2005年2月8日
久々の夕凪亭閑話である。年も改まり2005年になった。読者の皆様には長い間のご無沙汰でございました。その間いろいろなことがあった。台風もあった。地震もあった。津波もあった。10年も年月が経ったような気持ちである。
その間,普請があり,夕凪亭が完成した。とは言え,海が見えるわけではない。元の県境の山の上である。11月25日に竣工した。四畳半の方丈の間から,移った。細長く,夕凪亭というよりも「鰻床亭」(まんしょうてい)とでも称すべきかもしれないが,海の見える山上への夢を込めて夕凪亭という名称は踏襲したい。
2005年2月9日
決定版三島由紀夫全集の38巻書簡と41巻音声を,先日買った。黒い絹の装幀は「奔馬」を思い出させた。畢竟の大作,ライフワークは「新潮」に連載され,全巻完結を待たずに,第1巻「春の雪」と第2巻「奔馬」が相次いで出版された。前者が紫色,後者が黒の絹の装幀である。この二冊を高校生の小生は買って読んだ。家計のことを思うと,どうしょうもない息子だったと思うし,どう考えても,高校生の分際で単行本の新刊小説を買うのは無茶だったと思う。だから,というわけではないが,小生にとってはかけがえのない本なのである。「金閣寺」のほうを高く評価する人が多いが,小生は「春の雪」が一番好きである。「春の雪」「奔馬」は独立した作品としても読める。「暁の寺」と「天人五衰」は四巻を通して読むとおもしろい。
2005年2月12日
京都へ「フィレンツェ 芸術都市の誕生展」を見に行って来た。フィレンツェといえば辻邦生さんの「春の戴冠」だ。「背教者ユリアヌス」と「フーシェ革命暦」ももちろん素晴らしい作品で折に触れ頁を紐解くが,好みからいえば「春の戴冠」が一番である。ということで,フィレンツェのものなら何でも見ておきたい。それが京都まで行ったわけである。ボッティチェルリのシモネッタ嬢の肖像も素晴らしかったが,工芸品の数々も実によかった。メディチ家がいかに学芸を保護し,文芸復興に寄与したかよくわかる。
その後,銀閣寺にまわり,そして大丸で平山郁夫展を見た。平山氏の洛中洛外展は4月に瀬戸田の平山郁夫美術館でも見られるはずだが,早いほうがいいので,見てきた。
銀閣寺は中学校の修学旅行以来である。あのときと同じようにどこといって銀らしきものが感じられず地味に銀閣は建っていた。東山と回遊する泉水の見事さはどうであろうか。ここの庭園がこんなにも落ち着いて優雅であることに,はじめて気がついた。
2005年2月13日
「西部開拓史」を見た。三世代にわたる一家の開拓の歴史である。西部開拓の歴史は,思っていたよりも遙かにゆっくりとしか進んでいないことがわかる。移民というのは一代や二代で成就できるものではないと,内地のものが移民政策を批判されて言ったことがどこかに書いてあったが,「西部開拓史」を見ていると確かにそう思う。しかし,それと我が国の移民政策の杜撰さは,また別の問題である。
2005年2月14日
やっと「内海町誌」を見る機会に恵まれた。発行されたとき,内海町に問い合わせたが,市販してないということで,諦めていたものだが,図書館で見つけた。目的の記事は略年譜に「1904年明治37年マニラ進出 打瀬船一隻と田島の人四名が渡比」とあるだけである。ただし,他の記事から田島から平戸・生月島方面の捕鯨に江戸時代から出稼ぎに行っていたということや,打瀬網漁法というのがあり「遠くフィリピンへまでも遠征し,内海町の打瀬船でマニラ湾を埋め尽くしたこともある」(p793)ということがわかった。想像するにそのうち何軒かは,そのままマニラに移り住んだのではないか。四名ということはないと思うが・・・。また,口絵には「日本人漁業組合創立拾年記念写真(大正12<1923>年一月,フィリピン・マニラ湾)」という写真がある。浅瀬に停泊してしている多数の漁船は帆を降ろした打瀬船である。
2005年2月15日
中村彰彦氏の「ガットリング砲を撃て -河井継之助」(オール読物2004.12)に,若松コロニーを率いたスネルのことが出てくる。長岡藩の家老として,新政府軍に抵抗した河井が買ったガットリング砲は,スネルから買ったのである。
長崎のグラバー園に見るように,新政府軍に武器を売りつけた「死の商人」は発展し,幕府軍に売りつけたほうは,当然のことながらいい目にはあわなかった。維新後,若松藩士らを連れてアメリカ西海岸への移民を先導したのがシュネール(スネル)である。このことは井上靖氏の「わだつみ」(岩波書店)のプロローグに出てくる。