6代 村上吉充
因島村上氏の系図
田中稔「因島史考」p.116を元にする。
5代 村上尚吉
5代 村上尚吉
6代 村上吉充
六代 又三郎 備中守
吉充
幼名虎千代丸
弘治三、任新蔵人
長崎城主、余崎城主
青木城主
晟清寺殿英中晟春居士
廟所 佐方村長本寺
田中稔「因島史考」p.117
「河野家人数之巻」「河野分限録」にある河野水軍組織では、
御侍大将十八将の2番めに、
備後国因島城主 野間郡高仙城主
村上備中守吉充
因島青木(重井)城 野間郡武相天城 和気郡九折葛城 三カ所城主
手勢八十騎 御旗下組廿二騎 外様手先御船手百六十余騎 以上二百六十余騎
松岡進「瀬戸内水軍史」p.455
また、それより前に、以下のようにある。
御一門三十二将之事として、
村上備前守吉光
松岡進「瀬戸内水軍史」p.453
とある。前後の人名が御一門三十二将、御侍大将十八将とも同一人物だから、村上備中守吉充と考えてよいだろう。
1544天文13年7月3日。村上文書。大内義隆、備後村上新藏人ニ所領ヲ充行フ、
青木城主村上吉充のこと。
1554弘治元年 一、追手の警固、嶋衆〔村上、来島〕も船三百艘計り、戌亥の刻推寄せ申し候、(広島県編、「広島県史古代中世資料編Ⅰ」、昭和49年、p.600万代記 厳嶋合戰記)
1556
弘治元年の厳島合戦当時、因島村上第六代の吉充が若年であったことは戦史にてらしてあきらかである。恐らくかれは、厳島合戦とそれに続く毛利氏の防長経略戰に参加して、その戦勝を祝賀して、戦いのおわった弘治三年に、岩城へ亀山八幡宮を造営したのであろう。
永禄10年 村上新蔵人吉充が余崎城から青木城へ移る。(田中稔「因島史考」p.30)
1569永禄12年 宮地大蔵助忠明が毘沙門天を善興寺に祭祀。(田中稔「因島史考」p.93)
さて隆景の命で、村上新蔵人は永禄十二年重井庄小島跡(大小細島)を与えられ、杉原には名荷に替地を、木梨には向島領家方の宇立と交換せしめ、重井全域をはじめて村上家の給分とした。そこで新蔵人吉充は本城を向島から重井の青木(竜王山)に移したのであった。 中島忠由、「因島地方一万年史」、p.133
竜王山は現在では権現山のことになっている。青木山または地王山と言うべきであろう。
1577天正5年 土生長源寺焼失。(中庄に移り長福寺となる。(田中稔「因島史考」p.10)
秋以降。金蓮寺、村上家の菩提所となる。それ以前は土生島前の長源寺。(田中稔「因島史考」p.88)
ここで『萩藩閥閲録』p.794を見ると、吉充関係のものが以下のように見られる。
1582天正10年
4月10日14日20日
能島村上氏が秀吉の勧降に応じないとわかると、因島の村上吉充も弟の基康・隆吉とともに毛利氏にあらためて忠誠を誓い、輝元は吉充に五百貫、亮安に三百貫、隆吉に百貫の所領を与え、その忠誠心に報いた。(『萩藩閥閲録』所載「村上大左衛門」)
「村上水軍興亡史」p.256
閥閲録 百卅二
(御船手組)村上大左衛門
1 就村上新蔵人被申儀蒙仰候、得其心候、・・・
2 因嶋内證之通慥承届候、聊無忘却之条不可有気遣之候、・・・
3 就御愁訴之儀、對隆景蒙仰、委細又申述候、・・・
山口県文書館編、『萩藩閥閲録 第三巻』、マツノ書店、1995、p.794
1600慶長5年 村上新蔵人吉充、青木城を去る。(田中稔「因島史考」p.30)