2015年5月29日金曜日

尾道市因島 因島城跡物語 参考文献

本館 白滝山 いんのしまみち 終章⬅️ 参考文献
伝説とロマンの島 因島城跡物語

参考文献


青木茂編、「因島市史」、因島市史編集委員会、1968
荒川節、「白滝山の石仏」、1992
因島市教育委員会、因島市文化財協会編、「因島市の文化財」、1990
宇田川武久、「瀬戸内水軍」、教育社、1981
尾道市教育委員会、「尾道の石像物と石工」、1913
柏原舒延、「霊峰白滝山の沿革」、『反省ノ泉』(N0.185-238)1968-1972
柏原充正、「重井の電話史談」、1983
柏原康章、「因島市重井町の略史」、2004
岸田裕之編、「広島県の歴史」、山川出版社、1999
北川建次他編、「瀬戸内海事典」、南々社、2007
河野寛編、[因島の民話と伝説」、因島ジャーナル、1987
山王憲雄、「里山散歩 ー武田山の自然と歴史ー」、里山環境保全みどり会、2013
重井町文化財協会、「重井町史年表」、1979・6
重井町文化財協会、「重井町史年表 平成五年再編 1993
重井町文化財協会、「重井町史年表 平成十一年度改訂版 1999
田中稔、村田市郎、「因島史跡散歩、因島市文化財協会、1992
田中稔、「因島史考」、因島市文化財協会、1996
千種義人、「瀬戸内の石仏を訪ねて」、中国新聞社、1988
地方史研究協議会編、「海と風土」、雄山閣、2002
中島忠由、「宗教界の偉人 柏原伝六の話」、重井中学校、1950
中島忠由、「因島地方一万年史」、因島市教育委員会、1972
中島忠由、岡本馨共編、「写真集 明治大正昭和 因島」、国書刊行会、1982
西村武雄、「中世瀬戸内の仏教諸宗派」、探究社、2000
西本省三編、「日本城郭大系 13」、新人物往来社、1980
本四連絡橋公団編、「因島大橋工事誌」、海洋架橋調査会、1985
松本賢編、「ふるさと三庄」、三庄老青会連合会、1984
松浦儀作、「因島村上と青影城址」、因島市・青影観光会、1958
村上正名、「備後今昔 中」、児島書店、1972
村上安弘、「重井の石造物」、因島重井文化財協会、2009
村上安弘、「白滝山の石像群と白滝山の沿革と伝六さまの遺録」、因島重井文化財協会2009
メカリ写植編、「大浜小学校閉校記念誌 歩み」、大浜小学校閉校記念実行委員会、
森本繁、「歴史紀行瀬戸内の海賊衆水」、山陽新聞社、1984
森本繁、「歴史紀行瀬戸内水軍」、新人物往来社、1987
森本繁、「因島の歴史」、因島市教育委員会、因島市文化財協会、1994
森本繁、「瀬戸内水軍家村上氏の来歴」、因島市教育委員会、因島市文化財協会、1995
森本繁、「村上水軍興亡史」、学習研究社、2001
森本繁、「村上水軍全紀行」、新人物往来社、2009  
森本繁、「瀬戸内しまなみ海道 歴史と文学の旅」、浪速社、2009  
森山隆平、「羅漢の世界 巡礼と鑑賞」、柏書房、1984
別冊歴史読本17、「戦国水軍と村上一族」、新人物往来社、2005


本館 白滝山 いんのしまみち

尾道市因島 因島城跡物語 終章

いんのしまみち 細島茶臼山城跡物語⬅️ 終章 ➡️参考文献
伝説とロマンの島 因島城跡物語

終章 

1600の関ヶ原で、事実上因島村上氏時代は終わる。そして人群れ騒ぐ江戸の街に江戸幕府が開かれると、因島は近世の瀬戸内海に浮かぶ静かな農村となる。
維新の動乱を経て近代になると、時代とともに船運が発達するも、やはり島である。
因島大橋建設にかかわる重井大石遺跡発掘の話でこの物語を始めたので、因島大橋開通後の因島のようすを述べてこの話を終わるのがよいだろう。
東京一極集中と全国的な過疎化という21世紀前半の傾向の中で、因島もその例外ではない。街を歩けば空き家が目立ち、野山を歩けば耕作者のいなくなった田畑は開墾以前の姿に戻ろうとしている。先人がが苦労して切り開いた峠道や畑道は棘や蔦葛で覆われ、イノシシの往来を恣にしている。
かつては因島西回り、東回りの航路が尾道から出ており、三原からは重井西港から西回りの航路が出ていた。さらにフェリーボートや高速艇が加わり、多くの港湾施設とその周辺が賑わった。
しかし、因島大橋開通は因島の交通体系を一変した。因島にはインターチェンジが二カ所あるが、いずれもハーフインターでそれぞれの側の乗降ができるだけである。
因島を起点とする高速バスは福山と広島しかないが、新幹線で帰省するにはひかりの停車する福山で降りて高速バスを利用するのが便利である。









尾道市因島 因島城跡物語 序章

いんのしまみち 因島城跡物語⬅️ 序章 ➡️中庄小丸山城跡物語
伝説とロマンの島 因島城跡物語 著者 柏原林造、住原俊治、村上知之

序章

いきなり城跡では、話が唐突なので、それまでの歴史を少し記しておきたい。
因島が歴史上はじめてあらわれるのは、よく知られているように、日本三代実録にある

授備後國無位隠嶋神從五位下

とある878元慶2年12月15日のことである。
鳴くよ鶯の平安時代になって約80年が経過している。

しかし、それ以前から人が住んでいたのは確実で、考古学資料から推定するしかないが、複雑な海岸線と温暖な気候から考えて、早くから人が住みついていたことは想像に難くない。

因島大橋架橋ならびに関連道路建設にともなう土木工事において、因島地区では重井町大石遺跡が文化財保護法の適用を受け、因島市教育委員会によって、1978昭和53年9月25日から10月12日まで試掘調査、1979昭和54年4月14日から10月31日まで発掘調査が行われた。
そこでは、弥生時代中期と推定される竪穴式住居跡2軒、近世の溝状遺構14本のほか、土器、石器、鉄製品などが発掘され、以下のような所見が得られた。
弥生時代中期の部族間抗争に関した砦、見張り台らしき遺跡の存在、石器の製作が行われた、弥生時代中期に因島にも鉄器が入っている、狭い沖積地と谷川を利用して、少人数で農耕生活を行っていた。

このことは、因島が離れ小島ではなく、人と物の交流が、早くから海を通して行われていたことを物語っている。そして、統一国家が成立し、律令制が行われれば、その支配下に組み込まれるのは当然であった。さらに海運の発達とともに、瀬戸内海が海の動脈として通商に活用されると、そのことはいっそう強められ、国家の趨勢と無縁であることは許されなかった。

因島全図。緑でない部分は、江戸時代以前は海であったところ。


因島城跡物語⬅️ 序章 ➡️中庄小丸山城跡物語 片刈山城跡物語 島前城跡物語 竹島城跡物語 堂崎山城跡物語 一ノ城跡物語 茶臼山城跡物語 竹島箱崎浦合戦 長崎城跡物語 荒神山城跡物語 青影城跡物語 山伏山城跡物語 大江城跡物語 天神山城跡物語 土生小丸城跡物語 百梵山城跡物語 千守城跡物語 三庄土井城跡物語 美可崎城跡物語 幸崎城跡物語 大浜土井城跡物語 青木城跡物語 馬神城跡物語 天秀庵城跡物語 細島茶臼山城跡物語 終章 参考文献 

2015年5月28日木曜日

因島・白滝山 旧参道

しげいみち 白滝山研究目次 白滝山リンク集  白滝山の参道
2015.5.27.フラワーセンターの上に西洋館があります。
2015.5.27. 1978昭和62年より、ペンションとして営業されています。この塀に沿って登る道が昔の表参道ですから、これを旧参道としておきます。すなわち、旧参道の起点は西洋館です。
2015.5.27.まっすぐ行けば表参道第一駐車場まで車で行けます。そこから徒歩25分で山頂です。旧参道は西洋館のところで左折して塀に沿って石段を登ります。
2014.12.7.歴史を感じさせる見事な塀です。草が生えていますが、ここの石段を登っていきます。
2015.5.27.草道の向うに竹薮が見えます。
2015.5.27.竹の影になっているところは草が生えていません。
2015.5.27.昔の石垣が残っています。第一駐車場の真下辺りです。ここで左へ曲ります。
2015.5.27.まっすぐ行くと百華園です。
2015.5.27.百華園との合流点。ここを右に曲って道なりに登ると表参道と合流します。
2015.5.27.表参道との合流点。伝六さん(墓所)の下です。ここが旧参道の終点です。
しげいみち 白滝山研究目次 白滝山リンク集  白滝山の参道

2015年5月26日火曜日

因島中庄町 片刈山城跡

因島北インターから南に向かうと最初の信号が片刈池。どこまで埋めてどの程度のこしてあるのかは、道からはわからないが、かつてここは大きな池があってひょうたん池と呼ばれていた。正式には片刈池と言ったのだろう。今はゲートボール場、、公園などになっていて、スパーク因島と呼ばれている。
この西側の山が片刈山。標高124m。長福寺から北へ谷沿いの小道があり、峠を越えれは鹿穴に至る。峠の最高部で左へ行けば水軍城、右へ行けば片刈山。かなり広い頂上。本丸から南へ二ノ丸、三ノ丸と下がる。
片刈山城跡配置図。田中稔「因島史考」p.20による。
2015.1.28.中庄町鹿穴から。
本丸付近。
南方の左寄りに二ノ丸。
二ノ丸付近か。
後ろは天狗山。
低いところが三ノ丸か。
三ノ丸付近から二ノ丸方向を振り返る。
これより南は崖になるので、三ノ丸南端付近。
2015.2.14.唐樋付近から見た片刈山城跡。

頂上からの眺めもよい。南に八幡神社のある天狗山。目を右に転じれば、奥山トンネルに至る道路、青影山、水軍城などが見える。北西の登山道からは北に白滝山が見え、高度を増すと岩がくっきりと現れる。山頂から東には、眼下に中庄新開、蘇功新開、外浦の梶ノ鼻、さらに福山市の内海大橋、沼隈半島などが見える。

[所在地]因島中庄町寺迫。片刈山の山上。
[標高]124m
[城廓]本丸、二ノ丸、三ノ丸が段状にある。東に出丸。南西の丸山(現在の水軍城近く)に出城。
[城主]清原守高
[史跡]三ノ丸の石垣が残っている。長福寺谷に清原守高の屋敷跡がある。さらに下に井戸跡がある。
[現状]長福寺峠から登り道がある。
[その他]地蔵鼻辺りに登り口があるのかもしれないが、未確認。
[交通]しまむら・三原スーパー駐車場から麓まで5分。
[歴史]因島は後白河法皇の長講堂領であったが、建久3年院が亡くなると、三津庄の常光院領と中庄の宣陽門院領に二分された。宣陽門院領の預所は比良木祢宜鴨県主で、現地を管理する公文が清原守高であった。

南側の谷に屋敷跡(公文所)がある。清原守高の居城と伝える。田中稔「因島史考」p.20

1222貞応元年壬午。11月11日。因島村上文書。
   因島中庄預所下文
下 備後國因嶋中御庄政所
 可早宛賜給田段内四斗代 二段
          三斗代 二反
          二斗代 二反
          一斗代 二反
右公文清原守高、可宛賜之状、所仰如件、
    貞應元年十一月十一日
  比良木祢宜縣主(花押)
「広島県史 古代中世資料編Ⅳ」、p.551

「因島市史」、p.217

2015年5月25日月曜日

白滝山研究 伝六遺墨

白滝山研究目次 白滝山リンク集 

太字中央 「釈迦如来 阿弥陀佛 白衣妙徳一観音
右端から「予此世ニ生ヲ受ク 四十二年ナリ 時来テ四十二才霜月六日 夜ノアケノ明星出ル時 身心 ダツラクシテムシノ法海ニ 充満シテ」
左へ「大涅槃成道シテ妙心ヲ開 亦 此世ニ示現シテ 法身トナリ 右ニエガクガ如シ ソレヨリ名改テ 観音道一観トス 四十七才書之」
左上「文政十丁亥初夏ニ」
右下「備後国 御調郡 因之嶋 重井村住ス 俗名ハ 柏原傳六」




(朱印)我四十二才ニ
白衣自在一観音
  妙徳ヲ観自在之身成
        (朱印)(朱印)


予此世ニ生ヲ受ルコト四十二年時来ル哉霜月六日夜アケノ
               明星出ル時身心
               ダツラクシテ
釈迦一観音
法海浦亦示現シテ法身ト成名改テ一観トス
                  四十七才書(朱印)(朱印) 

釈迦 如来 一観音
我此世ノ生ヲ受ルコト四十二年
時来哉霜月六日夜アケノ
明星出ル時身心
脱ラクシテ法海湧ル
是時
大涅槃之妙心ヲ
開ク光明千万
照ス天上天下一心ノ聖体成
亦此世ニ示現シテ法身トナリ
右ニカキシルスガ如シ我名改テ観音道一観トス  
時文政十丁亥初夏 四十七才書之 朱印

我此世ノ生受コト四十二年
時来哉霜月六日夜アケノ明星
出ル時身心脱ラクシテ
無量法界湧ル
是時
十方
佛光
明ナリ
大涅槃之妙心ヲ開ク
亦此世ニ示現シテ法身トナル
右ニエガクガ如シ 我俗名
柏原氏傳六今ハ改テ次如シ
時文政十丁亥相数四十七才書之
観音道一観 朱印 


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愛媛県上島町 生名島立石山探訪

愛媛県の道 

2015.5.21.広島県因島土生町長崎港からフェリーで生名島立石港へ行き、立石山を探訪しました。
2015.5.21.11.28。因島土生港長崎港。
2015.5.21.11:28。時刻表など。
2015.5.21.11:29。生名行きフェリー到着。
11:31。左が生名行きフェリー。正面に弓削からのフェリー。背後は生名島立石山。

11:32。弓削からのフェリーが北側に接近。


13:40。



13:40。

15:50。竹島城跡の亀島。






愛媛県の道