2021年11月2日火曜日

暑往秋収 ー近代の模索ー

 目次

本文1−50

  51-100

写真 はじめに あとがき 奥付


目次

01 因島戸長の墓(因島重井町善興寺)

02 常夜灯(因島中庄町寺迫)

03 明治橋(因島重井町新開)

04 百枚田跡(因島中庄町奥山)

05 力行之碑(因島中庄町大山)

06 大浜埼灯台(因島大浜町)

07 東浜波止建設寄附碑(因島重井町東浜)

08 備後ドック記念碑(因島三庄町町七区)

09 溝梁完成記念碑(因島土生町町荒神区)


10 ハワイ移民頌徳碑(因島中庄町大江)



11 藤井忠三墓(因島重井町善興寺)

12 柏原神社(因島重井町上坂)

13 ダバオ(因島重井町須越)

14 大出万吉翁頌徳碑(因島重井町重井幼稚園)

15 亀井文龍先生墓碑(因島三庄町六区)

16 村上萬之助先生顕彰碑(因島田熊町元田熊小学校跡)

17 久保田権四郎翁頌徳碑(因島大浜町斎島神社前)

18 久保田権四郎寄付碑(因島大浜町相川)

19 久保田権四郎寄付碑(因島重井町一本松)

20 久保田権四郎氏顕彰碑(因島中庄町浜床)


21 第三久保田橋(因島大浜町)

22 第一、二、四、久保田橋(因島大浜町)

23 埋立港湾道路建設記念碑(因島大浜町西浜)

24 久保田権四郎翁胸像(因島大浜町久保田記念公園)

25 大浜小学校建設寄付碑(因島大浜町久保田記念公園)

26 敬老会基金寄付碑(因島大浜町久保田記念公園)

27 神社寄付碑(因島大浜町斎島神社)

28 宮沖相川道路改修碑(因島重井町勘口)

29 山門建立之碑(因島大浜町見性寺)

30 久保田権四郎墓(因島大浜町見性寺)


31 大出家先祖碑(因島大浜町)

32 白滝山庫裏(因島重井町白滝山)

33 一番霊場改築寄付碑(因島大浜町霊山寺)

34 駒島大明神(因島大浜町押場)

35 倉谷新開竣工記念碑(因島大浜町一区)

36 倉谷神社(因島大浜町沢崎)

37 河野静夫翁顕彰碑(因島大浜町斎島神社)

38 黄幡神社(因島大浜町黄幡)

39 五島家先祖之碑(因島大浜町見性寺)

40 小田原大造頌徳碑(尾道市向東町古江浜)


41 因島船渠碑(尾道市因島土生町平木区)

42 升浜道路改修記念碑(尾道市因島中庄町浜床)

43 鼠屋新開道路改修記念碑(尾道市因島中庄町新開)

44 旅順戦勝記念埋立地碑(尾道市因島中庄町徳永)

45 入川橋寄付碑(尾道市因島中庄町徳永)

46 電燈寄付票碑(尾道市因島中庄町徳永)

47 奥古江油屋新開道路改修碑(尾道市因島中庄町新開)

48 警鐘台・敷地等寄付碑(尾道市因島中庄町新開)

49 ガソリンポンプ等寄付碑(尾道市因島重井町公民館)

50 光平線道路改修記念碑(尾道市因島中庄町)



51 中須賀峠道路改修記念碑(尾道市因島中庄町峠)

52 梶田上畑道路改修碑(尾道市因島中庄町水落)

53 聖歓喜天・大師堂土地等寄付碑(尾道市因島中庄町水落)

54 水落西久保道路修繕碑(尾道市因島中庄町水落)

55 青木道路改修碑(尾道市因島重井町青木)

56 大正橋青木新道寄付碑(尾道市因島重井町小林)

57 山田大池道路改修記念碑(尾道市因島重井町山田口)

58 脇田舟原道路改修記念碑(尾道市因島重井町川口)

59 舟原広道道路改修記念碑(尾道市因島重井町一本松)


60 吉備津彦命の祠(尾道市因島重井町一宮)


61 青木早嵐道路改修碑(尾道市因島重井町八幡神社)

62 高浜通谷道路改修碑(尾道市因島重井町長崎)

63 須越樋口道路改修碑(尾道市因島重井町公民館)

64 道路改修碑(尾道市因島三庄町二区)

65 千守道路記念碑(尾道市因島三庄町一区)

66 向山釜ノ浜道路改修碑(尾道市因島三庄町四区)

67 天神道路改修碑(尾道市因島中庄町天神)

68 道路改修碑(尾道市因島中庄町西浦)

69 御即位大典道路改修碑(尾道市因島中庄町西浦)


70 金蓮寺道路改修碑(尾道市因島中庄町寺迫)



71 平田道路改修記念碑(尾道市因島鏡浦町)

72 昭和橋住吉神社道路改修碑(尾道市因島外浦町三区)

73 西奥道路改修碑(尾道市因島外浦町二区)

74 外浦青年支部事業記念碑(尾道市因島外浦町住吉神社)

75 久保田鉄工寄付碑(尾道市因島外浦町)

76 権現道改修碑(尾道市因島三庄町二区)

77 弘法大師像(尾道市因島土生町荒神区)

78 弘法大師像(尾道市因島土生町赤松奥)

79 八坂寺磨崖仏(尾道市因島土生町宇和部)

80 馬頭観音像(尾道市因島土生町郷区焼家谷)



81 常夜燈(尾道市因島三庄町浜上)

82 常夜燈(尾道市因島重井町伊浜)

83 住吉神社(尾道市因島重井町宮沖新開)

84 長沢大将軍道路修繕記念碑(尾道市因島田熊町大将軍)

85 三角寺奥の院(尾道市因島田熊町青影山中腹)

86 彩色磨崖仏(尾道市因島田熊町青影山中腹)

87 水掛地蔵尊(尾道市因島田熊町青影山中腹)

88 六松園記念碑(尾道市因島田熊町青影山登山道)

89 青木沖新開住吉神社(尾道市因島重井町青木下)

90 本郷新開住吉神社(尾道市因島重井町小林)



91 本郷沖新開住吉神社(尾道市因島重井町本郷沖新開)

92 金比羅大権現(尾道市因島重井町伊浜)

93 細口新開住吉神社(尾道市因島重井町細口)

94 広円新開住吉神社(尾道市因島重井町勘口)

95 深浦新開住吉神社(尾道市因島重井町深浦新開)

96 霊魚魂碑(尾道市因島重井町深浦新開)

97 深浦新開潮廻(尾道市因島重井町深浦新開)

98 波止寄付録(尾道市因島重井町東浜)

99 柏原水軒翁築港碑(尾道市因島重井町東浜)

100 綱取石(尾道市因島重井町東浜)


1 因島戸長の墓(因島重井町善興寺)


 江戸時代は奇妙な時代であったが、明治時代は不可解な時代であった。それは、普通江戸時代が近世で明治時代が近代と呼ばれるのも原因の一つだと思う。近世という言葉に価値観を感じる人はいないと思う。しかし近代という言葉には斬新性と合理性が同居している。その明治時代は合理的で新しい社会であったかというと、必ずしもそうでなかった。それは明治維新が大政奉還・王政復古と呼ばれるように、極めて非近代的な体制をつくろうとしたのだから、当然といえば当然であった。

 さて、宗教学者の末木文美士氏は、江戸時代以前からの伝統を「大伝統」、明治時代から敗戦までにできた伝統を「中伝統」、戦後の伝統を「小伝統」と分け、大伝統が変貌されて中伝統となった、すなわち、大伝統が、中伝統の時代に別の解釈をされるようになったものがあると指摘されている。(『日本の思想をよむ』、角川ソフィア文庫)そのことも明治時代をわかりにくいものにしている理由の一つである。

 奇妙な江戸時代の幕藩体制を捨てるのだから紆余曲折があったのは当然であるが、明治初期には混乱を極めたものであろう。その混乱の跡を留めるのが地域の呼び名である。昭和28年に因島市が誕生する前は、島内の各町村は御調郡〇〇町、〇〇村であり、それはまた『芸藩通志』の分類にあるように、御調郡〇〇村で江戸時代を通してそのようであったと理解してよい。

 明治5年正月にそれまでの郡村制が廃止され、割庄屋もなくなり、それに替わる大区小区制となり因島は第十大区十六小区となり戸長として明治7年4月柏原啓三郎が任命される。

 柏原啓三郎の墓が重井町善興寺墓地登り口の歴代住職墓のすぐ上にある。(写真中)






写真の右は啓三郎の父の墓で、その碑文は啓三郎が明治9年に書いており長男(自分のこと)が明治7年に因島戸長となったことが記されている。


 因島戸長も明治11年3月に廃止され村ごとの戸長だけになる。戸長がいるところが戸長役場である。因島戸長役場は現在重井郵便局のある辺りに置かれ、重井村戸長役場を兼ねたが、因島戸長が廃され村の戸長だけになると、重井村の戸長役場だけとなった。


2 常夜灯(因島中庄町寺迫)


 明治元年になったからと言っても、今日は昨日の続きだし、明日は今日の続きであることには変わりはない。

 そして、明日からは令和元年になる、と言って日本全国が同時に暦を書き換えたこの前と違って、改元が全国津々浦々まで浸透するのに、江戸時代では時差があった。それは明治元年でも同じであっただろう。

 金蓮寺の資料館前にある灯明台(常夜灯)はJAの辺りにあったものだと聞くが、隣にある重井町一本松にあった岩と同様、まじないのために掘られた穴、すなわち盃状穴を保存するためにここに置かれている。(写真1)




 重井町の一本松にあったという盃状穴は111回で記したが、今回はこちらの灯明台について考えてみよう。実はこちらの製作が明治元年だからである。明治元年の年号が刻まれた常夜灯だと喜んでも、それは明治の世相を反映したものではありえない。やはり、江戸時代の延長と考えるべきであろう。だから形などをことさら問題にしようというのではない。そこの盃状穴が問題なのだ。(写真2)




一本松の盃状穴はいつ穿たれたものかはわからないが、こちらは明治元年に作られた灯明台である。それ以前に穴が穿たれた岩を使ったとか、あるいは作られてすぐに穴が穿たれたなどということは普通には考えられないことだから、こちらの盃状穴は明らかに明治時代以降のものと考えてよいだろう。

 盃状穴には陰陽石信仰と重なるものが見られることがある。それを合体して考えれば古代からの信仰ということになるが、ここのように盃状穴だけのものもまた多い。そのことに注目してみれば盃状穴信仰は意外と新しいのではなかろうか?

 そして前にも書いたが、石に穴を穿つというのは産道を広げるという象徴的行為で、安産祈願のおまじないから派生発展して子授け、病気平癒、果ては女性の願いごとまで祈願するようになったのではなかろうか。三庄町地蔵鼻の鼻地蔵をはじめ、妙泰神社、淡島神社などはそれぞれ由来は異なるのに、共通して女性の願いごとなら何でも叶うというご利益が付加しているのだから、盃状穴がそう考えられても不思議はない。


 そしてまた、このような派生的な考え方は江戸時代、あるいはそれ以前からあったと我々は漠然と考えているが、むしろ明治時代以降に生じた考え方であるかもしれない。



3 明治橋(因島重井町新開)


 明治橋という名前がついた橋は方々にあるが、重井川の最下流に架かる明治橋はすぐ隣にある東西橋が主役になって、影の薄い存在である。




現在では、その名前はその周辺地域を字(字)のような形で呼ぶことで使われて用いられているに過ぎないだろうが、そのような地域の呼び名も若い人には通用しなくなったし、第一住所に書き添える習慣が消えて久しい。かつては郵便配達員のエリアが限られてていたせいか番地のない郵便物でも届いていたが、現在では字よりも番地の方が必須である。

 そういうご時世ではあるが「明治橋」と書いた石碑が残っていて、確かに明治時代に作られた橋だと確認できることはうれしい。




 私は想像するのであるが、初めは丸太を渡した橋を作る。その後その上に土が盛られれば土橋になる。それが明治時代になって石橋に変わった。その時に明治橋という名をつける。ただし、この石碑が橋の完成と同時に建てられたものかどうかはわからない。

 それまでは神社仏閣の鳥居、狛犬、灯籠、灯籠の延長としての常夜灯、墓石、仏像などに腕をふるっていた石工の仕事が、村ぐるみで行われる社会的インフラへと拡大していったのではないかと思う。

 橋が架かり道路が広くなれば人が動く。人が動けば荷物も動き、交通機関にも変化が起こる。そのような変化の動きは、やがて地方にも伝わり、因島でも各地で橋や堤防の改築が行われる。そしてその主役は石であった。それに鋳物としての鉄が加わり、セメントや鉄筋コンクリートの時代にになるのは、もっと後のことだ。

 そしてもう一つの変化といえば、お願い・嘆願から、自分たちで作ろうという主体性が発揮され始めたのは、明治になってからの特徴であったのではなかろうか。しかし、それは町村制の時代での話であって、昭和28年に因島市になってから、再び「お願い」に戻ったことは記憶しておこう。


 だから、この「明治橋」という石碑に「行政へのお願い」が当たり前になっている現代と違い、自分たちで作ろうという庶民の熱気に満ちていた時代の面影を、私は見るのである。



4    百枚田跡(因島中庄町奥山)


 中庄町の奥山ダムは因島最大の溜め池である、と書いたら笑われるだろうが、江戸時代の溜め池と、農業用水を溜めるという機能においては変わるところはない。掘ったものと谷川を堰とめたという構造上の違いはあるが。また、江戸時代の多くの溜め池が水田用であったのに、奥山ダムは畑地の灌漑を主な目的とするのも異なる。

 その奥山ダムの上流へ遡ってみよう。草が生え、倒木が散乱して壊れかけた農道の横は低くなって水が流れているが、その近くに杉が整然と植えられているのは壮観である。よく見ると段差ごとに石垣が丁寧に組まれており、独特の景観をなしている。田んぼの跡に植林されたものだと聞けば納得する。






 さらに登ると岩石で巧みに造られた橋がある。




そこを越えても、田んぼの跡らしき段差と石組みがあり、田んぼがかつて存在したことを想像しながら進むと奥山林道に出る。その舗装された林道を横切ってそのまま上へと登っていくと、傾斜は徐々に急になる。しかし、段差ごとに石垣が積まれ、ごくわずかの平地が続く。かなり上に行っても、意外に広いところが何箇所かある。



おそらく田んぼとして使われていた頃には、いたるところに伸びて、日光を遮る潅木も切られていただろうし、それぞれの棚田には水が張られ、今では想像できないような光景が広がっていたのだろう。

 数えてみたら99枚あったので、さらに努力して百枚にした。だから百枚田というのだと聞いた。それが江戸時代の話か明治以降の話かは知らない。考えてみれば、これだけの田んぼが一朝一夕にできるものではなかろうから、何年もかかって出来たものだろう。大雨の降った年には整備や修復に追われて、新しく作る余裕などなかったに違いない。

 普通、稲作といえば、高緯度の寒冷地への進展は記録に残されているが、高度はあまり問題にならない。海抜を競ったところで元々集落が高いところにあったというだけで数値以上のものではない。しかし、集落からの高さを考えた時、ここの田んぼは驚異である。


 白滝山の中腹にも田んぼはあったというし、他の山でも古い砂防ダムのような石積みはその名残だと思われるが、この奥山の百枚田跡は高さと規模において特筆に値する。そして耕して山頂に至るといわれた段々畑にも増して過酷な労働条件を思えば、全く先人の努力には頭がさがるばかりである。



5 力行之碑(因島中庄町大山)


 因島の南北を結ぶ大山トンネルは幹線道路だが、便利なのは車を利用する大人だけで、自転車の高校生には楽しくないだろう。それはもともと人が住み始めたとき隣村との往来のことは考える必要がなかったし、あっても海上輸送に頼っていた時代が長かったのだから、当然の歪みだと言える。すなわち住居は固定されたままで社会生活が変化したのだから移動にかかる時間と費用は仕方がない。

 さて、大山トンネルが出来るまで、主に徒歩で往来した峠道がその東側にある。あおかげ苑、ほたるの里の隣を南へ登る道だ。やがて道はため池の右側に出る。大山大池である。池の向こうに民家が数軒ある。







反対側の山側に石碑があり、「力行之碑」と書いてある。






 ここでこの言葉と出会うのは驚きであった。その時より10年以上も前だろうか。ふとしたことから海外移住史に興味を抱き、ほどなく関心が豪州から中南米へと移ったとき出会った言葉だ。原野を開墾して農業をする場面で使われていたように思う。また、キリスト教系の移住協力団体の名称として「力行会」というのがあったように、微かに覚えている。

 碑文には中庄村釜田の人、松浦作太郎氏が明治26年にこの地に移って開墾し、柑橘を栽培すること37年間で一町歩(約1ha)に達したということが記されている。

 今なら釜田からここまで軽トラで10分もあれば来れるだろうが、当時は歩くしかなかった。麓まで買い物に行くのは半日仕事であったであろうから、時に農機具や食料などを買いに行くことはあったにしても、たいていは自給自足の生活を送ったことであろう。まことに辛苦勉励の日々であったに違いない。


 だから「力行の碑」という文字はそのような生活を見事に表すのに最適の言葉であったと思う。ただ、海外移住が国策だった時代を生きた人でなかったら、力を入れて何事かを行ったという普通の意味しか伝わらないのは仕方がない。それはちょうど「三密」という言葉を、これから生まれて来る人たちが10年後20年後にどのように理解するかわからないのと同じである。


 昭和戊辰は昭和3年(1928年)で11月10日天皇京都御所紫宸殿で即位礼挙行。碑文の「昭和戊辰大礼之歳」というのはそのことを指す。



6 大浜埼灯台(因島大浜町)


 大浜の灯台と言えば、かつては因島でもユニークな名所であったが、最近では海水浴場と因島大橋に挟まれて、訪れる人も少ない。やはり、せっかちな現代人は車がすぐ近くまで行くところでないと、なかなか訪ねないようだ。

 青い海を背景に聳える白亜の灯台は美しい。






 正式には大浜埼灯台と言って珍しい字で書かれているが、これは大浜の人や因島の人が命名したのではなく、明治27年に当時の海軍水路部が設置した時、そう命名したのだから仕方がない。そして現在管理している海上保安庁でもそれを踏襲しているのだ。なお国土地理院地図では、やはりその前身の陸軍陸地測量部が使っていた崎の字を岬に使っているので、そのように書かれた地図もある。

 なお、大浜埼灯台と一言で言っているが、ここは灯台、検潮所、船舶通航潮流信号所の複合施設であった。

 中でも、信号所は小さな塔が3個付いた独特の建物で、明治43年から昭和29年まで使われた。その後因島市が買い取り、昭和61年から灯台資料館となっている。現在は尾道市が管理。






 通航信号所の仕組みは複雑である。表示塔は海側から第一種、第二種、第三種と呼び、それぞれが対航する航行船の場所を示し、昼間は順に丸、三角、四角の記号が表示され、夜間はそれぞれ白色点灯、赤色点滅、赤色点灯で知らせた。例えば第一種は、高根島と小佐木島間、第二種は小佐木島と細島間、第三種は細島以東に東行きの船舶があることを西行船に知らせ、逆に東行船に対しては、それぞれ梶の鼻以東、以西、布刈の瀬戸に西行船がいることを知らせた。

 すなわち3つの塔で場所が決まっているのだから、それぞれがONかOFFかを表示すればよいのだが、そのONの表示が海側から順に丸、三角、四角と決まっていて二重に誤認を防いでいるわけである。夜間のライトも同様である。特に夜間はどの塔のライトかわからなくても、上記の点灯の色と点滅の有無だけでも確認できるわけである。

 また丘の上に今もある5.7mの鉄骨塔や旗で潮流を知らせた。




 



 灯台には4世帯の職員がいたが昭和34年より無人となっている。私はそれ以前に尋ねたことはなく、いわゆる灯台守の人と会った記憶はない。






7 東浜波止建設寄附碑(因島重井町東浜)


 大浜埼灯台が明治27年に作られたということは、それより数年前から船舶の往来が激しくなり、また海難事故も多発していたと考えて差し支えないであろう。重井町東浜の波止(写真1)が作られ、建設寄附碑(写真2)が明治23年秋に竣工と同時に建てられていることは、そういう時代を象徴する。









 南面には波止寄附録と大きく書かれていて、本村共有が百円、表面

記入外個人寄附が72円で、以下寄附者名と金額が続く。裏面は発企、頭取、世話人の名がある。西面には「石工 三庄村光法佐太郎 中庄村田頭岡左ヱ門 田熊村岡野綱次」とある。この人たちは工事に関わった石工であろう。東面には「三庄村 石工 篠塚音松」と、村名と肩書きが逆である。この石碑の製作者だと思う。

 さて南面の寄附者名について考えてみたい。「細島中」とあるのは細島からの連絡船の寄港地がこの頃には東浜と決まっていたことを意味する。「向シマ吉原大作」とあるのは、『向島岩子島史』によると明治19年に重井村戸長を勤められた向島西村村長の吉原大作氏のことである。

 しかし、「椋浦藤田蜜弥 椋浦平沢歓三」「タタノウミ(忠海のことか)豊太春平 オノミチ上弥代蔵」の重井村以外の方についてはわからない。紙に書かれた寄附録の原本があれば、詳しいことがわかるかもしれないが、それが出てくる可能性は少ない。

 現在重井郵便局のある東浜は当時、近くに村役場もありまた白滝山表参道の起点であったから多くの船舶が入港し農産物も積み出されたことであろうから、頻繁に入港する船の持ち主や、商売人であったかもしれない。

 あるいは家船で移動する漁業者が一時的に基地にしていたのかもしれない。水や野菜と漁獲物を交換する。地元の人は親切で住みやすそうなところではあるが、しばらくいると古い血縁関係の濃い純農村だと気づく。こんなところには住めないな、と思ったら程なく別の土地へ移動する。そういう瀬戸内海史の一コマがあったのではないかと想像する。  


 明治23年といえば江戸時代を知らない人たちが社会の中心になっていく頃である。変革の進歩は加速される。天保の老人たちが表舞台から去っていく時期が始まろうとしていた。 


8   備後ドック記念碑(因島三庄町町七区)


 因島四国88箇所は明治45年の創設であり、場所が移動したものも多い。三庄町の40番観自在寺も、無量寺の隣を通って山側から行ってみたが廃寺になっていた。この道が初期の遍路道だと思われるが、最近は、七区の崖下から登っていた。その道も荒れていて、雑草を掻き分けてかろうじて降りた。

 この辺りはかつて、因島高校のマラソン大会の折り返し地点だった。スタンプ台を持った先生方が待機されていて、手にスタンプインキをつけて折り返した。当時は社宅が軒を接しており、私にとっては珍しい光景であった。

 崖側の路肩はセメントで覆われ、閉鎖された防空壕の跡や古いお地蔵さんがあって、土地の歴史がうかがわれる。道の反対側にもお地蔵さんがあるのだが、その隣に備後船渠史蹟がある。




 船渠(せんきょ)とはドックのことである。若い人たちのために敢えて書けば、工場内の大きなプールだと思えばよい。修理の時は船を入れてから海水を抜く。浮かべる時には海水を入れる。  

 余談ながら戦艦大和と戦艦武蔵は基本は同じ設計図で、大和は呉の海軍工廠のドックで作られ、武蔵は三菱の長崎造船所で船台で作られた。完成品は海に浮かべるのだから、船台では進水に余分の労力がかかるし、また重量制限もかかる。いかにドックが重要かということが想像できるだろう。

 そのドックのある造船所を作ったのである。上の左側の石版には、備後船渠株式会社の工場が明治34年6月に起工したと記してある。前年に三庄船渠株式会社として発足したが頓挫し、この年社名を変えてスタートしたわけである。


 これより前、明治30年には土生村長崎に土生船渠株式会社ができており、36年に因島船渠株式会社と改名した。大阪鉄工所因島工場は明治44年頃、因島船渠株式会社を買収し、大正8年には備後船渠株式会社を買収した。そして備後船渠株式会社は大正11年には、大阪鉄工所因島三庄分工場と改名された。大阪鉄工所は昭和18年に日立造船となった。


9 溝梁完成記念碑(因島土生町町荒神区)


 以前にも書いたが海を陸地に変えるのに二つの方法がある。一つは埋め立てで、もう一つは干拓である。前者には大量の土が必要だから近くに大きな山がないといけない。後者では満潮時には海水面より低くなるので一時的に水を貯めておかなければならない。そのための池を因島では塩待ちとかタンポと呼んでいるが、一般的には潮廻しという。そして干拓地にとって邪魔な水を、清濁に関係なく悪水と呼び、海水面が下がったら樋門から排水する。また、干拓をすることを開発と呼んだ。だから干拓地が新開と呼ばれる。

 さて、ナティーク城山から、荒神社へ行くルートは村上水軍の史跡巡りで避けて通れないところである。その荒神社への長い石段の手前、右側に立派な石碑がある。






余談ながら、この辺りに林芙美子が住んでいたと書いてあるものもあるが、確証が得られないので、今回は断定はしないことにしよう。

 いつもは、麻生イトさんの名前がある、という程度で済ますのであるが、今回は内容に立ち入ってみよう。碑文はまことに興味深い。

 土生地区は開拓(干拓のことだろう)して日が浅いのに人家が急増したが流水溝梁ができておらず、村井清松村長、佐々部優巡査部長、それに麻生以登さんが憂えて相談していたところ、大阪鐵工所初代因島工場長の専務取締役木村鐐之助氏が千円を寄付して下さり事業が遂行できた。また平木和太郎衛生組長が労を厭わず工事監督に挺身して完成できた。それらの人々の名を記して住民と共にその徳に感謝したい。およそこのようなことが記された石碑が、大正5年夏に設置された。

 石段を登って荒神社の境内から町並みを眺めてみよう。大正5年以降も陸地は広げられたことであろうから、海側の一部分は当時はなかったと思えばいっそうよくわかるだろうが、傾斜地が終わる部分と海との間が狭いことに気づく。海に近い方では潮廻しの水かさが上がると多くの家の近くまで上がってきたことであろう。これを避けるためには深くて幹線となる大きな溝と、数軒分の排水を集める浅い小さな溝の二段構えにしたらよいことは、土木に関しては全くの素人である私でもわかる。


 大正3年の土生村人口4146名が大正7年には11864名になり、土生町になっている。都市基盤の整備が追いつかない時代であったことが想像できる。なお、物価は変動するが、理髪代金、大工工賃では約2万倍になっている。



10 ハワイ移民頌徳碑(因島中庄町大江)

 

 一般的には鎖国と言われ、海外渡航が禁じられていた時代が長かったので、明治になってからの海外移住が特別なことになる。鎖国以前の日本人の海外進出の状況を考えれば、もし鎖国政策さえなければ、明治以降の移民も特別なことではなかったであろう。だから、明治以降の移民史は特筆に値するが、なにしろ海外のことであるから本稿には向かない。

 そのような中で、中庄公民館の駐車場北側にある石碑は、興味深い。






 この石碑は大正12(1923)年の1月に建てられているので、およそ百年前のものである。文字が鮮明で光沢の鮮やかなのは、設置場所が良いだけでなく素材が立派なものだからではないかと思う。

 中庄の人、小林栄之助氏は明治35年12月に布哇(ハワイ)に渡り、土木事業を興し、百余人の従業員を抱える事業家となった。大正5年9月に帰郷した時は、学校・神社・お寺に多大な寄付をし、大正8年1月の時は村人の修養所となる公会堂を建設した。村人はこぞって小林氏の両親と郷里を思う孝徳心を讃え、また事業の益々盛んなることを願って頌徳碑を公会堂の傍に作る。おおよそこんな意味のことが書いてある。

 公会堂は敷地101坪、建坪48坪強で当時の金額で1万円であったから、村民の感謝の気持ちはいかばかりであったか。また、海外で一旗揚げて故郷に錦を飾る人の勇姿は、「移民は移民を呼ぶ」と言われたように後続者を鼓舞するものだが、後に続く者が多くなかったということは、もともとが温暖で豊かな土地であったせいであろう。

 ハワイの歴史を大雑把に記すと、ハワイ王国、共和国、アメリカ領、ハワイ州と変遷するが、明治35年はアメリカ合衆国の領土になっているが、まだハワイ州にはなっていない。


 明治元年組と呼ばれるように海外移住史はハワイから始まり、南米・北米へと拡大していく。


11 藤井忠三墓(因島重井町善興寺)

 

 重井町善興寺の墓地の東の端、かつて天理教教会のあったところの上の一角、一段高くなったところにブロック塀で囲まれた立派な墓地がある。藤井家の墓と書かれているからすぐにわかるだろう。






 墓誌からもわかるが、明治23年2月生まれの藤井忠三氏は明治40年17歳の時、家族の反対を押し切って単身ペルーにわたった。日本からのペルーへの移民は4回目で、1月5日に出航し2月8日にカヤオ港へ着いた。452人でそのうち広島県人は43人だった。これで合計3188人となり、広島県人は699人で府県別では全国1位である。移民船は翌年第1回ブラジル移民を運ぶ有名な笠戸丸であった。

 藤井忠三氏は日本人の多い耕地で須貝商店に勤め、スペイン語や商業を勉強し、後に日用雑貨食料品店を設立して独立した。第一次大戦中の大正6年に首都リマに進出後、やがてペルーのデパート業界のトップとなり、また多くの社会事業を行った。昭和8年には日本に帰り貿易業に進出した。東京都港区の邸宅へは多くの人が出入りし、日本ペルーの親善に尽くすとともに、郷里の人々の面倒もよくみられた。また重井町の別邸は、後に修養団捧誠会因島支部が置かれ、ここから月刊誌『反省ノ泉』が全国へ配信された。

 藤井忠三氏は昭和42年8月19日に77歳で亡くなった。早く別れ他家に嫁いだ妹さんの墓が近くにあるのも故人にとっては喜ばしいことであるに違いない。

 なお、多くの店舗を所有されたが、フジイではスペイン語での発音が難しいということで、企業名としては使われず共同経営者の姓を用いた。しかし幸い藤井忠三氏の事績は『日本人ペルー移住の記録』(ラテンアメリカ協会、昭和44年)や尾塩尚『天界航路』(筑摩書房、1984年)で伺うことができる。



12柏原神社(因島重井町上坂)

 

 島四国についてはいづれ書くつもりであるが、場所を示すのに私のような無精な者にとっては極めて便利なのである。今回も島四国81番白峯寺のあるところ、と書いておけばそれでわかってもらえるだろう。わからない人は誰かに聞けばすぐわかる。

 そこは北向きでいつも日陰で、本四国の崇徳院の御陵のあるところと似た感じがするので、設置場所もよく考えられたものだと感心する。島四国の隣には重井村四国7番十楽寺もあるのだが、参道を登りきったところにある、ちょっと変わった神社を見てほしい。






柏原神社と呼ばれているが、柏原氏が変わった宗教をしているという訳ではない。これを作った柏原米太郎氏が、台湾で成功した人だからである。とは言え、私は台湾の神社など見たことはないから、どこが台湾風なのかはわからない。

 慶應3年に重井村に生まれた柏原米太郎氏は大阪で働いたのち、明治33年台湾に渡り、海運業を起こし成功した人である。多くの船舶を所有し、基隆市の市政にも関わった。柏原神社のある荒神社へ、大正3年に柏原土廟碑、昭和2年に本殿・拝殿を建てた。現地で設計し加工した材料を持ち帰り建てたものであろう。ただ、私が理解できないのは柏原氏という一氏族の先祖を祀る神社に多数の現地の人たちが寄付金を拠出されていることである。先祖を祀ることに高い価値があり、他氏族のものでもそれに協力することが善根であるというような価値観が当時の台湾にあったのであろうか。


 また米太郎氏は重井村の電話設置に尽力されたり、金光教教会を建てたりされた。墓は善興寺にある。北東部の高いところにある、これまたブロック塀で囲まれた広い墓地だから探すには容易である。



13 ダバオ(因島重井町須越)

 

 重井小学校がまだ木造校舎の頃、踊り場の壁に山本卓先生が指導して児童に描かせたガリバーの壁画があった。個性の異なる子供たちに一つのテーマで共同して絵を描かせるという稀有な指導力を持たれた先生であった。そのベニヤ板一杯に描かれた壁画の隣に、それよりもさらに大きなワニの剥製が掲げられていた。その下には柏原達象氏寄贈と書かれた板が打ちつけられていた。恐竜図鑑などまだない時代であったから剥製とはいえ本物であるからよい教材であった。

 当時は給食はなく、多くの児童は昼休みには昼食を食べに家に帰っていた。だから、1日に4回私は柏原達象と書かれた大きな門柱のあるお屋敷の前を通った。そして、このお屋敷は荒神社の下にあり、ダバオと呼ばれていた。






 ダバオというのは、フィリピン南部のミンダナオ島にあるフィリピン第三の都市で現在はダバオ市と呼ぶ。ダバオでは1903年に太田恭三郎氏によりマニラ麻のプランテーションが開かれ、以来多くの日本人が住んだ。

 明治17年生まれの柏原達象氏はダバオで最初のホテルを経営し町の発展に寄与された。人格者で多くの人の信頼も厚かった。

 ダバオでは現地の子供たちがワニの子を取る。大人は数人で親ワニを取る。時には足を喰い千切られたり、死んだりした。獲物は剥製にして日本人に売りに来る。彼らにとっては生活の資であるから、それを買う日本人もあながち道楽ばかりともいえまい。善意で買った人も多かっただろう。

 戦争が起これば海外移住者は敵国人になるのはわかっている。移民が国策であった以上、海外で戦争してはならない。それが守られなかったのだから棄民政策だったと呼ばれても仕方がない。

 柏原達象氏の資産も戦争の犠牲になったというから、私が見た剥製はかろうじて日本に持ち帰れらたものの一つだったに違いない。

 さて、ここには、ペルーのデパート王藤井忠三氏の遠縁にあたる方が、藤井氏の勧めで東京で学んできて、因島でも最先端の技術をもった美容師として経営されていた美容院があった。また、それ以前の歴史を見れば台湾米と呼ばれた柏原米太郎氏が住んでいたところであった。

 ということで、この地は奇しくも波濤万里・海外雄飛の3人のアドヴェンチャラーのゆかりの地ということになる。

 ▶️因島ふるさとの歴史を学ぶ会(柏原達象) 写真





14 大出万吉翁頌徳碑(因島重井町重井幼稚園)


 われわれ卒園生の間では「上の幼稚園」、正式には「学校法人重井学園 重井幼稚園」の園舎に隣接して「大出萬吉翁頌徳碑」と書かれた立派な石碑が門扉の外からでも見える。「キリストを信ずる者は死すとも生くべし」と左側(東側)の面には書かれている。










 大出万吉氏は大阪で人力車を引いていたが、水害に会い避難所となったキリスト教会の心温まる応対に感動してキリスト教に改信した。67歳であった。明治36年、教会を建設しようと郷里重井村に帰り布教活動を始めた。幸運なことに、福音丸で島々を伝道中のビッケル船長と出会い大正5年まで周辺の島へも布教活動を行った。

 日本バプテスト同盟によって大正9年に私立重井幼稚園が設立され、翌年園舎が完成した。福音丸のマストが遊戯室の柱に使用されている。 






 その万吉翁ゆかりの幼稚園に1年間通えたことは良い経験だった。しかし純農村の子供たちにとっては、キリスト教のありがたい教えもただ珍しく「アーメン ソーメン」とはしゃぐだけだった。半年もすれば慣れたせいか、クリスマスに行われる恒例の劇はわかりやすく、聖書の中にそのシーンを見つけては今でも懐かしく思い出す。


 大出万吉翁のご尽力にもかかわらず、キリスト教と仏教の違いがわからない人は多いのか、いまだに白滝山では伝六がキリスト教と仏教などから「一観教」を作ったと書かれている。そのように言うことが双方に対して背信であり背教であることもわかっていないのは嘆かわしい。伝六生存中にも伝六没後にも、「一観教」を名乗った宗教者集団は存在しなかったし、そしておそらく現在も存在しないと思う。もし読者の中に「一観教」の信者であるという方がおられたら、そのキマイラのような宗教がどのようなものなのか是非教えていただきたい。




 15 亀井文龍先生墓碑(因島三庄町六区)


 三庄町六区の五柱神社へは折古浜へ通じる昔懐かしいトンネル近くの大鳥居の下を通ってもお参りできるが、表参道は北側の丘の西端を通る道である。その表参道は真新しく広くなっているが、注連柱を過ぎるとすぐ左の石垣の上にお堂があり、その前に円形の石板を載せた珍しい形の石碑がある。幕末から明治にかけての教育者、亀井文龍先生の墓碑である。




 亀井先生は田熊村、重井村でも寺小屋で教えていたと言われている。明治になって公教育が始まったが、因島では明治6年4月に「振徳舎」(重井村善興寺)と「研幾舎」(田熊村浄土寺)が許可され、それぞれ沼田良蔵、村上万之助が教師として任命された。一方、三庄村では『ふるさと三庄』によると、場所はわからないが明治8年8月に「六行舎」が開設されている。


 したがって、他の時期はともかく、この2年4か月間だけについて見れば、亀井文龍先生は田熊村、重井村で教えることはなく、三庄村だけで教えられたと考えることができる。

 亀井文龍先生は明治24年10月に81歳で亡くなった。円形の石板には「仁義忠孝」の文字が彫られている。先生の教育理念であるとともに生活の信条であったものと思われる。

 よく見るとその円形石板は亀の上に乗っているではないか。おそらく「亀先生、亀先生」と子どもたちや村民に慕われたのではないだろうか、と私は想像する。 






16 村上萬之助先生顕彰碑(因島田熊町元田熊小学校跡)


 三庄町の亀井文龍先生を紹介したので、その次は田熊町の村上萬之助先生顕彰碑を紹介すべきであろう。幸い田熊小学校の跡地は残っており、そこに行けばその顕彰碑を見ることができる。




その石碑には、「久敬舎の開設者」の文字が見える。その久敬舎については、田熊小学校閉校記念誌の目次の下に「慶応元年四月 久敬舎が開設された これが田熊教育のおこりである 昭和四十一年 田熊小学校創立百周年記念」と書かれた石碑の写真がある。私はそれ以前に浄土寺等で行われた寺子屋教育があるかも知れないと思うのだが、それらは田熊小学校の前身と考えられなかったと言うことであろうか。 


 しかし前回書いたように、公教育として、明治6年4月に「研幾舎」(田熊村浄土寺)が許可されたわけであるから、それ以前の「久敬舎」は寺子屋であった。そして教師として村上万之助氏が任命されたり、初期の頃には久敬舎が使われたのも、全国的な寺子屋から公教育への転換の傾向とよく似ている。ただ、万之助氏が教師として任命された時には「尚純舎」と校名が変更されている。

 以上が、石碑に記された文字と『因島市史』記載の公文書に基づく考察であるが、やや不可解な印象を受ける。特に名称の変更が短期間のうちになされていることは理解しがたい。この問題に関して興味深い見解が『田熊の文化財』第7巻に記されている。まず、豊富な基礎資料の収集に対して敬意を表したい。

 公教育の開設の認可がまず地元からの要請に基づくものであったということがわかった。そして、「研幾舎」というのが浄土寺の寺子屋であり、初めはこちらが認可されたのであろう。それが認可後、神主家の久敬舎の方へ移った。そして、久敬舎はお家の事情により「尚純舎」と寺子屋名を変更していた。

 だから、研幾舎や亀井先生の寺子屋が始まった時期がわかれば、「田熊教育のおこり」はもっと古いかも知れない。


17 久保田権四郎翁頌徳碑(因島大浜町斎島神社前)


 明治の公教育が明治6年から始まったのであったが、その頃に生まれた人に久保田権四郎(旧姓大出)さんがいる。大きな久保田権四郎翁頌徳碑が大浜町の斎島神社前にあって、権四郎さんがいかに地元の人たちから尊敬されているかがわかる。






明治3年のお生まれだと書けば、まさに初期の小学生ということになることはすぐにわかるだろう。今のように新しく小学校ができて4月から全校揃ってスタートというイメージで考えることはできない。まさに試行錯誤、制度はできたものの子供は集まらず、と言ったところだった。教師も十分集まらなかった時代であったから、それでよかったのだろう。次第に学校というものが整っていく、そのスタートであったのだ。ということは、権四郎さんにとっては行っても行かなくてもよいということだったに違いない。しかし、学校制度が充実していくことは、学校に行ってなくても世の中が大きく変わっていることが、子供心にもわかるという大きな教育的効果はあった。そしてその効果は外から教えてもらうものではなく自分で感じるものであるということはいうまでもない。

 このような時代の中で権四郎さんは、15歳で単身大阪に出て、鋳物技術を身につけ19歳で大出鋳物を創業する。その後久保田家の養子となって久保田鉄工所となるのは明治30年であった。久保田権四郎さんは数々の発明をするが、特に水道管の製法は多くの特許となって会社を飛躍させた。だから日本の上水道の歴史はまさに久保田の歴史であった。

 ところが皮肉なことに、因島市時代の水道料金は日本一高いと言われていた。私の住むところに市の水道が伸びてくるのは尾道市になってからであったから、その話が嘘か本当かはわからないが、もし晩年の権四郎さんが聞かれたら、その辺の水道管を好きなだけ持って行けと言われたに違いなかろうから、権四郎さんが亡くなってからの話であろうか。


 自動車のエンジンは鋳物だから、初期の自動車産業も牽引した。後に売却されて、そこから日産自動車になった。民生品としてはトラクターが有名で久保田鉄工といえばトラクターメーカーだと思っている人は多かったが、その技術は初期の頃からあったのだ。現在の社名は株式会社クボタで、世界的な大企業であるのはいうまでもない。




18 久保田権四郎寄付碑(因島大浜町相川)


 水軍祭りが行われるしまなみビーチは、現在のような人工海浜になる以前も長い砂浜があった。そして因島大橋がかかる前は向島の津部田との間にフェリー航路があった。

 そのしまなみビーチの入り口の横断歩道のところに久保田権四郎さんの寄付碑がある。「一金千円 新設道路 寄附者 久保田権四郎」と書かれている。右側には「大正十四年竣工」、左側には「大濱村建之」の文字が見える。










 中庄町から大浜町へ向かう海岸道路脇の花壇に、この海岸道路を作った時の寄付碑があり、現在のしまなみ海道の側道に該当する旧道工事の寄付も記録されていることは以前にも書いた。

 それとここのしまなみビーチの入り口の寄付碑を加えると、大浜町から中庄町、重井町へ通じる3つのルートが全て久保田権四郎さんの寄付で作られたとことがわかる。

 それ以前にはどうなっていたのだろうか。古い山道の名残が少し残っている。一つは島四国の歩き遍路道で、大楠山の西側の峠を通ってネズミ屋新開に出るルート。峠からまっすぐ唐樋へ降りることも可能だ。次は更に北側の峠を越えるルートで、大浜町の村上家先祖碑の隣を登ってからネズミ屋新開へ降りる。さらに北側の白滝山南尾根を越えて重井町川口へ出るルート。これは重井村尋常小学校に高等科ができてから大浜村尋常小学校に高等科ができるまで大浜村の子供たちが通った道だと言われている。さらに大浜町から白滝フラワーラインの三叉路のところに出るルートがあるので、こちらも利用されたのかもしれない。いずれも険しい峠道だから途中からは歩行のみが可能だったような山道である。

 これらの峠道はいずれも耕して山頂に至ると言われたように、畑とその道であったので今では想像もできないほど明るく開けていたと考えた方がよさそうである。しかし現在はそれらの畑が山に変わり、道も潅木で覆われたりイノシシに荒らされたりして、多くが通行不可能になり、やがて忘れられていく運命にある。




19 久保田権四郎寄付碑(因島重井町一本松)


 重井町一本松の重井川沿いにも久保田権四郎さんの寄付碑がある。正面には「一金参千八百円 特別寄附者 久保田権四郎氏」と書かれている。また、左側に「内訳 金二千八百円 自三反田 至広道 道路改修費 金一千円 字崩岩 道路改修費」、右側には「昭和五年五月建之 重井村」と記されていて、およそ90年前に設置されたことがわかる。 因島大橋がかかり、しなみ海道ができてから、この辺の道路事情は一変したので、それ以前のことだと思っていただきたい。




 内訳に書かれている2つの工事区間は白滝山南麓を通る大浜町と重井町を結ぶ道路である。現在、因島北インターを出ると中庄町重井町境界付近から大浜町の第三久保田橋へ通じるしなみ海道の側道がある。これが重井大浜往還の新道である。かつて因北消防分署があった辺りに塞の神がある。ここから奥へ入る道が旧道である。町界をなす峠は切り通しになっていた。その辺りが崩岩であり、この旧道を改修するのに一千円が寄付された。それ以前から利用されていたのが古道で、自転車も通れない山道であった。だから、少し大回りになるがより低いところにあった畑道を広くしたのであった。しかし、自転車や車が通れるようようになってもその先が昔のままであったならば意味がないので、中庄町重井町の境界から一本松までの道路も拡張したというわけである。これが三反田より広道に至る道路改修費二千八百円の意味である。この道路は現在と同じルートで、今ではカーブと坂が無くなっている。

 従って、一本松から中庄町、大浜町に至る道路の改修が権四郎さんの寄付でなされたというわけである。

 古道は大浜町から白滝山への参道と一部が重なっていた。しかしその部分は公団のフェンス沿いに北に移って残っていたが、樹木で覆われ今は通れない。旧道はしまなみ海道によって消滅しており、その痕跡を探すことは難しい。



20 久保田権四郎氏顕彰碑(因島中庄町浜床)


 中庄町の浜床団地入口には、久保田権四郎氏顕彰碑とともに、升浜道路改修記念碑と島四国の道標もあるが、今回は久保田翁顕彰碑だけについて述べる。






 まず、右端に「従一位勲一等侯爵浅野長勲纂額」と書いてある。これは幕末から明治大正昭和と活躍された最後の広島藩主浅野長勲(ながこと)氏の額が上部に彫られていることを示す。この装飾性に富んだ四文字は篆書(てんしょ)と呼ばれる書体で、右から「切切念郷」と読むのだろう。なぜならば、本文のうしろの方に「切々念郷稜々赴義」は真に君の如き者を謂うべしと書いてあるから。君の如きとは、久保田権四郎君のごとき、という意味である。それで「切切念郷」は、切々と郷を念(おも)ふと訓読し、深く郷里を思うという意味である。あるいは切々たる愛郷の念と解してもわかりやすい。

 さて、それではこのような顕彰碑がなぜここにあるかというと、昭和2年1月に中庄重井道路が久保田権四郎翁の寄付で改修竣工されたからである。その道路の北端は中庄村重井村の境界で、前回述べた、三反田広道線と接続していたと思って間違いはなかろう。しかし南の端についてはわからない。この場所であれば、もう一つの改修記念碑に書かれている升浜道路に接していたことがわかる。あるいは更に南へ伸びて別の幹線道路と接していたのかもしれない。


 いずれにせよ大浜村からは崩岩の切り通しのあった大浜重井往還(旧道)を経て重井村、中庄村への往来が便利になるとともに、中庄村重井村の交通の便に益すること大であったということは、本文に書かれてある通りだっただろう。


21)

第三久保田橋(因島大浜町)


 多くの道路が久保田権四郎氏の寄付によって新しく作られたり、改修されたりした。だから、それぞれの道路を久保田道路と呼んでよいし、おそらくその近くの人によって久保田道路と呼ばれたこともあったであろう。しかし、次から次へと久保田道路ができると、ごく限られた範囲での会話ならよいのだが、村を越えての会話となると混乱が生じるであろうから、久保田道路という名称は定着しなかった。

 しかし、久保田橋というのはある。第四久保田橋というのがあったので、少なくとも4橋はあったのだろう。しかし最初の橋に「第一久保田橋」という名称をつけたとは考えにくい。単に「久保田橋」と呼んだと思う。そして2番目の橋を作った時、「第二久保田橋」と名付けたのは妥当であった。それで最初の「久保田橋」が2番目の久保田橋と区別されるために「第一久保田橋」と改名されたのだろう。あるいは、その頃には「第三久保田橋」の話があり、それも含んでの名称の統一と差異を図ったものかも知れない。

 まず、わかりやすいのは第三久保田橋である。しまなみ海道側道沿いにある大浜重井往還道と大浜町の海岸線を南北に走る国道317号線が接するところである。昭和十五年の文字が残る。周辺の道路は何度か拡張され、橋そのものも原形はとどめていないが、残された断片が石碑として保存されているので、そのことがわかる。

 かつては、この辺りが因の島バスの終点であった。









22)

 第一、二、四、久保田橋(因島大浜町)


 前回の続きである。残りの久保田橋について記そう。前回の第三久保田橋を中心に話す。いずれも海岸沿いを走る国道317号線の山側(西側)の歩道を注意しながら歩こう。南へ向かって歩けば、第二久保田橋、第一久保田橋がある。

 第二久保田橋は大浜保育所跡地にある大浜地域未来交流館・晴耕雨読の裏である。





 第二久保田橋の橋名入り欄干は大浜小学校の跡地にある尾道特別支援学校しまなみ分校の敷地内にある久保田公園にも保存されている。









橋の両側・両端の4個のうちの2つであろう。


 第一久保田橋はちょっと分かりにくい、というのはすでに橋はなく樋門が残っていて、その近くに第一久保田橋の石碑が建っているだけである。南に向かって進み、右手に注意しながら捜す。








 第四久保田橋は第三久保田橋から北方向へ、国道の山側(西側)の歩道を左手に注意しながら進む。やはり、ここも記念碑だけで、橋の形は見ることはできない。








 橋巡りというよりも久保田翁記念碑巡りの一部と考えたい。




         


23)

埋立港湾道路建設記念碑(因島大浜町西浜)


 大浜町のJA沖の埋立地には、この埋立地を作った時の記念碑があり、寄附者久保田権四郎翁と書かれている。ここの記念碑は他のものと比べて大きくやや新しい感じがする。南側が正面で埋立港湾道路 建設記念碑と書かれている。






これだけでは何のことかよく分からないだろう。裏面に詳細が記されている。「西浜埋立地一、五七二坪、港湾防波堤六二米、道路自西浜至添川線二、一六〇米 昭和十四年二月起工 仝十五年十一月竣工」。

 これから分かることは埋立地と62mの防波堤を持つ港が作らた。それとともに西浜から添川までの道路工事も行われたということである。しかし、この1.2kmの道路がどこのことかわからない。大浜町から各方面への道路については既に記したからである。そこで、ここから1.2kmのところを探すと、北側でしまなみビーチに達する。ここまでの道路については218回で記した。すなわち大正14年の新設道路が久保田権四郎さんの寄付でできたということであった。また添川というのが気になった。古地図で見るとやはりしまなみビーチの近くが添川であった。これは重井町の字別全図によると相川(そうがわ)というのがあるので、ここのことだと考えられる。すると大正14年に作られた道路を昭和14年に拡張したり修復したということであろう。

 南面に書かれている「大浜町建之」には違和感があるが、この石碑が昭和35年に建てられたと言うから、半分は納得した。権四郎翁が亡くなられた翌年である。新しい感じがするのはそのせいでもあるし、良い石を使ってあるのだろう。


 国道を車で通過するだけならわからないが、沖へ出ると、広場になっており余裕をもって見ることができる。また眼前に広がる備後灘や布刈瀬戸の景色もすばらしい。



24)

久保田権四郎翁胸像(因島大浜町久保田記念公園)



 尾道特別支援学校しまなみ分校の一角に久保田権四郎翁を記念する公園がある。

  そこに立つ久保田権四郎翁の胸像は、これまで記したような多くの翁の貢献に感謝の気持ちを込めて大浜町民が建てたものである。

 写真は胸像部分である。



基台の背面には、この胸像が翁の33回忌に当たる平成3年(1991年)11月に建てられたことなどが記されている。





 翁の経歴業績のほか、「小学校、敬老館、道路、橋梁、埋立、護岸工事等々、更には神社、寺に多額の寄進をされ、大正から昭和にかけて町財政の救済と町民の福祉増進に多大な寄与をされた大恩人であり、その功績を称え偉徳に敬慕と謝意を捧げ、次の世代を担う青少年に夢を託す」などと書かれている。


 これを読むと、これまでの紹介では久保田権四郎翁の偉業のまだ半分も紹介していないことがわかる。






25)

大浜小学校建設寄付碑(因島大浜町久保田記念公園)



 尾道特別支援学校しまなみ分校の一角にある久保田記念公園には大浜尋常高等小学校の建設時の久保田権四郎翁の寄付碑がある。






碑の右側に「昭和二年三月」と彫られている。昭和2年は1927年である。その後昭和60年に鉄筋3階建の校舎が、ここに建設され移転した。現在のしまなみ分校である。したがって、この寄付碑は今はない木造校舎についてのものである。

 石碑の正面には「一、金一万円 講堂及敬老館 一、金三千円 校舎建築費 久保田権四郎翁」と書かれている。

 昭和2年の新築校舎は旧校舎の跡地に建てられ木造二階建であった。旧校舎は、校地を拡張して少し移動、改築した。そして更に、講堂と敬老館を新築したということである。当時はまだ因島市の時代ではなかったから大浜村独自の事業であり、村民の受けた恩恵がいかに大きいものであったか容易に想像できるだろう。

 この石碑も当然そこにあったもので、のちに移設されたものであろう。石碑はあるが残念ながら建物は残っていないようだ。大浜町文化財協会によって昭和63年に発行された写真集『ふるさと』にその勇姿を見ることができる。



26)

敬老会基金寄付碑(因島大浜町久保田記念公園)



 尾道特別支援学校しまなみ分校の一角にある久保田記念公園には、もう一つ紹介しておきたい久保田権四郎翁の寄付碑がある。






 写真のように左に「敬老会基金」、右に「昭和五年三月」とある。これまでに紹介した石碑が道路や建物などの建設費であったから説明がなくても多くの人が理解できたと思う。しかし、昭和5年の敬老会基金と言われても何のことか想像もできない人の方が多いのではなかろうか。

 私にもわからない。わからないと言えば、前回の小学校の講堂とともに作った敬老館についても理解しがたかった。小学校は村の中心だから近くに老人集会所のようなものがあってもおかしくはない。しかし、小学校の新築に合わせて老人集会所を建てるというのは、村の時代でも市の時代でもおかしい。だから敬老館は小学校の施設だと考えられる。

 敬老館から3年後の敬老会基金の寄付であるから、敬老館の維持費や備品のことだろうかと思ったりする。

 また、翌年の昭和6年には、権四郎翁の還暦記念行事が村をあげて盛大に行われている。還暦の祝賀行事に村の出身者が帰省するのは毎年行われていることだから現在でも特別のことではないが、これまでことを考えれば、権四郎翁の帰省を盛大に歓迎したいのは、全村民の共通の願いだったに違いない。しかし、経費をどうするか? そんな悩みを聞いた権四郎翁の配慮だったのであろうか。

 この敬老会基金の寄付額は、一万二千五百円で、3年前の小学校校舎、講堂、敬老館の建設への寄付額の合計一万三千円に近いことを考えると、敬老館の維持費や備品とか、あるいは歓迎・祝賀行事などの費用などではないことがわかる。やはり文字通り「敬老会基金」であって


敬老会運営に当てたものだと解釈すべきであろう。ただ昭和5年当時の「敬老会」というものが想像できない。おそらく今でいう「老人福祉」というようなものを考えればよいのかもしれない。




27)

 神社寄付碑(因島大浜町斎島神社)



 久保田権四郎翁頌徳碑の隣にある石段を上がると斎島神社がある。境内に入ってまず目につくのは左右一対の大きな雨水溜である。近づいてよく見ると業務用の漬物樽のような凝った意匠で鋳鉄製である。正面に寄付者としての久保田権四郎の銘も見える。これは権四郎翁が自ら設計し全身全霊を込めて製作して奉納したものではないかと思った。そうであるならば生涯を鋳物工業の発展に尽くし、またそれによって大成功を収めた権四郎翁の人生を象徴するものであり、久保田神社を作って御神体とすべきものではないか・・・と思った。しかし後ろに回ってよく見ると、昭和24年に備後国新市町高田鋳造所で作られており、また権四郎翁個人の寄進によるものではないこともわかった。それでも、権四郎翁が「うちの工場で作らせよう」と言わなかったのだろうかと思う。もうその頃は大きな水道管を連続的に製造する巨大企業になっており単品を鋳造する町工場からは大きく隔たっていたのかも知れない。


 さて、拝殿の北側の崖には寄付碑が所狭しと並んでいるのだが、左端にひときわ大きな寄付碑がある。「奉献基本財産 一、金千円 久保田権四郎」と書いてある。右側面には大正六年十月六日とある。貨幣価値を計算するのは難しいが、700倍強と概算した。







28)

宮沖相川道路改修碑(因島重井町勘口)

 草書で「自宮沖至相川 道路改修費」と書かれた石碑がある(写真1)。





左面には、「大正十三年五月起工 同年六月竣工」と書いてある。宮沖は重井八幡神社の下、相川は重井村の最北端で、大浜村に入ると添川と書く。これらは同じ名前で呼ばれていたところが、村境ができてから別名で表記されたということであろう。どちらにも川の字があるから川が村境である。


 添川はしまなみビーチのあるところで、大浜村の最北端であり、大浜村の中心からここまでの道路は久保田権四郎氏の寄付で作られまた改修されたことを既に記した。そこからさらに重井側に伸びる道路を改修したということである。およそ百年前だから、かろうじて歩ける程度の道を荷車が通れるようにしたのだろう。右面には写真2のように「総工費一、金一万一千円 総人夫四千四百三十一人 内訳 金一千円大阪久保田権四郎寄付 金三千五百円村費補助 金六千四百五十六円関係寄付 金四十四円特別寄付」とある。







関係寄付と特別寄付の違いはよくわからない。関係寄付が周辺の畑や住居の所有者で、特別寄付は周辺に土地を持っていない村民ではないかと想像する。

 さて、この石碑は現在の宮沖相川間の道路沿いにはない。旧道がパルエッグセンター因島農場の東側(山側)を走っており、その道路沿いにある。ただし、この旧道の北端は今は通れない。


 大浜町から中庄町重井町に通じる三本の道路が権四郎翁の寄付で作られさらにその延長も整備されたと既に記したが、因島最北端の周回道路にも多額の寄付が寄せられていたことに気づき、改めて権四郎翁の配慮に敬服する。


29)

山門建立之碑(因島大浜町見性寺)


 因島大浜町の天海山見性寺の境内には、六地蔵の隣に基本財産としての千円寄付碑があり、寄付者は大坂鉄工所久保田権四郎と記されている。






また、目を南に転じると真新しくて、寄付額の大きな石碑が目に飛び込む(写真)。






これには「開創五百年記念事業費 一、金八百万円 株式会社クボタ」とあり、左面に平成二十七年十二月吉日とある。権四郎翁在職中はともかく、現在に至ってもこのようなかたちで権四郎翁の遺徳が継承されていることに驚くのは私だけではあるまい。

 八百万円に圧倒されて、その左側にある石碑が小さく見えるのだが、これも忘れてはならない。この山門建立之碑は昭和12年に久保田権四郎氏が父の五十回忌の供養のため山門を寄進された時のものである。裏面に「四代大出岩太郎 功徳者大阪市三男初代久保田権四郎 檀家総代世話人二男五代大出茂平 建築費都計金三千円也」と記されている。四代岩太郎の三男である権四郎翁は久保田家の養子になったのだから、そちらが何代目かであったのだろうが、大浜の大出家の分家初代であるという意味であろう。あるいは久保田家の養子になり姓は変わっていても、久保田家をまだ相続していなかったということであろうか。


 なお、写真の背後には島四国6番安楽寺がある。



30)

久保田権四郎墓(因島大浜町見性寺)

 因島大浜町の見性寺に来たら当然のこととして、次は久保田権四郎翁のお墓=写真=にお参りせねばならない。





と言っても、墓地の案内ほどしにくいものはない。あまり良い説明だとは思わないが、書いておこう。海岸からまっすぐに見性寺の参道を歩くと、正面に権四郎翁が建てた山門が見える。その向こうに墓地が広がる。ちょうど山門の上のあたりであるから、その位置をよく覚えておこう。

 権四郎翁は昭和34年11月11日、89歳で亡くなられた。

 権四郎翁夫妻の墓にお参りしたら、目の前に広がる海を見よう。






まことに天海山見性寺と言う通り海と天が広がる。見性寺は権四郎少年が通った小学校のあったところであるから、権四郎少年の眺めた光景である。海の向こうには日に日に変わっていく都会があることを権四郎少年も耳にしたことであろう。


 当時、大浜村には九州から大阪へ石炭を運ぶ石炭船を持つ家があったという。そのうちの一軒に頼み込んで、何度か九州と大阪の間を往復したのち、その間に働いた賃金を持って大阪で上陸した。明治18年のことで、まだ15歳になっていなかった。目標は鍛冶屋になることであった。







31)

大出家先祖碑(因島大浜町)

 因島大浜町の見性寺で久保田権四郎夫妻の墓にお参りしたら、さらに上に登り右側に続く小道を経て道路に出よう。少し上の右手に大出家の先祖碑がある。






それには「大出先祖太郎左衛門碑」と記されている。この人物について、重井町に残る資料から推定してみよう。永享元年(1429)に北面に勤仕した大出左衛門太夫藤原清宗の嫡男大出太郎太夫藤原宗高と弟の次郎太夫は諸国歴訪ののち因島に来た。兄は重井に住み、弟は南部に住むも、北部に移る。兄の方を重井大出氏の初代とする。2代の大出太郎太夫藤原護良の弟に大出太郎左衛門の名が見える。

この人物が大浜大出氏の祖ではないかと思われる。

 一方、5代の子三郎右衛門昭信が寛永6年(1629)に分家し大浜村に移住し大浜大出氏の初代となったとする記録もあり、これら2つの関係は私にはわからない。

 先祖碑の裏面には五代茂平の隣に大阪権四郎とある。





32)

白滝山庫裏(因島重井町白滝山)

 白滝山山頂の管理事務所は平屋造りであるが、本瓦葺き二層の屋根をもつ珍しいものである。しかし、写真からもわかるように屋根面は歪んでおり老朽化が目立つ。大正5年7月に再建が決まり、同8年4月に竣工した。その後、多少は手が入っているものの基本的には当時のままで、この状態で今後10年保つとは思われない。






 この建物の建設費の一部に久保田権四郎翁の寄付金が使われている。この事業は白滝山庫裏鐘楼再建として重井村によって行われたが、多くを個人の拠金にたよっている。

 総額1960円27銭のうちの大阪連中465円50銭で、その中に「一、金30円大阪市玉出久保田鉄工所」と寄付芳名録の京都大阪部に記録されている。






庫裏再建724円11銭、鐘楼再建431円93銭、上棟式490円99銭、寄付塚118円75銭、羅漢供養39円3銭の大事業であった。なお、鐘楼は平成7年に新築されたので、この時再建された姿を現在見ることはできない。

 権四郎翁の事業は、大正2年には従業員は1200人を超えており、更にこの頃、鋳物、鉄管だけでなく機械部門へと進出し拡大を続けていた。



33)

一番霊場改築寄付碑(因島大浜町霊山寺)

 因島四国八十八箇所霊場は、『ふるさと三庄』によると、「明治45年(1912)因島重井の大師講連中の発起で島内八十八ケ所に堂宇を設立し、大師入寂の旧3月21日を期して巡拝を始めたのが始まりである」ということである。それから既に百年以上が経過しているのだからお堂の多くは再建、あるいは再再建されているであろう。

 灯台近くにある大浜町の一番霊山寺も、立派なお堂で、これが明治末年のものとは考えにくいので、再建されたものだということは一目でわかる。古いお堂を私は知らないのだが、防波堤のない海岸にあったということだ。そして現代のものは防波堤の内側には昭和五十九年に建てられた。


 さて、お堂の前には写真のような「第一番霊場改築寄付芳名」の石碑がある。







筆頭は「一、金二百円久保田権四郎」である。ところで久保田権四郎翁は昭和34年11月に亡くなっておられるので、この石碑が現在のお堂が建てられた時のものではないことは明らかであろう。すなわち海岸のお堂が改築された時のもので、現在のお堂とは関係なさそうである。





34)

     駒島大明神(因島大浜町押場)

 西洋館、重井のお宮、中庄のお宮、大浜の灯台、外浦の干拓、鏡浦の海岸、そして最後が奥山。・・幼稚園や重井小学校のかつての遠足の行き先。こういう風に、だんだん遠くへ行くのが春の遠足のパターンだった。その頃は舗装はされていなかったが、道路は歩くためにあった。そして初夏になる前だったら炎天下を歩かなくてよいし、蛇と出会う心配もなかった。

 島四国はそれ以前にできたものだから、今では想像できないようなところを歩いたに違いない。1番から2番への遍路道も山の中を通って、今のような海岸道ではなかったのではないか。しまなみ海道より南側の大浜崎公園にある番外札所らしき薬師堂の近くの道を、かつて灯台へ行く時に通ったと言う人がいた。

 その薬師堂の近くに粗製箱式石棺(因島1号)というのがある。そこに「駒島大明神」の石碑があった。






石棺よりこちらの方が興味深い。でも、全くわからない。この近くの岩礁が馬に似ていて、それを駒島と呼んだのか、あるいは八重子島の別名か、などと妄想を抱くばかりである。大浜町の古地図にもそれらしき地名は出てこない。

 宮城県塩釜市の松島湾の南部にある無人島に駒島というのがあるので、日本三景の松島の数ある島の一つであろうが、それ以上のことはわからない。



35)

倉谷新開竣工記念碑(因島大浜町一区)

 島四国2番極楽寺は大浜公民館の前である。と言ってもはじめての人には見つけにくい。前にもいろいろあるからだ。北側の橋の下へ行く道路の反対側の崖の下である。

 お堂の前には崖にくっつくように、2つの石碑がある。一つは、「第二番大師堂新築寄付者」で昭和54年に建て替えられた時のもの。

 もう一つはお堂からさらに離れて、同じように崖に接して「倉谷新開竣工記念碑」が建っている。







右側の側面に「文久二年三月起工 明治四年十月竣工 昭和八年九月建之」と記されている。文久二年は1862年だから実に9年半の歳月をかけた大工事だった。


  大浜公民館、因島出会いの家、福山大学、因の島運輸車庫などのある一角で、第三久保田橋の架かる大川原までの国道317号線より海側。大浜町の国道より海側の干拓地としては最大のもので堤防も立派だ。




この大きな堤防(後に改修されたものだろうが)を見ただけでも当時の苦労を容易に想像することができる。


36)

倉谷神社(因島大浜町沢崎)

 島四国2番極楽寺から3番金泉寺へ行くには、国道へ出て第二久保田橋の跡のところで右折するのだが、第三久保田橋で右折して神社のところで左折し古い路地を歩くのも風情があってよい。



そこの神社が倉谷神社で、厳島神社かと思ったがそうではなかった。沢崎小宮とも言う。大河原(倉崎川)横の道は福山大学の連絡バスも走る幹線道路であるが、実は三代目である。それを私は古い順に大浜往還(古道、旧道、新道)と呼んでいる。


 大浜往還(古道)は尋常小学校に高等科が設置された時、重井村の方が少し早かったので、大浜村にできるまで大浜村の子供たちが通った山路である。村境の辺りから白滝山の登山道に接する。今でも重井町側はかろうじて通れる。

 大浜往還(旧道)はかつてあった因島消防署因北分署の近くにある塞の神の所から入るが、しまなみ海道のところで今は消えている。この峠道を通ったことが一度だけある。中学を卒業した早春、三年間担任をしていただいた大浜町の河野高三先生のお宅へお礼に行って来いと言われ、単身自転車で向かった。最頂部は切り通しでできていて押して登った。怖かったが、無事倉谷神社の前に着いた時はほっとした。15の春の遠い記憶である。

 この時のことを使った小話が偕成社から出版された時、それを読んだ母親が、ここのことでしょうと言った。母親というのは、切り通しより怖いものだと思った。

 大浜往還(旧道)が、大浜中庄間の海岸道路の花壇にある新設道路開通記念碑に同時に記されている「自大濱村至重井村大池奥崩岩線」という道路で久保田権四郎翁の寄付によるものだったということを知ったのは、更に後のことであった。(126回参照)



37)

河野静夫翁顕彰碑(因島大浜町斎島神社)

 島四国3番金泉寺からは少し戻って、倉谷神社から南へ伸びる道をゆっくり歩こう。大浜町の町の美しさは家の美しさにある。いつの頃からか「大浜は家に、中庄は庭木に、重井は服にお金をかける」と言われているが、大浜町を歩くとなるほどと思う。が、重井町についてはどうだろうか。畑着と普段着とよそ行き着があって、滅多に着ないよそ行き着はいつも新しく、お金をかけているように見えただけだと思う。そんなことを考えながら家を見ながら歩いていると斎島神社の前に着いた。今回は河野静夫先生の顕彰碑を見ていこう。

 斎島神社の石段を上がる。鳥居の手前で右側、鳥居の隣の一段上がったところを見て欲しい。




玉垣で囲まれた石碑があるだろう。これである。






南面には小さな文字でびっしりと書かれているのだが、緑青(ろくしょう)に似た色の苔やそれが枯れたのか黄色のものなどが文字を覆ってほとんど読めない。一番右側の「仙洲河野翁碑」というのがこの石碑のタイトルである。

 河野静夫翁は医業の傍ら、明治7年から家塾を開き若者たちを指導した。また明治22年には私費で立生館を建てた。これは漢学を主とし、教師兼校長として水戸の宮田裕太郎、後任に兵庫県から尾野字一郎を招いた。月白米1俵は中庄村地蔵鼻にあった所有地産米を当てた。生徒は地元因島のほか、山口県、佐賀県、高知県、茨城県などから来て、40名に達した。明治35年8月1日静夫翁没後、同年末尾野字一郎氏の子息も亡くなり閉校した。


 その他の静夫翁の顕著な仕事として、「若連中誓約書」「村定約」などを定めたことがある。また、公共事業にも積極的に関わり私財で道路や橋を改修された。



38)

黄幡神社(因島大浜町黄幡)

 河野静夫先生の顕彰碑からそのまま山道を上がると、幸崎城跡で芋神様として食饒神社が祀られていることは62回で書いた。そこを南西に向かって降りる。斎島神社の本殿の裏側あたりを西へ抜けると黄幡(おうばん)神社がある。







ちょっと見ただけでは、集会所か、ひと昔前の公民館のような印象であるが、よく見ればやはりお宮である。斎島神社のすぐ隣であるので斎島神社の境内神社か、あるいはかつては同じ敷地内であったものかなどと考えていたら、電柱の隣に社地の寄付碑があるので、全く別のものだとわかる。

 黄幡神は方位神の八将神の一つで、武芸には吉、移転普請は凶とされる。その方角は十二支によって決まっていて、子年は辰(東南東)、丑年は丑(北北東)という具合だ。その年に、この方向に土地や石を動かすのは凶と言われる。戦いの方は、この方角に対して戦いを挑めば必ず勝つとも言う。

 社地寄付碑の隣に久保田権四郎氏の寄付碑があった。大正14年7月のもので「一、金百円 久保田権四郎」とある。







 現在の建物は昭和55年に改築されたもので、地区の集会所としても使用されている。





39)

五島家先祖之碑(因島大浜町見性寺)

 いつの間にか島四国に沿って、その周辺を案内しているような形になったが、必ずしもそうしてはいない。でも、さらに南へ進むことにしよう。4番大日寺横の福泉寺については既に記した。次は5番地蔵寺であるが、大浜町を周遊するときは遍路道沿いに通らず山側を南に向かい海側を北に戻る。見性寺へは大出先祖碑の横の路地から墓地へ入り、久保田権四郎夫妻の墓にお参りして下る。オハヨー、オハヨーという九官鳥かインコか私には識別できないが人語を発する鳥のさえずりの聞こえる坂の近くに珍しい先祖碑があった。「五島家先祖之碑」と大きな文字で彫られている。




何が珍しいのかというと、五島氏という姓がもはや大浜町では珍しいのである。だから裏へ廻って何か書いてないかと見ると、「昭和十四年四月吉日 五島家一門建之 発起人五島俊吉」とあるではないか。




昭和十四年には驚いた。周辺の地衣類は確かに永い歳月を感じさせるが、文字を彫ったところは真新しい。石屋さんによる修復がなされたのかも知れない。

 さて、発起人の五島俊吉氏は初期の久保田権四郎氏の協力者の一人である。だから、小・中学生が久保田翁記念碑マップを作る時は、この先祖碑も是非入れてほしいものだと思う。



40)

小田原大造頌徳碑(尾道市向東町古江浜)

 久保田鉄工の第3代社長を勤められた小田原大造氏の頌徳碑が向東町の古江浜公民館の前、消防団の器具庫の隣にある。








このように書くと、向東町も大浜町も海を隔てて近いので、他の大浜町の出身者と同様に、同郷のよしみで入社し久保田権四郎氏の協力者になったのだろうと思うだろう。ところがそうではないのだ。小田原氏の勤める関西鉄工が久保田鉄工所に買収されたため久保田鉄工所の社員となった。権四郎翁の知遇を得た後に、郷里を近くするという特別な信頼感もあったことは十分考えられるが、運命というものは不思議なものだ。

 頌徳碑の台座には「大阪商工会議所会頭 久保田鉄工KK社長 小田原大造殿」と書かれている。


40)

           

小田原大造頌徳碑(尾道市向東町古江浜)

 久保田鉄工の第3代社長を勤められた小田原大造氏の頌徳碑が向東町の古江浜公民館の前、消防団の器具庫の隣にある(写真)。このように書くと、向東町も大浜町も海を隔てて近いので、他の大浜町の出身者と同様に、同郷のよしみで入社し久保田権四郎氏の協力者になったのだろうと思うだろう。ところがそうではないのだ。小田原氏の勤める関西鉄工が久保田鉄工所に買収されたため久保田鉄工所の社員となった。権四郎翁の知遇を得た後に、郷里を近くするという特別な信頼感もあったことは十分考えられるが、運命というものは不思議なものだ。

 頌徳碑の台座には「大阪商工会議所会頭 久保田鉄工KK社長 小田原大造殿」と書かれている。



財界人としての多彩な活躍と功績については尾道市や向島側の資料に譲ることにして、本稿では久保田鉄工での功績について記そう。


 3代目社長といっても、権四郎翁が78歳で社長を辞め、子息久保田静一氏が1949年2月から2代目社長となるも、翌年1月から小田原大造氏が社長に交代しており、実質的には権四郎翁の後継者と考えてもよいだろう。その後18年間社長を勤めた。戦後の会社再建と、資本金の増加を達成した。またどこの会社でもありがちな同族企業からの脱皮なども行い世界的な大企業に飛躍させた功績は大きい。

 なお、1953年に久保田鉄工所株式会社から久保田鉄工株式会社へと社名が変更された。現在は株式会社クボタであるが、我々の世代はクボタ鉄工と言い慣れている。

写真)。財界人としての多彩な活躍と功績については尾道市や向島側の資料に譲ることにして、本稿では久保田鉄工での功績について記そう。

 3代目社長といっても、権四郎翁が78歳で社長を辞め、子息久保田静一氏が1949年2月から2代目社長となるも、翌年1月から小田原大造氏が社長に交代しており、実質的には権四郎翁の後継者と考えてもよいだろう。その後18年間社長を勤めた。戦後の会社再建と、資本金の増加を達成した。またどこの会社でもありがちな同族企業からの脱皮なども行い世界的な大企業に飛躍させた功績は大きい。

 なお、1953年に久保田鉄工所株式会社から久保田鉄工株式会社へと社名が変更された。現在は株式会社クボタであるが、我々の世代はクボタ鉄工と言い慣れている。


41)

因島船渠碑(尾道市因島土生町平木区)

 因島警察署(現在は尾道警察署因島分庁舎)の南西は因島病院の駐車場でかつて日立会館のあったところだ。

 その日立会館の海側に無造作に自転車を駐めて映画を見に行った。たいていが定期考査の最終日の午後だった。「猿の惑星」「007は二度死ぬ」「天地創造」「華麗なる賭け」「ドクトル・ジバゴ」、そして幾つかのマカロニ・ウエスタンなどなど。半年か一年遅れのものだったが今から思えば悪くない選択だった。と言っても自分で選んで見たのではない。メダカが群れるように、合流してついて行っただけである。というような50年以上も昔のことを思い出しながら歩いていると、宮島さんの前に巨大な石碑があった(写真)。





 戀(恋)田清三郎、弓場定松、橘富太郎の三氏が明治29年に因島船渠を作ったと書いてある。この石碑の文字は大正5年9月に書かれている。

 一方、昭和43年に発行された『因島市史』では確定できるような記録がないと書いてある。大正5年なら関係者の記憶や、多くの記録もあったことだろうから間違ってなかろうと思う。


 ところで、この巨大な石碑は50年ほど前もここにあったのだろうか。まったく記憶にないということは、まったくこういうものに興味がなかったということでもあるが。

42)

升浜道路改修記念碑(尾道市因島中庄町浜床)


 220回で紹介した浜床団地入口の「切切念郷」の久保田権四郎翁顕彰碑は大山トンネルを経てしまなみ海道へ行くのに通る幹線道路沿いであるから、多くの人がその前を通っていることだろう。そしてその大きな石碑に目を奪われるから、その下にある道路改修碑を気にかける人は少ないと思う。

 この小さな石碑には、上部に二段にわたって右から「字(あざ)升浜道路改修記念碑」と書かれている。その下には小さな文字で寄付者名が金額とともに並ぶ。注意してみると、最初の二行は「大正十三年一月建」、「一、金六百五十円本村補助」と読める。






 丸池の手前あたりから浜床まで、土生新開の北端にある道路だろうか。主に江戸時代に行われた干拓地の道路が明治時代以降に改修されのは、さらに沖に干拓地ができることと、人口の増加が考えられるし、また交通機関の発達も考慮せねばならない。この時代は荷車が通れるような道路にすることが主な狙いだったと思われる。こういう状態がしばらく続き自動車が通るようになるのはもっと後の時代である。

 また、道路の発達と人口増加は関連性は高いのであるが、この周辺の人口が増加するのはもっともっと後のことであるから、この道路改修の主たる狙いは今でいう農道のようなものだったのかもしれない。


 土生新開は江戸時代よりも前の干拓地であるが、江戸時代にさらに東の鼠屋新開ができて、田んぼや畑が増え、最近ほどではないにしても明治時代になってから周辺人口も少しずつ増えていたであろう。そして元の海岸線と土生新開の境目が道路らしくなったのではないかと想像する。そして道路が整備されればさらに家も増えた。




43)

鼠屋新開道路改修記念碑(尾道市因島中庄町新開)

 前回浜床の大正十三年の道路改修記念碑が新開池の道路整備であったが、同様のものが少し東にもある。鼠屋新開にある道路改修記念碑で「本村字自鼠屋新開至油屋新開唐樋道路」と中央に描かれている。



 また左側面には「大正四年八月建之」と描かれており








前回のものと比較すると、干拓地は西から東へと伸びておりながら、道路改修費は東側の方が少し早いということになる。普通なら干拓地が沖へ沖へと伸びれば、それを追うように人が移動するのであるが、ここでは逆転しており、興味深い。


 これは中庄湾を挟んで存在していた中庄村と大浜村が鼠屋新開、油屋新開によって、結ばれたことによる経済効果の表れではないかと思われる。その一つは大浜村からの移住者が多かったのではなかろうか。この近くに村境があり、村境内であれば同じ村内の移動であったから他村への移住というほどの抵抗はなかったと思う。それに峠を越えれば近い。現代人の感覚とは異なると思えばよい。




 現地の方のファミリーヒストリーをお聞きしたわけではなく、あくまでも私個人の想像ではあるが。



44)

 旅順戦勝記念埋立地碑(尾道市因島中庄町徳永)

 因島中庄町徳永の入川橋の所は、164回でも少し書いたが、4歳の私が昭和30年に何回か訪れており、それより古い記憶はほとんどないので、私の最古の記憶を甦らせる特別の地である。

 そこには多くの石碑があるのだが、今回は川べりにある旅順戦勝記念埋立地碑という珍しい石碑について紹介するが、正面に書かれた文字(写真)を解釈するのは難しい。







明治38年1月2日の旅順開城の勝利を記念するということと埋立が決議されたことが書かれている。そして39年4月にこの石碑を建てた。

 戦勝記念と言ってもまだ日露戦争が終わったわけではない。有名な日本海海戦に勝利するのは明治38年の5月末である。バルト海を明治37年10月に出港したバルチック艦隊が到着する前に、難攻不落の旅順要塞を落とし、旅順港を押さえておくことが至上命令だった。

 苦戦を重ねたが1月1日にロシア軍が降伏を申し入れ、2日に戦闘は中止された。この勝利で戦況に希望が見えてきたわけだ。旅順港を支配下に置いたということを祝して、入川港の一部の埋立工事に着手し、翌年5月に竣工してこの石碑を建てたということだろう。

 裏面には亀山峰樹二代目村長のほか助役、収入役、書記、村会議員12名の名前が記されている(写真)。







 おそらく、この石碑はその埋立地にあったものが、後にここへ移されたものだろう。



45)

入川橋寄付碑(尾道市因島中庄町徳永)

 前回の旅順戦勝記念埋立地碑の隣に入川橋寄付碑がある。中央に「入川橋寄付者」とあり、その両側に宮地知輿(与)市、村上竹吉の二人の名前が大きく書かれている。そして周囲に60数名の人名がやや小さく書かれている。金額などは書かれていないのだから、なぜこの二人だけか大きな字で書かれているのかわからなかった。

 右(北)面に「人夫村中 大正三年十二月 寄付者世話人席順抽籤」とあり、世話人5名の名もある。

 ということは大きな文字の二人を含めて籤(くじ)引により決めて、全員の氏名を記したようだ。二人だけ大きな文字になっているが、これはバランス上そうしただけなのかもしれない。

 上記のことから大正三年十二月に入川橋が架設されたことがわかる。毎年のように各地で道路改修が行われているが、自動車が出始めるのはまた後のことだから、荷車の普及が急成長していたのではないかと思う。道路改修というと道幅の拡張が主となるのだが、荷車が普及すれば山道や峠道を避けて、多少遠回りになっても、段差のない道が要求されたことであろう。また新開池の活用が広がるとともに道路網の整備が必要となり、河川に架かる橋が沖へと増えていくのも必然だった。






資料

右(北)面「人夫村中 大正三年十二月 寄付者世話人席順抽籤 世話人 村上竹吉 横山直三郎 村上卯太郎 小林佐吉 横山開治」


46)

           写真・文 柏原林造

電燈寄付票碑(尾道市因島中庄町徳永)

 前回の入川橋寄付碑のさらに右側(北側)に「電燈寄付票」と書かれた石碑がある。






表面には寄付額に応じて三段に分かれて氏名が書かれている。上段が近40円から20円で金額と氏名。中段が「金拾円宛」の氏名、下段が「金五円宛」の氏名である。

 左面(南面)に「大正十年七月寄付 電燈建設及基金積立」とあるから電気事業が始まった頃のものである。






『因島市史』等によると、大正4年6月因島電気株式会社が創立されて、田熊町の扇屋新開に発電所が置かれた。はじめは30kwの発電機で田熊、三庄、土生長崎から供給が開始され、その後発電機を増設し、大正5年頃に中庄、重井と各村へ拡張された。


 石碑との年代のズレはどう解釈したらよいのだろうか。単純に考えると、中庄村への給電の拡張には地元負担が要求され、大正10年7月頃から中庄村の大部分で電燈の使用が可能となった。そしてそれ以前には、ごく一部で中庄村でも使用が可能だったということだろうか。



資料


左(南)面「大正七年寄附 電燈建設及基金積立 発起者 世話人 小林佐吉 横山開治 村上卯太郎 村上和三郎? 田頭悌□郎」 




47)

奥古江油屋新開道路改修碑(尾道市因島中庄町新開)

 丸池の東側に島四国8番熊谷寺がある。その隣にも道路改修碑がある。最上部は右から横書きで「特別寄付者」とある。その中央の下に「字」とあり、その下に2行にわたって「自奥古江」「至油屋新開」、そして1行で「道路改修之碑」と書かれている。






 それぞれの字(あざ)は広いからどこを改修道路の起点と考えるかは、石碑だけからでは難しい。

 しかし、242回の升浜道路改修碑、243回の鼠屋新開道路改修碑の工事と接するのではなかろうか。特に後者は大正4年8月で、今回のは右面に大正3年10月とあるから、その関連性は高い。







 大正3年は1914年であるから、百年以上も前の話で、道路そのものもその後拡張されたり直線になったりしているだろうから、当時のことを想像するのは難しいが、広大な干拓地の発展の歴史が伺える貴重な石碑である。 

 なお左面(南面)には「関係反別五町三反六畝七歩」とあるが、風化して読みにくい。




48)

警鐘台・敷地等寄付碑(尾道市因島中庄町新開)

 私の世代では半鐘台、一世代前の言葉では警鐘台と呼ばれた施設は、地域の安全は地域で守るしかなかった時代を象徴するものであったが、現在は多くの地域で撤去され人々の記憶から遠ざかった。

 因島中庄町浜床の石碑の前から新開の丸池へ向かうと、途中の三叉路の近くに、かつて半鐘台があったことを示す石碑があった。






 右側の石碑には警鐘台、警鐘、敷地の寄付者、世話人の名前が書かれており、大正14年8月に建てられたものである。また「人夫新開組中」とあり、地元の方が設置作業に協力したことがわかる。

 その左の石碑には「消防喞筒一台 喞筒倉庫 敷地」の寄付者、世話人の名前が書かれていて、昭和6年4月に建てられている。「喞筒」の漢字の読める人は多くない。消防ホースの先端のノズルが想像されるが、それだけでは石碑に記すこともあるまい。「喞筒」はポンプのことである。もちろんポンプだけでは消火活動はできない。ホースとノズルのついた一式だったのだろう。

 昭和6年の消防ポンプがどのようなものだったか知らないが、おそらく車輪のついた人力ポンプで荷車の上に載せたような格好をしていたのではないかと想像する。

 それはともかく警鐘台も消防ポンプも中庄村の事業ではなく、地元住民の篤志によって設置されたことがわかる。


49)

ガソリンポンプ等寄付碑(尾道市因島重井町公民館)

 前回の消防喞筒(ポンプ)は人力ポンプだと思うが、昭和4年にはガソリンポンプもあったことがわかる石碑が重井公民館の東側駐車場の入口にある。






 昭和4年12月に建てられたもので、中央に「ガソリン喞筒及警鐘台寄付録」と書かれている。その隣には「一、金千円村費補助」「一、金千七百五十円寄付」とあり、寄付者は百円が12名、五十円が11名で合計金額と合う。石碑にはさらに、消防旗の寄付者一名と世話人6名の名前が記されている。

 昭和4年にガソリンポンプを購入したのは画期的なことであったのだろうが、これは村で唯一のもので、村内のそれぞれの地区には、人力の消防ポンプが設置されていたものだと思う。というのは昭和30年頃に、私はその人力の消防ポンプの一つを見たことがあり、その後ガソリンポンプに変わっていったのか、それが最後だったからである。


 その昭和4年に購入したガソリンポンプは見たことはないが、この時建てられた警鐘台というのは、善興寺参道の東側、現在の東側の駐車場にあって、小学生の頃よく見ていた半鐘台のことだろう。私の記憶では時報や災害時のサイレンが上についていたと思う。多少は補修されたものであろうが、昭和4年に建てられたものだと思っている。が、今は存在しない。


50 光平線道路改修記念碑(尾道市因島中庄町)

 因島消防署から大山トンネルへ向かう県道120号線の左手に写真のような大きな石碑があるが車を運転していたら見る暇はないと思う。青影山への登山口にある仙境地蔵菩薩堂の県道を隔てて反対側である。

 中央に縦書きで「中庄村光平線道路改修記念碑」と書かれている。登山道が東から西へまっすくに上がって行く。この道路のことであろう。上面には右から「皇儲御成婚記念 大正十三年竣工」と二段にわたって書かれている。「皇儲」というのは、難しい。消防喞筒も苦労したが、今回はさらに難しい。皇太子御成婚記念という意味だろうが、右から2番目の文字は「太子」とは読めない。解読した手続きは長くなるので結論だけ書くと「こうちょ」と読んで天皇のよつぎ、皇嗣、皇太子のことである。 

 所在地も光平区か山口区か大江区かわからない。三地区の境界付近であり、地図だけではどちらに属するのかわからない。


51 中須賀峠道路改修記念碑(尾道市因島中庄町峠)

 因島中庄町は山で囲まれているので峠は至るところにある。今回は西浦峠について記す。とはいえ、近くに住んでいる人を除けば、青影トンネルがあるのだから、わざわざその上まで行く人は多くないだろう。そのせいかそのトンネルの上へ行く道を探すのは難しい。いつもの横着な説明を踏襲すれば、島四国15番国分寺を目指せばよい、ということになる。

 青影トンネルの上に写真のような道路改修記碑がある。

 それには「自字中須加権防至峠道路改修記念」と彫られている。右に小さく「大正五年竣成」とある。因島消防署があるところが中須賀池があったところだからその近くから峠に至る道路のことだろう。現在では東から来た車で青影トンネルを通るには消防署前の信号で右折して左に大きくカーブする。その直後、トンネルの少し前で、国道から外れて右へVターンしてさらに別の坂道へ上がる。すると普通車がかろうじて通れるような道が峠まで続く。西浦峠旧道である。おそらくこの道路が大正5年に拡張整備されたのだろう。ただし進入路付近はのちに青影トンネルができたとき大きく変わったと思われる。そしてまた間もなく新しいトンネルができるとこの辺りの状況は更に変貌すると思われる。

 峠だから反対側、すなわち西浦側からも当然来れるのだが、実は難しい。また、光平の方へ通じる道や田熊町へと続く道があるが、これらの道は狭いので注意が必要だろう。

 さて、記念碑だが、下の段に金額では百五十円が本村、百円から五円までの寄付者63人の名前が書かれている。加えて「十六円西浦組中」と「百四十二円七十銭外百十人」と左隅にある。これだけ多くの人が協力したということは、この道路が当時としては主要な道路だったことがわかる。



52 梶田上畑道路改修碑(尾道市因島中庄町水落)

 因島中庄町の西浦峠から島四国15番国分寺の横を通って、小山の東側を迂回するような形で南へまわると水落・光平地区へ出る。と書いても、その境目がどこかわからないのであまり意味はないのだが、要するに消防署の上の方とその左の青影山北麓である。そのあたりには傾斜の大きい深い溝が時々見えていかにも水落という感じがするが、消防署から少し離れたところ、島四国16番観音寺近くに消防団の消防器具庫がある。正確には消防屯所というのだろうか。その前の防火用水に接して写真のような道路改修碑がある。消防署が近いのだから消防器具庫というのもおかしなことで、いずれ整理されるかもしれない。そうなったら、ここの記述も早晩古びてしまうが。

 さて写真を見ていただきたい。前回の石碑とよく似ていて、左右を反対にしただけだと思う人がいてもおかしくはない。フィルムの時代は裏表を間違えればそういうこともあったかもしれないが、デジタル画像であるから意図的にしない限りそういうことはありえないのである。どちらも自然石をうまく利用していて、当時は景観ともよく合ったことだろう。同じ石工の作品かもしれない。でも、アスファルト道路には似合わない。

 石碑の上の段には右から「字自梶田至上畑道路改修碑」、その上に小さく「大正十一年秋竣工」と書かれている。現在各町で残っている字(あざ)を書いた地図には、掲載されてないが、その下にさらに小さい字(あざ)があって、現在では日常的に使われない地名がある。「梶田」「上畑」というのもその類で、土地台帳、登記簿、あるいは固定資産税の明細などを見ないと、正確な場所はわからない。

 下の段は寄付額と寄付者名であるが、一番上の右側は「一、金千五百五十五円本村」と読める。ここもまた一部を村費で負担し、地元民の寄付金で道路改修がなされたことがわかる。



53 聖歓喜天・大師堂土地等寄付碑(尾道市因島中庄町水落)

 島四国16番観音寺へ行ってみよう。二つのお堂がある。正面は島四国の大師堂だからお堂。向かって左側の少し高くなっている方が、聖歓喜天だから、祀るというので、お社(やしろ)と書くべきかもしれないが仏教系の神様だからお堂でもよいだろう。聖歓喜天はご利益も多いが、守るべきことも多いせいか因島には少ない。

 さて境内からの眺めは東の方がよく見えて素晴らしい。

 境内に写真のような石碑があった。これまた自然石をうまく利用している。わずかな文字だから全文写しておく。「大聖歓喜天祠堂壱宇 大師堂敷地二畝廿八歩 右寄付者松浦萬吉 一、金壱百円也基本金 右寄付者中井勝太郎 大正拾壱年三月」。

 島四国が設置されたのが明治45年。初めは仮設のお堂のようだったものが、約10年後にしかるべき所におさまったということであろうか。大正時代も遠き昔でよくは知らないが、大正11年には、前回のように道路も広くなるし、お堂も整備される。活気にあふれていたよい時代だったのだろうと思う。 


54 水落西久保道路修繕碑(尾道市因島中庄町水落)

 島四国16観音寺と聖歓喜天よりさらに高いところに写真のような石碑がある。

 上段に「自水落至西久保道路修繕」と書いてある。右に小さく「大正七年九月」とある。 

 青影トンネルの上、すなわち西浦峠の島四国15番国分寺から南側の水落地区へ行く道は2つある。国分寺のすぐ横を通る道と、下を通る道がある。島四国遍路道は上の方を通る。下の方の道だったらまもなく右手に石垣のある赤雲神社に着く。ここから16観音寺と聖歓喜天は近いが道は複雑だ。もう一つの上の方、すなわち国分寺のすぐ横を通る遍路道では途中で左下へ降りる。今回は左下へ降りずに、左下へ降りる手前で右手方向へ登って行く。これは青影山と龍王山との間の峠道へ続く道である。小字(あざ)を書いた図と現在の地図を重ねるのは難しいが、小字の水落も西久保も狭い範囲だからこの辺りの道路ということになる。

 下段はほとんど読めない。右端に「一、金七十五円本村」とあり、左へ金額と人名が並んでいるようだ。個人の寄付だろう。中庄村の村費と地元民の寄付によって道路の整備が行われていたことがわかる。農道のような感じがするが、田熊方面への通勤路でもあったであろう。我々は今外周の低いところを通ることが多いが、歩くだけなら峠を越える山道は想像以上に短い。 


55 青木道路改修碑(尾道市因島重井町青木)

 因島重井町の青木道路改修碑も干拓地に建つ道路改修碑である。

 中央に書かれている「本村字青木道路改修碑」は「青木道路の改修碑」ではなく「本村字青木の道路改修碑」と解すべきで、青木道路という道路名があったわけではない。しかし、重井郵便局の隣を南東に伸びる路地を青木道路と呼んでも誤解はないと思う。その道路は青木沖新開と長右衛門新開の山側の道で、明治40年3月10日から10月10日まで6ヶ月をかけて改修された。明治30年に測量された地図によると現在の郵便局のところに村役場があり、かつては幹線道路であったと思われる。また、江戸時代初期の干拓地であるが一面が畑地であって水田ではない。

 工費に関する記述が左側面にある。「改修金高壱千三百八拾八円」の内訳として六百円が村費補助、七拾三円が特別寄付、三百拾九円が関係寄付とある。関係寄付というのは周辺住民の寄付金で、特別寄付は村内有志の寄付と考えられる。
 さらに金三百九拾六円が人夫壱千三百二拾人とある。人夫一人当たり0.3円すなわち30銭になる。これが当時の日当であろうか。そのように計算して加えているから、無料奉仕を工費に換算して加えたものである。収入金額に人件費を合わせたものを改修金として計上しているので、現在の感覚から考えると紛らわしいが、以上のように考えるしかない。


56 大正橋青木新道寄付碑(尾道市因島重井町小林)

 因島重井町の重井駐在所の隣に「大正橋青木新道寄付碑」と書かれた石碑がある。

 左(南)面に「大正十二年二月起工 同十三年三月竣工 人夫八百八十三人」とある。大正十三年に大正橋が架かるとともに、そこから前回書いた青木道路まで新らしく道路が作られた。青木沖新開のほぼ中央を東西に貫く道路である。

 右面に書かれている「一、金高二千五百七十円八十銭」が総工費だと思われる。また、正面には金額と寄付者名が書かれており、本村補助が三百五十円であることもわかる。正面左下に関係寄付として7名の名前しかないのは、新道を作るのだから当然といえば当然である。しかし、南北に走る2つの道路が結ばれるのは何かと便利であり、村の発展には不可欠であった。その後干拓地の宅地化が急速に進んだことと想像される。

 舗装道路になる前のこの道を知っている人は、この新道が、あたかも干拓地の堤防跡のように見えたことを思い出すだろう。異なる干拓地の境界と思った人もいたと思う。しかし、古い地図ではこの道路ができる前は一面の畑地であったから、両側は同一時期の干拓であったことがわかる。


57 山田大池道路改修記念碑(尾道市因島重井町山田口)

 明治45年に創設された島四国は本四国のイメージを生かすためにさまざまな工夫がなされている。重井町の83番一宮寺を字「一ノ宮」へ設置するため、あるいは一の宮があった所に設置するために、その前で、不自然と思えるほど南北へ行きつ戻りつするようになっている。その一宮寺へは82番根香寺から県道沿いに南に進むが、一本松の手前で県道から別れて狭い道を直進する。

 その分岐点に山田大池道路改修記念碑がある。南向きに建てられれおり、その中央に「本村 自字山田至字大池 道路改修紀念碑」と書かれている。記念碑でなく紀念碑と書かれているところに時代が感じられる。左側面に「維時明治廿五壬辰年仲秋」とある。その頃はまだ漢字の用い方はおおらかであった。

 また、近くには「八十三ばん」(ばは者に濁点)の遍路道標や、それぞれ「中庄村行」と「はぶ たくま行」を別面に書いた道標などがある。

 遍路道標の指示方向(南)の右手に丘があるだけで、周囲はかつては海だった部分であるが、左前方は、しまなみ海道の本線を作るのに削られた土で埋められ、今では干拓地だったことを想像するのは難しい。


58 脇田舟原道路改修記念碑(尾道市因島重井町川口)

 重井町の青木道路の南の端である川口大師堂(島四国84番屋島寺)下には古い石碑がある。文字は鮮明ではないが、「本村字 自脇田至舟原 道路改修記念碑」と正面に書かれている。脇田も舟原も現在はほとんど使われることのない字名である。ここから一本松までの道路改修が明治二十七年五月十日起工、十月三日落成で行われたということである。 

 右(西)面に、金高四百七拾七円、その内訳は村費補助が三拾五円、特別寄付三拾一円、川口中寄付百八十一円、人夫千百五十人二百三十円

と書かれている。人夫費は、一人当たり20銭として無賃奉仕を総工費に計上されたものと考えられる。また岩の寄付者四名も記録されている。

 さらにまた裏面には、明治四十四年初秋再改修の記録が追加されている。それには、金八百六十二円八十銭改修費、内訳金百四十円村費補助 、 金十五円特別寄付 、金三百三十七円七十銭川口中寄付、金三百七十円十銭人夫千四百八十人 などと記されている。最後の人夫数と金額は一人当たり25銭としても数値が合わない。半日程度の奉仕を10銭と計上したのかもしれない。

 前回の山田大池間が明治25年、青木道路が明治30年と、次々と道路改修が行われていたことがわかる。



59 舟原広道道路改修記念碑(尾道市因島重井町一本松)

 因島北インター入口と大浜方面へ向かう側道入口の中間辺りが重井町と中庄町との境界である。そこから一本松までの現在では県道になっている道路が明治26年に改修された。その道路改修記念碑が重井町一本松に青木城跡を背にして建っている。

 中央に「本村字 自舟原至広道 道路改修紀念碑」とあり、左右に「明治廿六年一月起工 明治廿六年五月落成有志者立之」と書かれている。

 右側面(東面)には「金百五十円村費補助 同三十円特別寄付 同二百七十三円関係中 人夫四百四人村内合力 同千九百人関係中」とある。関係中というのは周辺住民ならびに田畑の所有者だと思われる。また字灰ノ奥と字池ノ迫の岩の寄付者名と三庄村石工篠塚音松とある。石工として工事にかかわったということか、この石碑の製作者ということかはわからない。おそらく両方であったのだろう。 

 なお、右側には昭和2年に久保田権四郎翁の寄付により、再改修と大浜へ向かう旧道の整備が行われ、その記念碑がある。それについては19回で紹介した。


60 吉備津彦命の祠(尾道市因島重井町一宮)

 島四国83番一宮寺のお堂の中には重井村四国1番霊山寺がある。また一宮寺のお堂の外、右側には小さな石の祠がある。祠の中には吉備津彦命と彫られている。また、左右の側面(外側)には「イ組ロ組中」「明治二十九年」と書かれている。

 一の宮というのはその地域で社格が1番の神社という意味であるが、

備前国一の宮が吉備津彦神社、備中国一の宮が吉備津神社でともに吉備津彦命を祀っている。その分社は各地にあって新市町にあるのは後者の分社で備後一の宮である。また、一の宮のある所の地名が一の宮になっているところは全国的に多い。だから、ここも、もともと一の宮と呼ばれていたところへ、明治45年に島四国一宮寺をもってきたことがわかる。

 重井町の字(あざ)「一宮」の近くに「友貞」がある。「友貞」は因島村上家文書の三に、放生会のため友貞名の田を1286年(弘安9年)に寄進したと記されているから、ここもかつて友貞という人の所有だったことがわかる。

 これらのことから、荘園・中庄の重井浦として、この辺りから開発されたと考えてよい。なお、重井庄と記されるようになるのは1337年(建武4年)以降である。

 現在の浜床を通るルートは土生新開ができてから後にできたものであるから、奥鹿穴、あるいはもっと運動公園寄りから重井浦へ通じるルートをへて、中庄の荘園が重井方面へ広がり、重井浦から重井庄となった。重井浦というからこの辺まで海水がきており、今と違って護岸壁などはなく、草の生い茂った湿地帯、すなわち繁の井であったのであろう。


61 青木早嵐道路改修碑(尾道市因島重井町八幡神社)

 島四国88番大窪寺前の重井町八幡神社境内には、外から見えるように東を向いた石碑が何基かある。その一つが青木早嵐道路改修碑である。






これまでも青木道路と繋がる道路改修碑を書いて来たが、今回のもその一つである。そしてこの道路は、例の両端にブルーラインが書かれたサイクリングロードである。この道は青木城跡の東側で、かつては海側の伊浜新開と山側の農事試験場に挟まれた八幡神社の裏参道であった。しかし、因島大橋開通後、フラワーセンターが出来た時、大きく改修され、この石碑にある改修の面影はなくなったと考えてよい。

 これまで紹介したのと似たパターンで中央に「本村字 自青木至早嵐 道路改修碑」と書かれており大正四年二月起工、同年五月竣工である。

 北の端は白滝山フラワーラインの入口よりさらに北寄りの、重井中学校から伸びる道路と接する辺りではないかと思う。

 石碑の左面から総工費が壱千三百三拾八円十六銭で、内訳として村費補助が四百円、特別寄付四拾二円二十銭、関係者寄付四百七拾五円六銭、関係者出勤人夫壱千四百三人であることがわかる。

 集まったお金に、人夫一人当たりの日当を30銭(0.3円)として計算した額を加えたものが総額となっているのだから、関係者出勤というのは無賃の勤労奉仕であったということであろう。現金の支出としては材料費や石工等の職人への手当ての他、出勤人夫への弁当代などが含まれていたとしても、この書き方と矛盾はしない。


62 高浜通谷道路改修碑(尾道市因島重井町長崎)

 重井町北西端から見る光景は、左から佐木島、宿袮島と三原方面、細島、馬神城跡とまことに美しい。特に満潮の頃になると海面の反射が引き立つ。

 そこのゴミステーションの隣に大きな道路改修碑がある。

 中央に「本村字 自高浜至通谷 道路改修碑」、右左に「明治廿八年四月廿一日起工」「明治廿九年四月廿二日落成」と書かれており、丸一年を要した大工事だったことがわかる。左面には総額八百七十二円、内訳として村費補助百六十円、関係寄付百四十三円、特別寄付七十一円、そして人夫三千三百廿人四百九十八円と書かれている。人夫一人当たり15銭(0.15円)という計算になる。総額の内訳の中に他の収入と並べて書いてあるということは、支払った額ではなく無賃奉仕を一人の日当15銭として計上したとしか考えられないのは、これまでと同じ。でも人数が多いので、再度考えてみよう。普請、人足、人夫などという言葉はもともと無賃奉仕に対する言葉だった。協力を「あまねく請う」のが普請。「万葉集」に出てくる防人(さきもり)、江戸時代の城普請に駆り出された農民も、日当などもらっていない。日当という考え方自体が極めて現代的なのかもしれない。

 村普請、略して「むらぶ」あるいはさらに略して「ぶ」と呼ばれるものが、かつてはよく行われていた。

 なお、高浜はこの石碑のあたり、通谷は鬼岩のやや北側。


63 須越樋口道路改修碑(尾道市因島重井町公民館)

 重井公民館の駐車場横の花壇の中にも道路改修碑がある。駐車場入口のガソリンポンプ等寄付碑の裏である。南の一段高くなったところの道路の改修が行われたことを示す。だから、石碑は南向きに設置されている。

 そこには、これまでと同様に中央に「本村字 自須越至樋口 道路改修碑」、そして右左に「明治廿七年十一月起工」「明治廿八年五月落成」と書かれている。

 そして左面にはその費用についての記録がある。まず「金高 三百五拾円六十四銭」とあり、これはその下に書かれてある内訳金の合計に一致する。しかし、左側には「右 人夫二千八十六人 金三百四拾一円八十五銭」とある。一人当たり約十六銭である。

 さて、この「右」は何を意味するのであろうか。見ただけなら、支出における人件費と思うだろう。しかし、これまでの例と同様に考えれば、無賃奉仕の人件費を加算したものを総工費と考えるべきであろうか。この書き方ではどちらかわからない。

 内訳金については、関係寄付八十二円廿二銭、村費補助百六十円、特別寄付八十九円九十二銭。これは世話人の寄付のようだ。そして残りの拾八円五拾銭については文字が読めないのでわからないが、細島、岩子島、忠明、寄付などの文字がかすかに読める。

 この道路は須越のバス停から公民館の上を通って、大小路、南小路の接する交差点までである。その交差点には、明治31年の大小路南小路道路改修碑が建っている。


64 道路改修碑(尾道市因島三庄町二区)

 因島三庄町善徳寺から南へ向かうと、峠の上で左右にバス通りに降りる道が別れる。ここの三叉路に道路改修碑がある。そのバス通りは因島市時代は市道土生三庄線と呼ばれていたが、今でもそれでよいのだろうか。 






 その石碑には右から左へ三行にわたって次のように記されている。「大正十二年三月」「道路改修記念碑」「建設昭和十五年五月」。

 これは何を表しているのだろうか。記念碑が先にできて後から工事が行われるということはありえないから、大正十二年三月に道路改修工事が完了し、昭和十五年五月にこの石碑が建てられた、と解釈するしかあるまい。まことに不思議なことであり、理解に苦しんだ。昭和昭和十五年に何があったのだろうか。

 昭和15年は神武天皇即位紀元2600年にあたり、国を挙げての記念行事が行われた年だとわかった。その祝賀行事の一つだったのだろう。

 石碑には土地寄付者が10人とその面積、設計者、石材寄付者、木材運搬者、道路委員7人、記念碑建設委員8人の名称が記されている。なお右端に書かれている金三百円、通組、土地二畝などの文字は解読できなく、解釈を保留しておく。(金三百円之通組替地二畝であろうか? でも意味はわからない。通というのは東端の地区名)

 ともかく昭和15年の祝賀行事を彷彿させる貴重な石碑である。


 この石碑に接するように道標があり、隣り合った2面に「左土生田熊村」「右中庄村」と書いてある。これは現在地の反対のところにあったものと考えられ、山側が中庄村方向だろう。また、道路改修碑よりも古いものだと考えられる。




65)

千守道路記念碑(尾道市因島三庄町一区)


 前回の市道土生三庄線の道路改修工事碑の三庄町側の終点では南北に走る道路と接する。その道路は現在は海側に新しく作られて海岸道路となっており、北側が水軍スカイラインとなって椋浦方面へ続く。千守から椋浦峠までの道路改修を記念した石碑が地蔵堂(金比羅堂)・島四国29番国分寺の前の広場にある。






もちろん護岸工事や舗装改修やらのインフラ整備は日常的に行われているのだから、現在の姿とこの石碑建立時の改修による姿とは想像できないほどの隔たりがあると思ってよいだろう。しかし、立派な記念碑が建っているのだから、画期的な改修が行われたことは確かだと思われる。また、この石碑から三叉路への海岸通りはもっと後にできたものであろうから、内側の道も含まれていたのかもしれない。

 石碑には、右から「千守道路記念碑」と大きく書かれており、上には三角形の石が載り、丸く磨かれた面には「悪しき昔の道を忘るな」と詠んだ歌が書かれている。下には「大正八年三月着工、大正十年三月竣工」とあり、村長、助役、収入役、村会議員の氏名が書かれている。それに続けて、「金三千六百円三庄村費補助 金三千六百円千守組住民工費 金三千三百円土地寄附 金二百円睦硯会員工費」、そして寄付者と金額が書かれている。最後に工費総額として一万二千三百円と書かれている。この額は上記金額を合計したものに近いが、収入と支出の関係はわかりにくい。また裏面に廻ってみれば、「千守道路委員」として13名の氏名が記されている。







66 向山釜ノ浜道路改修碑(尾道市因島三庄町四区)


 因島三庄町の地蔵鼻へ行く道路は、北側の石田造船の横を通るのが一般的だが、南側の折古の浜の側を通る道の他、その間を通る道もある。今回はその間の道の話である。

 元三庄小学校前の交差点は、かつてはバスと離合するのが難しく慎重に通ったところであるが、今は道幅が拡張されていて、あっと言う間に通過してしまう所となった。その交差点から東側に向かって登ると大きなため池がある。室内池と言うユニークな名前には何かいわれがありそうであるが、わからない。そのため池の北側の道を東へ少し進むと右側に「道路記念」と書いた石碑がある。

 道路を新設したのなら、そのことを大きく書くだろうから、やはり道路改修記念碑にちがいない。表には寄付者として金額と氏名、右側に「大正十四年三月」、左側に世話人の氏名が書かれている。
 市道の路線名は向山釜ノ浜線であるから、「向山釜ノ浜道路改修碑」と記しておく。







67 天神道路改修碑(尾道市因島中庄町天神)


 因島中庄町の因島消防署の前の信号を東に向かって進み、最初の左に入る道を左折する。すると電柱の隣に巨大な石碑がある。

 大きく右から「天神道路改修碑」とあり、金額と寄付者名が四段に書かれている。高額者から順になっている。一番上の段の右端に本村補助として金額が書かれているが、三千円か三百円か三十円か判読できない。また下段左には「順位抽籤」とあるから、これは同額の場合という意味だろう。また「外八拾六名」とも読める。これも寄付者のことだろう。

 裏面には、「大正十四年竣工」「発起者 天神組青年」と書いてあり、「世話人」として25名の氏名が書かれている。最後の文字は消えかけているが年齢順という意味だろうか。

 大正14年は年末の数日が昭和元年になる、大正最後の年である。







68 道路改修碑(尾道市因島中庄町西浦)

 国道317号線の新青影トンネルは、まもなく開通するのだが、その西浦側の入口の上から北へ入れば、本連載5回で紹介した掛迫農道へ行ける。また、この入口のところから北側の側道を西に降れば、夫婦岩がある。

 今回はその夫婦岩の前を通り過ぎ、しまなみ海道西浦高架橋の下まで行ってみよう。右手に「道路改修」と書いた石碑がある。

 右側面に昭和十一年と書かれている。工事区間の記載もないし、高架橋の工事で当然、道路も変わっているだろうから、元の道路を推定することはできないが、この近くの道路改修が行われたという記念の石碑である。

 正面右隅に「本村補助割石二百箇」とあるのが興味深い。現在と違い、法面の工事に石組みが用いられ、その200個分の材料費に村費が当てられたということであろう。

 次に寄付金の額と氏名が書かれている。15名が氏名で2名が屋号であるのも珍しい。寄付金の合計が176円である。また世話人として6名の氏名が書かれている。

 人も、道路も変わる。でも石碑だけは残っていて、人々が協力して自分たちの住んでいるところをよくしようと協力していたことがうかがえる。自分の住んでいるところの石碑は、毎日見ていて風景の中に溶け込んでいるので、あまり意識することはないが、こうして各地の石碑を見ていると、少しずつ違っており興味深い。


69 御即位大典道路改修碑(尾道市因島中庄町西浦)

 前回とほぼ同じところであるが、やや東に高いところにある。

 新青影トンネルの西浦側入口近くの北側の側道を山に沿って西に降って夫婦岩に行く。その手前に道路改修碑がある。これは、石垣の中にあってなおかつ風化も進んでおり、緑色の昆虫が葉っぱの中にいるように目立たないから、季節によっては気をつけて探さないと見過ごしてしまうかもしれない。また、表面が丸いので道路改修碑だと気づかない。

 中央に「御即位大典記念工事」と大きく書かれている。右側に小さく「自峠至西浦里道路改修」とある。左側の文字も小さいが「大正四年十一月竣成」と書いてある。これは大正4年11月10日に京都御所紫宸殿で大正天皇の即位礼が挙行されたことを記念して、道路改修工事が行われたということである。

 ここで51回で紹介した青影トンネルの上にある「自字中須加権防至峠道路改修記念」碑を思い出しておくのも悪くないだろう。こちらは「大正五年竣成」だから、西浦側が少し早く改修され、それに続けるように改修されたことがわかる。

70 金蓮寺道路改修碑(尾道市因島中庄町寺迫)

 金蓮寺山門前の参道左手に奇妙な形の道路改修碑がある。一見、ふたつの石を巧妙に繋ぎ合わせたような印象を受けるが、自然石の原型をうまく使ったものだろう。

 まず正面の上の段。「道路改修之碑」と中央に大きく書かれ、右には「自字時森到字寺迫金蓮寺」、左には「大正二年二月起工同年五月竣成」と深く彫られている。

 下の段には右端に「金三十円中庄村補助」とあって次に40円から10円までの寄付者21人の金額と氏名が記されている。他の寄付者については、左側面に「金百八拾七円 拾円以下ノ者九十三人」とある。

 また裏面の下部には「当山十世大豊代」、檀徒惣代3人、発起者2人の氏名が書かれている。そして「墓所石壇 寄附者中 世話人」と16名の氏名が書かれているのだが、16名全員が世話人なのか、そうでないのか、書かれた文字の配置からは理解できない。

 しかし、いずれの面も文字が書かれてあるところはきれいに磨かれ、文字が深く彫られていて鮮明で楽しい石碑であ。

 また、設置場所もよく、多くの人に見てもらえる。


71 平田道路改修記念碑(尾道市因島鏡浦町)

 島四国25番津照寺の近くにも平田道路改修碑がある。と言っても少し山道に入るので丁寧に書いておこう。平田道路そのものが、外浦町と鏡浦町を結ぶ山道であるのだから、その山道沿いにある。かつて歩き遍路道として峠道が利用されたが、現在は海岸沿いの水軍スカイラインを通る人が大部分であろうから、そちらからの方向を示す。すなわち鏡浦港側から津照寺にお参りしたら、北側の三叉路に出て山の方へ上がっていく。程なく道は二本に分かれるので、左側の道を進む。電話線の下である。津照寺を出て、5分もしないうちに石碑が見えてくる。

 正面には右から大きく「道路改修碑」と書かれており、その下に縦書きで金五十円から順に金額と寄付者の氏名が49名書かれている。そして最後に「いろは順」とある。これは同額の場合の順序であろう。同額の場合には順序に苦労するのはどこも同じであろう。「いろは順」と言う表現は初めてで、興味深い。

 右側の面には「大正八年一月建之」と書いてある。





20220613


下から登ってくると、この面がまず目に入る。また裏面には「発起人」として13名の名前が書かれている。






 なお平田は「ヘイダ」と読むのが正しいようである。そしてこの平田道路について、古い本には「県道なるも車は通れない」と書いていたものもあるが、今も県道なのであろうか。




世話人 


川崎寅太郎 吉平力太郎 楽平□市 宮地福松 宮地萩次郎 吉本清四郎 門藤□松

川本久行 岩本清右衛門 川崎善次郎 吉平勇助  宮長舘一 大石留吉  


72)

           写真・文 柏原林造

昭和橋住吉神社道路改修碑(尾道市因島外浦町三区)


 外浦町の本因坊秀策囲碁記念館から直線距離にして南東方向へ約100メートルのところに、赤い木製の鳥居の千兵衛神社がある。探し物をするのにご利益があるそうだから、高齢者にはありがたいところである。その近くに道路改修碑がある。

 あるいは島四国22番平等寺から23番薬王寺へと遍路道を歩くと、赤い鳥居の前で右に回ってすぐのところだと書いた方がわかりやすいかもしれない。






 その石碑の中央には「自昭和橋至字住吉 道路改修碑」と書かれているから、その近くから住吉神社方面へ伸びる道路の改修記念碑だとわかる。石碑の文字によると、それが昭和二年四月竣工であり、総工費が五百五十円だった。

 下の方には世話人10人の氏名が書かれている。

 またこの石碑の右隣にも少し小さな石碑があり、「一、金壱百円 寄附 村上善右衛門 昭和二年四月 道路改修費之内」と書かれているから、世話人の一人である善右衛門氏がおよそ五分の一を負担されたということがわかる。

 昭和元年は大正15年の年の年末7日間だったから、昭和の文字も目新しい頃の石碑である。







世話人 村上善右衛門 松原儀市 田頭良平 松原増五郎 村上美三郎

    村上清一 松原芳作 笹野登一 吉田延秋 中山太郎 

   

73)

西奥道路改修碑(尾道市因島外浦町二区)


 前回の千兵衛神社のところからさらに南側へ、奥山方面に向かってゆるやかな坂道を登る。すなわち島四国22番平等寺を目指して登り、左手に平等寺を見ても、さらに登る。一番奥の民家を過ぎると農道がさらに続く。その民家に寄り添うように左側に道路改修碑がある。






 正面の上には右から「西奥道路改修碑」と横に書かれている。その下にはまず二段分三行に渡って「大正十四年竣工」「人夫百四十人 村補助」「一、金五百十九円   

 段別割」と書かれている。その後、特別寄付として15名の氏名と金額が書かれていて、そのあと「以上金学順」とある。その総額は329円である。また、最下段には世話人として12名の氏名が書かれている。

 さらに左側面には合計15円として大阪の人二名の氏名が書かれている。

 この石碑からさらに山側へ道路が伸びているから、その道路を利用する畑の所有者が土地の面積に応じて負担した金額が、段別割の519円であろう。工事人の延べ人数140名の日当を村費で補い、他は村内外の人たちの寄付で補ったということである。

 ここから下は暗渠になっているが、かなり大きな川が町内を貫流しているから、川沿いの道路であり、その補強も当然行われたものだと推定できる。




74)

外浦青年支部事業記念碑(尾道市因島外浦町住吉神社)


 次は島四国23番薬王寺を目指そう。あるいは、外浦町の住吉神社を目指すと書いても同じことである。神社に入るとすぐに、右手の山側に石碑が並んでいる。

 その一つに珍しい石碑があった。






「外ノ浦青年支部事業記念碑」と書いてある。次の行には「自海岸至住吉神社道路改修費寄付者」とあるから、これも道路改修碑の一つと考えてもよいだろう。百二十円、百円、百円の三名の氏名の次に「一、金五百二十円 外百四十一名」とある。

 また、右側面に発起者2名の氏名が記されている。左側面には「大正元年十二月竣工」とある。そしてまた、裏面には世話人9名の氏名が書かれている。

 以上のことから大正元年に海岸から住吉神社までの道路改修が行われ、ほぼ村内全世帯の寄付金が当てられたと考えてもよいだろう。そして青年支部の方たちが総出で工事に当たったのだろう。海岸というのは現在の県道のところである。しかし、青年支部というのがわからない。町内会の青年支部というような位置付けであろうか。あるいは後の青年団活動の前身となる団体だったのだろうか。















〔面面〕

外ノ浦青年支部事業記念碑

自海岸至住吉神社道路

改修費寄付者

一、金百二十円 吉田源右衛門

一、金百円   井上豊三

一、金百円   田頭宮吉

一、金五百二十円 外百四十一名 

〔右側面〕

発起者  吉田源右衛門

     井上豊三

〔左側面〕

大正元年十二月竣工

〔裏面〕

世話人 

 田頭栄太郎 松原幸三郎 中山善次郎 松原徳吉 田頭良平

 市河勝市 井上勅松 田頭雅市 笹野登一


75)

久保田鉄工寄付碑(尾道市因島外浦町)


 外浦町の本因坊秀策囲碁記念館の隣にあった石切風切神社の跡は駐車場になっているが、巨大な本因坊秀作碑は残っている。広い駐車場の一角にあるので、以前よりよく目立つ。後ろに回って見ていて、周囲を囲む寄付者名の書かれた玉垣に「久保田鐡工尼崎工場」と書かれているものがあった。




従業員一同などと書かれていないし、工場そのものも久保田権四郎さんの持ち物なのだから、権四郎さんの寄付と考えてよいだろう。秀策碑には大正十四年と書かれている。その頃、「クボタ石油発動機」が脚光を浴びていた。

 久保田権四郎さんに関係するものは、本連載でも度々書いてきた。そのうちの16回分が因島高校の『百周年記念誌』に再録されている。島内各公民館に寄贈されている。機会があればご覧いただきたい。


 ・・ということで、ここは因島の生んだ二人の偉人に思いを寄せることのできる、貴重な場所である。






76)

権現道改修碑(尾道市因島三庄町二区)


 島四国34番種間寺へは、三庄町善徳寺から変電所横の峠道の三庄町側のほぼ最高部を横切って、百凡池の横を通るのが初期の遍路道であったが、現在では峠道を東へかなり下がって、南側の山が切れたところで、南へ入る。

 種間寺は権現宮の中にある。隣のため池が権現池である。権現宮は19世紀の初めごろ熊野三社権現が岡本氏によって勧請され、修験道の道場として親しまれてきたものである。このことは187回で紹介した。

 石段の手前に道路改修碑がある。






 石碑の裏面には「大正十一年五月成工」の文字とともに、3人の世話人名が記されている。

 正面には「権現道改修」とあり、寄付者名があるのだが、「金壱百円正金」が1名。5名は百六十円から三十円まで、金額の下に「敷地」とあるから、土地提供者で、当時の時価で面積を金額に換算したものであろう。

また、その次に「金壱百九十三円人夫 通組信者中」とある。「通り」が二区の地名である。地元の信者の方が労働奉仕をし、延べ人数と当時の日当から算出した額だと考えられる。


権現道改修

寄附人

金壱百円正金   岡本惣平

金壱百六十円敷地 宮地兵太郎

金壱百円  同  毛利己之助

金六十円  同  岡本好子

金五十円  同  宮地縫吉

金三十円  同  光法兵助

金壱百九十三円人夫 通組信者中






「大正十一年五月成工」




「世話人 宮地悦太郎 柏原鋼吉 宮地兵太郎」





参照:https://yamap.com/activities/18177212



77)

弘法大師像(尾道市因島土生町荒神区)


 島四国45番岩屋寺は、因島病院の前から、東へバス道路を横切り、さらに商店街を横切って、因島公園の方へ登る。島四国44番大宝寺のある同じ名前の大宝寺の前をさらに登ると大きな岩の横にある。

 明治45年に作られた因島88ケ所は本家の四国88ケ所札のイメージに近づけようと数々の工夫が凝らされているのだが、その中でも傑作の一つがこの岩屋寺であろう。

 その大岩は磨崖仏となっており、弘法大師立像が描かれている。右には「弘法大師 明治四十五年」、左には「施主村井才吉」の文字がある。





写真では見えないが左側の側面(内側)には「地主本家小林坂太郎 石工金本才兵衛」と彫られている。







 また、その大師像の右奥には不動明王の磨崖仏がある。これは45番岩屋寺の御本尊が不動明王であるからであろう。





その他の写真


 


78)

弘法大師像(尾道市因島土生町赤松奥)


 前回の弘法大師像は少しだけですが腑に落ちないものがありました。それは言葉で言い表せない記憶の混乱です。敢えて書けば、「こんなところにあったかなぁ?」という感じです。別の場所だったが・・いや大岩大神の位置と勘違いしているのかな・・などと色々考えて、古い写真を見たりしていると、何と同じような大師像がありました。(写真)






前回の写真を誤って載せたのではありません。よく見て下さい。明治の文字がないでしょう。

 この弘法大師像のある場所を説明するのが、また難しい。土生公民館の東側の道を南へ進みます。少し坂になっています。元土生保育所を過ぎたあたりが赤松峠で、かつて一本松があったそうです。また、タヌキが出たとも言われています。そこには「平木氏発祥之地」と「金之神」の2つの石柱があります。そこから東へ少し入ると丘があります。その丘の上に「因島龍神」の鳥居や大きな岩があります。下記地図の赤星印。これらを併せて播磨石磨崖仏と呼んでいるようです。

 その岩の一面に彫られている磨崖仏です。右端に「弘法大師 大正八年三月」左端には「寄附者 村井才吉」と彫られています。隣には不動明王らしき磨崖仏もあります。






79)

八坂寺磨崖仏(尾道市因島土生町宇和部)


 赤松奥の磨崖仏を出したら、次は当然のこととして八坂寺の大岩を紹介しないといけなくなる。こちらは島四国47番だから、場所の説明は省略する。位置的には土生公民館の山側であるが、直線道路がないのでぐるりと回って行く。そこには複雑な大きな岩があって、鉄の梯子があり、岩の上にも石仏があるし、その下の岩の隙間にもたくさんの石仏が並べられている。

 島四国の岩屋寺については、前に書いたが、こちらの方がもっと良かったかなと思う。明治45年頃に因島の地区ごとに札所が割り当てられた時、ここを岩屋寺にしようという意見があったことは当然考えられる。しかし、そうすると土生町南部が少なくなるので現在のようになったのだろう。

 さて、この八坂寺であるが、鉄の梯子のある正面が壮観であり、人々の目はここに集中する。しかしこの大岩の右側(南側)も見ていただきたい。周りの岩が大きいので小さく見えるが大作である。文字は見られないが、阿弥陀如来像だと言われている。






 この大岩の上にはさらに別の岩が重なるように載っているが、形から想像するに元はくっついていたのではないかと思う。正面から見ると上の岩は4枚の岩があるように見える奇岩である。



80)

馬頭観音像(尾道市因島土生町郷区焼家谷)


 赤松奥の磨崖仏と島四国八坂寺の磨崖仏を書いたので、三点セットという訳ではないが、やはり三子松の馬頭観音を紹介しないといけなくなる。スマホで地図を出すと、八坂寺はすぐに出てくる。そして驚くことに「赤松峠播磨石磨崖仏」という文字が、画面を大きくしたり小さくしたりしていたら出てきた。赤松奥の磨崖仏のことである。だが、今回の馬頭観音像は出てこない。

 もう随分前のことになるが9回の三子松のところで出てきたため池の近くである。ここへ行くには天理教因南分教会の北側の道を東へひたすら進んでいただきたい。と、書いても、実際は複雑である。因島南中学校の南西にため池がある。池の名前の載っている地図はなく「長加八池」と以前書いたが、「長加入」という地名があるから「長加入池」と書くべきかもしれない。

 このため池の南側の道路を天理教会のところまで辿り、そこから入っていただきたい。そしてため池の隣をまっすぐ進み、家と倉庫の間を通過し正面の法面(崖)の岩を見ていただきたい。因島はもちろん全国でも珍しい(と思う)馬頭観音座像がある。







「廿九番まつお寺」と彫ってあるので、西国33観音の「松尾寺」と呼んでもおかしくはない。

 なぜ、ここに馬頭観音があるのだろうか。地主の方が馬を飼われていたか、馬に愛着があったのか。あるいは西国29番松尾寺の寺伝にあるような、海で流木につかまり命拾いをした体験がありその謝意か。私の想像である。いずれにせよ、明治5年の制作だから、詳しいことはおそらくわからないだろう。


81)

常夜燈(尾道市因島三庄町浜上)

 三庄町浜上のバス停の近く、海側に集会所と金比羅宮分祀が合わさった建物がある。その前に見事な常夜燈がある。







道路側、すなわち西側の竿の部分に「奉光燈」と書かれているので、こちらが正面になる。竿の部分は右方向に順に「金毘羅大権現」、「八幡宮」、「伊勢皇」と書かれていて、三社が祀られている。

 毎日三社にお参りする人もおれば、縁日に合わせてお参りする人もいる。八幡神社の縁日は11日だから、その日に八幡社と書かれている面の前で、「南無八幡大菩薩、オンカギリテンダアカンジエイ ソワカ」と八幡大菩薩の真言を唱える。

 金刀比羅宮と伊勢神宮の祭日は多いので、本宮の祭日に合わせて、その前で拝む。

 もちろん本宮へお参りできればそれが一番良いのだが、それに代わるものとして、地方に同名の神社が存在する。初めは名前が書かれただけのものが、やがて鳥居や祠や拝殿ができたりする場合もあるし、いつまでたっても石に名前が刻まれただけのものも多い。そしてそれが庶民の信仰の拠り所となる。

 だから名前の書かれた木なり、石なり、常夜燈のようなものがあれば、それが神社であるし、そこを神社と呼んでもおかしくはない。

 さて、ここの常夜燈の話に戻ると、正面の下から二番目の基壇には右から「文政四 辛巳 仲秋 石工 尾道住 山根屋 源四郎」とある。

 作者も制作年代もわかっている貴重な芸術作品である。 


82)

常夜燈(尾道市因島重井町伊浜)

 重井町の因島フラワーセンターの正面をまっすぐ海の方へ下る。方角としては北西である。道路の向こう側の三角形の小さな除虫菊畑の右(北東)端に常夜燈がある。






私としては伊浜の金毘羅灯篭と呼びたいところであるが、前回常夜燈と書いたので、こちらも常夜燈としておく。またしても金比羅さんである。

 因島の海の近くや、元海の近くだったところに、金比羅さん、宮島さん、そして住吉さんと呼ばれている神社や石碑などを数えたらどれくらいになるのだろうか、などと思ってしまう。周りを海で囲まれており、そして危険と隣り合わせだから、日頃から三社を祀り祈ってきた名残である。

 白滝山を背景にしたので、こちら側に「天保九戌十一月吉日」と書いてあるが、反対側には「金毘羅大権現」と書かれている。四国の本社は反対方向だが、海に向かって拝むのなら、この方向で良いのかもしれない。竿の部分の文字は二面で、両側には石像が彫られている。石仏と言ったらおかしいので、ご本尊か何かだろう。

 この辺は、かつての伊浜新開の堤防のあったところだから、おそらくその上にあったものと思われる。のちに宮沖新開ができて内陸部になるが、八幡神社参道の常夜燈としてこの辺りに留まったのだろう。道路拡張に伴い移動されて、基壇が別の石材に変わっている。おそらく元の基壇に作者銘が記されていたのではないかと思う。




83)

住吉神社(尾道市因島重井町宮沖新開)

 場所は、前回の近くだが、フラワーセンターから案内した方がわかりやすい。前回同様、重井町の因島フラワーセンターの正面をまっすぐ海の方へ下る。方角としては北西である。道路を突き抜けるとゴミステーションと古紙置き場がある。その古紙置き場の向こうに、石でできた小祠がある。正面には「住吉大明神」、右側に「元治元子六月」、左側に「新開中」と書かれている。






 宮沖新開の住吉神社である。大きさとしては村四国のお堂と変わらないが、全体が立派だ。自然石を重ねたものではなくプロの石工の作品であることが一目でわかる。

 干拓地の安全祈願といえば、やはり堤防が決壊しないことだろう。それを願って干拓地の土地所有者らが建てたものである。

 前回の常夜燈より南側が伊浜新開で、今回の住吉神社より東側で、かつ常夜燈より北側で、トウビョウガワラより南側が宮沖新開である。2つの新開の堤防は直角に交わり海側はさらに埋め立てられJAの集荷場などがある。元の堤防の反対側にはそれぞれ小さな池がある。干潮時に海に放出される水を溜める池で、重井町では「タンポ」、因島では「潮待ち」「潮持ち」などと呼ばれ、一般的には「潮廻し」と呼ばれているものである。

 さて、新しい埋立地ができる前には、この住吉神社は私の記憶では2つの堤防が交差する海側にあった。その下には宮沖新開の潮廻しの樋門があった。道路拡張とともに、移動されるのは他の石碑などと同じである。




84)

長沢大将軍道路修繕記念碑(尾道市因島田熊町大将軍)

 田熊町にある大将軍という地名は、青影山の登山口にも近いから海賊大将軍村上義弘と関係あるのだろうと期待したが、どうやら空振りだった。大将軍というのは黄幡さんなどと同じ系統の方位神である。大将軍神社は見当たらないが、かつてはあったのだと思う。黄幡社の、武芸に吉の方角はありがたいが、大将軍社の方は「三年塞がり」で万事に大凶の方角が三年間もあるので、信仰者も減っていったものと思われる。

 その大将軍を冠した記念碑があった。場所は島四国62番宝寿寺から63番吉祥寺への途中。左手下のため池が大将軍池だろう。その先で右へ大きく曲がった辺りに、左下へ降りる小路がある。吉祥寺の手前30mほどのところだ。小路を少し降りた左手である。






 そこの石碑に「長澤大将軍道路修繕記念碑」と書いてある。昭和四年七月落成ということで、石碑の風化も甚だしいが、地元の方の協力で「世話人花岡百太郎、石材寄附者岡野作次、土地寄附者藤原佐吉」などの文字が読めた。

 等高線のように斜面に沿ってある道路と道路を結ぶ小道は、人一人がかろうじて通れるようなところだったと思う。そこを拡張して荷車でも通れるようにすれば、随分便利になったことだと思われる。

 なお、大将軍は「だいじょうご」と言うようだ。



85)

三角寺奥の院(尾道市因島田熊町青影山中腹)


 田熊町で奥の院と言えばどういうわけか島四国の奥の院のことである。そして、奥の院という以上は、どこかのお寺か神社の奥の院になるのだが、ただ奥の院と言うだけで島四国三角寺の奥の院のことだとわかる。いや三角寺の奥の院だと言うことは知らなくても彩色磨崖仏のあるところが奥の院だと知っている人は多い。だから、その奥の院の名前が金光山仙龍寺と言うことを知っている人は少ない。そしてご本尊が弘法大師であることも。

 その島四国65番三角寺の奥の院、番外札所金光山仙龍寺は、一言で言えば青影山中腹の彩色磨崖仏のところにあり、そこへ行くルートは二つある。山の神社の前を登るか、青影山登山道の六松公園の隣から行けばよい。

 ご本尊の弘法大師像は岩に彫られており、その岩を覆うような形でお堂が作られている。だから岩との隙間には木の葉が積もり、その間から雨水が漏れるだろうから維持するのは大変なことだと、誰しも思う。

 ご奇特な方が管理されているうちはよいが、高齢化で管理できなくなり後継者がおられない場合は、荒廃がすすむ。これは、他の札所でも同じである。そして、ここの奥の院でも、いままさにそのような状況にある。









右半分の祭壇の間  中央の弘法大師像は磨崖仏。周囲の岩と大師像との間の銀色に彩色してあるところは窪んでいて、磨崖仏のように見えない。 


86)        

彩色磨崖仏(尾道市因島田熊町青影山中腹)

 島四国三角寺の奥の院の上には、あざやかに彩色された磨崖仏が二体ある。これは奥の院の本堂内にある弘法大師の磨崖仏の脇仏である。右側が不動明王、左側が観音菩薩である。

 不動明王像には、谷の丸囲み文字に続けて昌栄丸と彫ってある。

 観音菩薩像には、右側に「大正三年三月吉祥日」とあり、その隣の施主の名は読めない。左側には「田熊西濱 石工阪井村一」と彫られている。

 時々塗り替えられているのか、下の方に「平成元年七月一日」とペンキで書かれている。

 施主は、三体の磨崖仏を寄進した昌栄丸の船主森右衛門さんだと思われるが、漢字は確認できなかった。

 観音菩薩の写真は最近のものであるが、不動明王は樹木に覆われているので古い写真を示す。




右:不動明王


左:観音菩薩


87)

水掛地蔵尊(尾道市因島田熊町青影山中腹)

 島四国三角寺の奥の院の参道には、さまざまな石碑や石仏があって聖地の雰囲気を盛り上げている。その中でもひときわ目をひくのが水掛地蔵尊である。凝った天蓋の下には台石の上に立つ地蔵さんがある。水を掛けてあげるようにバケツと杓がかつては用意してあったが、こういうのはお世話をする人がいなくなるとすぐに荒れる。 

 天蓋のせいか、お地蔵さんは綺麗であった。台石の右には「昭和十二年旧十一月吉日」とある。こんなに古いものとは思えない。

 また左側には 「天台宗教師 開眼 新崎道隆」とあるが、これは「開眼 天台宗教師 新崎道隆」と読むべきものだろう。

 青影山登山道、六松公園の方へ戻らずに下に降りると山の神社を経て、三角寺は近く、前々回紹介した奥の院が、他の札所の奥の院ではなく、三角寺の奥の院であったと納得できる。













88)

六松園記念碑(尾道市因島田熊町青影山登山道)

 田熊町側から青影山へ登るには島四国62番宝寿寺のところからさらに山側の道へ入る。その突き当たりに「因島八景 六松公園からの多島美」の石碑があり、そこから徒歩の登山道が始まる。少し登ると分岐点があり、青影山方面と島四国三角寺の奥の院方面へと別れる。その分岐点の山側に石碑がある。「六松園記念」と大きく書かれている。先の因島八景の六松公園というのは、この記念碑の周辺のことを言うのであろうか。あるいはもっと上の石組みのある平地のことであろうか。

 ここの石碑には「六松園記念」とありその周りの文字は「開墾二十五周年」「為岡野六松氏 昭和八年五月建之」とあり、「六松公園」とは書いていない。ただ、開墾の記念に「園」の字があるのに注意したい。単純に考えれば開墾25周年を記念して、ここを「六松園」と呼ぶことにした、と言うことになる。それならば、因島八景の六松公園というのはここのことになる。そうであっても、まだ岡野六松氏、またはその相続者の私有地であって公園ではないような雰囲気である。


 さて、その開墾であるが、岡野六松氏自身が所有する山林を開墾して、風呂山の山頂近くまで段々畑にされた。柑橘園にされるつもりだったと言うことであるが、そうはなってないし、その理由はわからない。







89)

青木沖新開住吉神社(尾道市因島重井町青木下)

 因島のみならず周辺の島々においても、山際の傾斜地と海面すれすれの平坦地が際立った対照をなしている。平坦地は干拓か埋め立てによって造成されたもので、平坦地のわずかな傾斜が干拓の歴史を留めている。

 そして狭い路地が入り組んでいるところは古くから人が住んでいたところだし、広い道路のあるところは、かつて田畑であったところや埋め立て地である。

 海と接する堤防は、その構造上畑地にはならず遊休地の性格を帯び、記念碑、小祠、お堂などが設置されたりする。そのようなところが海岸から離れている場合は、かつて似たような場所であったという歴史を留めているわけである。

 重井郵便局裏(南側)の住吉神社も、かつて近くに青木沖新開の堤防があったところで、後に海側(北側)が埋め立てられ、郵便局や道路ができていることがわかる。




 住吉神社の左側外面には「天保三辰十一月吉日」書かれており、1832年に設置されたことがわかる。また、元禄10年(1697)に検地の記録があるから、此頃までに青木沖新開が干拓されていたことがわかる。





90)

本郷新開住吉神社(尾道市因島重井町小林)

 重井町小林(こばし)の重井駐在所の隣に島四国80番国分寺がある。それに接して重井村四国のお堂もあるが、並んで住吉大明神と書かれた自然石がある。郷新開の住吉神社である。




 とは言え、ここは私の記憶では郷新開の潮廻し(タンポ)のあったところで、国分寺の方は昭和橋東側にあったと言われており、古い写真ではそれらしきものが写っている。しかし、この住吉神社がどこから来たのかはわからない。おそらくこの近くの堤防の縁にあったものだろう。

 古い写真では係留した小舟が写っているものもあるが、おそらく船中安全よりも干拓地の安寧を祈願したものだろう。もともと干拓というのは、海であったところに作るのだから自然に反しているのは明らかである。台風などの荒波で堤防が決壊する恐れは常にある。そうならないことを祈願して、干拓地に小祠が祀られたと考えられる。

 こう書くと現代人の感覚では「迷信に過ぎない」ということになる。その通りだろうが、そう考えると昔の人の気持ちは見えてこない。住吉神社に祈るということは、平時にあっても海の怖さを忘れないという反省の気持ちを起こさせるものであったに違いない。

 と同時にこういう祈願の行われたところは何らかの危険と隣り合わせになっていたところだということがわかる。干拓事業は確かに過去の歴史的事実で、一応終わっている。しかし、海が生き物のように変貌する以上、干拓は永遠に終わらない事業だと思わないといけない。そのように干拓地の小祠は語っているのではなかろうか。


91)

本郷沖新開住吉神社(尾道市因島重井町本郷沖新開)


 重井郵便局の北側には、長方形の東港があり、一目で計画的に造成されたことがわかる。しかし、「重井東港」は因島西廻り航路の桟橋ができてからは本郷沖新開の北端のことになった。現在は重井中学校近くの鉄工団地横にある、かつての木原行フェリーの発着場であったところが「重井東港」で尾道瀬戸田航路の桟橋がある。

以上の2点は定期船の寄港地としての港であり、地形的な意味での東港は、やはり重井郵便局の前である。

 その東港の西側が本郷沖新開で、かつて塩田のあったところである。干拓地の低地に集まった水は、一定水位に達すると自動的にポンプが作動し、東港へ排水されている。その排水ポンプの隣にある立派な石造りの小祠には、内部に「住吉神社」と書いてある。また外側の左側には「本郷沖新開」、右側には「明治四十三年六月二十八日」と書かれている。

 屋根の部分の凝った細工は見事である。これを見て、当時は景気もよかったのではないかと想像する。製塩業の関係者らが建てたのかもしれない。

 また、このころは島四国88ヶ所開設の準備が進んでいたころであり、活気にあふれていた時代ではなかったかとも思われる。




92)

  金比羅大権現(尾道市因島重井町伊浜)

 前回の本郷沖新開の住吉神社から港を隔てて反対側(東側)へ回ります。そこに島四国87番長尾寺があります。こちらは伊浜新開の先端ということになります。

 ここには長尾寺の他にも大きな石碑があるが、今回はその前の小さな石柱について記す。石碑に比べて小さいというだけで、綱取石などに比べると大きく立派な石柱である。

 南側に「金比羅大権現」と彫ってある。よく見ると左右に一文字下げて、右に「住吉大明神」、左に「稲荷大明神」とある。

 また背後には「文政五壬午十二月吉日」「世話人」などの文字が見えるが、世話人の名前は判読できなかった。

 ここで、厳島神社がないのが気にかかる。この頃には既に厳島神社から金比羅宮へと海上信仰の人気が変わっていたということだろうか。

 それともう一つ気になるのは、綱取石としても使える位置と大きさである。果たしてそのような利用が許されていたのであろうか。




93)

細口新開住吉神社(尾道市因島重井町細口)

 白滝山フラワーラインに沿って西下する水は、重井八幡神社の北側を通って海に注ぐ。その川がトウビョウガワラである。平地になっている部分で、トウビョウガワラより南が宮沖新開、北側が細口新開である。

 トウビョウガワラと重井中学校の中間あたりの県道から西を見ると畑の向こうに土手が見え、建物の前に石造りの小祠がある。細口新開の住吉神社である。そのすぐ隣には県道からは見えないが、畑より一段下がったところに細口新開の潮廻し(タンポ)がある。

 小祠の中央には、「住吉大明神」と彫ってあり、墨入れがしてあった。また、前側の左右上下には小さな穴が開けられている。おそらく作られた時には、木製の観音開きの扉がついていたのであろう。

 かつて、この近くの海側には小さな桟橋があって、真珠養殖の作業船が発着していた。山勝真珠(株)の重井工場ができたのは昭和35年7月である。

 三重県賢島産のアコヤ貝に宇和島で核を入れたものが、重井町にあるのは5月から12月までで、水温が下がる他の期間は宇和島や和歌山へ移してで避寒された。筏に吊るしたネットを定期的に陸揚げして、不要なフジツボ、カキ、ムシ(ゴカイ)などを剥がす作業を、この辺りでしていたのではなかろうか。







94)

広円新開住吉神社(尾道市因島重井町勘口)

 重井中学校の北側に深浦新開が広がる。西側に因島鉄工業団地や三和ドックがあるが、少し高くなっていて、文字通りここが深い湾になっていたことが伺える。

 深浦新開の北東、深浦新開の潮廻しの東端にある海に面した小山は、地形的に考えて小島であった可能性があるが、名前がついていないので、岬であったのかもしれない。その小山の北東にも小さな潮廻しがある。こちらは広円新開である。その潮廻しの堤防上に素朴な石の小祠がある。

 中の石に書かれて文字は読めないが、おそらく住吉大明神と書いてあるのだと思われる。

 ここの堤防も、深浦新開の堤防も何度か補強されているが、よく見れば他の海岸に比べて元の部分から強く作られていることがわかる。戦時中は軍用地として使われたところであるから、その計画の初期の段階で古い堤防がコンクリート製の頑丈な堤防に作りかえられていたのかもしれない。




95)

深浦新開住吉神社(尾道市因島重井町深浦新開)


 深浦新開住吉神社は三和ドックの入口付近にある。さらに詳しく書けば、深浦新開の潮廻しの西端の堤防の上にある。この潮廻しは東西2つに分かれていて、通水管でつながっている。その西側の潮廻しの西端の堤防の上である。背後に霊魚碑があり、それに比べると小さな祠で他の干拓地の住吉神社と変わらないが、ここには石でできた鳥居があったことがわかる。基礎の部分は残っているが途中で壊れ、残骸が隣に転がされている。






 祠の内部にはかすかに「住吉大明神」の文字が読める。

 また、かつてこのあたりに大きな松の木があったが、今はない。

 さて、ここから東へ伸びる長い堤防を見てみよう。海側から見ても、陸側から見ても高く、かつ長く城塞のような威容だ。陸軍軍用地の痕跡として境石、船着場跡、島四国の移転などをかつて書いてきたが、この立派な堤防も軍用地の痕跡と思ってもよいだろう。

 島四国の移転に関しては、88番大窪寺が現在重井八幡神社の上にあるが、元はここにあったのではないかと私は考えている。島四国開設当時の交通事情を考えれば、巡礼者を大浜村(当時)の一番へ運んだ船が二日後に迎えに来るのに適した砂浜が、今は埋め立てられて見えないが、近くにあったからである。



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霊魚魂碑(尾道市因島重井町深浦新開)


 三和ドックの入口付近の深浦新開住吉神社の後ろには、中央に「霊魚魂」と書かれた大きな石碑がある。






 その文字の左右にも文字が書かれている。右側は「祈念之為供養 四国八十八ケ所霊場二百回巡拝 明治三年四月二十五日誕生百六歳」、左側には「前近衛師団長 陸軍中将伯爵宮下善告 従四位勲二等功四級謹書」とある。

 また裏面には「昭和五十年十月 村上六三郎建之」と記されている。






 こららのことから、この石碑は重井町で鮮魚店を営んでいた村上六三郎氏が、昭和50年に建立されたものであることがわかる。おそらく出征時の上官であった新潟県出身の宮下善告(みやしたよしつぐ)氏に揮毫してもらったということであろう。

 今は三和ドックの工場になって海は見えないが、建立当時は海が見えたし、また周囲は陸軍軍用地の跡であるから最適の場所であったに違いない。



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深浦新開潮廻(尾道市因島重井町深浦新開)


 深浦新開の住吉神社や霊魚魂碑のある巨大な堤防の下には、これまた大きな池が広がる。深浦新開の潮廻しである。通水管で繋がった大小の池に分かれているが同一のものと考えてよい。






 かなりの水量であるが、それがどこから流れてくるのかわからない。周辺には水源らしき河川は見当たらない。おそらく白滝フラワーラインのある山の西側の各所から湧水が流れだしているのではないかと思われる。また、周辺に民家が少なく、生活排水の流入が少ないのも良い美しい環境が保たれている理由であろう。

 しかし、私が子供の頃は沼エビがいたが、最近はいないようだ。やはり自然環境はどこも変わっているのだろうか。


 また、最近の大雨では、ここも排水ポンプの能力を超えた量の雨水が集まるようだ。地球温暖化の問題は干拓地の多い因島では、見逃せせない問題である。


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波止寄付録(尾道市因島重井町東浜)


 重井郵便局の北に海がある。右側の海沿いの道を北にまっすぐ歩くと「波止寄附録」と書かれた大きな記念碑に突き当たる。






島四国87番長尾寺の近くである。その先は海で、小細島、細島が見える。左に湾口を半分ほど塞ぐように波止めの石垣が組まれている。波止(はと)である。この波止の建設費の寄付録であって完成記念碑ではない。とはいえ、そう書いてないだけで同じことである。

 小さな字で多くのことが書かれているので、ここで紹介するのがはばかられるが、興味ぶかい一部を記す。

 明治23年の秋に完成して石碑が作られている。村費と個人の寄付によるのはこれまで紹介した道路改修碑と同様であるが個人の記載が多く、当時の村のようすが伺われる。

 細島の住人の名があるから、細島航路の船着場が既にここにあったことがわかる。また、村外の人の名もある。向島の吉原大作氏は重井村の元戸長である。椋浦、尾道、忠海などの人は頻繁に荷物を運んでいた船の持ち主だろうか。あるいは当時停泊滞在していた漁業者もいたのかもしれない。


 石工として西面には三庄村光法佐太郎、中庄村田頭岡左ヱ門、田熊村岡野綱次とあり、東面には三庄村篠塚音松とある。西面の3人が工事を担当した石工で、東面の篠塚さんはこの石碑の製作者だと私は考える。



99 柏原水軒翁築港碑(尾道市因島重井町東浜)

 前回の波止寄附録の石碑の右側に「柏原水軒翁築港碑」と書かれた石碑がある。

高さ213cm、横幅52.5cm、奥行41cmで、築港碑であるから、ここの港を作るのに貢献した水軒翁を顕彰したものである。左から裏側、さらに東側へと文字が書かれている。

 工事は天保8年(1837)年に開始し、安政4年(1857)に竣工した。その間、延二万余人の村人が協力した。その中心だったのが白滝山五百羅漢の開祖柏原伝六の子息で組頭里正であった秀直(嘉太郎)で、水軒は号である。翁はこの功績により庄屋格になっている。他の業績として白滝山への石仏設置や塩田の開発・経営がある。石仏というのは一観夫妻像のことだろう。

 さて、この石碑は明治44年(1911)に建てられおり、撰文は伊川高中氏、書は岩本一氏であるが、正面の題字は水野忠浩氏が書かれている。75歳の水野氏は除虫菊の発展に尽くされた村上勘兵衛さんの漢詩の先生で岳父。この頃、勘兵衛さんは重井村の収入役であった。


100 綱取石(尾道市因島重井町東浜)


 重井郵便局の前(北側)に古い倉庫がある。その向こう、防波堤の手前に綱取石が2本ある。さらに防波堤の向こうには雁木(ガンギ)がある。しかし、ここの雁木は現在ではコンクリート製に改修されている。その改修時に、この綱取石は稀覯品として残されたものであろう。
 2つの綱取石は外側に「綱取石」と大きく深く彫られている。内側には、それぞれ小さな文字で薄く何かが書かれているが、全く読めない。港湾が完成したのが安政4年(1857)で、以来潮風にさらされてきたのであるから仕方がない。かすかに「浦方連中」とか「長百姓」などの文字が見えるので、個人の寄付によって作られたものがあったのかもしれない。

 なお、隣にある壊れかけた倉庫について書いておきたい。これとほぼ同様なものが戦後、現在の重井小学校のあるところ一帯にもあり、新制中学校や土生高等学校因北分校の前身である因北青年学校の仮校舎として使われた。さらに興味深いことには、これらは軍用地から移設されたものだとも言われている。

 そうであるならば、軍用地関連史跡として、これまで紹介してきた陸軍境石、荷揚場跡、深浦新開堤防、島四国87番、88番とともに、重井郵便局前の倉庫を加えておいてもよいだろう。