(「因島市史」p.196〜)
一 備後国因島中庄預所下文(賜給田) 因島市史料第五集p.5
1備後国因島中庄預所中下文(賜給田) 「因島市史」p.217
1備後国因島中庄預所中下文(賜給田) 「因島市史」p.217
下 備後國因嶋御庄政所 下す備後国因島中御庄
可早宛給田捌段内 四斗代 二段 早く給田捌段の内を宛て賜ふべし
三斗代 二反
二斗代 二反
二斗代 二反
右公文清原守高可宛 右公文清原守高に宛て
賜之状所仰如件 賜ふべきの状所仰せの件の如し
貞應九年十一月十一日
比良木祢宜鴨縣主(花押)
ニ 備後国因島中庄領家下文(公文職宛行) 因島市史料第五集p.5
(花押)
下 因嶋中庄
可早宛行公文職事
右以人為彼職庄務所任先
例、可被沙汰状如件荘
官百姓等所宣承知、勿遺
失故以下
貞應三月ニ月六日
三 預所寄進状(放生会頭田) 因島市史料第五集p.6
寄進 放生会頭田事
友貞名内輿田壱段半
この文書が興味深いのは今でも残っている字・友貞が出て来るからである。名田というのは開発者の名が付いた田んぼのことである。
二二 小早川隆景書狀 (切紙)
(豊前)
今度其表御出船稠被
仰付候、依之此口敵退散候、
(親宏)
然者田原退口被待付、被碎
手数輩被討果之由到來候、
誠御馳走御粉骨之次第不
淺候、此表伝之要害明退候
条、動深重依申付之旁御
礼申後候、慮外候、其表御滯留之
間、弥人数指出候、可被仰談候、猶
(景信)
桂右衛門大夫可申候、恐々謹言、
(永祿四年)
十一月九日 隆景 (花押)
(吉充)
村上新蔵人殿
御陣所
原本:因島史料館に依託保管。三巻の巻物。
原文:➡️ 「因島村上家文書」
再録
因島市教育委員会編「因島市史料第五集 広島県重要文化財 因島村上家文書」(昭和40年、昭和59年再発行)
因島村上文書は、大正初期、松浦儀作しの努力によって世に出た。(中略)長府在住の因島村上家二十代昌輔氏所蔵のこの文書を発見したのである。「因島市史料第五集 広島県重要文化財 因島村上家文書」p.35
再録
松井輝昭編著「因島村上家文書を読む」因島市教育委員会・因島市文化財協会、平成7年
解説:「因島村上家文書の特色について」p.5-8
再録
戦国期、毛利、小早川との関係文書が多くて、南北朝、室町期の資料は少ない。 青木茂「因島市史」p.196
写真版は、因島史料館に依託保管になったものによった。全部で三巻の巻物になっている。資料三一通のもの一巻、一一通のもの一巻、九通のもの一巻、計五一通である。なお「同家所伝」と記された、因あ島村上家系図があるが、毛利藩提出のものとは少しちがったところがある。 青木茂「因島市史」p.196
再録
「広島県史 古代中世資料編Ⅳ」(広島県、昭和53年)p.551
再録
今治郷土史編さん委員会編「今治郷土史 第二巻 資料編 古代・中世」(平成元年)
p.1005
因島村上家文書(写) 宮窪町水軍資料館保管 宮窪町村上家文書
文書の原本は村上七郎氏に伝えられ広島県指定文化財である。「今治郷土史 第二巻 資料編 古代・中世」p.1005