1973年(昭和48年)日記
2021年11月29日月曜日
1973年
1976年 昭和51年
1976年(昭和51年)日記 1−3月米子市
4−12月広島市
1976年4月 (昭和51年)広島市西十日市
1976年4月13日。火曜日。
私はここで自分のノートというものも含めて私の人生に一つの転換を為したことを報告しなければならない。
ちょうど,いや一年以上の歳月が過ぎた。人間とは成長というようなものよりむしろ,個人を環境との相互作用が様々な思考を生むように思われる。すなわち,個人の,あるいは資質の進歩ではけっしてなく,環境が変わり,それへの対応が変わるのである。
1976年4月14日。水曜日。雨。
何処にいってしまったのか,黒の万年筆がないのだ。やはり書きにくい。
雨が降る
広島の町に雨が降る
きのうも雨
そして今日も雨
時は春
春の雨が降る
今日も
広島の町に
雨が降る
1976年4月15日。木曜日。晴れ。
久し振りに青空だ。本日は,日経,流通,産業・・・と全ての新聞配達日になっているので,めんどうであったが,晴れていたので,昨日,一昨日ほどの困難はなかった。
1976年9月26日。
終わった。やっと終わった。
全て終わったのだ!!
何と今日は9月26日。
長い間ノートを留守にしていたものである。
あとはどうにでもなれ! だ。
1976年10月4日。月曜日。
昨日。
三島由紀夫原作「午後の曳航」の映画を観る。
1976年10月8日。金曜日。
晩鐘が風にのり
重く村々にこだまする。
旅人も徒足(かち)を速め
烏も塒へ急ぐ。
夙に夕陽は去り
黄昏が浸透する。
そして,今日も終わった。
1976年10月9日。土曜日。雨。
1976年10月15日。土曜日。
三島由紀夫「女流立志伝」(全集6)を読む。
1976年10月19日。
1976年10月21日。(昭和51年)
「オーメン」「スカイライダー」 を見に行く。
1976年10月22日。(昭和51年)
田代三良「高校生」(岩波新書1106)終わる。
1976年10月22日。(昭和51年)
広島市西十日市
ノート第二号に入る。
読書はまずまずであるが,スピードが遅い。
もっと,早くなければ。
人生五十年。急げ急げ!!
1976年10月31日。
(アルバイトの給料支払明細書が出てきた。)
51年10月分 自10月1日至10月31日
基本給12000、食事手当15500、区域手当3000、合計30500。控除なし。差き支給額30500。
1976年11月5日。晴れ。
その数は
さようにもなれ
さようにもあらで
誤解は時として
美しくもあれ
はかなくもある
見果てぬ夢を追ふことが
おろかなりとて
いひまひで
三島全集を連日読んでいる。
2021年11月20日土曜日
フラム移住地とは
- 沼隈町パラグアイ移住史研究(6) -
1.はじめに
沼隈町移住団が入植したフラム移住地について述べる。ただ、名称の変更が何度か行われており、はなはだ紛らわしいので注意が必要である。
まず、現在の名称等をパラグアイ日本人会連合会のホームページ1)から把握する。この中の「日系社会」-「各地の日系社会」の項では、ラ・コルメナ移住地、アマンバイ移住地、エステの日系社会、イグアス移住地、ラ・パス移住地、ピラポ移住地、チャベス移住地、エンカルナシオンの日系社会、アスシオン日本人会の9項目に分けて紹介されている。この中のラ・パス移住地のことである。
さて、そのラ・パス移住地の項、すなわち 「日系社会」-「各地の日系社会」- 「ラ・パス移住地」2)には、次のように記されている。
「現在のラ・パス移住地は、移住開始当初はフラム移住地と呼ばれ、戦後のパラグアイの移住地としては日パ混合の国際移住地であるチャべス移住地に続いて2番目、戦前のラ・コルメナ移住地から数えると3番目の移住地として、パラグアイ初の日本海外移住振興株式会社の直轄移住地として設立されました。」2)(「ラ・パス移住地の歴史」)
そして、この「ラ・パス移住地」の中には、富士地区、ラ・パス地区、サンタロータ地区がある。
その、ラパス地区には次のような説明がある。「ラ・バス移住地」- 「ラ・パス地区」
「1967年12月にラ・パス町が発足しましたが、その後1971年にフラム自治体が発足したあとは発展的解消しています。」2) (「ラ・パス地区」)
ということで、はなはだ複雑であるが、沼隈移住団が入植した当時の呼び名では、フラム移住地に富士地区、ラ・パス地区、サンタローサ地区があり、そのラ・パス地区に沼隈移住団は入植した。
沼隈移住団が入植したフラム移住地は,既に見たようにパラグアイではラ・コルメナ移住地,チャペス移住地についで古い三番目の日本人入植地である。本稿では,フラム移住地について,沼隈町移住団を中心に,他地区との関係を述べる。
2.パラグアイの日本人移住地
パラグアイに日本人が集団で入植したのは,ラ・コルメナ移住地である。戦前昭和11年からで,昭和16年9月までに123家族790名とパラグアイ拓殖組合事務所要員15家族54名が入植した3)。
ラ・コルメナ移住地は,パラグアイ国首都アスシオン市から東南方向に120キロメートルの方向にあり,他の移住地に比べ,極めて首都に近い移住地ということになる。また,中央鉄道イミビチ駅の南方約20キロメートルというところであり,パラグアイの日本人移住地の中では恵まれた位置にある移住地といえる4)。
ラ・コルメナ移住地の成立については『ラ・コルメナ二十周年史』5)に詳しい。
ラ・コルメナ移住地からの転住者の一部がパラグアイ第二の都市エンカルナシオン市周辺にも住んで野菜栽培をおこなっていた6)。しかし,この地が集団移住地として認可されたのは戦後のことである。これがチャベス移住地である7)。
3.フラム移住地の歴史
チャベス移住地が1955年に満植となり、後続の人たちが入植したのが後にフジ地区と呼ばれた地区の一部であった。1955年6月24日に12家族が入植した。これがフラム移住地の始まりとなる8)。
日本海外移住振興会社とフラム土地会社との間で土地買収の契約がが1956年12月15日に正式に調印された9)。
したがって、この日をフラム移住地の発足としてもよいが、実質は上記の通りである。
1956年12月28日沼隈町移住団5家族30名と佐賀県の4家族26名がエンカルナシオンに到着。翌1957年1月25日にラ・パス地区に入植を開始した10)。
なお、サンタローサ地区は1957年6月高知県大正町と福岡県の25家族が入植した11)。
4.まとめ
パラグアイ移住団が入植したフラム移住地(現在はラ・パス移住地)はパラグアイ第二の都市エンカルナシオンの近くにある移住地で、ラ・コルメナ移住地、チャベス移住地に続く第3の日本人移住地であり、富士地区、ラ・パス地区、サンタローサ地区から成る。そのラ・パス地区に沼隈移住団は1957年1月25日に入植した。
その後のフラム移住地の発展・変遷については稿を改めたい。
参考文献
1) http://rengoukai.org.py/
2) http://rengoukai.org.py/ja/la-sociedad-nikkei/idonde-estamos/colonia-la-paz
3) パラグアイ日本人移住五十周年記念祭典委員会記念誌編集委員会、『パラグアイ日本人移住五十年史 栄光への礎』、パラグアイ日本人移住五十周年記念記念誌行委員会、1987年(以下『栄光への礎』と略記)、p.209
4)前掲書3)、『栄光への礎』、p.208
5)二十周年史刊行会、『ラ・コルメナ二十周年史』、ラ・コルメナ二十周年史刊行会、1958年
6)前掲書3)、『栄光への礎』、p.224
7)前掲書3)、『栄光への礎』、p.225
8)前掲書3)、『栄光への礎』、p.248
9)前掲書3)、『栄光への礎』、p.248
10)前掲書3)、『栄光への礎』、p.249
11)前掲書3)、『栄光への礎』、p.256、p.297
フラム移住地入植者数について
- 沼隈町パラグアイ移住史研究(4) -
1.はじめに
沼隈町パラグアイ移住団が開拓したのはフラム移住地のラ・パス地区である。本稿ではフラム移住地への他県からの入植者も含めて沼隈移住団第12陣までの入植者数を公刊資料により整理しておく。移住者全員が定住したわけではなく、他地区への転出者も多い。本稿では、入植後の転出については扱わなかった。
2.フラム植民地とフラム移住地
『パラグアイ日本人移住五十年史 栄光への礎』1)(以下『栄光への礎』と略記)にはフラム移住地の動態表がある。本稿ではそのリストにより,渡航日(大部分が神戸港出航日),出身県,家族数,人数を表にした。家族数というのは,必ずしも血縁によるものではなく,募集要件を満たすために同伴として加わった他家族のものも含むが,ここでは,リストにある家族数を記すことにする。
なおこの動態表には「フラム植民地」と「フラム移住地」に分けてあるが、これは日本海外移住振興会社がフラム土地会社から土地買収をし直轄移住地として正式に発足してからのものが「フラム移住地」として記されている。しかし同地区にはフラム移住地のフジ地区の一部にチャペス国際移住地が満植になったためこちら入植したものがあった2)。これが「フラム植民地」として記録されているものである。
3.フラム植民地の入植者数
フラム植民地
渡航日 | 県名 家族-人数 | 合計 |
1955.4.14. | 佐賀1-5 | 1-5 |
1955.5.4. | 北海道3-23 | 3-23 |
1955.5.30. | 千葉1-8,宮城1-5 | 2-13 |
1955.6.16. | 広島2-13宮城3-18 | 5-31 |
1955.4.14. | 山形1-6,愛知1-6,高知1-6,福島1-3,長崎2-14 | 6-35 |
1955.5.4. | 広島1-5,北海道2-17 | 3-22 |
1955.6.16.
| 広島1-4,北海道1-7,宮城2-17,静岡1-7,岐阜1-6 山形1-5,山口1-5,東京1-9 | 9-60 |
1955.7.14.
| 宮崎4-33,福岡3-21,山形1-6,北海道1-6,熊本3-21 和歌山1-6,山口1-6 | 14-99 |
1956.1. | 宮城1-10 | 1-10 |
1956.2.15. | 静岡1-7,埼玉1-6 | 2-13 |
4.フラム移住地の入植者数
フラム移住地
渡航日 | *1 | 県名 家族-人数 | 合計 |
1956.6.14. | 北海道5-32 | 5-32 | |
1956.6.30. | 福岡2-15,香川1-9 | 3-24 | |
1956.8.3. | 県名不明1-13 | 1-13 | |
1956.8.15. | 高知1-4,埼玉1-7,東京1-8,岐阜1-8,佐賀1-7 | 5-34 | |
1956.10.15. | Ⅰ | 広島4-23,佐賀4-29,埼玉2-13,山口1-5,東京2-11 | 13-81 |
1956.11.2. | Ⅱ | 広島15-110,宮城1-6,熊本3-23,北海道2-12 | 21-151 |
1956.12.3.
|
| 三重1-8,秋田1-3,鹿児島3-21,福岡5-46,山口2-14 熊本3-34,北海道1-6,千葉1-8,京都2-10 | 19-150 |
1956.12.5. | Ⅲ | 広島3-23 | 3-23 |
1957.1.15. | Ⅳ | 広島4-51,大分1-8 | 5-59 |
1957.3.13. | 高知4-24 | 4-24 | |
1957.4.2. | Ⅴ | 広島11-64,福岡5-31,高知17-106 | 33-201 |
1957.5.15. | 和歌山3-20,福岡5-33,鹿児島3-21,熊本2-20, | 13-94 | |
1957.5.15. | 北海道11-81,高知3-18,福岡1-6,宮崎1-7,鹿児島1-5 | 17-117 | |
1957.7.15. | Ⅵ | 広島4-26 | 4-26 |
1957.7.31. | 高知5-30,和歌山1-6 | 6-36 | |
1957.8.2. | 福岡2-9 | 2-9 | |
1957.8.31. | 福岡1-4,高知1-7 | 2-11 | |
1957.10.2. | Ⅶ | 広島3-17,福岡2-8,高知5-25 | 10-50 |
1957.11.19. | 愛媛2-11,高知3-21,熊本1-7,北海道1-7,鹿児島1-8 | 8-54 | |
1957.12.30. | Ⅷ | 広島2-11,愛媛2-13,福岡3-23,北海道3-25,群馬1-7 | 11-79 |
1958.1.13. | 高知6-27 | 6-27 | |
1958.2.5. | 北海道1-8,徳島3-17,高知1-6,愛知1-6 | 6-37 | |
1958.3.5. | 岡山3-14,福島2-12 | 5-26 | |
1958.3.31. | 高知24-157 | 24-157 | |
1958.4.17. | Ⅸ | 広島7-39,山形2-13,北海道1-6,香川1-6,福岡1-3 | 12-69 |
1958.5.17. | Ⅹ | 広島2-19,岡山1-9,兵庫1-7,宮城2-16,長野1-7, 秋田1-4 | 8-62 |
1958.6.2. | 高知18-91,北海道2-11,鳥取2-17,神奈川1-8 | 23-127 | |
1958.7.4. | ⅩⅠ | 広島1-8,高知1-13,北海道1-10,岡山1-10,山梨1-6 | 5-47 |
1958.9.4. | 高知4-21,山梨1-7 ,東京1-2 | 6-29 | |
1958.11.4. | 三重2-7,徳島1-6,岐阜1-5 | 4-18 | |
1958.12.30. | ⅩⅡ | 広島1-3 | 1-3 |
*1沼隈移住団
5.沼隈移住団と同時期の入植者数
上記4.の移住者数のうち、沼隈移住団と同じ渡航船でのフラム移住地への入植者数を
抜き出してみると以下の表のようになる。
渡航日 | 陣 | 県名 家族-人数 | 合計 |
1956.10.15. | Ⅰ | 広島4-23,佐賀4-29,埼玉2-13,山口1-5,東京2-11 | 13-81 |
1956.11.2. | Ⅱ | 広島15-110,宮城1-6,熊本3-23,北海道2-12 | 21-151 |
1956.12.5. | Ⅲ | 広島3-23 | 3-23 |
1957.1.15. | Ⅳ | 広島4-51,大分1-8 | 5-59 |
1957.4.2. | Ⅴ | 広島11-64,福岡5-31,高知17-106 | 33-201 |
1957.7.15. | Ⅵ | 広島4-26 | 4-26 |
1957.10.2. | Ⅶ | 広島3-17,福岡2-8,高知5-25 | 10-50 |
1957.12.30. | Ⅷ | 広島2-11,愛媛2-13,福岡3-23,北海道3-25,群馬1-7 | 11-79 |
1958.4.17. | Ⅸ | 広島7-39,山形2-13,北海道1-6,香川1-6,福岡1-3 | 12-69 |
1958.5.17. | Ⅹ | 広島2-19,岡山1-9,兵庫1-7,宮城2-16,長野1-7, 秋田1-4 | 8-62 |
1958.7.4. | ⅩⅠ | 広島1-8,高知1-13,北海道1-10,岡山1-10,山梨1-6 | 5-47 |
1958.12.30. | ⅩⅡ | 広島1-3 | 1-3 |
6.おわりに
これらのことから、沼隈移住団が単独にパラグアイ国フラム移住地の開拓にあたったのではないことがわかる。しかし、 沼隈移住団が中心になって開拓したのがフラム移住地のラ・パス地区である。
1957.4.2.第5陣のときは高知県から106人が渡航入植している。高知県大正町の町ぐるみ移住である。ラ・パス地区に隣接するサンタ・ローサ地区は高知県の集団移住者を中心に開拓された。大正町の集団移住については、別稿で触れる予定である。
参考文献
1)パラグアイ日本人移住五十周年記念祭典委員会記念誌編集委員会、『パラグアイ日本人移住五十年史 栄光への礎』、パラグアイ日本人移住五十周年記念記念誌行委員会、1987年、p.353
2)前掲書1)、『栄光への礎』、p.248