2005年3月5日
弥生三月である。やっと,ひとつの作業に区切りがついた。昨夏の締め切りの原稿を,督促がないのをいいことにずるずると延ばしていたが,これが終わらないと春が来ない,と覚悟して,やっと昨日早朝に脱稿した。今回ほど,原稿を引き受けたことを後悔したことはない。すべて,自分の軽挙妄動,猪突猛進の性格にある。後悔先に立たず。転ばぬ先の杖をもちたいものだ。
2月20日に,「夕凪亭」の扁額を,夕凪亭の入り口に掲げた。書家のE氏に書いていただいたものだ。サワグルミの銘木である。屋内だから外からは見えない。「すみません,晩飯食わしていただけますか」「うちは料亭じゃあありません」「だって,夕凪亭という看板が出てますよ」・・・というような会話はしたくないので,外には出さないでおきます。
夕凪亭の隣の和室には「風蕭庵」と銘々して,扁額を掲げた。「夕凪亭」が画数が小さいので,多くしたという次第。いうまでもなく,風蕭々として易水寒しという史記の言葉に因む。一方は風は吹いていない。他方は,身を切るような風である。こちらの対称性もいいと思っている。
風蕭庵雑詠:わが庵は春日の巽 猫ぞ住む 世をまくやまと ひとはいふらむ
2005年3月6日
春の明るい日差しに誘われて,1時間ほど散歩してきた。住宅街を山陽道のほうに向かって歩き,途中で東の山道に入った。まもなく馬鞍山山頂に至る。県境のようである。残念ながら鶯は鳴いていない。
さて,田島のことについて詳しく書かれている「マニラへ渡った瀬戸内漁民」(武田尚子著,御茶の水書房)を読んでいる。大変素晴らしい研究で,ただただ敬服する。丹念なフィールドワークにはほんとうに頭が下がる。証言者たちの高齢化も進み,やがて時の彼方へ往時の記憶も潰えてしまう。そういう意味でも大変貴重な研究である。
沼隈移住史も忘れたわけではない。土地分譲のこちら側の条件を書くところから,はじめないといけないということはしっかりと覚えているし,その資料も手の届くところにある。ただ,今はもう少しマニラのことについて調べてみたい。
2005年3月14日
暖かくなったり寒くなったりだが,月日が矢のように去って行く。日々充実しているので,一寸の光陰軽んずべからず,などと自分を叱咤する必要はないが,少年老いやすく学成り難しであるのには,変わりない。こちらの老い先が長くなくなると,かつてつまらないように思えた本が,今は生きていないその著者が生あるうちにそれだけのことをなしたのだから,やはり立派だと思うようなことが増えた。年をとって謙虚になったということでもある。
さて,田島漁民のマニラ出漁について,「広島県移住史」に当たってみた。フィリピンへの漁業移民は全くというほど取り上げられていない。資料編に排斥問題関係の文書が1通あるだけであった。
「写真万葉録・筑豊6 約束の楽土(続) パラグアイ・アルゼンチン・ボリビア篇」を入手した。「出ニッポン記」の写真版といっていい。炭坑離職者の南米移民を追ったものである。1974年当時の写真である。日本で言えば,昭和49年である。昭和49年といえば,三島事件から4年が経過している。オイルショックやいろいろあったが,今振り返っても経済大国への道を邁進していたことは間違いはない。そして彼我の差は益々開く。何のための移民であったのか,とこれらの写真はいずれも厳しくといかけているようである。上野英信氏はあとがきで「奴隷として生きることを欲しないならば,死にまさる苦しみと戦わなければならないことを,南十字星の下に移り住む仲間たちは,祖国の私たちに教える。」と記す。
2005年3月15日
佐藤賢一さんの「カポネ」を読んでいたら,アメリカ社会における出身国のことが出てくる。カポネはイタリア移民の子である。「法は人間を選ぶものではありませんぞ」「選びますよ。少なくともイタリア移民は,法に守られてなどいませんでした」(野生時代2004.10,p.264)
2005年3月17日
匍匐前進でやってきていた春が,急に駆け足に転じた感じです。波穏やかな瀬戸内に浮かぶ田島や,そこに近い沼隈は,もう早春の気に溢れていることだろう。沼隈町は今年2月1日から福山市と合併した。沼隈移住団としてパラグアイへ行った沼隈町の人たちはいかに思われるだろうか。50年前のあの移住は,沼隈町という町がなかったら,ああいう形ではなされなかったものである。50年。時の流れはまことに残酷なもので,すべてを過去へ過去へと押し流す・・・。
日本を離れる最後の日に過ごした,神戸の移住斡旋所のことは以前に少し書いた。中公新書の「船にみる日本人移民史」の第四章にも少し紹介されている。
2005年3月19日
佐藤賢一さんの「カポネ」最終回にはっとするようなところがあった。「私たちは助け合わなければならなかった。アメリカは一世がイタリアで外洋船に乗るとき夢みたような土地ではなかったからです。早いもの勝ちというわけで,先に来ていた連中だけが得をする仕組みがすでにできあがっていたからです。どんなに努力したところで,報いてくれるような国ではなかった」(野生時代2005.3,p.414)
後から行った日本人もまた,しかり。