2005年10月5日
もう夏が終わった,とやっと言えるようになりました。しかし,まだ半袖です。少し前寒くなったことがありましたので,早朝に備えて,さっそく灯油を入れて冬支度をしたのですが,まだ一度も使ったことはありません。
NHKの「ハルとナツ」は二年ほど前にその話しを聞いて以来楽しみにしていたものですから,毎夜かかさず見ております。やや物足らないところもありますが,それは広いブラジルのことだし,いろんな人がいたのだから,全てを描く訳にはいかないのだから・・・と納得はしておりますが。しかし毎日テレビに75分もつきあうということがいかに大変なことか,改めて身にしみております。
近況,読んだ本。千野栄一「外国語上達法」(岩波新書)。読み終わって改めて発行年を確かめたら20年ほど前の本。全然古びてないのに驚いた。いまさら,という思いがないではないが,いろいろと教えられたこと多々。
読んでいる本。響堂新「白魔の湖」(角川春樹事務所)。待望の一冊。南極が舞台のSF。エマニュエル・トッド「帝国以降」「経済幻想」「新ヨーロッパ大全」(いずれも藤原書店)。マックス・ウエーバー以来の大社会学者だというのが,小生の評価。おもしろい。与謝野晶子「源氏物語下」(角川文庫)。源氏坂は長い坂であった。しかし,あと少し。今は蜻蛉。
2005年10月6日
朝ゴミを出しにいくとき,百舌が鳴いていた。鋭い声が季節の移り変わりを感じさせる。金木犀の匂いがあちこちでする。
夜,散歩していると,細い細い三日月が出ていた。三日にはなっていない。久しぶりに星が見えた。
「ハルとナツ」が終わった。よい終わり方だったと思う。不満なところは,ホームドラマなのだから,と我慢。「ブラジル移民100年記念番組」と錯覚してはいけない。「放送開始80周年記念」というホームドラマ。
2005年10月12日水曜日
「白魔の湖」(角川春樹事務所)を読んだ。帯に これは響堂新の「ウルトラQ」だ! と書いてある。まさに,ウルトラQであった。と,言っても,ウルトラQという言葉は随分と昔の言葉である。若い人には分からなくても仕方がない。何しろ,時代は東京オリンピックにまで遡る。体操競技で難しい技が出ると「ウルトラCが出ました」,とNHKのアナウンサーが大声を張り上げる。それに日本中が熱狂する。その熱狂が冷めやらぬ頃,「ウルトラQ」というテレビ番組が民放で始まり,子供たちの心を魅了した。今も中高年の胸に残る円谷英二監督の特撮である。その番組の後か,少し間が開いたのかは,もう忘れてしまったが,ウルトラマンの登場である。ウルトラマンは,これはこれで面白かったのであるが,ウルトラQは変な怪獣・怪物が毎回出て,そちらが中心で,ウルトラマンよりも面白かった。そのウルトラQが南極に出たという話しである。
「春の雪」が映画になった。月末には,地元の封切館でも見られるようだ。この作品を映画化するのは大変なことだ。綾倉聡子のイメージをどこまで出せるかが勝負だ。それが不十分だと松枝清顕や本田繁邦をいくらうまく演じても意味がない。・・・大変なことだ。だから,期待はしないが,映画化した関係者には,感謝の気持ちで一杯である。
2005年10月14日土曜日
今日は早朝から四国へ行くつもりであったが,雨のため見送った。久々の雨で,季節は秋のまっただ中である。外気温不適応症の私は,数日前の早朝などは,石油ストーブを早速使用したが,季節は静に進行中である。
マックス・ウェーバーに「古代文化没落論」というのがあって,河出の世界大思想全集というのに,入っている。この本は最近,某スーパーのリサイクルコーナーで百円で買ってきた。何分古い本で,当方と同じくらい草臥れているが,まだまだ使える。寿命はというと,当方よりは長いに決まっている。向こうはセルロース。こちらはタンパク質。タンパク質は活動をやめれば腐敗するしかない。こんなことをくどくどと述べてもしょうがないのでやめる。訳者の堀米庸三氏の訳注には「数ある古代文化没落論の中にあって,今日においても,最も重要なものであり・・・」と,昭和29年に書かれている。その後の50年のことは知らぬが,まあいい論文である。労働力不足,すなわち奴隷の供給不足にその原因があるというもの。労働力不足といえば,我が日本も気に掛かる問題である。農業の衰退は言うに及ばず,工業力の不足も年を追って深刻となってきている。トッドさんの「帝国以後」を読んでいると,アメリカ合衆国の凋落を書いていて日本の凋落のことは出てこないが,日本も既に没落が始まっていると小生は思っている。世界トップではないのだから,同じように表現するのはおかしいのなら,世界第二位の経済大国の没落は既に始まっている,と書いておこう。
マックス・ウェーバーの宗教社会学では,ある宗教を成立させる社会階層に注目する。そして,成立した宗教なりイデオロギーが逆に階層に影響を与える。エマニュエル・トッドさんの人口社会学あるいは家族社会学では,家族形態が宗教やイデオロギーに影響を与えると説く。家族形態といっても子が親と同居するかしないか,兄弟が平等であるかないかで4タイプの類型に分ける。そしてフランス革命の自由平等の理念は,親と同居しない(自由),兄弟が平等であるという,パリ盆地やフランス北部の家族形態,すなわち自分たちの日常を普遍の原理として押し出したものだということになる。このような推論・解釈が「新ヨ-ロッパ大全」に詳しく書かれている。日本の家族形態は親と同居(権威的)で兄弟は不平等になり,農村社会に向いており,教養の伝統という面では優れているが,工業化には適していなかったことになる。しかし,工業化社会がその家族形態を破壊し,核家族(親子間の自由)化が進んだし,また,少子化が兄弟の不平等をすら解消しつつある。そして教養の伝統(伝承でもある)も失われているのも事実だ。アメリカ流かヨーロッパ流か知らないが,戦後の日本人はいとも簡単に農村を捨て,家族形態を変え,工業化社会に最適な核家族を作った。その結果として世界第二位の経済大国になったとはいうものの,食糧自給率は下がり,モラルは低下し,また学力も低下してきたのも事実だ。家族形態の変化と教養の伝統の喪失を我々はもっと,気にしてもいい時期に来ている。
2005年10月15日日曜日
尾道市立美術館へ「ミレー,コロー バルビゾンの巨星たち展」を観に行ってきた。先日テレビで見た「ハルとナツ」のブラジルの農場の光景が,ミレーの風景に似ていた印象を改めて確認した。いずれも日本の耕地のように狭くない。遠くまで田園風景が広がるのだ。当然のことながら夕日の当たる時間が違う。日本では山の影になるところが,広い平野部では,日没時の多様な色彩の変化が,田園の夕暮れを鮮やかに彩る。その特徴をバルビゾンに集うた画家たちは見事に表現した。その中で,ミレーの描く労働者としての表情が周囲の弱い光の中で光彩を放っている。
2005年10月19日水曜日
テンニエスにゲマインシャフトとゲゼルシャフトの社会学がある。ゲマインシャフトというのは家族のことであり,ゲゼルシャフトが会社や学校のことである。公共生活とか世間と言ってもいい。この意味と違いを詳細に述べてあるのが「ゲマインシャフトとゲゼルシャフト」(岩波文庫)である。情報化社会はゲゼルシャフトの比重を高めているように思える。家族関係が希薄になったのではない。依然として親子・兄弟の紐帯は強く,人の生活,価値観の形成において重要なものである。しかし,それでも,ゲマインシャフトの影が薄くなり,ゲゼルシャフトの生活における比重が益々高まっているのが,現在の状況だと思う。また,ジャーナリズムの性格として,ゲマインシャフトよりもゲゼルシャフトに関したことが話題として多くのなるのは当然である。それに,自給自足の農耕社会と違って,多数の者が給料生活者となると,その給料の出所となるゲゼルシャフトの重要さが際だつのも当然である。教育問題がよく話題になるのは,少子化で,子供一人への関心度が高まったことと,生活のゆとりの反映だと思われるが,この面からもゲゼルシャフトの占める割合が高まったといえるだろう。このような変化は,当然のことながら,個人の価値観,生き方の面で,ゲゼルシャフトからゲマインシャフトへ影響を及ぼす。ゲゼルシャフトのあり方が,ゲマインシャフトの形態を変える。すなわち,ゲゼルシャフトへの適応へ熱心になるあまりゲマインシャフトが軽視されるということになる。
家族形態がイデオロギーを規定するというトッドさんの理論に従えば,明治近代国家もまた,我が国の家族制度の桎梏から自由ではありえなかったはずである。近代天皇制が山口県のどの地方の家族制度の反映か知らないが,昭和20年までは,そのような制度が存続し,庶民はあたかも家族制度のように受け入れていた。その受容が,進駐軍の命令で一夜にして覆ると思うのは幻想である。
2005年10月22日土曜日
日本経済新聞の土曜特集に「NIKKEIプラス1」という別刷がある。トップの「何でもランキング」は面白い企画だが,今日のは「わが家の記念日料理」というもので,思わず笑ってしまった。庶民史としては貴重な記録になるであろうから,ちょっと記録しておきたい。結果を記すと,1鶏のから揚げ,2手巻きずし,3焼き肉・鉄板焼き,4ちらしずし・ばらずし,5刺し身盛り合わせ,6エビフライ,7赤飯,8ハンバーグ,9ステーキ,10ピザ,11ピザで,カレーライスは14位である。小学生以下の子どもがいる家の結果だそうであるが,かつてよく言われた「中流」という言葉を思い出した。子どもが小学生でなくなってから久しいが,何かあると似たようなメニューが並ぶ。
2005年10月29日土曜日
「春の雪」が封切られたので,観てきた。期待はしてなかったが,上出来である。現在の日本でこれだけの作品ができたことを,素直に喜びたい。複雑な原作から単純なストーリーを取り出して,短時間の映画にするのだから,多くの部分を捨ててある。そういう意味ではよくまとまった映画になっている。しかし,不満がないわけではない,広大な松ヶ枝邸が細切れにしか出てこなくて残念だ。また「奔馬」主人公の父となる書生の飯沼が出ないのはさみしい。最後に「滝の下で会う」という第二巻に繋がる台詞を残して終わったのでよしとしよう。日露戦役で戦死した伯父たちの写真のひとつは三島さんによく似ていた。三島さんの写真を使ったというエピソードはまだ確認してないが,多分そうではないかと思う。それに三島さんゆかりの岸田今日子さんとか,若尾文子さんなどが出ていて,いい演技をしていたから,あの世の三島さんもきっと喜んでいることだろう。願わくば,「奔馬」以下も映画化して,村松英子さんとか,三輪明宏さんとかも出演されんことを。