2015年6月2日火曜日

尾道市因島 因島城跡物語 釣島箱崎浦合戦

いんのしまみち 茶臼山城跡物語⬅️ 釣島箱崎浦合戦 ➡️長崎城跡物語 
伝説とロマンの島 因島城跡物語 史跡散歩 

釣島箱崎浦合戦

ここで、因島村上氏が誕生するきっかけとなった釣島箱崎浦合戦についてまとめておくのがよいだろう。
場所は、いうまでもなく、因島総合支所の西側の海、ということだが戦場は意外と広く、史跡をできるだけ紹介したい。
時は、1377天授3年というから、南北朝時代の後半である。翌年から勝者の村上氏が長崎城の城主となって因島村上氏時代が「1600の関ヶ原」と覚えた1600年まで続くのだから、まさに因島の歴史の結節点である。

その元祖ともいうべき人であるから、少し村上師清のことを述べておこう。
村上師清は信濃の人である。瀬戸内に下向して伊予村上氏を率いていた同族の村上義弘の死の報に接して、南朝の吉野へ参上した。そこで長慶天皇から瀬戸内海の南朝勢力をもり立てるよう要請された。(そのような指示を得られるよう要望して、それが通ったということであろう。)
1377天授3年3月、師清は紀州雑賀港から出航した。兵船30艘というから熊野水軍や雑賀集の協力を得たのであろう。
因島へ来るまでの戦歴がおもしろい。
讃岐塩飽島 塩飽三郎光盛を征服。(瀬戸大橋辺り)
備中神島 稲住氏を征服。(岡山県笠岡市神島)
味方を増やしているのだ。
越智郡大島 長慶天皇の命を伝える。大島宣言。(しまなみ海道、伯方島の次の島)
それを聞いた、村上義弘の元部下たちが能島に集まって協議した。能島評定。一応天皇のお墨付きをもらっているとはいえ、それを本物と判断する能力などない。義弘と同族だと言われても、その証拠はない。よそ者が大言壮語して配下になれと言っているわけである。現に名門北畠家の出てあると語っていたのである。怪しいと思っても、逆らうのは冒険である。なぜなら、讃岐と備中で味方を増やしてきているのであるから。
この能島評定の結果、大勢は師清の言うことを聞いて師清を頭領とすることに決めた。
しかし、よそ者に勝手なことはさせないぞ、と反骨の精神に溢れた男がいた。因島の今岡通任である。

複数の伝説からこのようなイメージを作り上げた。どこまで史実かは疑わしい。
まとめてみると、
1.南朝、北朝の戦い。今岡通任が南朝側から北朝側に変わったので討伐された。
2.村上義弘の後継者として村上師清を支今岡通任が指示しなかったので討伐された。
というのが大きな理由としてあるが、結果からわかるように、因島の領土争いだったのではないか。



©tombosou

因島には北朝方の今岡通任が島前城、その配下の大鳥義直が中庄・茶臼山城に陣取り、攻め手の村上師清が海上から攻めた。

©tombosou

合戦場跡。
竹島城跡と島前城跡。手前の島は鶴島(釣島)。左は平内島。生名島立石山より。©tombosou



©623crystal 岡野明神藤原神社のビャクシン。
©623crystal 島前城主今岡通任の長子藤原通宗が戦死した場所に岡野明神藤原神社が建てられ、岡野姓、藤原姓の先祖神として祀られている。その後植えられたと伝える大ビャクシン。


©tombosou  妙泰神社。
釣島箱崎浦合戦の悲話として妙泰夫人の活躍を記しておきたい。茶臼山城主大鳥義康の弟、大鳥宗義が戦死したにもかかわらず、宗義の妻妙泰夫人は、城主義康の影武者となって戦ったという。しかし敗軍は四散し、妙泰夫人は土生から田熊に通じる道でついに討たれた。その近くに妙泰神社が建ち、この道を妙泰越えとも言うが、田熊側から土生越えと呼ばれている。


2016.6.26.妙泰神社の中の額。


これは戦いの図かと思ったが、どうやら関係ないようだ。六歌仙か何かだろう。





©tombosou  三庄・観音寺から千守城址と狸薮を望む。三十三観音の向うに土生・小丸城跡、天狗山が見える。その左の高い木のあるところが戦場となった狸薮である。


合戦後
この合戦で勝った村上師清は翌年末子吉豊を長崎城主にしている。この村上吉豊が因島村上氏の初代である。このとき、師清は三原の刀鍛冶を招いて刀剣を作らせている。刀剣には南朝年号が入っている。
この刀剣を作ったところは、市民会館、図書館の北東の谷で、土生と田熊の境にある串畑谷であるが、鍛冶後(かじがせど)と呼ばれている。

©tombosou 田熊の鍛冶後(かじがせど)望遠。
©tombosou 因島図書館駐車場の北側の谷。寺迫。田熊の鍛冶後(かじがせど)はここのことだろうか。。字名図ではもう少し東になる。