村上亮康(すけやす)
因島村上氏6代吉充の弟。
「鞆殿」と呼ばれて鞆浦を支配。
次男の吉亮が6代吉充の後を継いで7代当主となる。
次男の吉亮が6代吉充の後を継いで7代当主となる。
福山市鞆町大可島城主
1544天文13年7月〜1591天正19年、「鞆殿」と呼ばれて鞆浦を支配。
[史跡]船隠し(東の海岸沿いの海蝕洞)
[現状]真言宗円福寺の境内。
[その他]桑原一族の五輪塔(門前)
[交通][歴史]南北朝時代、中国探題の足利直冬が探題府を置いた。戦国時代、1544天文13年7月大内義隆から「鞆浦内十八貫」を与えられ、村上亮康(因島村上氏6代吉充の弟)が本拠とする。
1582天正10年
4月10日14日20日
能島村上氏が秀吉の勧降に応じないとわかると、因島の村上吉充も弟の基康・隆吉とともに毛利氏にあらためて忠誠を誓い、輝元は吉充に五百貫、亮安に三百貫、隆吉に百貫の所領を与え、その忠誠心に報いた。(『萩藩閥閲録』所載「村上大左衛門」)
「村上水軍興亡史」p.256