宮地大炊助
宮地氏
もと吉和・鳴滝山城主。
1423応永30年
石見守経兼のと戦う。城主兵部大輔弘躬(ひょうぶたいふひろちか)戦死。
子息大炊明光は因島へ。
因島初代土生長崎城主、村上吉豊の時代。
田熊天神山城、後に中庄大江山城へ。
備後木梨・鷲尾山城主杉原氏の元で船手奉行をしていた。
森本繁「因島の歴史」p.16
宮地大炊輔は鳴滝山より因島の親族をたより来島致します。その親族とは、清原守高の子孫は永く中庄荘官として継続してつとめていましたが、残れる一族も死亡しています。
その為にも金蓮寺の薬師如来精舎を建立し、清原家が所持している外浦の港湾権を入手いたします。
その為にも金蓮寺の薬師如来精舎を建立し、清原家が所持している外浦の港湾権を入手いたします。
笹野米市「外浦誌」p.20
では、因島宮地氏が天神山城に住んだということがどこに書いてあるか、記しておこう。それは、「因島市史」p.293であるから、容易に確認できる。ただし、それが100%の真実かというと自信はない。そこには、中島忠由氏の調査作成によると書いてある、因島大竹屋宮地家系譜が記してあり、「備後国因島長崎城主村上備中入道吉豊に頼って、田熊天神山城に居る。」とあるだけだから。
宮地大炊助忠明の家は稲井の一門で、別所でしるすように伝統的に廻送業者で、村上家でも廻送方であった。『新修尾道市史』に宮地氏を青影城主としているが、全くいわれのない話である。中島忠由、「因島地方一万年史」、p.155
このころ因島には、小早川氏にかわって今岡通任が青影山城に入り、因島城頭代としては大島義康などがいた。弓削島では、矢野十郎入道が奉行であったが、伊予河野久枝新蔵人が、海賊衆をひきつれて滞在していた(東寺文書)。
北畠顕成の軍は、天授三年(一三七七)十一月十五日、因島中庄三庄釣島・箱崎浦で戦い、これを降した。この戦さでは、さきに小早川氏の海賊衆にいためつけられ、また伊予の村上残党の海賊衆にと、年中荘園年貢を掠め取られた因島在住のの旧御調郡吉和鳴滝山城主、宮地大炊助明光は、小林政常とともに、北畠顕成の南朝軍に加わって戦った。
村上公一『村上海賊史」p.136
第二家老稲井氏の居館土生対潮院はその跡に慶長13年(1608)宮地光時が対潮院を開山。
宮地明光は天神山城の西下に父祖の菩提を弔うために亀甲山善徳寺を建立した。移転されて現在の三庄善徳寺になっている。境内にある宝篋印塔は田熊時代のものである。
因島の熊野丸を青木氏は、宮地の所有船としているがこれは空論に過ぎぬ。「因島地方一万年史」p.183
享徳三年(西一四五四年)戌子入明記にある院島熊野丸六〇〇石積、現在の六〇屯積因島大炊殿とあります。(中略)
清原家の港湾権と問丸は、西暦一四五〇年にはすでに宮地家の権利となっています。
笹野米市「外浦誌」p.21
三庄の竹之内(宮地氏)は、大江広元の子孫で那波(ナバ)氏流、大炊入道妙光の後で、土生の庄屋(大土生)の分家である。「因島地方一万年史」p.312
三庄の浜条に新開をきずき、牧氏に変わって庄屋となった。「因島地方一万年史」p.312
金蓮寺
1449文安6年8月、因島村上氏2代村上吉資のとき、宮地明光と資弘が外浦住吉神社近くから水軍城のある中庄の現在地へ移して再興した。1577天正5年秋の長源寺焼失後、村上氏の菩提寺は金蓮寺となった。
関ヶ原の合戦後、因島村上氏は山口へ移ったが、宮地氏は因島に留まり、江戸時代には中庄、土生、三庄の庄屋を勤め、鴻雪爪、宮地伝三郎、宮地政司などの多くの人材がその家系から出た。このことは多くの人が知っていることである。
関ヶ原の合戦後、因島村上氏は山口へ移ったが、宮地氏は因島に留まり、江戸時代には中庄、土生、三庄の庄屋を勤め、鴻雪爪、宮地伝三郎、宮地政司などの多くの人材がその家系から出た。このことは多くの人が知っていることである。
村上水軍研究目次