伝説とロマンの島 因島城跡物語 著者 柏原林造、住原俊治、村上知之
第4景 村上氏因島へ
天授3年(1377)の釣島箱崎浦の戦いで勝った村上師清(もろきよ)は、子息の村上吉豊(顕長)を長崎城主にして、因島の支配にあたらせた。長崎城は、吉豊を初代とすると6代城主の村上吉充が向島の余崎城へ移るまで180年間、因島村上氏の本城であった。東側の荒神山城と、さらに因島公園のある天狗山まで続く傾斜地を背後にもつ海に突き出た要害だった。
生名島立石山から。手前が長崎城跡(現・ホテルナティーク城山)、うしろが荒神山城跡(石段の上に、荒神社、城山神社がある)。
村上水軍の歴史はわかりにくい。
中庄の水軍城の位置づけがまずわからない。海と関係ないではないか。
青影山の青陰城が有名だが、みんなあそこに住んだのか。それにしては海から遠い過ぎる。
いっぱい城跡らしきものがあるようだが、それらの関係がわかりにくい。
三島村上水軍というがそれらの関係がわかりにくい。どこが本家でどれが分家なのかすら書いていない。
因島村上家の現在の当主さんというのが新聞に出たりするが因島とどういう関係にあるのかわからない。その村上家というのはどこに住んでいいたのかもわからない。現在住んでいないのだったら、ここが因島村上家の旧居というのが普通ならあってもよいのではないのか。
ある人は村上海賊といい、また村上水軍というがどう違うのか。
・・・などと、まるでわからないことだらけである。そして、その印象は『胡散臭い!」である。試しに本らしきものを読んでも、「それ、本当? 嘘でしょう!」ということで、村上水軍の歴史などいいかげんなものだろうと思う。
古い因島の観光パンフレットに「伝説とロマンの島 因島」というのがあった。これだと思った。すべてが伝説なのだ、と思えば、いいかげんな記述も怪しげな論証も許容できる。ということで、すべてを伝説として、その伝説の蒐集に努めることにした。
1377天授3年霜月15日、村上師清が釣島箱崎浦の戦いで今岡通任を破った。。師清の末子村上吉豊が因島本主家を継承して因島村上時代が始まった。村上氏が向島余崎城へ移るまで180年間因島村上氏の本城であった。
この村上吉豊を因島村上氏の初代とするのが一番わかりやすい。いま、田中稔「因島史考」p.116によれば、2代・吉資(吉安)、3代・吉光(吉充)、4代・吉直、5代・直吉、6代・吉充となっており、5代までが長崎城主、6代・吉充が長崎城主、余崎城主、青木城主となっている。
因島城跡物語短縮版