- 沼隈町パラグアイ移住史研究(1) -
1. はじめに
「町ぐるみの海外移住」として全国的にも有名な,広島県沼隈郡沼隈町のパラグアイへの集団移住は,昭和31年から32年にかけて,8回に分けて行われた」1) 。集団移住の実態を解明するための前段階として,8回の移住団の出発日を明らかにする必要がある。本稿では,神戸港を出港した月日を明らかにした。なお,さらに,広島県からラパス地区へ4度にわたり移住しているので,それについても渡航日を記しておく。
2.方法
8回の移住団は,沼隈町広報等において,第一陣,第二陣・・・と呼ばれているので,本稿においても,そのように呼ぶことにする。また,『パラグアイ日本人移住五十年史 栄光への礎』(以下『栄光への礎』と略記)における移住者動態表において,フラム移住地入植者名簿は「1955年4月15日渡航」より,「1964年渡航」まで渡航月日順に記載されているので2),この動態表中の渡航月日を第何陣のものかを推定した。資料は,沼隈町広報を基にし,他の刊行物で補った。なお,これらの資料をつき合わせることによって,動態表中に記されている渡航月日というのは,神戸港の出航月日であることがわかったので,以下神戸港の出航月日をもって,渡航日とする。
3.第一陣の渡航日について
第一陣については,『広島県移住史 通史編』に「6家族37人が昭和31年10月7日,金明会館での壮行式ののち,あき丸で神戸移住斡旋所に向かい,約一週間の訓練を経て,10月15日オランダ船チチャレンガ号で出発した」とある3) 。この記述は,『広島県移住史 資料編』のサンデー毎日の報道とも一致する4)。 これは「沼隈町広報」(昭和31年10月1日)にも記されている5)。以上のことから『栄光への礎』の移住者動態表の「1956年10月15日渡航」が,沼隈町移住団第一陣の神戸港出航日に対応することがわかる。そして,中国新聞社のルポルタージュ『移民』に第一陣として紹介されているM氏の名も,移住者動態表の該当のところに見られる6)。
4.第二陣の渡航日について
第二陣の渡航日については,「沼隈町広報」(昭和31年11月15日)の記事に「南米移住第二陣出発 11月2日出帆の」とあることから7),移住者動態表の「1958年11月2日渡航」を神戸港就航日とする。なお,『移民』で紹介されている,第二陣でラ・パス地区に入植した人物F氏の名前からも確認できる8)。
5.第三陣の渡航日について
第三陣の渡航日については沼隈町広報には記されていないので,前後の渡航日から推定せざるを得ない。また,『移住』でY氏が第三陣と紹介されているので9),動態表中の該当個所である,「1956年12月5日渡航」を第三陣の神戸出航日と推定した。
6.第四陣の渡航日について
第四陣の渡航日については沼隈町広報昭和32年1月5日に,「南米移住第四陣1月15日出航,O氏ら」とあるので10),動態表中のO氏を含む「1957年1月15日渡航」を第四陣の神戸出航日とする。
7.第五陣の渡航日について
第五陣の渡航日については沼隈町広報昭和32年3月15日に,「U氏ら南米移住第五陣出発 4月2日出航」とあるので11),動態表でU氏を含む,「1957年4月2日渡航」を第五陣の神戸出航日とする。また,『移住』に第五陣の一員として入植したと紹介されているW氏の名前も該当個所にみることができる12)。
8.第六陣の渡航日について
第六陣の渡航日については沼隈町広報昭和32年7月15日に,「フラム第六陣出発 7月15日神戸港出帆のルイス号に乗船 第一陣のM氏,K氏の家族も乗船」とあるので13),動態表の「1957年7月15日渡航」を第六陣の渡航日とする。なお動態表には,M氏,K氏の家族と思われる人たちの名前も見える。
9.第七陣の渡航日について
第七陣の渡航日についての記事を沼隈町広報に見つけることはできなかった。これは参考にした縮刷版が完全を期していないためであり,沼隈町広報に報じられなかったというわけではない。『移民』に紹介された「沼隈移住第七陣でラパスに入植したN」という記述14)をたよりに,動態表でN氏の記述を捜したところ,「1957年10月2日渡航」の中に見つけることができた。また,『移民』にはUが「第七陣で着いた」と紹介されており15),同様に,動態表でも確認できた。以上のことから「1957年10月2日渡航」を第七陣の神戸出航日とする。
10.第八陣の渡航日について
第八陣の渡航日についての記事は,第七陣と同様,沼隈町広報に見つけることはできなかった。また,『移民』にも第八陣という言葉が載っていない。
広島県『広島県移住史 通史編』の,「1957(昭和32)年12月まで8回にわたって集団移住がおこなわれた」1)という記述に従うなら,動態表の「1957年12月28日渡航」を第八陣の神戸出航日としなければならない。第七陣以降,年末までに広島県出身者が出航したのは,この便が最後であるからである。
ただし,その後の調査により,1957年12月28日の渡航船を確認できないでいた。このことから,この第8陣の渡航日についても,更に検討してみることが必要である。そこで,この前後の渡航船も含めて検討してみた。
既述のように「12月28日」の記述があるのは,『栄光への礎』の「移住者動態表(フラム移住地)」(p.363)である。
しかし,同書p.331の移住者動態表(チャベス移住地)にはフラム移住地からの転住として,「1957年12月30日 ぶらじる丸」として群馬県出身のU氏の家族名が記されている。U家は,先の「移住者動態表(フラム移住地)」の1957年12月28日の中にあることから,どちらかが誤植だと考えられる。これは,『宮崎県南米移住史』のp.530に「1957年12月30日 ぶらじる丸」と記載されているので,12月30日が正しいことがわかる。
11.「ラ・パス年誌」での確認
以上の推定について,後に入手した『フラム移住30年の歩み みどりの大地』16)の「ラ・パス年誌」に記載されている家族数および人員数から,これらの渡航日が矛盾しないことが明らかになった。
12.第九陣から第十二陣まで
ここまで,第八陣で終わりと思っていたが,その後公刊された『沼隈町誌 写真・資料編』(沼隈町教育委員会編集発行,平成16年12月)のp.92に以下のように記されている。
移民の第一陣は,昭和31年(1956)10月15日,神戸港からパラグァイに向かって出発した。その後,第十二陣(同33年12月28日出発)までに130家族・415人。そのうち沼隈町出身者は,わずか24家族・83人で,約八割は町外から一時的に籍を移した人々で,当初の目的であった人口問題の解決には,ほど遠いものであった。
ということで,第十二陣まで調べる必用が生じた。
「フラム移住30年の歩み みどりの大地」の「ラ・パス年誌」 によれば次のことが記されている16)。順に第九陣~第十二陣としておく。
1958年6月 広島県より7家族40名到着入植するも適地無くア市イグアス方面へ転出。・・・・・第九陣
1958年7月 広島県より2家族19名入植。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・第十陣
1958年8月 広島県より1家族7名入植。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・第十一陣
1959年2月 広島県より1家族3名入植。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・第十二陣
これらに対応する渡航日(神戸港出航日)を,『栄光への礎』の「移住者動態表(フラム移住地)」から推定し、広島県関係者の家族数と人数から以下のように推定できる17)。
第九陣・・・・・・1958年4月17日渡航 広島県6家族34名
第十陣・・・・・・1958年5月17日渡航 広島県2家族19名
第十一陣・・・・1958年7月4日渡航 広島県1家族8名
第十二陣・・・・1958年12月30日渡航 広島県1家族3名
両資料の若干の不一致は当時の開拓地という事情を考えると仕方がない。本稿は渡航日を調べるのが目的であるのでその正誤については、これ以上検討しない。
第十二陣については12月30日か28日か,更に検討したいが、とりあえずより新しい資料の12月28日としておく。
13.結論
以上の結果をまとめると次の表のようになる。
なお,既に述べたように渡航日は神戸港からの出航日であり,沼隈町からの出発日ではない。沼隈町を出発して,神戸の移住斡旋所で訓練を受け出航するのが普通のパターンである。
14.おわりに
第十二陣については12月30日か28日か,検討の余地を残したままである。
参考文献
1)広島県、『広島県移住史 通史編』、p.597
2)『パラグアイ日本人移住五十年史 栄光への礎』、p.353-370
3)前掲書1)、『広島県移住史 通史編』、p.597
4)広島県、『広島県移住史 資料編』、p.865
5)「沼隈町広報」 S31.10.1 縮刷版 、p.53
6)中国新聞「移民」取材班、『移民』、中国新聞社、p.258
7)「沼隈町広報」 S31.11.15 縮刷版、p.60