序章 帰農者たち
第1章 海を開く
第2章 庶民の祈り
1 大土生宮地家跡 (因島土生町郷区)
2 大土生宮地家墓 (因島土生町對潮院)
3 大土生宮地家墓・二 (因島土生町郷区)
4 青木金比羅神社 (因島重井町青木)
5 開化橋 (因島重井町青木)
6 長右衛門の碑 (因島重井町青木沖)
7 長右衛門の墓(因島重井町善興寺)
8 長右衛門の供養像(因島重井町善興寺)
9 重井八幡神社(因島重井町伊浜)
10 一本松(因島重井町一本松)
11 一本松の盃状穴(因島中庄町金蓮寺)
12 土生神社(因島中庄町奥鹿穴)
13 廻国供養塔(因島中庄町寺迫)
14 馬の背峠の塞の神(因島中庄町仁井屋)
15 大池道路改修碑(因島重井町大池)
121-130回 増補版
131-140回 増補版
141 金山新開道路新設記念碑(因島田熊町因島モール)
142 西浜明神社(因島田熊町西区)
143 東浜明神社(因島田熊町明治橋)
144 お政大師堂(因島田熊町東区)
145 川口大師堂(因島重井町川口)
146 山神神社 (因島田熊町西区)20190907
148 宇賀の神(因島田熊町かた平)
149 八幡神社(因島重井町伊浜)
150 草深山稲荷神社(因島三庄町三区)
151-160回 増補版
151 粟島神社(因島田熊町八幡神社)
152 高良社(因島重井町伊浜八幡神社)
153 松尾神社(因島田熊町八幡神社)
154 生眼八幡宮(因島重井町八幡神社)
155 白滝龍王社(因島重井町八幡神社)
156 金神社(因島重井町八幡神社)
157 島四国碑(因島田熊町浄土寺)
158 末広講の碑(因島重井町善興寺)
159 鶴亀講の碑(因島中庄町金蓮寺)
160 弘法大師立像(因島重井町白滝山)
161-170回 増補版
161 四国八十八ケ所御本尊(因島重井町白滝山)
162 山四国八十八ケ所(因島三庄町)
163 田熊村四国八十八ケ所(因島田熊町)
164 中庄村四国八十八ケ所(因島中庄町)20200201 増補版 タイムズHP
165 重井村四国八十八ケ所(因島重井町)
166 誤伝・十字架観音像(因島重井町白滝山)
167 西国三十三札所(因島重井町白滝山)
168 一観夫婦像(因島重井町白滝山)
169 八栗寺(因島重井町白滝山中腹)
170 石観音(因島重井町白滝山)
171-180回 増補版
171 釈迦三尊像(因島重井町白滝山)
172 白衣観音像(因島重井町白滝山)
173 平和一神碑(因島重井町白滝山)
174 阿弥陀三尊像(因島重井町白滝山)
175 伝六墓(因島重井町白滝山中腹)
176 奥之院(因島重井町白滝山中腹)
177 天狗三態(因島重井町白滝山)
178 秋葉社・愛宕社(因島重井町白滝山中腹)
179 道了大権現(因島重井町白滝山中腹)
180 真界山(因島重井町細島)
181-190回 増補版
181 不動明王(因島大浜町福泉寺)
182 天狗山(因島中庄町)
183 修験者の墓(因島土生町宝地谷)
184 石鎚大権現(因島大浜町重岩)
185 石鎚神社(因島重井町龍王山)
186 石鉄神社(因島土生町龍王山)
187 権現宮(因島三庄町二区)
188 御嶽大神(因島重井町白滝山)
189 浅間神社(因島土生町天狗山)
190 下海吉十郎像(今治市上浦町瀬戸)
191-200回 増補版
191 芋地蔵(因島重井町善興寺)
192 芋地蔵(因島重井町細島)
193 廻国供養塔(因島重井町善興寺)
194 廻国供養塔2(因島重井町善興寺)
195 廻国供養塔(因島田熊町浄土寺)
196 廻国供養塔(因島中庄町荒神社・大山)
197 廻国供養塔(因島三庄町円福寺跡)
198 六部地蔵(因島三庄町八区)
199 お台場跡(因島大浜町剛女岩)
200 中庄八幡神社(因島中庄町熊が原
1 大土生宮地家跡 (因島土生町郷区)
変電所近くの小丸城跡が因島村上氏第二家老稲井氏の居城で、麓の宝地谷に宝持寺と須佐神社があった。今は石塔群と神社がある。そこよりさらに西へ下がったところに稲井氏の屋敷があった。
因島南中学校の東側上の辺りである。因島南中学校のあるところは因島高校のあったところである。その東の高いところに図書館があった。窓の外にはみかん畑があって奥へ行くにつれて少しずつ高くなっているようだった。今はグランドの端の校地と境界をなす辺りには駐車場があり見晴らしはよい。しかし、どの辺りにかつて図書館があったのかは、私にはわからないが、昼の休憩時間と放課後よく通った。
その駐車場の少し上の方に稲井屋敷があった。すなわち第二家老稲井氏はこの辺りを中心に活躍した。のみならず通商で得た莫大な利益で因島村上氏を支えたのであった。
しかし、因島村上氏の因島退去とともに、稲井氏も因島を去る。稲井本家は六代吉充に従い長門国矢田間(現下関市)へ。一部の者は広島へと。
関東で新田義貞とともに蜂起して鎌倉幕府を倒した脇屋義助は南朝の重鎮として戦い、その子は敗退して伊予大島へ逃れた。そこで稲井と姓を改め、村上氏に従い因島に来た。
稲井氏の流浪はまだまだ続くのであるが、話を稲井屋敷に戻すと、江戸時代には庄屋宮地氏が住んだ。大土生宮地家と呼ばれているから、稲井氏の広大な支配地を引きついだと想像しても大きく違うことはあるまい。今は別の方の所有になっているが、基礎の石組みは稲井氏の時代のものだと言われている。
2 大土生宮地家墓 (因島土生町對潮院)
對潮院の境内を抜けて、裏の墓地の前の道路に出る。そこから少し右手の大きな樹木の前に大土生宮地家の墓地がある。そこには、初代清左衛門光時、二代久右衛門光宗以下、八代又次右衛門貞久までの墓がある。
ここに大土生宮地家の墓があるのは偶然ではない。否、ここになければならないのである。對潮院は因島村上氏の時代には第二家老稲井氏の別邸(下屋敷)對潮閣であったところである。稲井氏の領地を第四家老の宮地氏が引き継いだのなら、当然對潮閣も宮地氏のものでなければならない。では、なぜ宮地氏のものになったのか・・・。
慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いは、関ヶ原だけでなされたのではない。因島村上氏は小早川氏の配下だったので西軍である。ところが伊予の加藤嘉明氏は東軍についたので、因島村上氏は三津浜の松前(正木)城へ攻めていき大敗を喫した。その時の戦死者の中に重井馬神城主末永景光、中庄大江城主宮地忠明などの名が見える。末永氏は稲井家の分家で母方の姓を名乗った。宮地忠明は稲井氏と書かれてあるから、稲井家から養子に行ったということであろうか。
因島時代最後の当主稲井治憲にとっては、父家治が負傷し因島へ帰ってから亡くなり、長子重治も失っている。末永景光、宮地忠明も治憲の兄弟かそれに近い関係であっただろうから、まことに痛恨の極みであった。
治憲は本邸、別邸等を宮地忠明の遺児に譲って因島を去ったと言われている。對潮院は光時が慶長13年(1608)に開山したということであるから宮地忠明の遺児というのは大土生宮地家初代清左衛門光時のことであろう。
3 大土生宮地家墓・二 (因島土生町郷区)
對潮院の大土生霊銘碑には「九代より大土生旧家墓所」と書かれている。この旧家とは前前回に紹介した第二家老稲井家の屋敷跡で、かつての大土生宮地家の屋敷跡ことである。そこから北側へ少し歩くと、右に山の方へ登る小径があるので進み、左手に注意しておればすぐにわかるだろう。
九代にもなると對潮院と大土生宮地家の関係もほとんど無くなったと思ってよいだろう。新しい墓地を求めず、手っ取り早く敷地の一角を墓所としたのであろうか。
十九代宮地毅氏から逆算すると、左端にある霊銘碑には十七代から記されている。従って、右に並んでいるのが九代から十六代までの個別の墓である。
さて、周囲は竹藪である。この周囲がいつ頃から竹藪になったのか知らないし、まして江戸時代の初期のことなど想像もできないが、一部は古くから竹藪だったのではないかと想像した。
というのは、大土生宮地の分家の一つに竹之内宮地家というのがあって、竹藪の側にあったのでそう呼ぶようになったと言われているからである。その竹之内宮地家は三庄の干拓をして、後に三庄の庄屋となる。第二家老稲井家と第四家老宮地家のハイブリッドが因島で果たした役割は小さくはなかった。その一つがこの付近の竹藪から始まったと、私は思っている。
ふるさとの史跡をたずねて(104)
青木金比羅神社 (因島重井町青木)
青木城は因島村上氏六代吉充以降三代の居城であった。この話が本当だとしたら、最後の本拠地であったわけであるが、それらしいものは無く、閑散としていて訪れる人は多くない。今はすっかり内陸部になっているが、当時は白滝山に連なる東側を除いて三方が海であった。北と南の入り江を想像したら北の方がこじんまりして、なおかつ浅瀬が多かったと思われる。それに山もなだらかであるので、こちらを表、南側を裏としても悪くはなさそうである。だから、青木側に裏木戸門があったという伝承は信じてもよかろう。
裏木戸門、略して裏門が今でも人の口端に上がるのは、そのあたりに江戸時代初期に重井村の庄屋をした長右衛門家の屋敷があったからである。今はその痕跡もないであろうから、長右衛門家の話を始めるにあたって、青木の金比羅神社を訪ねることにした。長右衛門が祀られているし、何よりも、大正時代に裏門辺りからここに移したと言われているからである。こう書くと長右衛門屋敷の中にあって、同家の守護神であったような印象を与えるが、因島で金比羅金信仰が盛んになるのは江戸時代後期だから、長右衛門の屋敷があった辺りにあったというだけで長右衛門家と直接関係があったとは、思われない。
その金比羅神社には金比羅大明神、住吉大明神とともに二代長右衛門氏が祀られている。二代長右衞門宗徹は寛文十年(一六七〇)に七十三歳で亡くなっているので、江戸時代のはじめを生きた人である。
ふるさとの史跡をたずねて(105)
開化橋 (因島重井町青木)
重井町の中心を流れ、東西に二分する重井川にかかる橋の名を下流から記すと、明治橋、東西橋、大正橋、昭和橋・・と続く。その昭和橋の東、重井村四国55番南光坊の隣に、「開化橋」と書かれた石柱がある。開化という年号はないから、いつの時代かはわからないが橋ができて、昭和になって建て替えられたのだろう。福沢諭吉の『文明論之概略』が明治8年に書かれ、そこで文明開化という言葉が使われたので、明治10年頃に開化橋ができたと推定しておく。
さて、ここから東へ直線道路が青木道路まで続いている。この直線道路の右側が、長右衛門新開で、左側は、郵便局までが青木沖新開、さらにその沖が本郷沖新開である。
新しく開発されたところを新開と呼ぶが、海を開くには二通りの方法がある。埋め立てと干拓である。埋め立てに必要な土を確保するためには、山を崩さないといけないので、堤防を築いて水を抜く干拓が多用された。
二代長右衛門宗徹は多くの干拓事業を行ったが、なぜここだけが長右衛門新開と呼ばれるかは定かではない。ただ言えることは、長右衛門屋敷があった新開ではある。
ふるさとの史跡をたずねて(106)
長右衛門の碑 (因島重井町青木沖)
青木道路を北へ向かって歩くと重井郵便局に至るが、その少し前、青木城跡の麓に長右衛門の碑と呼ばれる、文字を掘った岩がある。岩というよりも砂の塊のようなものであるから、風化が激しい。かろうじて次のように読める。
「備之後州御調郡因嶋重井村之住 前長右衛門尉法名宗徹□□寛 永万治之間 □全村中田畠□九拾 町□□□□□□テ寛文年中自此 西之三新開田畠拾町余為子孫 十一□□□□公之者也」。(空白は改行、四角は判読不能。)
やはり、二代長右衛門宗徹のことである。宗徹は元和二年(一六一六)に十八
歳で庄屋になっているので、「元和寛永万治之間」かもしれない。生涯を干拓事業に費やしたことがわかる。
この石碑より西の三新開というのは、どこのことだろうか。単純に考えて、この石碑のある青木沖新開、上流の長右衛門新開、重井川の西の郷新開ではなかろうか。そうであるならば、寛文十二年(一六七〇)までには重井町の東西橋あたりまでができていたことになる。
こんなに昔から陸地になっていたのだから、川沿いに住んでいる人を除けば、干拓地であるということを普段は意識しない人の方が多いだろう。「災害は忘れた頃にやって来る」というのは、過去の災害の歴史を言うのであるが、災害の歴史のみならず、自分たちの住んでいる所の歴史という意味もあるように思われる昨今である。
ふるさとの史跡をたずねて(107)
長右衛門の墓 (因島重井町善興寺)
重井町善興寺に長右衛門の墓がある。本堂裏山の通路沿いで、赤茶けた木製のお堂の中にあり、引き戸を開けると見える。白いペンキで「環應院」(環応院)と書いてあるが、旧漢字の草書で書かれているので、その気になって探さないとわからない。7月豪雨での崩落はかろうじて免れているいるが、現在は近くまで行けない。
環応院というのは初代長右衛門元照のことで、戒名が「環応院心月元照居士」である。因島割庄屋を勤めた。庄屋というのは百姓身分でありながら、行政組織の末端を勤めた人をいう。東日本では名主と呼ばれた。各村にあったようだが、ある地域の代表を割庄屋と言った。福山藩では大庄屋と呼ばれた。因島割庄屋としては最初の人だったのではないかと思われる。
二代長右衛門宗徹の墓は近くにあるはずだが、見つけることはできなかった。戒名は「通眼宗徹居士」と言い、夫人は岩城村庄屋白石孫右衛門の娘で、戒名は「金光浄真大姉」である。
長右衛門家は六代まで庄屋をしたが、因島の割庄屋となったのは初代長右衛門元照と六代長右衛門知義である。
8 長右衛門の供養像 (因島重井町善興寺)
重井町善興寺の墓地入口の六地蔵は7月豪雨での崩落で倒壊した。六地蔵の隣に長右衛門を供養する地蔵尊があった。四角な基台に「見岩壽(寿)性信士」と彫ってある。重井村の庄屋、後に因島割庄屋を勤めた六代長右衛門知義の供養像である。
知義は父と共に伊浜新開を開いた人であるが、安永二年八月二十二日に亡くなっている。二代宗徹からおよそ百年、明治まで百年足らずの一七七三年であるが、以後、長右衞門家は庄屋をやめ、子らは大坂へ移住する。六代知義に何が起こったのであろうか。そのことを伝える資料はない。
ところで、翌安永三年の村立実録帳がある。そこに「猟師鉄砲持主徳右衛門儀安永二巳八月御仕置被為仰付」とあり、後この鉄砲を望むものがなく村庄屋勘右衛門が預かっている、と書かれている。「徳右衛門」が「長右衞門」の間違いだとしたら、仕置になったということであろう。
これが人口一三八九人、家四四四軒、牛七二頭、船十七艘の重井村で、前年に起こった「事件」を伝える唯一の資料らしきものである。
そしてその理由が、長右衛門物語によって説明されてきた。その多くは明治になって学校で教えるために作りなおされたものだろうから、どこまで信じてよいかわからない。
9 重井八幡神社 (因島重井町伊浜)
長右衛門家の事業は干拓だけではなかった。寺社の増築維持も庄屋として欠かせない事業であった。重井八幡神社も長右衛門家六代に渡って営々と造営されてきた。棟札に「大旦那 源吉充 永禄十二年九月廿一日」の文字がある。一五六九年に中庄八幡神社から勧請したもので中庄側の史料の写真が『因島市史』に掲載されている。古くは色々な神が祀られていたのだろうが、八幡神社としてはこの年から始まったと考えてよい。
因島村上氏六代吉充が向島余崎から重井青木に移ったのがこの年であると言われているが、そのことを示す文書は見当たらず、棟札は吉充が遅くともこの時までには重井に居たことを示すから、このことから推定されたものかもしれない。ここから起算すると来年は青木城、馬神城、細島茶臼山城が築城450年ということになる。八幡神社としての創建450年ということでもある。
八幡神社は九州宇佐氏の氏神であったが、弓削道鏡事件の頃は御神託を伺うほどの重要な神社に昇格していた。菩薩号も与えられ八幡大菩薩と称された。後に武家の氏神、中でも源氏の氏神となり、岩清水八幡宮、鶴岡八幡宮などが有名である。重井八幡宮は村の氏神ととして勧請されたのであろうが、源氏姓の因島村上氏にとっても、またその子孫と称する長右衛門家にとっても自分たちの氏神でもあった。
重井村上氏は長右衛門家とさらに大元屋(備前屋)、丸本屋の三系統があると理解しているが、それが因島村上氏のどこから分かれたのか釈然としない。宮本常一氏の労作『瀬戸内海の研究1』はその辺の事情を案外うまく説明しているかもしれない。
10 一本松 (因島重井町一本松)
干拓地の周辺をを注意して見ると、様々な干拓の名残りを見つけることができる。
因島村上氏は海賊行為だけでなく経済活動も行なっていたと言われるが、その経済活動の中に干拓や殖産振興が含まれていたのだろうか。そうでないとすると、一本松より南が干拓されたのも江戸時代になってからであろう。その干拓の堤防の上に築かれた土手が写真の松のあるところである。
松の木の下には小さな川があったが現在は暗渠になっている。その川は白滝山の南西の沢に発し、西下して途中で南に曲がり、ここを西進して重井川に注ぐ、という複雑な構造をしている。
一本松より北がまだ海の時は、その川は西下してそのまま海に注ぎ、重井川も一本松のところで海に注いでいたはずである。それが二代長右衛門宗徹によって干拓が行われ、川口新開一町田ができた時、この川が南へ迂回し、それが注ぐ重井川も西に曲がって延長された。言うまでもなく新しい干拓地へ不要な水が流入しないようにするためである。
さて、一本松の下にあった小さな川は、松の根元に接して南側にあった。そして流れは松によって少し曲げられていた。この状況から、松と川のどちらが先かということを考えてみよう。一見、川が後のように見えるが、松にぶつかるように川を作るとは思われない。川があってその北側に松が植えられた。そして松が南へ傾きながら成長するにつれ、今のようなコンクリート製でない川を南へ押した、と私は考える。これ以前に、近くに別の松があったのならばともかく、写真の松を初代と数えるのなら、それは川口新開一町田ができてから後に植えられたものと推定するのが妥当である。(写真は昭和50年頃写したものです)。
11 一本松の盃状穴 (因島中庄町金蓮寺)
重井町の一本松の下にあった盃状穴が中庄町金蓮寺の史料館前にある。盃状穴というのは岩に擂(す)り鉢状の穴を開けたもので、祈願やおまじないの民俗学的遺物である。
盃状穴は各地で見られるが、この岩の盃状穴は形が整っていて、他の陰陽石信仰を連想させるものと少し異なるように思われる。
岩に丸い小穴を穿つのは産道を拡張することの象徴的行為で、はじめは安産の祈願であったと私は考える。それが次第に子授け、病気一般の平癒へとご利益が拡大していったのではなかろうか。
そのような貴重な遺物が、一本松付近の道路改修の際道端に捨てられていたのが、心ある人によってここに運ばれ保存されることになったのかも知れない。そうであればそのことには感謝すべきであろう。
しかし、しかしながら、それはそれとしても、まことに失礼な言い方ではあるが、一本松の盃状穴がここにあっても、何の意味もないのである。
すなわち、このような民俗学的遺物の多くは、場所との関係において解明・解釈されるべきものである。近くに山、お寺、神社があるのかないのか。地形に特徴はあるのかないのか。あればあったで、無ければなかったで、なぜここで、このような祈願やおまじないがなされたのか?・・・このような意識のキャッチボールを繰り返すことによって過去の人たちの心が見えてくることもあれば、こないこともある。
史料館前には常夜灯の台石にもあるが、これはどこから持ってきたものであろうか。築造年代の書かれたものの場合は、それ以降に穿たれたことを示す。因北中学校近くの丸池傍の島四国熊谷寺のものなどは、一本松と同様、干拓以降のものであるから、そんなに古いものではないようだ。また、島四国以降のものであるとすると、もっと新しくなる。
12 土生神社 (因島中庄町奥鹿穴)
金蓮寺の史料館前から北を見ると小高い丘があり、水軍城が建っている。さらにその北側が中庄町鹿穴(ししあな)である。重井町の字別全図にも獅子穴が載っているから、中庄村、重井村の村境が定まる以前からあった名前だと思われる。鹿がいたとしても、ライオンが因島にいたという話は聞かないから、ここは単純にに考えてイノシシのことではないかと思っておこう。
それでは今をときめくイノシシが、そんなに昔からいたのかと思われるかもかもしれない。いた時代もあっただろうが、途中に断絶があった、のだと思う。国史跡の能島城跡の対岸の大島には猪之塚があるし、江戸時代の因島で猟師鉄砲が使われていたから、イノシシを撃ったのだろう。ただし、畑に餌になる農作物は少なく、今ほど繁殖はしなかったと思う。
さて、中庄町のシシアナから重井町のシシアナへ抜ける道は、かつては険しい峠道であったが、今では農道として整備されており、車でも通れる。その峠に指し掛かる途中に土生神社がある。中庄町の干拓の歴史では、土生新開が最初だと言われるから、この神社の下の辺りのことかと思う。深くえぐられた谷が自然のものか人工的なものかは知らないが、その土が海を狭くし、陸地を広げるのに役立ったことは確かだろう。
土生新開は天正元年(一五七三)に完成する。後に土生村に移住し、大土生宮地家清左衛門の祖となった完左衛門の努力による。第二家老稲井氏から宮地家へ養子に行く。その遺児に土生村の稲井屋敷を与えて、稲井氏が因島を去ったのが慶長五年(千六百)であった。だから、土生新開と呼ぶのはよいとして、それを天明元年(一七八一)創建の土生神社の近くとするのは私の憶測である。
土生新開が農地として開発されたとすると、宮地氏が一部の人たちだとしても、海賊業から足を洗う時期としては、少し早いように思うのは私だけであろうか。
13 廻国供養塔 (因島中庄町寺迫)
中庄町の駐在所から山沿いの道を東へ進むと、切り立った崖があり、かつての海岸線を想像することができる。コンクリートで保護された崖の下に写真のような六十六部廻国供養塔がある。七月豪雨で少し壊れているが。
法華経を六十六部写して、一国一寺で全国六十六箇寺に奉納して廻った修行者を六十六部行者、略して六(りく)部行者、あるいは六部と呼んだ。
現在のお接待にまで続いている布施というのは原始仏教最大の発明で、仏教を世界宗教にした理由の一つだと私は思うのだが、反面危険な毒を内包している。六部行者も布施に助けられて多くなるが、それを悪用する者の多さに、明治四年に政府が禁止して廻国供養の制度そのものも無くなった。
六十六箇国奉納達成の結願記念碑が六十六部廻国供養塔として、これも布施によること大だったと思われるが、各地に建立されて今も残っている。三庄町観音寺には奥山の中腹にかけて三十三観音があるが、その二番のところから左へ入った円福寺跡に一基。田熊町では浄土寺の鐘楼近くの岡野氏先祖碑の向かいにある、マツボックリを供えているツングリ地蔵さんの隣。重井町では善興寺の鐘楼の隣に一基、六地蔵の裏に一基、これは七月豪雨で埋まり、現在掘り出されて下の駐車場にある。また川口大師堂(島四国八十四番屋島寺)の裏に一基。中庄町には山口に一基。近くに六部山がある。釜田の天満屋前の道端に二基。そしてここに二基。私が知っているのは以上十基ということになる。
多くは、中央に「奉納大乗妙典六十六部(日本)廻国供養」脇に「天下泰平 日月清明」、年号、名前などが刻印されている。右側の長方形の塔身の上に地蔵尊の載ったものは中庄町では珍しいが、重井町善興寺の鐘楼横のものと同じタイプである。
周辺にあるのは村四国の御本尊や大師像であろう。
さらに道なりに進むと因島北認定こども園のところに出る。その先のゲートボール場とともに、かつては溜池があり、長い間ひょうたん池というのだろうと思っていたら、信号がついて片刈池と表示されたのには驚いた。片刈の意味は未だにわからない。
14 馬の背峠の塞の神 (因島中庄町仁井屋)
土生新開ができる前の鹿穴(ししあな)と中庄町中央部の往来を考えてみよう。いや土生新開ができても片刈山の東端、すなわち因島北認定こども園やゲートボール場のあるところに道ができていなければ同じことである。小舟で通う他は、水軍城のある東西に走る尾根を越えて行っていたに違いない。すなわち峠越えである。
峠越えというのは、こちらと向こうを隔てている高い尾根の最も低いところを通っていくことである。その低いところを「たを(たお)」と呼んだ。そして「たおごえ」が「とうげ」に転化し、「峠」「垰」などの漢字が当てられた。だからこれらの漢字が「たお」と読まれても不思議ではない。しかし、苗字として使われる場合、読みやすく「田尾」などと変わったようだ。
さて鹿穴から南への峠越えを考える場合、島四国の遍路道が考えられる。大浜町から大楠山の中腹を越えて着く丸池の熊谷寺からが中庄町に属する。次は西進して鹿穴の九番法輪寺である。その次の十番切幡寺は長福寺の境内にあるので、歩き遍路は片刈山と水軍城の間の峠を越える。しかし、南側がまだ海であれば同じことで、本格的な峠道にはなり得ない。
そうなるともう少し西の方を考えなければならないだろう。鹿穴の南隅。すなわちこれから越えようとする尾根の北麓を西進してみよう。鹿穴谷を奥へ入るのだから当然登り道になる。しかし、かつての山道が残っており、登りきったところに南側に越える切り通しがある。少しでも峠を低くしようとした名残である。その切り通しには塞の神の祠があった。馬の背峠の塞の神であるから、ここが馬の背峠である。
馬の背峠を越えて南に下っていくと蕎麦はなのところに出た。少し歩いたら大川の向こうに松愛堂とJAがある。東に下ると仁井屋集会所があった。ということで鹿穴と仁井屋との往来が馬の背峠を経て行われていたということだろう。
大川に出ず、若八幡神社、隠島神社、菅原神社と山沿いの小道を通れば古い時代の幹線道路に通じるから、獅子穴、鹿穴、馬の背峠、若八幡神社というコースが重井中庄間の最古道の第一候補と考えてよかろう。
15 大池道路改修碑 (因島重井町大池)
因島には中庄町と三庄町に荘園があった。そのことが現在の町名にまで引き継がれている。中庄には重井浦がくっついていたが、後に重井庄となった。どちらの歴史も短かったせいか、浦も庄も現在の町名に残っていない。
青木茂氏の『因島市史』は大変な労作である。労作であってもすべてを信じているわけではないが、重井の重は「しげみ」で、井は「水路、高くそびえる山」だろうと言う説は信じてもよさそうである。その草木の生い茂った重井浦がどのあたりだっただろうか考えてみたい。中庄の荘園の一部だから、中庄側の人が来てそう呼んだに違いない。
土生新開のできる前だからとうぜん峠越えである。馬の背峠を越えて鹿穴に出る。そして土生神社近くの峠を越えて重井の獅子穴へ抜けるのが第一候補。中庄町権現の隠島神社近くに小さなため池がある。そこから北へ登っていくと重井町との境に高圧鉄塔がある。その下を越えると、今はイノシシしか通わないような小さな谷が北へ下る。これが第二候補。長福寺のある寺迫を北へ越えて鹿穴へ出るのが第三候補。
いずれのルートを通っても、重井町の因島運動公園入口付近に出る。少し北へ下ると、福友自動車の前に写真のような道路改修碑がある(右後ろが、しまなみ海道)。このあたりからサイクリング客を苦しめる登り坂が始まる。すなわちかつては、海岸線がこのあたりまで迫っていたことがわかるだろう。今のようなコンクリートの護岸があるわけではなく、山から流れてきた土砂が海との境をなし、時おり海水が流れ込むような雑草に覆われた荒地もあったことだろう。茂み(繁み)の水路だろう。
しまなみ海道を作った時の残土で地上げされているので、その面影はないが、それ以前は周囲より低い田んぼだった。そのために作られたため池が大池で石碑の南、しまなみ海道の高架橋の下にわずかにその痕跡が残っている。ここと島四国一宮寺との間にある友貞という字名は外浦町にもあり、因島村上家文書の三に出てくる名田である。また、一ノ宮というのも、文字通り最初のお宮があったことを示している。島四国ができる以前から一ノ宮であり、そこに明治の終わりごろ島四国一宮寺を配したわけで、やや不自然な遍路道からその苦労が偲ばれる。また、江戸時代末期に作られた重井村四国がここから始まるのにも、このような歴史を考えた配慮が感じられる。
ということで、池之上小田之浦間の道路改修碑が、重井浦・重井庄の発祥の地を示す目印になっている。
16 重の井 (因島重井町伊浜)
因島重井町伊浜の八幡神社に重の井という井戸がある。茂み(繁み)の湿地帯をシゲイと呼び、中ノ庄の重井浦から重井庄となった。重井と書いてシゲノイと呼んだのかもしれない。しかし、シゲノイウラ、シゲノイショウでは少々長いので、浦や庄が付いた頃からノは落ちたであろう。
重の井というのは井戸のことだが、井戸ではなく、この辺りも繁の井ということだったのかもしれない。
前にも書いたが、今のようなコンクリート製の護岸などなかった。陸と海の境はグラデーションだ。そのグラデーションの湿地が重井の井だから、伊浜も「井浜」だったに違いない。
さて、ここの重の井は、その昔神功皇后が水を二杯(重ねて)飲まれたという伝承の井戸である。一説に二度も着船され、それぞれ水を飲まれたという。とにかく都合二杯水を飲まれた。その井戸なので重の井と言い、それが重井の語源だと言うのである。なかなかよく出来た地名語源説話で、史実だと思っている人もいるのではなかろうか。
神功皇后のことは『古事記』『日本書紀』に書かれている。神功皇后その人の実在を史実として証明することはできないだろうが、後の世の何らかの史実を反映した伝承だとも考えられるので、神功皇后の実在をここで議論しても仕方がない。しかし、神功皇后が因島へ立ち寄られた頃には、因島にはおそらくそのことがわかる人はいなかっただろうし、そのことを後世に伝える術はなかっただろうから、重の井を含めて因島に伝わる神功皇后伝説は全て後世の創作だと、私は考える。ただ、そのような話がどのように作られたのかを思い巡らすことは有意義であろう。
17 大石遺跡 (因島重井町大石)
しまなみ海道ができた時、その道路新設予定地から遺跡が発見され、昭和54年度に発掘調査された。大石遺跡である。地図で見ると因島北インターと重なり、詳しい場所はわからなかった。幸い発掘風景を写した写真を目にする機会に恵まれた。その背景から想像するに、因島北インターから入って、本線に合流するあたりということになる。(写真)。そこから重井町と大浜町との境までである。因島北インターから大浜パーキングまでの間に、二本の陸橋が本線の上にかかっている。重井側が「重井小道橋」、大浜側が「大浜小道橋」でその中間あたりが町界ということになるので、本線に合流して、あっという間に通過してしまう。
大石遺跡からは、弥生時代中期(推定)の竪穴式住居跡二軒、近世の溝状遺構14本のほか、弥生式土器、石製武器、鉄器、中世の土器、近世の陶磁器など多数が出土しており、少人数で農耕生活をしていたことが推定されている。
古い時代のことは想像すべくもないが、近世の陶磁器に注目してみたい。塩野七生さんの『ローマ亡き後の地中海世界』だったと思うが、海賊横行時代の地中海では、住民は海から離れて住んでおり、海賊が出なくなると再び沿岸部に戻ってくるというようなことが書かれていた。海賊とは言うものの、そのタイプは異なるが、江戸時代になって、因島村上氏が去ってから、沿岸部に出てきたということを示しているのであろうか。あるいは、干拓の進展とともに沿岸部が遠ざかったので移動したということを示しているのだろうか。
さて、大石地区というのは、因島でも有数のマムシ生息地である。そこに住んでいた人たちとマムシとの関係はわからない。白滝山南麓に発する湧水の一部は、その近くを通って、初夏にはホタルの飛び交う、みつばち(レストラン)の裏で、重井川に合流する。特別の年を除いて、年中その水が涸れることはない。だから人間にもマムシにも住みやすい土地であったということだろう。
ふるさとの史跡をたずねて(118)
隠島神社 (因島中庄町権現)
干拓の話から峠道の話になり、迂遠な印象を持たれたことであろう・・。しかし、葬式と結婚式が人生の裏表であるように、特に因島では、干拓と峠道は歴史地理の表裏であるから遠回りをしているわけではない。
民俗学者の柳田国男さんによると、峠道は交通機関の発達とともに、より遠くより低くなった、とのことである。しかし、因島では、荷車や自転車では無理な山越えを避けようとしても、海に阻まれるところが大部分だった。現在の自動車道の大部分が埋立地や干拓地であることを思えば、そのことがよくわかるだろう。
さて、中庄湾の干拓を考えるとき、因北小学校より東側は新開名がたくさんあり、その歴史がよくわかるのだが、そこより西側になるとよくわからない。おそらく中庄湾を囲むようにしてある山の窪地が海と出会うところから土砂が堆積し、荘園時代には、そこに小さな塩田が作られたのではないかと、想像するだけである。そのような位置に多くの神社があるいうことは、人の生活出来るところが、海と山の境目にあるわずかの土地に限られていたということであろうか。
中庄町権現の隠島神社から南を見下ろすと、中庄湾の最深部がよく見える。次第に高くなっていっているのは、長い間にさらにその上に土が積もったということであろう。
ところで、『日本三代実録』の元慶(げんぎょう)二年(八七六)12月15日にある「備後国無位隠島神に従五位下を授く」(原漢文)が文献上最初に登場する因島の名だというのが定説である。もっともそれ以前のものが見つかれば別である。また、この「隠島」が因島のことだと解釈してのことである。これについは、前後に近くの島があり、周辺に「隠島」から連想される地名を探すことができないから、因島のことだと思ってよい。なお、ここから向島のカゲになっている、というのが因島の語源だとする説があるが、同じ音の漢字が混用された時代が長かったことを思えば、重井を重ねて水を飲んだ井戸と解釈するのと同様、妄説にすぎない。
ふるさとの史跡をたずねて(119)
大疫神社 (因島重井町砂原)
怪しげな伝説より、新しくても確実な史実の方が貴重だと私は思うのであるが、曖昧でも古ければ良いという世界がこの世には確実に存在する。その一例が、従五位下を授けられた隠島神社は、実は我が社であると主張する神社が中庄町権現の隠島神社以外にもあるということだ。
そのひとつが地元では祇園さんと呼ばれている重井町砂原の
大疫神社である。海から離れたところなのに砂原と呼ばれるように、大疫神社のあるところは、かつて馬神城跡のある馬神島であった。また、元は陸続きであったのが音戸の瀬戸のように開削されて島となり、その後埋め立てられ今のようになったという話は聞かない。だから、その島にある神社が隠島神社と呼ばれ、対岸の島の名前が隠島になった、ということはちょっと考えにくい。あるいは隠島(どのように読まれたかはともかく)という島の名前が、その隣の島にある神社の名前になっていたなどということも、考えにくい。だから、大疫神社は隠島神社の候補からはずれる。
ついでだから、なぜ大疫神社を祇園さんと呼ぶのか書いておこう。清水へ祇園をよぎる桜月夜こよひ逢ふ人みなうつくしき(与謝野晶子)の祇園は京都市東山区の八坂神社のあるところである。また有名な祇園祭は八坂神社の夏祭りであるから、答えは八坂神社にある。大疫神社の祭神は須佐男之命、素戔嗚尊(すさのうのみこと)で、その総本社が八坂神社である。ただ、八坂神社という名は明治以降のことで、それまでは祇園社などと呼ばれていた。だから明治より前にできた大疫神社は八坂神社という名とは無縁である。それでは素戔嗚尊と聞きなれない大疫神社との関係はどうであろうか。これは、疫病流行時に行われた御霊会を起源とする祇園祭が10世紀ごろ祇園社の祭礼になったことから、素戔嗚尊や一緒に祭られていた牛頭天王が疫神となったという経緯がある。
これらのことから他の神社でも、疫神、牛頭天王、素戔嗚尊(須佐男之命)を祭っていれば、八坂、祇園などの名が使われていることが理解できるであろう。
ふるさとの史跡をたずねて(120)
住吉神社 (因島外浦町三区)
ところで隠島神社は我が社であると主張する神社が複数存在するということは、授けられた従五位下という栄誉が忘れられ、隠島神社という名誉ある社名までも捨てられていたということであろうか。あるいは贈位の乱発によって、昨今の日本遺産・世界遺産とか各種の何々賞などの例でわかるように、その価値が急速に下落したのであろうか。従五位下の隠島神社がその地にそのままの名で存在していればこんな奇妙なことはおこらなかったはずである。そのおかげで、この史跡巡りも遠回りができるのではあるが・・。
さて、次の隠島神社の候補は外浦町の住吉神社である。ここへは島四国23番薬王寺を目指していけばよい。地蔵院の前の道を南の奥を目指す。住吉神社は航海や港の神だから、創建された頃はこのあたりまで海が迫っていたのだろう。外浦という漢字が示す音がどうであったにせよ、漢字の通り、地理的に見ても中庄の外港であったと考えて大きくは違っていないと思う。
また、住吉神社と地蔵院の間に金蓮寺跡があり、五輪塔やそれらの残欠が畑の隅にある。金蓮寺跡と中庄町の金蓮寺との関係は、今回は触れない。その元金蓮寺が住吉神社やその前身となる神社の神宮寺だったという考えは、神仏習合の時代が長かったことを思えば首肯できる。すなわち、それなりに繁栄した時代があったと考えられる。
その賑わいは港の衰退とともに消えていく。それは南にそびえる奥山に連なる山から流入する土砂の堆積によって、港の機能が低下したことに起因するのか、あるいは船や操船術の進歩によってその役割を終えたのかは、わからない。いずれにせよ、その後埋立や干拓が進み海岸から遠く隔たったところに住吉神社が存在するのである。
近くの堂崎山は南北朝の動乱のころ賑わったのは確かだろう。しかし、それと住吉神社周辺の賑わいとは異なる。地蔵院から堂崎山へ登る道々周囲の谷間の広さは意外であったが、私が初めて住吉神社を訪ねた時は大木は切株が残っているだけで、周囲も次第に山林に復しているような状況であったから、古い時代のことは、ここに書けるほど想像できない。
121)
齋島神社 (因島大浜町黄幡)
従五位下を授けられた隠島神社最後の候補は大浜町の齋島神社で、いむしま神社と読み隠島神社と同音である。とはいえ、皇太子神社を明治32年に今の名に変えた。だから、なぜ由緒ある名称を捨てていたのか、ということになると他の候補と変わらない。最近知人と話して、中庄町ほどの歴史はなかろうから、まず大浜は除外してよいと結論したばかりであるが、今回順に書いてきたので、再検討してみたい。
因島の古い時代のことを考えるのに、三庄、中庄、重井浦の荘園時代が頭にあって、そこから発展してきたと考えがちであるが、それが過去を見る眼のフィルター、すなわち曇りガラスになっていないかと反省する。フランシス・ベーコンはそのような偏見のタイプを四つのイドラ(偶像)として示した。『ノヴム・オルガヌム(新機関)』(岩波文庫)によると、種族のイドラ(人間本性)、洞窟のイドラ(人間個人)、市場のイドラ(社会生活)、劇場のイドラ(学問)と呼ぶ。そういうものをひとつひとつ剥がしていかないと真実には到達できないというわけである。先入見を取去って考えてみることはなかなか難しい。
古くは広畑の縄文遺跡があり、また後期弥生時代の大石遺跡(重井町)からも近く、古くから人が住んでいたことは確かだろう。また因島の大部分が干拓地であるのに対して、大浜町には扇状地が広がっていることに注意したい。扇状地は自然現象の結果であり、干拓地と違って土木技術の進歩を待つ必要がなかった。さて、因島大橋の下の海を和刈(めかりの)瀬戸と呼ぶ。和布刈神事(めかりのしんじ)というのは、神功皇后伝説にもとづく。近くに和布刈神社や住吉神社はなく、岩子島の白砂青松の海水浴場があったところは厳島神社で、関係はなさそうであるので、神武天皇御座石があり、またかつては御留松とか艫取松と呼ばれた、神武天皇が風待に船を留めた松があったということだから、伝説の上塗りのような形で和布刈神事があったのだろうか。こうしてみると、神武天皇伝説の真偽はともかく、大浜町の古い時代にもっと注目してもよいのかもしれない。
話を中庄町権現の隠島神社に戻すと、ここから発掘された瓦が権現廃寺出土品として昭和39年に因島市の重要文化財になっている。なぜ、隠島神社の出土品と言わないのであろうか。また対岸の、と言っても今は陸続きであるが、熊箇原八幡神社にも隠島神社のことが書いてある。一見両社が我が社こそ従五位下の隠島神社だと争っているような構図だが、明治6年に権現の隠島神社から遷宮されたということであるから、権現の隠島神社は隠島神社跡で、従五位下を授かった隠島神社はこの地にあった、と主張しているものと解しておこう。なお、この地には多くの伝承があり、発掘調査をすれば何か出てきそうな予感がする。
ふるさとの史跡をたずねて(123)
唐樋 (因島中庄町唐樋)
前回のタイトルは、山口道路改修碑(因島中庄町山口)となるところが、前々回のままになっておりました。お詫びして訂正させていただきます。
さて、中庄町には唐樋(からひ)というバス停があり、そのあたりを唐樋と呼んでいる。唐樋という以上は、唐風の樋門があったということである。その地名は多くの人に知られており、長い歴史があることがわかる。しかし、今ではゴミ集積場の方が目立って、史跡とか名所とかいうイメージとは遠い。
堤防の下から水を排出するところが樋門である。それに対して上からオーバーフローさせて流すものを「イデ」とか「イテ」と呼んだから重井町の伊手樋というのは、かつてそのようなものがあって、それが地名として残ったのだろう。
樋門には三形態があるようだ。一つは岡山県の児島湖の締め切り堤防にあるようなもので、管理所があり、複数の職員によって維持されているような大掛かりなもの。二つはめ地元の委託された人が管理しているもの。三つめは排水口に上部に蝶番のついた鉄扉が垂直に垂れており、水圧差で自動的に開閉するもの。近年大幅に変更されたのが、二つめのものである。
唐樋も二つめのものに属し、設立時が唐樋と呼ばれる形式のものだった。それは三つめのものと構造は似ていたが材質と人が開閉するのが、異なっていた。後に改良されて、上部に轆轤(ろくろ)すなわち、滑車を付けて上下に上げ下げするものに変わった。このようなものを南蛮樋と呼んだ。
南蛮樋から材質や上下させる機構が時代とともに変わったが、基本的にはこの形で維持され、地元の委託された管理人(樋番人)によって維持されてきた。しかし、人件費の高騰はこの世界にも影響を与えないわけにはいかなかった。電動化と増水時の排水ポンプの設置である。かくして、両方が設置されると、維持管理のことを考えれば機械的な制御よりも排水ポンプによる電気的な制御の方に利があり、それが主流になるのは必然であった。潮の干満とは関係なくある水位に達するとセンサーが感知してポンプが作動しているようだ。
ふるさとの史跡をたずねて(124)
油屋新開潮回し (因島中庄町油屋新開)
唐樋の内側(西側)に水郷地帯がある。と、書けばオーバーであろうか。飛ぶ翡翠の別名のあるカワセミが目の前を飛んで行った。慌ててシャッターを押したが、掲載できるものは撮れなかった。かつて野ウサギの時(場所は非公表)もそうだった。野生動物を写すのは難しい。
さて、干拓地の防潮堤の内側には池があり、樋門やポンプによって排水されている。通常の河川と違い、こちらの方が海水面より低いせいだ。それで、潮が引いて、こちらより低くなったとき、樋門を開けて水を流した。水路を海面より高くすれば
よいのだがが、干拓地ではなかなかそうはいかない。
このような池を潮回し(潮廻し)という。重井町ではタンポという。湯たんぽのタンポである。他の地域で潮待ちと呼ぶ人がいた。意味はわかるが、鞆や牛窓などの潮待ち港での海水の流れの方向が変わるの待つことを潮待ちというから、紛らわしい。おそらく潮待ち池の意だろう。そんな具合であるから、紛らわしい。かつて遊水池と私自身も書いたことがあったが、遊水池、遊水地には別な意味があるので、このような場所を呼ぶのは適切ではないようだ。ただ、場所によっては遊水池的役割を果たしているものもあるようだ。
潮回しの役的は、低地ゆえに集まる水を溜めておく他、灌漑用水、塩害の防止などがある。しかし、近年その役目を終え、埋められたり狭められたものも多い。そして、そこが干拓地であったことすら、わかりにくくなっているところもある。だから、潮回しや樋門のあるところは貴重な干拓遺跡であり、産業遺跡である。そしてそこに行けば、先人たちが海に挑み、陸地を広げた苦労が偲ばれる。また、それを維持するのに膨大な費用を費やしたことも想像される。
文政2年(一八一九)というから二百年前であるが、中庄村絵図には、既にここまで干拓が進んでいたことが示されている。そして唐樋の隣にはお社も描かれている。現在の唐樋明神社である。
ふるさとの史跡をたずねて(125)
写真・文 柏原林造
大浜中庄村界碑 (因島大浜町新開・因島中庄町新開)
唐樋のところは東西南北に道が分かれるのだが、少しずれていて、純粋な交差点とは言えない。だが、大浜町の方にも行かず、外浦町の方へも行かず、ジュンテンドーの方へも行かず、北側への最も小さい道を進んでみよう。この道より右側が大浜町で、左側が中庄町です、と書けばわかりやすいのだが、そうではないので、もうこれ以上説明はできない。住宅地図などを見てください、としか書きようがない。ということで、そのようなことは考えないで、まっすぐ進み、突き当たりを左折して注意深く右端を探すと写真のような石碑がある。
この場所では右側が大濱村、左側が中庄村ということになる。あくまでも、この位置での話で、先ほど唐樋のところから進入してきたところではそうではないので注意が必要だ。
何ともわかりづらい説明になって恐縮であるが、丸池からまっすぐ東へ歩くと山を越える前に大浜町になってしまうというわけだ。これには初めて訪ねたとき、驚いた。
これは西の方から埋め立てたら・・と書けば、話がわかりやすいが、ここは埋立地ではなく干拓地である。鼠屋新開という。だから、唐樋に近いところに堤防を築き、水を抜いたら、新開地ができて大浜村とつながった、ということであろう。
せっかくだから、ここを起点として、二つの峠道を記しておこう。まず、写真の右方向へ来た道を引き返し、唐樋の方へ行かず山の中へ入る。これが島四国の遍路道で大浜町最後の7番十楽寺から中庄町丸池傍の8番熊谷寺への道である。途中竹藪の中に手入れされた歩道があり、素晴らしい景色だった。しかし、残念ながら今ではイノシシに荒らされこの先、多くのところで道は壊されているだろう。
もう一つは、写真の左側を上へ向かう道で、これは北に登る農道である。その先を越えるとた大浜町の見性寺よりさらに北にある村上氏先祖碑のところに至る。数年前に通った時も道らしきものは途中で消えていたから、現在でも通れないと考えた方が無難である。
ふるさとの史跡をたずねて(126)
新設道路開通碑 (因島大浜町)
前回紹介した大浜町の二つの峠道を理解していただくためには、現在大浜中庄間の主要幹線である海岸道路のことを書かねばならない。そこで、中庄町から大浜方面へ左側に注意しながら海岸道を進むと、山側の花壇の間に写真のような石碑がある。多くの人が途中止まることなく進む道であるから、注意しないとわからない。だから、脇見運転をすすめるような説明になって恐縮であるが、ご寛恕願うしかない。八重子島の前までは行かない、と書いておこう。
この石碑には、「新設道路開通記念碑 寄附者 久保田権四郎 大正十二年四月 大濱村建之」と書かれている。島内に多くの道路改修碑があるように、たいていが「改修」であるのに、ここは、「新設」であることに注意したい。すなわち、大正12年までは、ここには道路はなかったと考えられる。もちろん、海岸のことであるから、潮が引けば通れたところがあっただろうし、人一人がかろうじて歩けるほどの崖道が部分的にあったかも知れない。しかし、急峻な斜面や、長い曲がった海岸線を考えれば、道らしきものはなかったと考える方が自然である。
この石碑の左側面には「自大濱村至中庄村 海岸線 自大濱村至重井村大池奥崩岩線 総工費貳万五千圓」、右側面には「大正十年九月起工 大正十二年三月竣工 石工 小林茂三郎 濱井房信 彫刻 須山辰次」、また裏面には当時の村長以下役員の氏名が彫られている。
重井村間の大池奥崩岩線というのは、現在のしまなみ海道の側道の原型となった道路で、因島北インターと因島北インター(北)の信号間にある塞の神のところに出ていた道である。この道をここから入ると、しまなみ海道と交差して消えている。
この二つの道路が久保田権四郎さんの寄付によって新設されたわけである。それまでは船の利用もあったであろうが、多くの人たちは峠越えをしていたのである。現在と違って多くの山が山頂近くまで耕作されていたので、峠道は今では想像できないほど整備されていたのである。
ふるさとの史跡をたずねて(127)
因島八景・第二景 (因島大浜町)
大浜中庄海岸道路の新設道路開通記念碑まできたら、すぐ先に因島八景第二景の石碑があるので、見ておこう。「因島八景
大浜海岸から八重子島を望む景観」と書かれた石碑が左手、すなわち崖の下にある。すぐ先に駐車スペースがある。
しかし、その八重子島と石碑は反対方向にあるので、同時に撮影はできないので、、別々に写したものを並べて表示しておく。八重子島の入らない方向でも十分に楽しめる光景であるが、あえてこの位置で八重子島を入れているのには、背後に因島大橋が入るからである。
空、橋、海、島、山は光の具合でいかようにも変わる。さらに海は潮位によって高さも変わる。また、船などが入れば、まさに千変万化で、同じ写真は二度と撮れないということになるではないか。
こういう場所が近くにあるということは、とても幸福なことである。・・・しかしその幸福感に酔ってばかりはいられない。目を右に転じてみよう。梶の鼻の向こうに見える島が横島である。東側の田島とは陸橋で結ばれており、田島は橋の途中で曲がっている内海大橋で沼隈半島と結ばれている。田島と横島が福山市内海町である。田島の西側、すなわちこちら側を大浜海岸という。といことは海を隔てて両方が大浜なのである。
因島の荘園は後白河法皇の所有だったので近くの浜を法皇の浜、法皇浜と呼び、皇浜を大浜と書いたのかも知れないが、ただ大きな浜という一般的な呼称の可能性が高いと思う。
ふるさとの史跡をたずねて(128)
写真・文 柏原林造
鼠屋新開 (因島中庄町新開)
中庄村史によると土生谷新開が完成したのが天正元年(一五七三)年で、鼠屋新開ができたのが貞享2年(一六八五)年であるから、およそ1世紀ののちであり、土生新開が特別に早かったということである。だから、土生新開が鹿穴の土生神社から下の谷が平地になったあたりから、仮に丸池あたりまでが、出来上がっていたとしても、それから先は海で、村界碑がなくても、中庄湾の北側は依然中庄村と大浜村が海で隔てられていたということになる。それが江戸時代になって鼠屋新開によって大浜村と続いたということであろう。
村界碑の近くに道路改修碑のほか、古い石仏があり、おそらく中庄村四国八十八ケ所の一部だと思われる。その後ろがゴミステーションである。
そしてその道路改修碑の反対の電柱の傍に「ねずみや新開 貞享二年」と書かれた、剥げかけた看板があり、ここが鼠屋新開であることがわかる(写真)。
それにしても、土生新開の名前の由来も面白かったが、こちらもなかなか面白くて、いろいろ想像してみたくなる。小学生に自由に考えさせたら、笛を吹いてねずみをおびき寄せて・・という有名な話に似た作り話をしてくれるであろう。
今の子供たちはネズミは見たことがなくても、ハーメルンの笛吹き男の話はよく知っている。どこか怖いようで、一方ではもの哀しく、なおかつ民衆の貧しい生活も透けて見えるようなエキゾチックな話で、こども向けの童話として読まれているが奥が深いようである。
多くの子供たちが不幸な事故にあったということと、他郷から来た旅芸人に町の執政者が冷淡で、おまけに約束を反故にするという非人間的扱いをしたという、二点が少なくとも読み取れる。中世のドイツのことであろうが、日本の近世農村社会の風景と重ねても、そんなにかけ離れているようには思われない。
時代はやがて元禄時代に入るが、その華やかなイメージとは裏腹に、生産者に対して消費者が多すぎる徳川時代は、そのシワ寄せが農村にのしかかったのは周知の通りである。
1685 貞享 2 鼠屋新開築調吉右衛門なるものの築調で屋号の鼠屋をとって名ずく 広さ1町1段25歩
と中庄村史
には書いてある。「1573 天正 元 土生新開竣工す」の次の干拓である。
ふるさとの史跡をたずねて(129)
唐樋明神社 (因島中庄町唐樋)
鼠屋新開の次は油屋新開である。油屋新開が中庄町最大の新開であることは、以前紹介した潮回しが最大であることからも容易に想像できる。さらに、油屋新開の歴史はもうひとつの新開の歴史を含む。すなわち前新開の歴史である。
前新開というのは、庄屋又兵衛が発起した村をあげての事業であった。地蔵鼻から徳永山鼻間に捨て石をした。片刈山の東端から南へかけての辺りであろう。完成する前の元禄13年(千七百)に豊田郡小田村の庄九郎という人物が、その沖に干拓することになったので、こちらは途中で中止した。庄九郎は元禄16年まで工事を続けてひとまず完成したのであろうが、宝永4年(一七〇七)には倒壊した。
その後、尾道町油屋庄左衛門等によって再度干拓が試みられ正徳3年(一七一三)に完成した。油屋新開である。これによって前新開も同時に完成した。
私の60年以上前のかすかな記憶では、当時の因ノ島バスはボンネットバスで、未舗装のデコボコ道を砂ぼこりを上げながら走っていた。青影トンネルはまだできていなかったから、西浦峠は登れなく重井町経由で中庄町、大浜町へと走っていたと思う。
今はゲートボール場になっている片刈池の前を通って、南に進むと堤防の上に出た。そこで東へ左折して、入川橋の先でまた左折して北へ向かい唐樋を経て大浜町へ入った。すなわち、油屋新開を囲むようにバスは走っていたのではないかと思う。
因北小学校の正門前の道の当時の様子は覚えていないので、小学校移転に伴い東へ寄ったのか、元のままなのかはわからないが、おそらくこの辺りが前新開との堺ではないかと思う。
唐樋の配水場の隣に唐樋明神社、すなわち三社明神社が建っている。防潮堤を海水から守るとともに、油屋新開を守ることも願って建立されたものだと思う。
ふるさとの史跡をたずねて(130)
菅原神社 (因島中庄町天神)
油屋新開の沖に蘇功新開がある。新入川橋を超えて、外浦町の方へ行った
ところである。外浦町でなく中庄町になる。海をどんどん干拓していけば、よその町村の前に至る。今も昔も複雑な問題である。しかし、原則はその工事をしたところの所有にあるのであろうが、感情的にも面白くないと思う。その蘇功新開の工事の苦心は吉助洲に象徴されるように難工事であった。
中庄町柏原氏の祖は今でも天満屋と呼ばれている。初代の権右衛門が宝永7年(一七一〇)に菅原神社(写真)を勧請し、その近くへ住んでいたからである。重井の柏原家の分家らしいが、川本、蔵本、中屋等どこの柏原家かはわからない。まだ屋号が付いていなかった時代の分家ではないかと、私は想像する。
その中庄町柏原氏本家の7代吉助が歴史に登場するのは寛政の頃である。(一七八九頃)。
土生新開を作った宮地家の子孫である、竹内与三兵衛の依頼で、数年にわたって海に石や砂を入れた。これを吉助洲と呼んだ。しかし、水泡に帰した。こういう失敗談は色々と脚色されるものであるが、重機のない時代の干拓の苦労を伝えるものだから、無批判に紹介しよう。
膨大な費用をかけて吉助洲ができた。そして酒肴で完成を祝った。しかし、翌朝見ると堤防も石も海の底に沈んでいた。
与三兵衛は広島藩から資金援助を受け、再普請を試みた。与三兵衛は茅屋に住み「放蚊亭」と称して蚊帳も吊らずに辛抱したが、生存中には完成しなかった。工事はその子与三兵衛長光によって天保14年(一八四三)に完成された。蘇功新開である。
ふるさとの史跡をたずねて(132)
仁井屋新開 (因島中庄町新開区)
蘇功新開の灌漑用水池ぞいの桜は水軍スカイラインの北の名所である。そしてここから南へ登れば、外浦町鏡浦町間の平田道路を通る峠道へ続く。また、この池より海側(東側)が仁井屋新開である。
仁井屋新開は昭和の新開で歴史的にも新しい。時代が新しいせいか、立派な記念碑が建っている。(写真)
昭和23年(一九四八)に工事を始めて昭和32年(一九五七)に完成しているから、実に10年の歳月を要している。国庫補助による広島県の事業であった。工事は、中庄村の村長であった宮地弘氏が推進したので、宮地弘氏の屋号から仁井屋新開と呼ばれる。
中庄町には仁井屋新開とは別に仁井屋という地名があり、なかなか複雑である。多くの場合、長男が相続し、次男以下は他家に養子に行くか、あるいは分家する。この分家のことを新屋と呼ぶ。「しんや」と発音する人が多いと思うが、時に「にいや」と言う人がいる。私がはじめて分家のことを「にいや」と聞いて驚いたのは岡山であった。大江姓宮地氏は全国に分布するのであろうが、因島宮地氏の遠祖は、例えば岡山県井原市大江町宮地郷という地名があるように、備中に勢力をもっていた。だから宮地氏の一部の人たちは分家のことを「にいや」と言ったのではないか、と私は思う。そしてその分家は周辺の地名になるほど大きくなった。漢字はわかりやすいものがつかわれたということであろう。
このように「仁井屋」を「新屋」と解釈したが、「仁井」には別の意味があるので注意が必要だ。因島の例ではないが、仁井、仁井山、仁井川などは、丹井が転化したものである。丹生(にう)というのは辰砂(シンシャ)、すなわち硫化水銀HgSのことである。硫化水銀は加熱すると水銀と硫黄(いおう)に分かれる。金を含む鉱石を水銀に溶かし、加熱して水銀を蒸発させれば金が得られる。これが古い金の採取法で、同じ原理で奈良の大仏が金メッキされたことはよく知られている。この丹生(辰砂)を多く含む所が丹井、丹生田、丹生野などと呼ばれ、のちに仁井、入田、入野と表記されるようになった。これらは、古代の水銀産地で丹生一族によって採掘された。残念ながら因島にはそのような痕跡や伝承はない。
ふるさとの史跡をたずねて(133)
西浦新開(因島中庄町西浦区)
中庄町西部の西浦区の干拓地について見てみよう。
重井町小田浦(おだのうら)の南で中庄町になる。その海岸地帯は北から南へかけて、山根新開、利吉新開、嘉助新開、黒崎新開と呼ばれている。そして田熊町に入って黒崎新開、瀬戸の浜となる。したがって黒崎新開は要橋から南、町界を挟むということになるのだろう。それぞれの新開の完成年と推進者は次のように記録されている。
山根新開、天保7年(一八三六)完成、宮地儀三太(屋号山根)。利吉新開、文政7年(一八二四)完成、徳永の長百姓利吉(屋号浜屋)。嘉助新開、天保6年完成、東屋嘉助。黒崎新開、天保6年完成、庄屋竹内(宮地)与三兵衛。
利吉新開と嘉助新開の間に西浦漁港がある。西浦のバス停のところにある巨大な石碑は、昭和6年に西浦漁港を拡張した時のもので、その大きさに圧倒されたので今回はこれを載せておく。
なお、黒崎新開の東(山側)が「天鵞絨ケ原」である。この難しい字は音読すれば「てんがじゅう」であるが、ポルトガル語のビロードに中国語の白鳥の織物を表す天鵞絨を当てたもので、ビロードと読む。こういうのを当て字という。ジャガイモと馬鈴薯は別の植物だから、ジャガイモのことを馬鈴薯と言うのは間違いだと主張したのは牧野富太郎博士である。オリーブと橄欖(カンラン)も同じことでオリーブの誤訳と書いている辞書もある。当て字であるなら許容されるのであろうが、それぞれ別のものである。
さて、ビロードと言っても若い人は知らないだろう。現代では、もっぱらベルベットと呼ばれる柔らかで光沢のある織物で、ドレスやカーテンなどの高級品に使用される。
色としては濃い青みがかった緑色というから、竜王山と山伏山の北西の山麓であるから、繁茂した木々が、そのような色に見えたのかも知れない。ここまで書けば、因島医師会介護老人保健施設ビロードの丘という優雅で古めかしい名が、その土地の名に因むということが理解していただけたものと思う。
ふるさとの史跡をたずねて(134)
深浦新開住吉神社(因島重井町深浦新開)
干拓地には住吉神社がつきもので、いたるところにその小祠を見つけることができる。重井町の深浦新開の潮回しは、現存するものでは島内最大のものである。その潮回しの北側に高い土手があり、頑丈なコンクリートで長い防波堤が作られている。その土手の西側、三和ドックの入口に近いほうに、深浦新開の住吉神社がある。(写真)
かつて大きな鳥居があったことが、近くにある破片からわかる。しかし、私には鳥居の記憶にはなく、ここに大きな松の木があったことを覚えている。
北側は海であるが、現在はその沖に三和ドックの工場が伸びてきている。また、祠の後ろには地元の鮮魚商の方が建てられた供養碑がある。
実は深浦新開から北、あるいは現在重井中学校の辺りより北は、戦時中陸軍の軍用地として撤収され、立ち入り禁止となっていた。そのために因島四国八十八ケ所のうち、87番長尾寺と88番大窪寺は立ち退きを余儀なくされた。87番長尾寺は重井町東浜の東北端にあり重井郵便局の東にある86番志度寺からあまりにも近い。88番大窪寺は伊浜八幡神社の上にあり、ここで結願しても、さてどこへ帰るのか。何とも意味のない場所である。神社の近くであるという理由はないと思う。明治以降神仏習合の時代は終わっているから、お寺と神社が同居する必要はない。両方とも、おそらく慌てて現在地へ移築したのではなかろうか。
それらの元の位置は不明であるが、88番大窪寺はこの住吉神社付近ではなかったかと私は思う。そうすると大浜崎灯台付近に島四国遍路をする人たちを運んできた船は、二日後にこの辺りに着岸して待っておればよいということになったと思う。つい最近まで交通の主役は船だったのだから、島四国の発願と結願が海の近くでなされたということには、大きな意味があったと思う。
ふるさとの史跡をたずねて(135)
陸軍境界石(因島大浜町)
軍用地と民有地を隔てるものが陸軍境界石である。大日本帝國陸軍は法的にはしばらく後のことであろうが、昭和20年の敗戦とともに実質解体したのであるから、境界石はその存在価値を失った。あるものは撤去され、あるいは単なる石材として利用されたりして、目にすることはなくなったのではないか。ところが、山の中では撤去する理由がなかったのか、そのまま放置されていた。別の目的で山へ入った時、たまたま目につき、これが以前聞いたことのある陸軍境界石かと納得しただけである。
民有地側には「陸軍」と彫られていた。そしてその反対側、すなわち軍用地側には漢数字で番号が書かれている。また頂部には、境界に沿った線が彫られており、曲がるところでは、そのように線が折れている。
さて、軍用地という言葉は最近では聞くことはないが、かつてそこに畑を持っている家ではよく使っていた。今でも使われているのだろうか。
畑にはその家独自の名前が付いていることは、湊かなえさんの『望郷』中の最初の短編にあったことを覚えておられる方もおられるだろう。おそらく多くの農家は複数の場所に畑を持っている。一カ所だけであれば名前はいらない。「畑」で済む。
しかし、作業予定を伝えるにしてもそれぞれの畑が区別されてなければ会話が成り立たない。だから、個々の畑に名前がついているのである。その土地の字名が伝統的によく使われたようである。しかし家族内でわかればよいのであるから簡略されたものもあったであろう。例えば干拓地が一カ所だけであれば「新開」と言えば、その家では十分に通用する。
その軍用地は戦後、農事試験所の農地や、中学校になっていた。農事試験所の方は土地交換等で現在のフラワセンターの方へ集約された。その他の民間への払い下げや、あるいは軍用地としての民有地の接収または購入がどのようなものであったのかを知る資料は現在のところ知らない。
ふるさとの史跡をたずねて(136)
ゆるぎ岩(因島大浜町)
陸軍境界石はゆるぎ岩を探しに山に入った時、たまたま出現したものであった。そして確かにその延長線の北側が軍用地であることに思い至り納得した次第である。
しかし、ゆるぎ岩の方は、時すでに遅し、であった。ゆるぎ岩はゆるぎ岩でなくなっていたのである。
ゆるぎ岩というのは、揺さぶれば、ゴトゴトという音はともかくとして揺れる大岩のことである。巨大な岩が揺れるからおもしろいのであって、これが動くのか、と驚くほど大きくなくてはならない。
そのゆるぎ岩が白滝山の近くにあるということを知ったのは、子供の頃のことではなく、老境に達してからである。それは、くぐり岩の話をしている時、その岩と混同して話し出されたのであった。くぐり岩というのは巨岩の下に通路があり、その岩の一端がわずかな部分で地上に接している奇岩である。白滝山表参道の六地蔵の上で右にそれ、島四国85番八栗寺の手前にあるが、この「くんぐり道」はその前後がよく通行止になる。
くぐり岩ではなく、ゆるぎ岩について年配の方に尋ねると、白滝フラワーラインの上の方から深浦の方へ降りて行く道の途中にあったということがわかった。ということは白滝フラワーラインの三叉路で白滝山八合目駐車場の方へは行かず、大浜側へ向かい、左下へ下る山道のありそうなところから、山へ入るということになる。
確かに山道はあった。そしてそれらしき大きな岩も見つかった。しかし、残念なことにその岩と山肌の間にくさび状の岩が押し込まれており、動かなかった。そのくさび状の岩を取り除く術はなかった。
実はこのゆるぎ岩には弘法大師にまつわる話がある。伝説にはほど遠く、単なる創作民話に過ぎないので、興味はないが、こんなものまで弘法大師に結びつける精神風土は、単なる大師信仰を超えた何かがあるようで、そちらの方が私には興味ぶかい。
ふるさとの史跡をたずねて(137)
土地寄附碑(因島重井町宮の上)
深浦新開が陸軍の軍用地として撤収された時、そこにあった因島四国八十八ケ所のうち87番長尾寺と88大窪寺が現在地に強制的に移転させられたと書いたが、元の場所どころか、そのことを知っている方に、未だにお目にかかっていない。だから、何か確実な証拠がほしい。前に書いた、86番志度寺と長尾寺が近すぎるというのでは、証拠にならない。また、結願寺大窪寺が海岸近くにあるべきだというのも、私の個人的な見解に過ぎず、現に本四国では山奥にあるのだから、それに倣えば悪くはない、と言える。だからこの件は半信半疑のまま棚上げしておこうと思っていた。
ところが、ふと目に入った石柱には、まことに興味深いことが書かれていた。それは重井町宮の上の88番大窪寺のお堂の前の石柱である。そこには「昭和十六年三月吉日 土地寄附大出半七」と彫られていた。よく知られているように因島四国八十八ケ所は明治45年に作られた。場所によっては多少の相違はあろうが、ほぼ同じ頃に作られたと考えてよい。また、大窪寺の土地はそれまで借りており、昭和十六年になって土地所有者からにわかに寄贈されたと考えるのも不自然であろうから、昭和16年に移転したと考えるのが自然である。
よって、軍用地がらみの移転の話は事実と考えられる。
さて、伝統行事と呼ばれるものには次のふたつのパターンがあるように思う。一つは聴衆の多寡など気にせずに、古式ゆかしく続けることを最大の意義として、延々と続けているもの。もう一つは時代の流れを機敏に取り入れて、絶えず変貌しつつ長く存続しているものである。
四国遍路の人気が衰えないのは、後者の例であって、それ相応に努力されているからであろう。かつて難所と言われたところも自動車道が整備されていて、乗用車、観光バスで参拝される方も多い。ロープウェイやケーブルカーを利用できるところもある。
因島四国八十八ケ所では、既に歩き遍路道は完全には残っていないのだから、現状に応じた対応が考えられてもよいのではなかろうか。
ふるさとの史跡をたずねて(138)
軍用地船着場跡(因島重井町勘口)
軍用地と言っても、そのことを語るようなものは残っていない。しいて探せば、船着場の石垣の跡であろうか。しかし、その石垣も波に洗われて崩れ、もはやそれを探すのすら難しくなっている。かつては確かにあったのである。今なら崩れた石の何個かを見ることができるだけである。
因島金属の前の道が大きくカーブする所の海側である。現在のコンクリート製の護岸でも修復するから壊れずに存在しているのである。そのままにしておくと、長い年月の間に壊れていくことは多くの人が知っていることである。ここの船着場も昭和20年8月に役目を終えて、後は補修される必要もなかったのだから、そのまま波に洗われて徐々に壊れていった。
現在の姿を見ても、それが船着場の跡だとは、なかなか想像できない。50年以上前は、もう少し沖まで伸びていたし、ここの近くが軍用地と呼ばれ、戦時中はドラム缶が置かれていたと聞いていたから、船着場の跡だと想像していただけである。
その頃は近くに工場や民家はなかったから、それ以外の用途は考えられなかった。
何しろ一般人は入れなかったから、実際にここに船を着けてドラム缶を下ろしていた光景を見た人はあまりいないと思う。
ふるさとの史跡をたずねて(139)
黒崎明神(因島田熊黒崎新開)
干拓地すなわち新開地の特色は神社があるということであろうか。もともと海中にある安芸の宮島、すなわち厳島神社を勧請したものが海辺にあるのは当然としても、住吉神社、金毘羅宮などを祀った小祠などがあって、庶民信仰を考える上ではまことに興味深い。
黒崎新開の南の端に黒崎明神がある。その北側には潮回しがあり、大きなボラが泳いでいた。黒崎明神はここへ平成2年に移設されたようだが、中庄庄屋の竹内宮地家与三兵衛が天保5年(一八三四)に黒崎新開を作った時、厳島神社から勧請したということだから、その歴史は古い。黒崎明神と呼ばれているが、厳島神社のことだろう。重井町では明神さんと言えば厳島神社のことであるのだが、普段の会話ではたいていが明神さんで済む。明神というのは神仏習合時代の神社の呼び方である。
中庄町から田熊町へ入ると、山伏山の山裾に天鵞絨ケ原(ビロードがはら)、黒崎、女郎ケ浜、崎西浦と続く。黒崎の沖が黒崎新開でその南が瀬戸の浜と、あでやかな地名が続く。
女郎ケ浜というのは遊女がいたということであろうから、周囲の港の賑わいが想像される。
そこから南は海沿いではあるが竹長新開まで新開と呼ばないようだから、干拓ではなく埋立地であろう。竹長新開を過ぎると、金山新開、扇新開と続く。
竹長新開は山側の上八新開と呼ばれていたところと、後の部分の二度に渡って行われ、天保13年(一八四二)に岡野六兵衛が完成した。初めから綿花を植えるつもりであったようだ。干拓地と言えば塩田か田んぼを想像しがちであるが、この時代は綿花が主要産業になっていたのであろうか。
現在、生口島へのフェリー発着場が金山桟橋と呼ばれているから、そこよりも北側が竹長新開ということである。
ふるさとの史跡をたずねて(140)
山伏山(因島田熊町)
生口橋の因島側にある山が山伏山である。風呂山、青影山、竜王山、山伏山と続いているようであるが、竜王山と山伏山との間には小さなトンネルがあって峠道が西浦峠から田熊町へと続いている。しかし、荒廃が進んでいるので、数年前通った時を最後に普通車では通らないことにしている。
そのトンネルのところから登る。頂上近くには遠見岩と呼ばれている岩があるが、南側の地名(字)にやはり遠見岩というのがあるから、頂上の岩を遠見岩というのは、何かの間違いかもしれない。いずれにせよ、遠見岩というのは狼煙(のろし)を見る岩という意味だろう。
重井町の竜王山(権現山)中腹に遠見山というのがある。やはり狼煙の見はり所だったと思われる。また、青影山の眺望はよく、多くの海域からも見ることができる。弓削港、伯方島トウビョウ鼻、重井町青木山、細島などからもよく見える。そのせいか水軍時代の青影山を見張所や司令所的な役割を持った場所として、その手段を狼煙をもとにして考えれば面白いかもしれない。
しかし、狼煙は「ある」か「ない」かの二進法であり、仮に狼の糞を混ぜて色をつけたところで、多くの情報が送れるものではない。また天候に左右されやす。だから上記の想像がいかに現実離れしたものであり、実戦には向かいないということは、青影山に何度か登り、数時間海を眺めていればわかる。
したがって、遠見岩とか遠見山とか言っても、水軍時代のものというよりも、後の平和な時代のものだと考えるのが妥当だろう。参覲交代や千石船の経過を、狼煙で知らせたということはあったかもしれない。
さて、山伏山という名前は興味深い。山伏とは修験者のことであり、一般には修験道の修行者という意味である。だから、その修行の場であったということを示している。
141)
金山新開道路新設記念碑(因島田熊町因島モール)
金山新開道路新設記念碑が、因島モールの駐車場の北側入口から入ってすぐのところにある。元は道路沿いにあったものが道路拡張で何度か移設されたものであろう。見通しもよく、安住の地を得た感じである。多くの道標や石碑が失われていく中で、このような形で保存されることは、意義のあることだと思う。もちろん元あった所の面影は、うかがうべくも無いが、その道路そのものも大きく変貌しているのだから仕方がない。
因島モールの広大な平地は内海造船があったところであるが、それ以前には塩田などがあったと言われている。塩田があったところは、たいていが干拓地で埋立地ではない。初期の塩田は入浜式であったから、海から高いところにある埋立地では作業効率が悪かったせいであろう。しかし、その塩田の跡を探すのは困難である。石垣の一部が残っているだけである。
因島モールの南側が扇新開で、北側が金山新開であるが、私にはその境界ははっきりしない。おそらく、海へ伸びる水路がそれであろう。
扇新開の潮回しは、ひまわりの南の辺りから一部が見える。それは田熊桟橋まで続いているので明治橋から桟橋へ至る道が南の端であることがわかる。
それに対して金山新開の北端は複雑である。この辺りは山がせり出していて、道路が西へと方角を変えるので、この辺が境であろうか。
金山という地名は鉱山(かなやま)から来ており、銅の鉱山があったということである。島四国67番大興寺(小松尾寺)の下に坑道跡があり、山の中には縦に伸びる坑道跡もあると言うことであるが、素人が探検すべきものではない。銅山といえば銅だけが産出すると思いがちであるが、金や銀も他の土地に比べたら豊富に産出し、周辺にもミネラルが豊富なはずである。近辺では、生口島にマンガン鉱がわずかに産出した程度であるから、そんなに大きな銅山ではなかったと思われる。
ふるさとの史跡をたずねて(142)
西浜明神社(因島田熊町西区)
金山新開の少し北西に西浜明神社がある。私の遠い記憶ではかつては因鍛前(いんたんまえ)と呼ばれていたが、今は西浜バス停となっているところの北(西)側の路地を海の方へ入ったところである。海に近いので厳島神社の分霊を祀っていて、海運業者から信仰されていたのかと思ったら、半分違っていた。すなわち、厳島神社ではなかった。しかし金山銅山にゆかりのある珍しいものだということである。
海洋信仰の歴史は古く、多くの神社が海寄りにあるのはよく知られていることであるが、鉱山関係者も大地に穴を開けるのだから地の神の怒りを招いてはいけないので、神社が必ず付随していた。古くは水銀採掘集団の丹生一族により全国各地に丹生神社が祀られた。また、別子銅山では大山祇神社が勧請されていたし、さらに坑道の入り口にはそのまた分霊の小祠が祀られており、入坑者たちは必ず手を合わせて安全を祈願していた。海も鉱山も危険と隣り合わせだから、神仏のご加護を願ったのは当然であろう。
さて、田熊の西浜明神であるが、古くは鹿田山金山明神と記されていたそうである。鹿田山というのはよくわからないが、同名の山が群馬県の岩宿遺跡の近くにある。そこから渡良瀬川沿いに県境を越えると足尾銅山に至る。その間約20キロ。近いといえば近い。何か関係があるのだろうか。
西浜明神社は、近くの干拓地(西新開)が入浜式塩田としてできた文政8年と、金山港の増築や工業用地が拡張された昭和18年の二度にわたって移設され、現在地に落ち着いた。その間に鉱山から塩田の守り神となり、さらに海運業者や商人から崇められ、地域の神社として祀られたきた。特に金山港を母港とする帆船、機帆船の守り神として重きをなしたものと考えられる。
江戸時代の千石船は椋浦、三庄が中心であったが、当然のことながら田熊の関係者もいたし、規模の小さい船は田熊にもあった。それらの伝統から明治以降も木造帆船が増加し、昭和の時代になると機帆船へと変わっていった。
ふるさとの史跡をたずねて(143)
東浜明神社(因島田熊町明治橋)
西浜明神社の次はやはり東浜明神社ということになる。明治橋の交差点のところの神社である。道路を隔てて南側は島前でその上の図書館のあるところが島前城跡だった。また、少し南は釣島箱崎浦合戦の古戦場である。・・・こう書くと振り出しに戻ったような気持ちになる。
箱崎浦と同じように、こちらも深い入り江になっていた。あるいは、こちらの方が奥が深ったと思う。どちらも今は陸になってその面影はない。ただ、道路の傾斜が大きくなるところからが元の海岸線だと思えばよい。
田熊側の沖は扇新開で、その奥に古新開があったというから何回かに分けて干拓が行われたのである。従って古い干拓の堤防跡がありそうなものであるが、それを探すのは難しい。堤防といえば海と対峙するのだから、立派なものであったと思いがちである。しかし後に改修されたものばかりで、元の堤防や土手は埋もれてしまっているだろう。ただ、堤防の跡が道路になっているところは多い。
さて、西浜明神社であるが、これは文化13年(一八一六)に扇新開を中庄村庄屋宮地与三兵衛が扇新開を完成させた時に、田熊の住人によって設置されたものである。厳島神社であるから、干拓地の守護神であるとともに船の守り神であった。農船のみならず海運業・商業に従事する船も次第に増えたから、商売繁盛の神としての位置付けが重くなったことだろう。
ところで厳島神社の祭神は宗像三女神で、その筆頭は市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)、すなわち弁財天である。田熊町にはここより少し東に弁財天があり、かつては海に接していたと言われている。新開の延長に連れて移転はせずそこに残し、新たに厳島神社を勧請し、ともに弁財天、明神社と神仏習合時代の名で呼んで区別しているのであろう。
ふるさとの史跡をたずねて(144)
お政大師堂(因島田熊町東区)
明治橋の交差点から東へ入る道は妙泰越の対潮院墓地横を通って三庄方面へ抜ける近道に続き、交通量は多い。因島スーパー田熊市場近くから島四国57番永福寺へ入るのであるが、その道路脇に島四国のお堂と見間違うばかりに立派なお堂がある。番外札所お政大師堂である。
大師堂の堂守として住んでいたと書くと、小さなお堂に人が住めるのかと思う人も多いと思う。家電製品に取り囲まれた現在の生活から見ると、システムキッチンの代わりに七輪一つが唯一の家財道具であった小屋掛けのような生活を想像することは難しい。まあ、そういうことが可能な時代であった、ということにして話を続けよう。そういう人が大師堂の名前として今に伝わるわけだから、よほど奇特な方だったにちがいない。わずかの伝聞を元に思いをめぐらしてみよう。
お政さんの先任者はお竹さんである。家族に、もて余されたお政さんを引き取り、下働きをさせながら育てて教えたら、お竹さんを上回る能力を発揮した。今風に言えば、おがみ屋とか占い師とか祈祷師とか霊媒師と呼ばれる類の、要するによろず相談人だったのであろう。それで生活をしていくとなると、余人には理解しがたい超自然的な能力をもっていたということだろうか。
時々、足し算のできる犬や馬がいて、3+5と問題を出すと犬なら8の札を、馬なら前足で8回たたく。その秘密は飼主の表情の中に答えがあったというわけである。
このことから連想するに、この二人の女性は、相手の表情を読む力に優れていたと思う。またこの人の言うことなら当たる、と思わせるだけの雰囲気も備えていたと思う。
超自然的な能力に対する私の解釈は以上に尽きる。それ以上のことはわからないが、お政さんも偉いがそれ以上にお竹さんも偉いと思う。お政さんは明治の初め頃の生まれだということだから、お竹さんはその頃までに一家をなしていたと思われる。そして島四国のつくられた明治44年頃には、お政さんは存命であり、このお堂を島四国のお堂のひとつにすることはなかった。
ふるさとの史跡をたずねて(145)
川口大師堂(因島重井町川口)
島四国のお堂がすべて大師堂である。しかし、重井町で大師堂といえば、今は島四国84番屋島寺となっている川口の大師堂のことである。重井村の安永三年(一七七五)村立実録帳には観音堂と大師堂と地蔵堂が記録されている。観音堂は白滝山にあり、「恋し岩」という創作民話のモデルとなった石観音を安置していた。また、「はふく大師堂」とあるのだが、意味不明である。
大師堂の裏には六十六部の廻国供養塔があり、「奉納大乗妙典六十六部日本回国 天下泰平 日月清明 願主 行者了心 十方施主 文政八歳 酉三月吉日 」とある。また「尾道住人 石工 善三郎 伊平」と記されている。
白滝山石仏建造時の寄付録である「文政十年 重井村観音山 五百大羅漢寄進」に「六部了心」の名が重井村壱番組の最後の頁に見えるから、この近くに了心と名乗る人が住んでいたことが推察された。しかし、それ以上のことはわからなかった。ところが、ある家の家譜に、大師堂の尼僧の勧めである女性を娶ったと記されているのを見つけた。このことから行者了心が女性だとわかる。
大師堂のある丘は川口新開一町田と長右衛門新開に接しており、両新開築堤のために山が削られ、そのあとに大師堂が建てられたのだろう。そこに了心が堂守として住み、発心して全国66ヶ寺に法華経の写経を奉納して、結願供養塔を建てた。尾道石工の作った立派なもので、多くの寄進があったと考えられる。
明治近代教育は「邑に不学の戸なく、家に不学の子なからしめん」という有名な明治5年の学制から始まった。その法令によって最初の公立小学校として明治6年4月に重井村善興寺に振徳舎が田熊村浄土寺に研機舎が開校した。それに伴いここ大師堂に信誠舎(分教場)が設立され、明治10年2月まであった。小学校の守本尊は後に金次郎さんになるのだが、ここでは弘法さまだったのだから、学習のの効果は大いにあがったことだろうと思われる。
ふるさとの史跡をたずねて(146)
山神神社(因島田熊町西区)
山の神を祀ったのが山神社で、山神神社と書いても同じことである。社殿の額に「山神神社」と書いてあるのでそうしておく。
山神神社のあるところが西区なら西浜明神とは随分離れているので西区が広くなりすぎる・・と考えて調べなおしてみたら、金山港や西浜明神のあるところは、金山区であった。調べなおすといっても区名を書いた地図は持っていないし、字(あざ)を書いた地図では境界がはっきりしない。自分の住んでいる町内でも日常会話で使われる地区名や字名の境界を全て理解しているわけではない。地名というのは複雑なものである。それなのに郵便物はほぼ間違いなく配達されるし、救急車も電話一本でたどり着くのだから、我が国の文明度はかなり高いと思ってもよい。
しかし、西区の山神神社の場所を説明するのは難しい。車で行くのはもっと難しい。運良く道標が見つかれば、それに従い、見つからなければ近くの人に聞くしかない。スマホをナビとして使える人は、容易にたどり着けるだろう。
山はいくらでもあるのに、どうしてここに山神神社があるのだろうか。山の神は春になると下に降りてきて田の神になる。そして秋には再び山に帰って山の神になる、という話がある。これは水の比喩だと思えばよい。山の恩恵は風を遮るとか、樹木を成長させるとか、いろいろあるが、やはり水となって現れることが最大である。だから山の神を祀るということは山の水を祀っていると思っても大きくぶれてはいまい。
そう思ってこの山神神社を見ると左には大きな沢があって、少し上の方には大きな砂防ダムがある。また彩色摩崖仏の少し下には水場と呼ばれるところがあって地蔵さんもある。摩崖仏の上の峠を越えると中庄町に出るのだが、左側の山が竜王山である。ということで、水と縁のある地域であることがわかる。
なお竜(龍)王山はここの他、因島南小学校から東へ入ったところ、重井町の権現山、青木城跡などが竜王山と呼ばれており、雨乞いが行われていた山である。
ふるさとの史跡をたずねて(147)
山の神社(因島重井町山ノ神)
重井町の字(あざ)山の神には山の神(やまのかみ)社が祀られている。国土地理院の地図では竜王山と書かれているが、地元では権現山と呼ばれている山の北麓である。
少し上には、今は埋められてゴミステーションになっているが、かつて山の神池という溜池があって、子供の頃魚釣り用のヌマエビを採りに行ったことがある。下流に田んぼがあってもいいのだが、その頃はもう田んぼはなくなっていたので、開削時の目的は終えたが、宅地化が進んだときに防火用水として重宝されたに違いない。特に下流域は住宅密集地であったからなおさらだった。
山の神池の水は北に下り、大出酒店前の防火用水池にたまり、そこで北と北西に分岐され、それぞれの先端にも防火用水池があった。なかなかよくできた施設で、先人の知恵には頭がさがる。しかしそれも市の水道が重井町まで延長されると、各所に消火栓が設置されて役目を終えた。山の神池や防火用水池は埋められ、導水路の大部分が暗渠になって排水路として機能しているに過ぎない。
さて竜王山であるが、前回書いた通り、雨乞いが行われていた山が竜王山と呼ばれている。雨乞いが迷信だと思っている人は多いがそうではない。都では天文博士の阿部家や土御門家が司(つかさど)ったのかも知れないが、地方では山伏や神官の祈祷や祝詞で始まった。雨が降れば、彼らの能力が評価されるが、降らなければ無能ぶりをさらけ出すことになる。自己の力を示すためには、その地域の気象現象に通暁し雨が降りそうな頃に雨乞いをすればよいことになる。
また山上で火を焚けば上昇気流が生じ、雨雲が近くにあるとさらに引き寄せ、煤(すす)などの微粒子が核となって雨を降らせやすくするだろう。したがって、村の代表からそろそろ雨乞いをと打診された時、いつ承諾するかを決める術は彼らの家で伝授される企業秘密であった。
農村では長い日照りの後で雨が降ると「雨喜び(あまよろこび)」をした。雨振り正月とも呼ばれるように、畑仕事を休みご馳走を作って祝った。
ふるさとの史跡をたずねて(148)
宇賀の神(因島田熊町樫平)
かせびらさんの愛称で親しまれている宇賀の神は、地図の上では春日神社と書かれているので、田熊町の山神神社に比べればスマホで探しやすいと思う。しかし現地に近づいても、発見できないかもしれない。というのは、道らしくない道があって、その下にあるからである。屋根を見つけて、それだと思ってもどこからお参りするのか、参道の入口がわからない。道の下にあるのだから、道との高さが最も小さくなるところから入るということが理解できて、それらしきところを発見しても、蛇が出そうでやはり躊躇してしまう。
なぜこんなことをだらだらと書くのかというと、本来のというか、往時の光景は現在とは全く逆の様相を示していたと思うからである。
雑草に覆われ両側から傾斜地がせまってくる周囲は、イノシシの運動場にしか見えないが、元は田んぼだった。あぜ道はよく手入れされ、その外側の水路には、メダカ、ドジョウはもちろん、タニシや、ちんぼうさしと呼んでいたミズカマキリやミズスマシなどの水棲動物の宝庫だった。それらが激減したのはホリドールと呼ばれたパラチオン系の農薬が使われだした頃からだと思う。
田植えが終わり、水を張られた田んぼは初夏の光を反射して輝く。夏の間に稲は緑を増して稔り、秋には黄金色に変わる。
その片隅にお宮があって、里山の四季によく溶け込んでいたことだろう。
この辺りが田熊町の田んぼの発祥の地だと言われているから、そこに穀物神である宇賀の神(宇賀大神)が祀られたので
ある。山の神が降りて来て田の神となる信仰との関わりはわからないが、こちらはそれとは独立した田の神である。境内にはツキヨミさんも祀られている。宇賀の神は女神であるので、月読の命を併せて祀っているのは気の利いた配慮である。
大浜町の幸崎城跡にある芋神社では、月読の命が祀られている。月読の命は天照大神の弟神で、やはり穀物神である。
ふるさとの史跡をたずねて(149)
写真・文 柏原林造
厳島神社(因島重井町明神)
水軍祭りとかフラワーフェスティバルのような新興のお祭りは別として、昔は最大の祭りといえば秋祭りであった。尋常小学唱歌(3年)「村祭り」の歌詞の一部に「村の鎮守の神様の今日はめでたいお祭り日」「年も豊年万作で村はそうでの大祭り」「実りの秋に神様のめぐみたたえる村祭り」とあることからもよくわかる。そして秋祭りが収穫祭であったことも伺える。
村の鎮守といえば多くは八幡神社で、九州の宇佐氏の氏神であったものが、武家の氏神などを経て源氏の氏神になる。重井の伊浜八幡神社は6代吉充が作り、江戸時代には村上長右衛門が増築した。
村上氏も源氏だから、八幡大菩薩の旗を立てて航海したという話は理にかなってはいるが、真偽のほどは疑わしい。しかし、村上氏が八幡社を造営したのは、村のためでもあり、自分たちのためでもあったと思われる。
その八幡神社の秋の大祭の起源は収穫祭である。宇迦魂(うがのみたま)が祀られているから、秋祭りの祭神であろう。宇迦魂があるのに、田熊町の宇賀の神には重井町からもお参りしていたというから宇賀の神のご利益が大きかったのだろうか。
夏祭りは虫送りと関連するのか、疫神鎮護で神輿を激しく振って神威を高める。また、疫神に神輿で十分に楽しんで出て行ってくださいという意味もあるという説もある。前者の進化したものが喧嘩神輿であり、後者の発想がお旅所ということになる。
これと重なるように瀬戸内地方では厳島神社の管弦祭がある。これは旧暦の6月17日の大潮の日である。旧暦で同じ日にすれば潮位が同じで、船を利用するのには都合がよい。
重井町に大疫神社(祇園さん)と厳島神社(明神さん)があり、明神祭の方でより盛大に神輿が繰り出されている。これは両社の祭りが融合した形であり、船で神輿が渡御する間、賑やかに祭囃子を奏でるところに管弦祭の面影をとどめていると言えるだろう。
ふるさとの史跡をたずねて(150)
草深山稲荷神社(因島三庄町三区)
今では祭神はおキツネさまだと多くの人が思っている、陶器の白いキツネと赤い鳥居で有名な稲荷神社に、なぜ稲の字が入っているかのという疑問は、元々の祭神は穀物神の宇迦之御魂(ウカノミタマ)であったと書けば納得されることと思う。それならば、おキツネさんは俗説かと言うと、そうではなく、長い歴史を持つ民間信仰である。ただ、本来の祭神ではないが。
その歴史は長く複雑である。初めは秦氏の氏神であり、農耕や養蚕の神として祀っていた。それを空海が東寺(教王護国寺)を建てたときに守護神としたので、真言密教と習合するとともに広く信仰されるようになった。時代とともに神様のキャパシティ(守備範囲、正確には神格)も殖産興業、商業と広がり、屋敷神も兼ねているのだから、その人気は留まるところを知らない。
統計上も神社総数は多いが、それには載らない邸内祠でもお稲荷さんの人気は高いから、庶民信仰の雄であろう。邸内祠、すなわち個人の屋敷内で祀るのは江戸時代、田沼意次が家に祀りどんどん出世したので庶民に広まったという説がある。白い陶器と木製の赤い鳥居で稲荷神社ができるのだから安い投資である。私も岡山の高松稲荷にお参りしたとき、おキツネさまを買って帰ろうとしたら、家人に止められた。私が死んだ後誰がそのおキツネさまの面倒を見るのだ、というのである。確かに墓仕舞いならぬ祠仕舞いの問題は看過できない。不燃ゴミの日に出せばバチが当たりそうだ。いやそれ以上に祟りがありそうだ。ということでお稲荷さんは祀っていなし、お金もたまらない。おキツネさんの代わりに、小型の金次郎さんの像を時々眺めて、この姿では乱視や腰痛や水虫になるのではないかと心配している。
生口島の名荷から洲江に抜ける峠道のお稲荷さんへお参りすれば、海岸道路のなかった時代の状況を考えることができる。土生町では因島公園の下、田熊町と重井町では八幡神社の境内に稲荷神社が祀られている。三庄町では三区の政所に、京都の伏見稲荷の分霊を祀っている草深山稲荷神社がある。願い事ばかりでなく、大地の恵みへの感謝も忘れずにすべきであろう。
因島干拓史
はじめに
江戸時代は干拓の世紀だった。因島も例外ではない。慶長5年(1600)の関ケ原の合戦で負けた毛利氏に従って因島村上氏が因島を去ると、因島はただの農村になる。そして、近世農村社会を作っていく。毛利氏にしたがったとはいえ毛利氏は負け組であった。所領は減り、従属する家臣の数もおのずと限られる。因島村上氏とて例外ではない。ついていけたのはごく一部のもので、他の多くのものは四散した。そのまま因島にとどまり、あるいは戻った人たちが船を利用することができたのは、もっと後の時代で多くは帰農した。武士をやめて百姓になった。江戸時代以降では考えられないことだが、この時代ではごく普通にそういうことが見られた。漁業者になったという記録はない。
1 土生新開と大土生宮地家
2 竹之内宮地家
3 長右衛門家と重井の新開
4 中庄の新開
因島の江戸時代には、産業とては農業しかなかった。海に囲まれているけど、伝統がないのだから漁業なんてできないから。
すると土地がない。土地が欲しい。干拓だ。自分ためでもあるし人のためでもある。と、多くの先人が干拓に挑んだ。