったのだろうか。東のほうを見れば,今まさに冬の日が昇ろうとしている。うすい朱色の空に,空気がゆらめいて見える。月はどちらにあるのかと,眺めれば,まもなく沈んでいく下弦の月が西に山の上にある,という感じだろうか。ただそれだけで歌をつくるというのは何かと暇で,タネを探している現代人の感覚で,文房具も十分になかった時代に敢えて作歌するのだから,もっと深い思いを読みとらねばならない。東と西のわが想う人はもう起きているのだろうか,「小樽は寒かろ 東京も・・」という感じではないか,と思う。

 (付録)万葉紀行・・・鞆の浦

  備後,鞆である。現在は広島県福山市。広島県東部の沼隈(ぬまくま)半島先端の,潮待ち港の街。関門海峡と鳴門海峡から入ってきた潮が,このあたりでぶつかるのだそうである。(実際にぶつかるところを見たことはありません)

 それは,ともかく,ここは旅人のむろの木の歌で有名なところで,「むろの木」というお菓子(饅頭?)もありますから,万葉愛好家は,是非おみやげにどうぞ。

我妹子が見し鞆の浦のむろの木は常世にあれど見し人ぞなき(わぎもこが,みしとものうらの,むろのきは,とこよにあれど,みしひとぞなき)(3-446)

鞆の浦の礒のむろの木見むごとに相見し妹は忘らえめやも(とものうらの,いそのむろのき,みむごとに,あひみしいもは,わすらえめやも)(3-447)

礒の上に根延ふむろの木見し人をいづらと問はば語り告げむか(いそのうへに,ねばふむろのき,みしひとを,いづらととはば,かたりつげむか)(3-448)

また,巻七にも,鞆の歌があります。

海人小舟帆かも張れると見るまでに鞆の浦廻に波立てり見ゆ(あまをぶね,ほかもはれると,みるまでに,とものうらみに,なみたてりみゆ)(7-1182)

ま幸くてまたかへり見む大夫の手に巻き持てる鞆の浦廻を(まさきくて,またかへりみむ,ますらをの,てにまきもてる,とものうらみを)(3-1183)

七卿都落ち縁の太田家住宅は保命酒発祥の地でもあります。保命酒の職人さんが作ったのが養命酒ですから,その元祖のようなものでしょう。かのペリー提督への供応でも出されたいう話しです。ここの港から南を見ると,素晴らしい構図になっていることがわかります。「鞆の浦」という感じですね。そのうちここに橋がかかるかもしれませんから,早めに一度目に(あるいはカメラに)入れておかれたらよいかもしれませんね。

 仙酔島渡船の桟橋近く,対潮楼の異名をもつお寺の下に,文学碑があります。対潮楼からの眺望も絶景ですので,時間があれば,是非拝観してみてください。

 

 岡山県・牛窓(うしまど) 

 ついこの前まで,邑久(おく)郡牛窓町だったが,瀬戸内市になった。JR赤穂線の邑久駅から,南へ車で20分ほどで着く。古来,潮待ちの港として,東の室津,西の鞆とともに有名なところだ。 

牛窓の波の潮騒島響み寄そりし君は逢はずかもあらむ(,うしまどの,なみのしほさゐ,しまとよみ,よそりしきみは,あはずかもあらむ)(11-2731)

 風土記逸文に「名づけて牛轉(うしまろび)と日(い)ひき。今,牛窓と云ふは訛(よこなま)れるなり。」とある。(岩波 古典文學大系2 p.488)

 美しい海がある。断崖に建つペンションも素晴らしい。そこからの眺めも素晴らしい。オリーブ園からの眺望もよい。東のほうには,映画「砂の器」のラストに出てくる,長島愛生園のある,長島が見える。(映画とはアングルが違うが)。手前の海が錦海湾。埋め立てられて,塩田跡には化学会社がある。

 

竹取物語

 これはSFと神仙思想が混ざったようなもので,ユニークで貴重な一冊です。短いし,まだ読まれてない方はぜひ,全文を読んでいただきたい。岩波文庫が何かにつけ,よい。人間性に深みがないなどというのは,近代病に取り憑かれた人のいうことで気にしなくてよろしい。竹取はプリミチチブで素朴なのがいいところですから,それをじっくりと味わえばいいのです。

伊勢物語

 昔,歌謡映画というのがあった。ヒットした歌謡曲の歌詞に併せて映画が作られる。歌った歌手も出演して,それらしきところで,その歌謡曲が流れる,という何とも不思議な世界である。それと似たようなものだと,思えばいい。短歌がある。詞書きが添えられているものもある。ないものもある。後の人が詞書きを勝手につくって,少し長くなって,ショートショートになった。星新一の作品のように,うまく決まっているものもいくらかある。そういうのを読むと,芸術には暇と余裕が必要なことがよくわかる。そこに優雅なものが感じられるのは,作者の教養のしからしむところか。

 岩波文庫も手軽でよいが,新潮日本古典集成も読みやすい。ということで,古典文学大系本は新旧にあるも,あまり見てないないようだ。

枕草子

 嫌な女だ。でも,その感性と写実の技は凄い。まさに神業。 春はあけぼの,やうようしろくなり行く,山ぎはすこしあかりて,むらさきだちたる雲の・・・   紫だちたる雲を見る清少納言は高血圧だったのか,と私は思います。ならば,高血圧だったらこういう文が書けるのかというとそうでもないでしょう。やはりたゆまぬ精進が背景にあるようです。

 実は枕草子のテキストはどれも,しっくりいきません。しいていえば,日本古典文学大系本と岩波文庫本(同じですから)くらいでしょうか。新日本古典文学大系のほうは読みにくい。新潮日本古典集成は漢字とひらがなのバランスは良いが,句読点が多すぎる。分かち書きは,おもしろいしいいが,朱色の傍注が,こういう詩的な作品には合わない。ということで,下のほうは書棚にない。そのうち気が向けば,下も買うかもしれなが,読むかどうか。

 鬼才・橋本治さんの「桃尻語訳 枕草子」というのがあって,これはよかった。・・なーんちゃってとか,ウッソーとか,あって,うふふはあったかどうか忘れたが,清少納言は今風にいえば跳んでる女だから,ぴったりくるんですね。案外正解だったりして。これは図書館本で済ませて,いまだにない。買っておけばよかったなあ。そのうち買いたいものだ。河出の文学全集には,田中澄江さんの現代語訳があって,こちらもまずは満足。

弘法大師空海

 空海は平安仏教の輝ける星だから,大抵の文学史では無視されているが,このあたりの位置でいかかだろうか。さて,司馬遼太郎さんによると,空海はこの頃の流行のバイリンガルのはしりのような人であったらしい。まあ,それはいいとしても,空海のまわりには不思議なことばかりである。天才だといってしまえば,それだけだが,確かに天才であるには違いないが,天才を越えたそれ以上のものが,空海にはあるように思われる。

 空海の著作は手っ取り早いところでで,日本古典文学大系の71巻に「三教指帰 性霊集」が入っている。中央公論社の日本の名著に「最澄 空海」がある。空海の部分だけが,中公クラッシックス「空海 三教指帰」としても出ている。福永光司氏の現代語訳で「三教指帰」と「文教秘府論 序」というのがある。それに漢文の原文と注。古典文学大系のほうは,読み下し文と原文が並んでいるので,好都合。

 岩波の日本思想大系5「空海」には,空海の主著ともいうべき「秘密曼茶羅十住心論」がある。読み下し文で,原文は巻末である。

 空海が開いた霊場高野山は既に熊野古道などともに世界遺産に登録されている。高野山も素晴らしいが,空海ゆかり四国八十八寺も歴史的価値がある。こちらも世界遺産登録運動がなされているようだが,実現すると,改めて空海の偉大さがわかろうというものである。ノーベル賞を2つ受賞するようなものだ。 

 空海の解説本では,まず司馬さんの「空海の風景」(中公文庫など)がよい。それから,渡辺照宏・宮坂宥勝「沙門空海」(ちくま学芸文庫),宮坂宥勝「空海」(ちくま学芸文庫)が読みやすい。

 

徒然草

 気楽に書かれたエッセーなどだと思ったら大間違いだ。小林秀雄さん流に言うと,徒然草のあの有名な冒頭が後世の読者を誤らせた,ということになろうか。つれづれなるままに,・・・そこはかとなく書きつくれば,というのは当時常套の謙遜表現であるということはしっかり頭に入れておきたい。よく錬られた兼好の芸術作品をこそ味わいたいものである。もし1冊の本を持っていくならば,と尋ねられたとき,無人島へ行くのなら,本などもっていかないが,日本沈没から避難する船にならば,岩波文庫の「徒然草」を一冊ポケットに忍ばせるのが,軽くていいと思う。もし残れば,さまよえる日本人の旧約聖書の代用ぐらいにはなると思う。そして,そのときは時々声に出して読み,海中に没した大和の国を偲ぶよすがにしよう。

西行

 西行は日本古典文學大系の29巻に「山家集 金槐和歌集」としてあり,新日本古典文学大系では46巻の「中世和歌集」の中に「山家心中集」がある。

 桜と旅の歌人西行は,出家する前は佐藤義清(のりきよ)といって,鳥羽上皇の北面の武士だったというから,今で言えば,宮内庁の役人か。あるいは,バッキンガム宮殿の衛兵やバチカン市国の入り口に立つ衛兵を想像すると,少しずれてくるかもしれない。どちらにしてもまあいいが,佐藤義清はその,国家公務員の職を擲って,保元6年10月15日に(旧暦だから,満月の日か),23歳の若さで出家した。その時の気持ちは,「砂の器」の主人公がどのようなルートを通って山陰・亀嵩に辿り着いたのか主人公父子しか知らないように,誰にもわからない。以来,夥しい西行伝説が生まれ,その流れは留まるところを知らない。最近では,辻邦生さんの「西行家伝」などという,畢竟の大作もあるが,それらはひとまず置くとして,吉川英治さんの,(まだ,終わりまで読んでいない)「新・平家物語」にも出てきたということを,取りあえず書いておこう。

 ねがはくは 花の下にて 春死なむ そのきさらぎの もち月のころ 

というさりげない歌にも,西行の美的センスの良さが伺える。まさに春宵一刻値千金のことであろう。そして西行は,建久2年2月16日に亡くなったから,願いはほぼ満たされた。「今年も桜 咲きますか なのに淋しい なぜか淋しい」(早坂暁作詞,夢千代日記)望月の頃である。

   西行という人はディスカバージャパンの走りのような人であるから,全国至る所に足跡を残したらしい。(それを真似たのが芭蕉であるのは言うまでもない。)まずは,雨月物語で有名な白峰に崇徳上皇御陵参拝の旅から。怨霊史観というのを信じる人はあまりいないが,わかりやすい説である。例えば,平家が滅びたのは,崇徳上皇の怨霊,明治維新で徳川家が負けたのは安政の大獄で憤死した勤王の志士の怨霊,太平洋戦争の敗北はいうまでもなく,226事件で銃殺された兵士の怨霊という具合。

 その怨霊の中でも最も怖いのが崇徳上皇の怨霊であるというわけ。西行にとっては,かつての主人筋,血で大乗経を写経して死して怨霊とならんとした上皇の霊を慰めるのに西行ほどうってつけの人はいない。これが有名な西行の四国行きである。仁安2年の事という。西行はまず瀬戸の児島にわたる。今は,児島半島,倉敷市児島に名を留める岡山の南端,瀬戸大橋の本土側架橋地は,かつては備前の国児嶋と呼ばれた島だった。その児嶋,日比・渋川の海岸から渡船した。今の玉野市である。渋川海水浴場の隣に西行の銅像があるので,近くへ行かれた方は是非見てきていただきたい。

道元禅師

 我が宗祖道元禅師,すなわち道元さんである。道元と言えば,川端康成さんのノーベル賞講演を思い出す人も多いことと思う。川端さんの作品は,「眠れる美女」や「雪国」をはじめとして,退廃的で,あまり好きではない。「伊豆の踊子」だって,何回か映画化されて,その一つに吉永小百合さんなどが出て,青春小説のようなイメージがあるが,考えようによっては,随分退廃的な小説だ。それはさておき,川端さんのえらいところは,道元や明恵上人(だったか,もう忘れたが)の自然観が日本文学の伝統の中に脈々と流れ続けているということを自覚されているということである。

 その永平寺道元禅師の著作は,日本古典文学大系の81巻に「正法眼蔵 正法眼蔵随聞紀」としてあり,若い頃から求めているのだが,とらえどころがなくて長い間うっちゃっておいた。要するに難しくてわからないのだ。ところが最近になって,といってももう10年も前の話しだが,ちくま学芸文庫から,水野弥穂子さんの現代語訳なる「正法眼蔵随聞記」が出た。この本は,読み下し文の原文,注,現代語訳と交互に配置され,大変読みやすい。また,同じ頃,フランス文学者で詩人の栗田勇さんの「道元の読み方」(詳伝社)を入手したので,少し読んでみることにした。

 しかし,何も私如きが道元禅師の入門書をくどくどと紹介しなくても,古書ネットやアマゾンの検索をかければ,いくらでもでてくるので,このへんでやめておきたい。本文に当たっていただきたい,などと常套句を一応書いておくが,やはり道元禅師の思想は西洋の翻訳哲学書を読むよりも,難しい。

芭蕉

 芭蕉はそんなに好きではないが,短いのとわかりやすいので,結構買った。岩波文庫の「芭蕉紀行文集」は異本なども収めていて,便利である。有名な 「山路来て 何やらゆかし すみれ草」 の句は,「野ざらし紀行」(p.22)の中にある。

  さて,芭蕉の不易流行論について述べよう。不易と流行というのは古い話しで恐縮だが20年ほど前に教育臨調というのがあって,そのとき使われて,私如きものも知るようになった言葉である。要するに教育改革を進めて行くには,いつの時代にも変わらぬ,不変なるもの(まあ,読み書きそろばん,のようなものと言っておこうか)と,時代に応じて変化適応させないといけないものがある(例えば,コンピュータ教育とか,環境教育とか,国際理解とか)というものだった。

これが不易と流行である。こういう二元論は小生が如き単純な頭には実によくわかる。ということで,日々の生き方においても,テレビや新聞で流れるように押し寄せてくる情報を流行として,他方,不易なるものを求めて黴香に噎せながら,紙魚と競争をしている日々だが,どちらかというと後者(不易)に力点をおいているのは,いうまでもない。

 その不易流行という二元論は芭蕉に発するというので,その元を辿ろうというのが,今回の目的である。服部土芳の「三冊子」(さんぞうし,と読むらしい)に出てくるというので,探したところ。日本古典文学大系の66巻に「連歌論集 俳論集」というのがある。「三冊子」は「白雙紙」「赤雙紙」「わすれみづ(くろさうし)」から成っていて二番目の「赤雙紙」の冒頭に出てくる。

「師の風雅に萬代不易あり。一時の変化有り。」と。その後「変化にうつらざれば風あらたまらず」とか「せめず心をこらさざる者,誠の変化をしるといふ事なし」

とある。不易なるものにしがみついていてはいけない。変化に挑戦してはじめて不易に匹敵する変化を為すことができるという,まことに革新的で進歩的な態度が芭蕉の不易流行論ということになる。古典主義をロマン主義で止揚するようなものか。

西鶴

 「好色一代男」は故・吉行淳之介氏の見事な現代語訳があって楽しく読める。「好色一代女」のほうは,新潮日本古典集成本が第三回の配本で,こちらを読んだ。これはいい本で,傍注も図版もよい。とはいえ,西鶴の才覚は短編にある。「日本永代蔵」「世間胸算用」の描写の迫力は凄い。

 西鶴プロダクション説というのがあった。西鶴が書いたのは「好色一代男」とわずかの作品で,あとは別人の作だといういう説である。残念ながら,私には一つ一つの作品の文体からこれは別人の作だというようなことを判定する能力は持ち合わせていない。もう50年生きようが,100年生きようが,私にはできない。だから,通説通り,西鶴は一人でよいのだ,というのが私の基本的な立場。

近松

 芭蕉,西鶴とくれば,この人を落とすわけにいかない。しかし,巣林子は苦手である。天才の作品はは凡人の生半可な接近を拒むものらしい。ギリシア悲劇が運命悲劇で,シェイクスピアは性格悲劇を主とするといわれるが,近松はどちらに属するのか。どちらでもない封建社会の桎梏の中でもがく主人公のぎりぎりの選択が観客の涙を誘う。義理人情などというからますますわからなくなる。小西甚一教授は世間でいう義理人情と近松の義理人情は違うといい,近松の義理にdramatic situation という英語を当てられる。

馬琴

 芭蕉,西鶴,近松が文学で,馬琴は文学でないような風潮はまことに嘆かわしい。しかし,岩波の新日本古典文学大系には87巻に「開巻驚奇侠客伝」,80巻に「曲亭伝奇花釵児」(きょくていでんきはなかんざし)が入っているし,旧大系本では「椿説弓張月」が上下二巻になって入っているから,決して専門家に冷遇されている訳ではないのかもしれない。八犬伝は岩波文庫本があるので買ってないが新潮日本古典集成の別巻にあるし,「近世説美少年録」は小学館から出ているので,取りあえずは退屈しない。

漱石

 漱石ほど長い間,日本人に多く読まれてきた作家は珍しい。しかし,その漱石にすら翳りがみられだしたのは寂しい。小学生から老人まで,男女を問わず楽しめて,なおかつ言葉と社会と人間の心理と我が儘と,日本の伝統を理解するのにテキストとして,漱石の作品に勝るものはない。著作権は既に切れ,各社から出版され,web上にも,百均ショップにも溢れている。また漱石論も夥しくある。そして漱石を置いてない図書館は図書館としての存在価値すらなかった。・・と,過去形になりつつある。

 「吾が輩は猫である」は,高等遊民の世界である。すなわち,反サラリーマン小説である。趣味人の廻りに集う閑人のエピソードを連ねたものであるが,明治以降の,いや日本史上と言ったほうがいいと思うが,第一級の人物である漱石夏目金之助のまわりに集う人たちだから,それ相応の知性と教養の持ち主だから,諧謔に満ちていてもレベルが下がる訳がない。しかし,この世界には労働がない,年上の者に気を使うということもない。極論すれば,読書好きの教師の閉ざされた世界である。よって,大学人や教師のメンタリティを養うのに大いに作用し愛好された。また,精神的にそれに連なる読書を愛する社会層によっても。そして,それはそれらの人たちによって鼓舞され次の世代に伝えられた。

 しかるに,大学では,会議と業績評価に追い回され,初等中等教育機関に於いても,これまた会議と,生徒指導と,報告書の作成に追われ,風変わりな黒猫の人間観察記楽しむ余裕は既に無い。