木曜島からの手紙 —せとうち抄—
市内の女子大に通う一人娘の亜也子が、電車とバスを乗り継いで帰ってきたとき、母の葉子はいたずらっぽく笑いながら口を開いた。
「やはり、あのお姉さんの作文、見せてあげればよかったのに」
「・・・」
夫の康平は何も言わない。
「何のこと?」
母が明らかに父に向かって言っているのに、父が何も答えないものだから、亜也子が口をはさんだ。
「木曜島の手紙のこと」
「木曜島? ひいおじいちゃんの・・・」
「ええ、ひいおじいさんの、弟さんが亡くなったところ」
「龍三さん、という名前だったかしら?」
「そう、龍三さん」
亜也子はかつて、父の家系に連なる人が、明治のころ海外で亡くなったということを聞いたことがあった。法事などで親戚の人が集まったとき、老人たちの会話から木曜島という言葉も聞いた。会話の中に入って聞いたわけではないので、詳しくは覚えていない。覚えているのは、父の祖父の弟で、龍三さんという名前だったということぐらいである。
「それが、どうしたの?」
「昼に、移民のことを研究している大学生が、東京から訪ねて来てね」
「へえ、すごい! よく我が家を訪ねて来たよね。それだけでも立派!」
娘が単純に感心したのが気に入らなかったのか、康平が顔をあげた。
「何がすごいものか。役場でもどこでもちょっと聞けば、このあたりで移民を出した家は、あそことあそこという具合に、誰でも教えてくれるよ」
娘が単細胞だと言わんばかりに、父は息もつかずに言った。そういうプロセスを経て、たどり着くまでが大変なのだということを、父はどうやら理解してないらしい。亜也子は反論しようと思ったが、水掛け論になるのでやめた。
「どうも、お父さん、気に入らなかったみたい」
葉子が、康平にも聞こえるように、亜也子に言った。
「気に入るも入らぬもないよ。まったく若い者は礼儀というものを知らん」
父が憮然と言ったが、母は笑っているから、どうやら父の勝手な思いこみのようだ。父は男兄弟がいないせいか、娘の亜也子から見ても、わがままでひとりよがりなところがある。
「わたしだって似たようなものよ。ところで、その東京から来たとかいう学生は、満足して帰ったの?」
「それがね、最初からお父さんが、非協力的で・・・。たいした収穫はなかったんじゃないかしら」
母が半分笑って言った。
「非協力的なもんか。話を聞き出す能力に欠けてたということだ。だいだい初対面の人間に向かって、『オーストラリアの木曜島のことについて語って下さい』、などとぬけぬけとよく言うよな。紹介者を立てて来るというのが、礼儀というもんだ。そんなこともわからんで、学生の分際で名刺なんか作って、格好つけてもだめだよ」
「その木曜島のことって、そんなに重要なことなの?」
亜也子には、昼間のなりゆきがいまひとつ理解できなかった。
「昔のことだから、いろいろなことが、その家に伝わってないか聞いて歩いているんですって」
「それでわざわざ、うちにきたの?」
「何でもいいから、聞きたいと言ってたわ」
「それで、話してあげたの?」
「話してやるようなことは、何もないよ。何しろ、逢ったことも見たこともない、おじいさんの弟だからね」
「大学生の方は、間接的にでもいいから知っていることを話してくれと言ったの」
母は、話の接ぎ穂を折らない程度に、昼間のこともわかるように亜也子に語った。
「おもしろそうな話ね。私もほとんど知らないわ。龍三さんのこと・・・」
「龍三さんのこと、お父さん、あまり話したくないみたいだった」
「そんなことないよ。あいつが、聞くのが下手だったんだ。移住だの移民だの訳のわからんこと言って。移民でいいんだ。わざわざ移住と言い換える必要はちっともない。それに話すほどのことはないし」
「そんなことはないでしょ。私、亡くなったお母さんから、いろんなお話をうかがったわ。あなたも、いろいろご存知でしょう」
「そんなに知ってるなら、お前が話してやればよかったのに」
「私、嫌ですわ。私はここのおうちに結婚して来た人間ですよ。あなたが話さないことを、私がぺらぺらしゃべっては、おかしいわ」
「おれだって、いやだよ。あんな、どこの誰ともわからないやつに、嘘かほんとかわからないようなことを言って、それが本にでもなったら、かえって悪いよ」
「そこは大丈夫よ。お父さんの話だもの、この家にはこういうような話が伝わっていると、慎重に扱うわ。そんなの常識よ。何でもかんでも調べたことをすべて、論文に書くわけないよね。適当に他の人の話とつき合わせたりするのが研究だから、お父さんが知っていることを話してあげればよかったのに」
亜也子にもだんだんと事情がわかりかけてきた。
「そりゃそうかも知れないけど、親父やお袋や、婆さんから聞いたといっても、小さい時のことだからね。こちらが勝手に思いこんでることのほうが多いよ」
「だったら、あの、お姉さんの作文を見せてあげればよかったのに」
葉子は康平に向かって言うと、夫の返事を待たずに亜也子のほうに顔を向けた。
「姉の作文? そんなものがあったのかなあ」
「それ、何?」
「これもお母さんから聞きましたよ」
葉子は、亜也子にではなく康平のほうを向いている。
「んん・・・、聞いたことがあるような。ずっとずっと昔のことだろう」
「お姉さんが書かれた作文のことですよ」
「神戸の安代おばさんのこと?」
「ええ、安代おばさんよ。安代さんが中学校のとき、木曜島から届いた手紙を紹介する作文を書いたの」
亜也子にとってはまったくはじめて聞く話だった。亜也子は母よりも父の反応に興味があった。父は、じっと考えている。必死で思い出そうとしているのだろうか。
「火事のときのことか・・・。亜也子には言ったことはないが、お父さんが子どもの頃、住んでいた家が焼けたことがあった。全焼した」
康平が弱々しく亜也子のほうを見つめて言った。
「その話、少しは知ってる。火事はこわい、何も残していかないと、私が小さい頃よく話してたじゃない」
「そうかな」
「うん。それでその時、どこで生活していたの? 新しい家が建つまで」
「幸い、近くにお袋の親元があったから、そこから学校へ通った」
「その頃のことですよ。その火事でその龍三さんからの手紙はなくなったと、お母さんはおっしゃってました。ただ、安代さんの作文は火事になる前に書かれて、火事のときはちょうど学校の先生のところにあったのね。宿題だったんでしょうね。しばらくして、作文が戻ってきたとき、お父さんが大層喜んでね。木曜島のことを伝えるのはこれだけだから、大切にとっておくようにと言われたと、お母さんが話してくれましたわ」
父の母、すなわち亜也子にとって祖母は、亜也子が小学生になってすぐに亡くなった。亜也子が祖母から木曜島のことを聞いた記憶はない。母が祖母から聞いたのは、父と結婚してから亡くなるまでのわずかの間のことだろう。祖父、すなわち父の父は、母が父と結婚したときには、既にこの世の人ではなかったということだから、母が直接祖父から話しを聞くことはなかったはずで、すべて祖母から伝え聞いたものだろう。
「聞いたことがあるような・・・。そういうこともあった・・・。へえ、お袋がそんなことまで、話していたとは、知らなかった」
「私もこの話は初めて」
「それでその作文、あるのか?」
「ええ、お母さんから大切にとっておくように言われてましたからね。大切なものはまとめて置いてますよ」
「見てみよう。出してくれ」
康平も信じられない、と言うような顔をしている。
葉子が立ち上がった。亜也子もついて行った。押入れの隅のほうに木の箱があって、そこから、母は茶色の封筒を出した。封筒には「安代の作文(木曜島からの手紙のこと)」と、赤鉛筆の細い字で書かれていた。母の字体ではない。祖母の字だろうか。
母が差し出すと、封筒から原稿用紙を取り出した父は、黙って読み始めた。読み終わったところから回してくれるかと思ったが、生憎、ホッチキスで留めてあり、全て終わってからでないと、回って来ないことがわかった。
康平が黙って読んでいるので、葉子も亜也子も一言も話さない。
家の前を二度自動車が通過した。それ以外には何の音もなく、しばしの間静寂につつまれた。
「木曜島からの手紙は何通かあったが、皆焼けたと言ってた。この作文が終業式の日か、それに近い頃帰ってきたとき、親父が喜んでいた。もうずっと前のことだ」
こう言いながら、康平は原稿用紙を亜也子に回した。
「何しにオーストラリアまで、行ったの?」
亜也子は、ゆくっくりと読んでいると、せっかく口を開いた父が、また黙ってしまうのではないかと思って、尋ねた。
「そこに書いているように、真珠取りらしい。木曜島の近くの海に潜って、真珠貝を拾うらしい」
「真珠取りじゃあなくて、真珠貝採りだと、お母さんから聞きましたよ」
「真珠貝というと、アコヤガイのようなもんだろう。天然真珠を取るために、貝を採ってくるのと違うのか?」
「ええ、そこをみんなが誤解しているんですって。時々、天然真珠が入っていることもあるけれど、売るのは貝殻のほうで、それが目的で海の中に潜るんですって」
「真珠取りと真珠貝採りの違いね」
「同じことじゃないか。貝を採らなきゃ真珠は取れん」
「少し違うようね。木曜島の移民というのは真珠貝を採る仕事だったのですって。黒蝶貝とか」
この辺りのところは、母のほうがよく理解しているようだった。
「ここにも書いてあるわ。真珠取りとは書いてないわ。確かに真珠貝採りと書いてある」
亜也子は、母が言っていることを、父に理解してほしかった。
「真珠貝というくらいだから、真珠をみなもっているのと違うかい?」
「ええ、私もそう思っていたの。そうしたら、お母さんが詳しく教えて下さった。木曜島へ行ったのは、真珠取りじゃあない、真珠貝採りですって。真珠貝はボタンや飾り物になるので、高く売れたらしいの。それに、あちらの真珠貝というのは、日本のものよりはるかに大きくて、海底にたくさんいるそうよ」
「だいたいわかったけど、真珠を土産にもって帰ると書いてあるが・・・」
「それも、お母さんがおっしゃってたけど、時々真珠貝の中に天然真珠があるんですって。でも、雇い主は真珠をとるのが目的ではないから、作業員が自由にしてもいいとか言ってたわ」
「ああ、そういうことか」
なかなか事情は複雑である。
「よく知っているなあ」
「ほんと、すごい。尊敬するわ」
「そんなに知っているのなら、俺のかわりに学生に教えてやればよかったのに」
「さっきも言いましたように、私はお母さんから伺っただけですから、あなたがおっしゃらないことを、ぺらぺら喋るのはおかしいですわ」
母は笑った。
「それでお父さんは、学生さんに何を話したの?」
「いや、話すも何もないよ。小さい頃いろいろ聞いたことはあるが、忘れたよと言っただけさ」
「お姉さんの、作文を見せて上げれば参考になったかもしれないね」
「そんなものがあったということも、すっかり忘れてたんだから、思いもしない」
「ご存知だとばかり思ってましたから、私のほうから言い出すわけにいかないし・・・。一言言えばよかったのかしら」
「いや、その作文のことを思い出しても、あの学生には見せなかっただろう。移住とか移民とか訳のわからんことを言って・・・」
「移民でいいでしょ?」
亜也子にもこのことはよくわからない。
「『豪州移民で龍三伯父は死んだ』、と親父はよく言っていた。定住するつもりはなかったと思うが、移民は移民だ。出稼ぎ移民と言うんだ」
「別の時代だけど、移民船ブラジル丸とか、言うよね」
何となく、亜也子にも移民という言葉がよくわかる。
「そういうのもあった。それが学生が言うには、『最近では移民という言葉を使わずに移住と言うんです』などと、ぬかしやがる。あの頃には海外に行くのはみな移民と言ってたんだ」
「私も読んでみる。これ見るの初めてよ」
目の前にあった安代の作文を、亜也子は、もう一度はじめから読み始めた。亜也子が黙って読んでいる間、葉子も康平も黙っていた。葉子は一度立ち上がると台所へ行き、冷蔵庫を何度か開閉して戻ってきた。
亜也子は読み終えると、母に渡した。葉子はもう何度も読んだことがあるのか、ちらちらと作文のほうに眼をやるだけで読もうとはしない。
「安代おばさんって、とても達筆ね」
亜也子はどこから切り出していいのかわからなかったので、思いつきを言った。
「習字を習ってたからな。おれはすぐに辞めたけど、姉貴はずっと続けてた」
「続ければよかったのに」
「なあに、才能のないものは何をやってもだめさ。あれはあれでよかったんだ」
「あきらめがいいのね」
「ああ、みんなそうだよ。龍三さんのことだって、誰も恨み言を言ったりしない。そりゃあ若くして外国で死んだんだから、かわいそうだとは思う。でも、行かなければよかったとか、誘った人間が悪いとか、そんなことを言うものは誰もいなかったということだ。自分で決めたことだからと、後でそれをどうこう言わないんだ。そういう性分だ。親父も、じいさんも。遺伝だろうね」
「ふーん。だから、焼けてしまった手紙のことは仕方がない。せめて残っている安代おばさんの作文だけは大切にしよう、というのね。よくわかる」
「そういうことさ。龍三さんは木曜島へ行って、たっぷり儲けて帰ってくる予定だった。しかし、事故で亡くなった。仕方がない。それだけさ」
「でも、お墓はあるのでしょ」
「あるよ。じいさんが建てたんだ。遺骨は入ってないけどな」
「遺骨は?」
「・・・・」
「木曜島に日本人墓地があるそうですよ。九百何人かのお墓の一つに、龍三さんのお墓もあるのではないかと、お母さんはおっしゃってました」
「それじゃ、誰も木曜島のお墓には行ってないということ?」
「そうでしょうね」
「そうだよ。行ったという話は、聞いたことがない」
「ここに書いてあるように、龍三さんは明治三十六年に真珠貝採りのダイバーを目指して木曜島に渡り、すぐにはダイバーにしてもらえず、およそ二年間は船上作業に従ったそうね。ダイバーになって三ヶ月ほどで亡くなった。そして、木曜島から最後に届いた手紙には、龍三さんも大きな天然真珠を手に入れたので、必ずもって帰るとあったが、龍三さんも、その天然真珠も日本に帰ってこなかった」
母は、少し安代さんの作文を見ただけで、これだけ話した。
「潜水作業中の事故ということだけど、詳しいことはわからないって、お母さんからもお聞きしましたわ」
父が黙っていたので、さらに母はこれだけ語った。
「『クイーンズランド州、タウンズビル、木曜島』、か。卒業旅行に木曜島に行ってみようかな」
亜也子が、まじめな顔をして言った。
「私もついて行って、お墓参りをしてきますわ」
と言ってから、葉子は亜也子のほうを見て、いたずらっぽく笑った。