1代 村上吉豊
師清の三男。
一代
吉豊(因島村上祖)
吉豊(因島村上祖)
(顕長)
又三郎吉豊
土生長崎城主
継因島中努大夫某入道善監家云
左衛門大夫、備中入道
田中稔「因島史考」p.116
田中稔「因島史考」p.116
中島忠由、「因島地方一万年史」、因島郷土文化研究会、昭和47年、p.148では次男。
中島では、「継因島中努大夫某入道 善監家云」p.148
義顕の二男吉豊は因島村上家の祖であるが、前述のように村上義弘の娘を妻にした。
吉豊は後節で述べるように、大山祇神社法楽連歌の連衆として句作をのこしているから、文芸の趣味をもっ将であった。
かれは伯方能島村上家系図によると村上次郎備中守ともいい、寛正二年(一四六一)七十八歳で亡くなったとあるが、三島宮法楽連歌では文明十四年(一四八二)頃活動しており、応仁の乱には山名政豊から感状をもらっていることが因島村上文書によって明かでもあるから、寛正二年(一四六一)死亡はまちがいである。
松岡進「瀬戸内水軍史」p.311
(村上義弘は)若くして病に卒した。遺児は二歳になったばかりの信清と、成人の後、因島村上氏初代の顕長に嫁いだ女子(お竹)であった。
森本繁、「村上水軍興亡史」、学研M文庫、2001、p.49
1427応永34年12月11日 村上吉豊、足利義持から感状を受ける。田中稔「因島史考」p.121、森本繁「因島の歴史」p.14
1428正長元年10月28日備後守護山名時𤋮(ときひろ)、村上備中入道に備後田島の地頭職を与える。 森本繁「因島の歴史」p.14
釣島箱崎浦合戦が天授3年1377年であるから、それから50年後である。師清が翌年子息吉豊を長崎城主とした伝承に従うならばその時吉豊が20歳だったと仮定しても、この感状や田島地頭職が70歳になり、不自然ではなかろうか。
松井輝昭「因島村上家文書を読む」p.16、p.17では備中入道を吉資としている。すなわち、因島村上氏2代の村上吉資である。