伝説とロマンの島 因島城跡物語 著者 柏原林造、住原俊治、村上知之
第2景 三浦村の攻防
南北朝時代、広沢五郎がたてこもった堂崎山城は外浦の地蔵院の裏山にあり、かつての古戦場である。麓には金蓮寺がかつてあった。金蓮寺は1499文安6年8月、因島村上氏2代村上吉資のとき、宮地明光が子息の資弘とともに大願主となって中庄に移された。今の中庄金蓮寺である。1577天文5年秋以降、村上氏の菩提寺となった。
堂崎山山頂の鉄塔のところから、鏡浦峠のほうへ山道がついている。鏡浦の字名に出てくる善農寺が無住になり、外浦の地蔵院の住職さんが、鏡浦の葬式に通った道ではないかとそこを通ったとき、ふと思った。それ以前は、おそらくこの道を通って鏡浦峠まで出て、現在の鏡浦町を通過して海に出てもよいし、あるいは峠の切り通しのところからさらに梶の鼻の方へ登って尾根伝いに海岸に出たのかもしれない。そうすると、この尾根筋に砦らしきものがあっても不思議はない。これを仮に、平田城と呼んでおこう。なお、鏡浦町の厳島神社の南にある岬は小鏡城があったところであるが、今回は取り上げなかった。
一ノ城は因島最高峰の奥山(観音山)の東麓の鶴ケ峯にあり備後灘に面している。蒲刈小早川一族の城で屋敷は北裾の椋浦町にあった。字・城見屋敷である。
地蔵鼻から。
堂崎山城跡。秀作囲碁記念館から。
椋浦・小早川の墓。
三浦村と言われても多くの人が何のことかわからないだろう。今は因島では、前に因島という二字をつけて、尾道市因島重井町というように書くの正しい住居表示であるが、島内で話をするときにわざわざ因島土生へとかいわず、田熊だの三庄だとの言う。同様にこのブログでもそのように表記している。その流儀をここでも続けたい。
さて、現在因島には、北から東回りに、重井、大浜、中庄、外浦、鏡浦、椋浦、三庄、土生、田熊という9個の町がある。かつては時期は異なるが村であった。その時代、外浦、鏡浦、椋浦がいっしょになって三浦村となっていたときがあった。過去の話である。過去とはいえ、この広沢五郎とか小早川時代のことではないない。では、まったく三浦村というのが死語かというと、この三町の水軍スカイラインには三浦バスというのが尾道市の業務委託で走っているから、ここで三浦村と書いてもあながちアナクロニズムと非難されることはあるまいかと思う。
因島城跡物語短縮版