4。村上水軍について その3 「予陽盛衰記」から
「予陽盛衰記」は「予陽河野盛衰記(河野軍記)」と呼ばれる、河野氏の盛衰を描いた16巻の軍記物語の流布本の一書である。村上和馬氏が元文5年京都書房版を訓読したものである。その第十二巻、第二章に因島村上氏のことが出てくる。北畠山城守師清(もろきよ)が信濃国から紀州雑賀(ざいが)、讃州塩飽、備中神島(こうのしま)を経て大島へ来て、河野通治へ礼を尽くしてから村上義弘の後を相続することが認められることが書いてある。また今岡左衛門尉通任が村上義弘の姉婿であること、南彦四郎通泰が河野通継の三男であることなどが記されている。北畠師清は村上義弘を継いで村上師清と改め、今岡通任と争ったのが、釣島箱崎浦の戦いである。勝った師清が子息3人をそれぞれ能島、来島、因島に配したというのが三島村上水軍の起源伝説であるが、本書ではその間に1代入る。なお、釣島箱崎浦の戦いが、村上義弘の跡目争いによるものの他、南北朝の戦いの局地戦であるとする説もある。因島村上氏の第一家老救井氏が新田義貞の子孫、第二家老稲井氏が新田義貞の弟、脇屋義助の子孫であることから、後者の可能性は高い。あるいは単なる因島の領有権争いだったのかも知れない。また、師清の子息3人を三島村上氏の起源とする話が史実でないとする見方もある。