2015年6月9日火曜日

因島村上氏 先代 村上師清 

村上水軍研究目次



先代 村上師清
 箱崎浦合戦の勝者

師清(顕成)
子に吉顕(能島村上1代)、吉房(来島村上1代)、吉豊(因島村上1代)

◎師清の没年
松岡進「瀬戸内水軍史」p.293で次のようにまとめてある。
 伯方村上家系図では応永十五年(一四〇八)二月廿六に逝去し、その追号を長顕寺殿前雍州大守羽林院中将栄岳徹昌居士と書かれている。
 村上図書家記による能島村上系図では応永六年(一三九九)八月八日八十二歳で没し、清龍院忠覚道興と号したことが見える。(中略)➡️「萩藩閥閲録」
 山口県大島郡屋代村村上藤枝家の伝えるところでは、師清は「定紋丸の内に上の字、二つ柏葉(かしわのは)・笹竜胆なり。応永二十三年八月八日春秋八十三歳、能島務司城にて卒す。」と記している。(因島郷土史料)




1377天授3年 村上師清、長慶天皇の命を受けて、信州から伊予能島に下向。釣島箱崎合戦、三男吉豊因島本主上原家を継ぐ。田中稔「因島史考」p.10、p.121
1392元中9年 南北朝統一。

村上師清は村上義弘と祖先を同じくする清和源氏の一族で、信濃村上氏の末裔(邪知大目)である。 森本繁「因島の歴史」p.8


「後太平記」14巻p.172 では以下のように書いてある。










与陽盛衰記」 では別な話がある。
(村上義弘が)俄に病気づいて卒去せり。その跡、子無うして、家臣互いに威を争い、斗諍に及ぶこと、日を経て止まざりけり。
 然る処に、奥州の国司一品北畠源中納言鎮守府将軍顕家卿、暦応元年(一三三八)五月二十二日、摂州安倍野にて討死し給い、その男山城守師清信濃国に落ち行き年月を送りしが、「伊予国海賊の棟梁村上義弘はその本一族なり。今跡断絶せんとする由。いざやその跡を相続せん。」とて、三百余騎を卒し、紀州雑賀へ討って出で、ここにて船を促し、まず讃州塩飽に船発す。
愛媛県越智郡社会科同好会編、「与陽盛衰記―予章」、愛媛県教育研究協議会、 (1969年)  、 p.249


さるにても、河野の旗下に村上と云える海賊方の棟梁あって、後には一族の第一となって、河野十八家大将の随一なり。其の根元を尋ねるに、北畠顕家卿の枢機たり。往昔(そのかみ)塩飽島に来たりて、何となく彼の七島を押領し、それより予州のうち垣生(はぶ)、能島に渡り、島の者を懐(てなづ)け て、・・・

愛媛県越智郡社会科同好会編、「与陽盛衰記―予章」、愛媛県教育研究協議会、 (1969年) 、p.248 この話は前期村上水軍の話のようではあるが、師清の話と似通っているのでここに引用しておく。




能島と師清について、松岡進氏は、次のように記す。
予陽河野盛衰記はこれを村上師清としており「頼之を聞きて、此の度通堯が討ちもらしぬる事は全く村上有る故也とて新居宇摩二郡の勢に篠本を大将にしてまず大島に渡り、五月廿日村上師清が本城能島を取る。」とある。
松岡進「瀬戸内水軍史」p.260




「三島伝記」には以下のように書かれている。(「因島市史」p.164による。)

北畠師清、予州能島城主村上三郎左衛門義弘卒と聞き、その跡を継がんとて紀州刺賀(雑賀)浦へ出、兵船三拾余艘をもって予州へ下る途中、先讃州塩飽七島を手に入れ、さらに児島、神島を降して三島明神に参拝、明神から伊予河野国司へ連絡、翌日能島務司本城へ落付き給う。これより浦々島族恐伏して降礼をとった。師清の子顕長(室は村上三郎左衛門義弘娘、於竹と申候)、備後国因島に在城する、因島の主上原前監入道祐信病死のため跡なきにより、顕長を直し給ひ、義弘後家は幼少なる子供を連れ、家宝並に諸道具、義弘まで伝わったものを持ち、部下家頼、砂田、櫛橋、宇賀島などを召連、殿浦に住居す(後略)」 因島の主上原前監入道信のは別字)

北畠顕成は、南朝の瀬戸内経営の重要拠点で、しかも歴代南朝に尽した村上氏の家督を継ぐにあたり、北畠家の名誉と神皇正統記の精神を重んじて、村上師清と改名した。そして、子息には北畠地親房の親をとって親成と名付けていたが、これ以後村上義弘の義と顕成の顕の頭文字をとり、村上義顕となのらせた(村上家伝)。
村上公一「村上海賊史」p.137