2021年11月20日土曜日

沼隈町パラグアイ移住団の渡航者数について

- 沼隈町パラグアイ移住史研究(3) -

 

1.はじめに

広島県沼隈郡沼隈町のパラグアイへの集団移住は,昭和31年から33年にかけて1),12回に分けて行われ130家族・415人が渡航した2)。 筆者は既にその渡航日(神戸港出航日)について明らかにした3)。さらに渡航船の船名について明らかにした4)。本稿では,渡航船ごとの沼隈移住団の家族数・人数を公刊資料から確定した。

 

2.方法

移住団の家族数・人数について,『パラグアイ国フラム移住史“30年の歩み”』5)(以下『みどりの大地』と略記)の「ラ・パス年誌」に基づき,『パラグアイ日本人移住五十年史 栄光への礎』6)(以下『栄光への礎』と略記)の動態表、沼隈町広報や他の資料と照合した。

 

3.第一陣の人数について

第一陣については,『広島県移住史 通史編』に「6家族37人(一人がとりやめたため実際の渡航者は36人)」7)とある。 この記述は,『広島県移住史 資料編』のサンデー毎日の報道の「第一陣31名」8)とは一致しない。 これは「沼隈町広報」(昭和31年10月1日)には「6家族36名」9)、同(昭和31年11月15日)には「36名」10)と記されている。

以上のことから,第一陣の人数について6家族36人とする。

なお、『栄光への礎』の移住者動態表では4家族23名が記されている11)が、本稿では採用しなかった。

 

4.第二陣の人数について

第二陣については,『みどりの大地』に「1957.1.2 第二陣19家族108名到着」とある。『栄光への礎』の移住者動態表では15家族110名が記されている12)。同伴者を別家族と数えると、39家族110人となる。

 

5.第三陣の人数について

第三陣については,『みどりの大地』に「1957.2下旬 沼隈町3家族23名と福岡県7家族49名入植」とある。『栄光への礎』の移住者動態表では3家族23名が記されている13)。同伴者を別家族と数えると、7家族23人となる。

 

6.第四陣の人数について

第四陣については,『みどりの大地』に「1957.3下旬 沼隈区第四陣5家族49名入植」とある。『栄光への礎』の移住者動態表では4家族51名が記されている13)。同伴者を別家族と数えると、26家族51人となる。

 

7.第五陣の人数について

第五陣については,『みどりの大地』に「1957.6. 沼隈区第五陣9家族62名入植」とある。『栄光への礎』の移住者動態表では11家族64名が記されている13)。同伴者を別家族と数えると、15家族64人となる。

                  

8.第六陣の人数について

第六陣については,『みどりの大地』に「1957.9. 沼隈町第六陣4家族26名,福岡県3家族入植」とある。『栄光への礎』の移住者動態表では4家族26名が記されている14)。同伴者を別家族と数えると、8家族26人となる。

 

9.第七陣の人数について

第七陣については,『みどりの大地』に「1957.11. 沼隈町第七陣3家族17名と福岡県2家族9名入植」とある。『栄光への礎』の移住者動態表では3家族17名が記されている14)。同伴者を別家族と数えると、6家族17人となる。

 

10.第八陣の人数について

第八陣については,『みどりの大地』に「1958.2. 沼隈町第八陣2家族11名と福岡県1家族5名入植」とある。『栄光への礎』の移住者動態表では2家族11名が記されている15)。同伴者を別家族と数えると、5家族11人となる。

 

11.第九陣の人数について

第九陣については,『みどりの大地』に「 1958.6.広島県より7家族40名到着入植するも適地無くア市イグアス方面へ転出」とある。『栄光への礎』の移住者動態表では7家族39名が記されている16)。同伴者を別家族と数えると、9家族39人となる。

『栄光への礎』が1人少ないのは、渡航後転出したため掲載されていないことが、『移民』17)と『栄光への礎』18)を照合することによってわかる。

以上のことから,第一陣の人数について9家族40人とする。

 

12.第十陣の人数について

第十陣については,『みどりの大地』に「1958.7. 広島県より2家族19名入植」とある。『栄光への礎』の移住者動態表では2家族19名が記されている18)。同伴者はいない。

 

13.第十一陣の人数について

第十一陣については,『みどりの大地』に「1958.8.広島県より1家族7名入植」とある。『栄光への礎』の移住者動態表では1家族8名が記されている19)。同伴者を別家族と数えると、2家族8人となる。

 

14.第十二陣の人数について

第十二陣については,『みどりの大地』に「1959.2. 広島県より1家族3名入植」とある。『栄光への礎』の移住者動態表では1家族3名が記されている20)。同伴者はいない。

 

15.結果

以上の結果をまとめると次の表のようになる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

渡航日(神戸出航)

渡航船名

人数*1

人数*2

人数*3

人数*4

第一陣

1956年10月15日

チチャレンガ号

5-30

4-23

10-23

6-36

第二陣

1956年11月2日

あめりか丸

19-108

15-110

39-110

39-110

第三陣

1956年12月5日

ぶらじる丸

3-23

3-23

7-23

7-23

第四陣

1957年1月15日

テゲルベルグ号

5-49

4-51

26-51

26-51

第五陣

1957年4月2日

あめりか丸

9-62

11-64

15-64

15-64

第六陣

1957年7月15日

ルイス号

4-26

4-26

8-26

8-26

第七陣

1957年10月2日

あふりか丸

3-17

3-17

6-17

6-17

第八陣

1957年12月30日

ぶらじる丸

2-11

2-11

5-11

5-11

第九陣

1958年4月17日

ルイス号

7-40

7-39

9-39

9-40

第十陣

1958年5月17日

テゲルベルグ号

2-19

2-19

2-19

2-19

第十一陣

1958年7月4日

あふりか丸

1-7

1-8

2-8

2-8

第十二陣

1958年12月30日

不明

1-3

1-3

1-3

1-3

合計

61-395

57-394

130-394

126-408

 

              人数*1『みどりの大地』

              人数*2『栄光への礎』

              人数*3 『栄光への礎』の同伴者の別姓を1家族として数えたもの。

              人数*4 本稿で確定したもの。

 

16.考察

『沼隈町誌 写真・資料編』には,「第十二陣(同33年12月28日出発)までに130家族・415人」2)が移住したとある。4家族7名の誤差が生じている。このことについては次のように考えられる。

まず、家族数であるが、海外移住についての特別の用語として「同伴家族」あるいは「構成家族」というものがある。夫、妻、子供、両親などを単位とする本来の家族に対して、移住条件を満たさない者がその家族に「同伴家族」として登録して渡航するものである。同伴家族は一人でも複数でも可能であった。『みどりの大地』では同伴家族としての同伴者も含めて1家族と数えている。

『栄光への礎』の移住者動態表では、本来の家族の後に続けて、「同伴」として記されている。そして、別の家族は1行空けて記されている。その「同伴」が1名の場合には、実質2家族ということになる。別姓の「同伴」が2名いれば、実質3家族になる。

しかし、別姓の「同伴」2名の場合でも、男女であればパスポート名義が異なるだけで夫婦の場合もあり、その場合は2人を1家族として実質2家族になる。あるいは従兄弟で1家族構成としている場合もあるかもしれない。このように複数の「同伴者」家族数を数える場合、その数え方で差が生じる。したがって、家族数については、その根拠を明らかにしない以上正確な数は把握できない。 

次に渡航者数であるが、これも出航時の人数とフラム移住地入植者数の間で差が生じたことが原因であると考えられる。それは第一陣の項で記したように、渡航予定者と渡航者の数が異なり、それとまたフラム入植者数が異なっている。このようなことが第二陣移行でも起こったのではないかと思われる。特に第二陣は渡航者も多く、渡航予定者と渡航者の数を調べ、統計の中にどの段階の数値が計上されているかを調べる必要があるだろう。

以上のような不確定要素は残したままであるが、沼隈町パラグアイ移住団の12回の渡航のそれぞれの渡航者のおおよその人数を把握できたと考えることができる。

 

17.おわりに

沼隈移住団の渡航者数について調べ,およその人数が把握できた。さらに詳しい数値を求めるならば、一次資料に当たる他はないが、一次資料を解読できる自信はないので、この件はこのあたりで停めておく。

 

参考文献

1) 広島県編集発行、『広島県移住史 通史編』、1993年、p.597

2) 沼隈町教育委員会編集発行、『沼隈町誌 写真・資料編』、2004年、p.92

3) 拙稿、「沼隈町パラグアイ移住団の渡航日について - 沼隈町パラグアイ移住史研究(1)-」

4)拙稿、「沼隈町パラグアイ移住団の渡航船について - 沼隈町パラグアイ移住史研究(2)-」

5)フラム移住地30年誌編集委員会、『パラグアイ国フラム移住史“30年の歩み”』、フラム移住地30年誌刊行委員会、1986年、p.119

6)パラグアイ日本人移住五十周年記念祭典委員会記念誌編集委員会、『パラグアイ日本人移住五十年史 栄光への礎』、パラグアイ日本人移住五十周年記念記念誌行委員会、1987年

7)前掲書1)、『広島県移住史 通史編』、p.597

8)広島県、『広島県移住史 資料編』、第一法規、1991年、p.865

9)「沼隈町広報」 S.31.10.1. 縮刷版 p.53

10)「沼隈町広報」 S.31.11.15. 縮刷版 p.59

11)前掲書6)、『栄光への礎』、p.356

12)前掲書6)、『栄光への礎』、p.357

13)前掲書6)、『栄光への礎』、p.359

14)前掲6書)、『栄光への礎』、p.362

15)前掲書6)、『栄光への礎』、p.363

16)前掲書6)、『栄光への礎』、p.365

17)中国新聞「移民」取材班、『移民』、中国新聞社、1992年、p.269

18)前掲書6)、『栄光への礎』、p.366

19)前掲書6)、『栄光への礎』、p.366

20)前掲書6)、『栄光への礎』、p.368