2020年11月20日金曜日

ふるさとの史跡を訪ねて(増補版)161-170回

本館 白滝山 いんのしまみち

ふるさとの史跡をたずねて(161)

  四国八十八ケ所御本尊(因島重井町白滝山)

  八十八け所ではなく、八十八か所と読んでほしい。なぜなら八十八ケ所のケは箇の字の竹        冠の左側だけを記して、八十八箇所を略して書いたものが、カタカナのケで表記されているにすぎないからである。すなわちケはカタカナではなく漢字の箇の略字なのである。

 さて、前書きが長くなったが、四国八十八ケ所御本尊というのも奇妙なものである。私も四国は二度お参りしたが、どこにも四国八十八ケ所御本尊というのはなかった。四国の場合には、初めか最後に、例の「大師はいまもおはします」の高野山奥の院にお参りする。しかし、奥の院はあくまでも奥の院であり、八十八ケ寺全札所の代わりをするものではなかろう。

 四国巡拝においては本堂と大師堂の前で般若心経を唱えるのが流儀であり、本堂の前というが、各札所の御本尊の前ということである。そして各札所の御本尊は同じものもあるが、それぞれ異なるのであるから、ある特定の御本尊を四国八十八ケ所御本尊ということはできない。

 その理解できない四国八十八ケ所御本尊が白滝山山頂の、弘法大師立像の隣にある。これは何を意味するのだろうか。

 弘法大師立像の前で88回般若心経を唱えたつもりで、一回読めば、やはり各札所の御本尊の前で・・ということになるので、それを代表するものとして、奉納しているのだとは思うが、実態は何なのかわからない。

 重井町史年表によると「文化13年(一八一六)白滝山上に四国八十八ケ所本尊分霊を祀る」と書いてある。神仏習合の時代であったのだからいいのかも知れないが、今風に言うとお寺とお宮は違うのだから、分霊という言葉はそぐわない。それはさておき、分霊という文字に注目すれば、やはり四国に御本尊の本体がありそうなのである。しかしそんなものは聞いたことはない。

 繰り返しになるので、詮索はやめて、私の想像を書く。全札所の御朱印を頂いた納経帳とか、あるいは全札所の砂を奉納してあるのなら四国八十八ケ所御本尊と言ってもよいだろう。そのようなものは見えないから、埋めてあるのかもしれない。 


ふるさとの史跡をたずねて(162)

山四国八十八ケ所(因島三庄町)

 何かいいことをすると、それを見た人が真似をする。このようにして漁業や農業の技術は広まり、近代になって工業も広まった。同じようなことが精神的な分野でも起こり、お宮が勧請されて祭りが真似られ、地域の実情に応じて変わってきた。かくして文明・文化は発展し、物心両面で人びとの暮らしを豊かにしてきた。島内の各地に四国八十八ケ所があるのも、この流れから考えれば特別珍しいことではない。

 しかし、八十八個も札所を作るということは、簡単なことではない。周到な計画と熱意がなければできない。いや熱意だけではなく経費もかかることである。そして、できたらできたで守っていかないと、いつしか忘れられれたり、壊れたりする。

 土生町と三庄町の境界をなす山稜は、これまでに何度か取り上げた。北よりの西側が因島村上氏第二家老の稲井氏の居住地であった。江戸時代土生村の庄屋を勤めた大土生宮地家の屋敷跡が本宅、對潮院が別邸だった。山頂を小丸城跡と呼んでいる。本宅と小丸城跡の間に宝地谷があって、多数の一石五輪塔などが往時の繁栄を偲ばせる。そこから山頂を目指して登ると、途中に論師石(どんじいし)があった。さらに三庄町へ下るように峠道は続く。

 その峠道の一つに沿って、立派な石堂がいくつかあり、四国八十八ケ所のミニチュア版だと一目でわかる。これらは三庄町明徳寺前の寺谷公園から始まる、山四国八十八ケ所である。一部番号順でないものもあるが、これは長い歴史の中で何度か崩れたりしたせいであろう。それにしても、これだけ揃っているのは、設置した場所が良かったという面も忘れてはなるまい。山の高さも適当であった。例えば、観音山とも呼ばれる因島最高峰の奥山には、複数の西国三十三観音があるが、維持するのにも大変だったと思う。信仰心、生活習慣が変わったのであるから設置場所のことまで現代の感覚で議論しても意味はなく、結果論に過ぎないが・・。

 現在では自然災害に加えて、イノシシの被害も考えなければならない。妙案とてないが、かなりの重量のある石であるだけに、一度壊れると修理するのが大変である。


ふるさとの史跡をたずねて(163)

田熊村四国八十八ケ所(因島田熊町)

 前回の三庄町の山四国八十八ケ所は限られた地域に集中していたが、町内の幅広い地域に分布している場合がある。これらの多くは江戸時代後期にそれぞれの地域が村と呼ばれていた頃建立されたと考えられ、村四国八十八ケ所と呼ばれている。  

 ここまでくると、因島全体のものもあり紛らわしいので、慣例により、四国四県を巡るものを本四国、因島全体を巡るものを島四国、町内で完結するものを村四国と略称することにしよう。因島の場合は島四国も村四国もほんのわずかの例外を除いて、本四国と同じ名称であるが、生口島や大島では、島四国のある元の建物、例えば薬師堂とか、お寺の名前を番号の次に記し、本四国の寺名を小さく書いてある。また、佐木島の場合は番号の次にご本尊の○○観音菩薩などと書いており、戸惑う。

 ということで因島に限って話を進めれば、同じ寺名ということは、その手続きや流儀はともかく、本四国の各寺を勧請したということである。私事を記せば、本四国を巡拝している時には本堂前で般若心経を奉納するだけで、ご本尊のことは意識したことはなかった。しかし、因島でその亜流を考える時は、何を勧請するかといえば、言うまでもなくご本尊で、それが無ければ勧請したことにならない。そして、本四国では大師堂でも般若心経を奉納するという流儀に従えば、弘法大師様は不可欠ということになる。だから、島四国でも村四国でも、ご本尊と弘法大師像がセットで一札所ができるのである。このことが忘れられて、片方だけが移されたり、ご本尊が二体あるお堂があったりするから、これらの大師信仰は多くの人たちから忘れられていたということであろうか。

 そのような不揃いのお堂もあるが、壁や塀の中などに作られたお堂が町内に多くあるのは田熊町も例外ではない。そしてその多くが田熊村四国八十八ケ所であろう。写真は浄土寺の鐘楼の近くから上へ出て、岡野明神の方へ進んでいく道の、すぐのところのもので、1番霊山寺であると思われるが、証拠がないものは、他との関係で変わることもある。



ふるさとの史跡をたずねて(164)

中庄村四国八十八ケ所(因島中庄町)

 中庄町にある中庄村四国八十八ケ所は入川橋のところに1番と88番がある。65年ほど前に何度か祖母に連れられて、そこにあった宮地医院へ行ったことがあるが、見てはいない。重井の一本松から浜床まで家は一軒もなく、ため池が点々とあったのを覚えている。そのため池は、因島北インターの入り口とひだまりの下には今も残っている。鴨が泳いでいたひょうたん池はゲートボール場などになった。片刈池と表示されているが古い地図ではひょうたん形に描かれているので、ひょうたん池とも呼ばれていたのだろう。狭い道を時々ボンネットバスが砂埃をあげて走っていた。すなわちアスファルトで舗装されていない道路は道路と呼ばない時代が来るのは、その頃よりもずっとずっと後の時代なのだ。村四国もそんな道端に雑草に取り囲まれてあった。蛇やムカデはもちろん、ヤモリが棲んでいたお堂もあっただろう。我々が知っているセメントで囲まれたり、固定されるようになるのは、村四国の歴史の中では長くはない。

 島四国が作られた明治45年の頃も、もちろんセメントで固定などされていなかっただろう。だから新しく建てられた島四国のお堂に、近くの村四国が取り込まれるのは容易なことだった。もちろんそれは村四国の存在そのものが忘れられていた証拠でもあろう。とにかくお堂だけでも建てて、内部のことは追々・・と考えるのが自然だ。そういう状況に村四国は、誠に好都合だった。また、雨ざらしのものをお堂の中に納めてあげたという善意もあったことだろう。かくして、村四国は島四国によって破壊された。反面、時代とともに道路改修等で行き場を失った村四国にとっては、島四国の中に置いておけば保存されるという気運も生じた。かくして島四国は村四国に対して破壊と保存という両方の役割を果たした。同時に大師信仰は村四国から島四国へ変わった。これは中庄町に限らず他の地域でも同じだった。

 中庄町黒松の若八幡社(祇園さん)の境内にある島四国13番大日寺には村四国の56番泰山寺と57番栄福寺が保存されている。(写真)






ふるさとの史跡をたずねて(165)

重井村四国八十八ケ所(因島重井町)

 重井町の重井村四国八十八ケ所のうち特別に立派なのが55番南光坊である。その立派さから、私は重井町の人たちが南光坊へお参りしていた講を思い出した。

 別宮山南光坊は四国の人たちがわざわざ大山祇神社へ船でお参りするのは大変だから、四国の地に勧請したことに始まる。だから重井町から毎年別宮山参りの船を仕立てお参りしていた理由がわからない。何も来島海峡の急流を横切って今治までお参りしなくても、本家本元の大三島の大山祇神社にお参りすればよいではないか、と思っていた。ところが最近南光坊にお参りして、寄付石に重井の人のみならず、因島の多くの人の名前があることを知った。大阪の住吉神社や讃岐の金比羅さんには、因島の人たちの寄付名がたくさんあるというのは有名な話であるが、本四国55番別宮山南光坊もそれに加えておきたい。

 大三島の大山祇神社は古くから山、海さらに戦の神を祀っており日本の総鎮守と呼ばれたこともある、そのようなご利益に、弘法大師信仰も加わって、特別な権威が生じたのかもしれない。

 そのひときわ立派な重井村四国55番別宮山南光坊は重井川沿いの、長右衛門新開の北西の隅に、青木城跡を背景にして鎮座している。その石堂は立派なだけでなく、多くの文字が彫られているのも特色で、石工の名前は読み取れないが、尾道石工の製作によることがわかる。また嘉永三年の文字と「再建願主二百人講連中」の表記は、嘉永四年に末広講と名称を変えていることから、それまでは「二百人講」と呼び、「末広講」の文字がある他の札所は嘉永四年以降のものだということもわかる。

 外浦町の村四国は全貌がわからない。八十八の全札所が完成しており、その後行方不明になったのか、あるいは完成していないのか、私にはわからない。土生町の村四国については、さらに未解明で、時々村四国の跡か、というような記述に出会うだけである。大師信仰は現在まで続くのであるが、村四国の製作と前後するような形で白滝山の石仏工事が行われており、庶民信仰はまさに百花繚乱であった。




ふるさとの史跡をたずねて(166)

誤伝・十字架観音像(因島重井町白滝山)

 青木茂氏の『因島市史』(昭和43年)は渾身の大作で、デジカメもワープロも無かった時代に、孤軍奮闘されたようすがいたるところに現れており、頭が下がる。しかし、気になる表現もある。白滝山には「全国的に珍しい十字架観音像があり・・」(897頁)と記されている。 

 青木茂氏が山陽日日新聞の記者の時代であれば、こういう表現も許されたかもしれない。だが、『因島市史』執筆時は歴史学者になられており、青木氏自身も歴史学者として、『尾道市史』『新修尾道市史』同様、全力で執筆に当たられたものである。ならば、真偽を確かめ、真に全国的に珍しいものであるなら、もっと頁を割いて、その歴史的意義などを考察すべきであった、と私は思う。

 実は、これまでにも何度か書いたが、写真のような石仏を十字架観音像と呼ぶことは、常識的にも、また学問的にも間違っている。周辺の石仏と比べても江戸時代の後期に作られたことは間違いなかろう。そうすると隠れキリシタンが、人目につくところに十字架など彫ることは考えられない。また、文字は消えて読めないが右下に枠があって作者の尾道石工の銘があったと思われる。作者名を書いて、十字架を彫るということは自殺行為以上の愚行である。まずあり得ないことであろう。

 次に学問的には、キリシタン灯籠をはじめとして、隠れキリシタンの遺物は、周辺にキリスト教信仰に関する聖書、クロス等の物品が発見されてはじめて隠れキリシタンの遺物だと認定されるというのが、キリスト教文化史家の常識である。そうであろう。今でも古い農家の蔵にはいろいろなものが保存されている。その中のホコリをかぶった建具などの格子が、ネズミのオシッコか何かで左右が短く見えると十字架のように見える。このような物を隠れキリシタンの十字架だと喜んでいてはキリがないではないか。

 写真のような武具を持った観音像はよくあるもので、決して珍しいものではない。それを十字架だという珍説が50年以上も語り継がれてきたことの方が、よっぽど珍しい。




ふるさとの史跡をたずねて(167)

西国三十三札所(因島重井町白滝山)

 しまなみ海道の各地や白滝山から見る景色は確かに素晴らしい。それらを世界的に見て一流の観光地だと思うのは勝手であるが、しょせん井蛙(せいあ)の夢に過ぎない。我々は、せめて二流の観光地を目指して、三流にならないように努力すべきであろう。

 さて、白滝山の巨大な釈迦三尊像の南側にはぐるりと丸く、それも螺旋状に石仏を配置した西国三十三観音がある。写真うつりも良くなく、設計ミスだと思う。四国八十八ケ所御本尊などがあって、そちらの聖地になっては伝六さんゆかりの三十三札所がかすんでしまうと思って慌ててはめ込んだのかどうかは知らないが、良くない配置だと思う。

 慈悲深い観音菩薩さまはなぜだか様々な武器を持っておられる。中には槍の先に刀を受ける鈎形の水平に伸びるものが付いていたりする。それを簡素に十字状に彫ったものもある。これがまた、ある人たちの目には十字架に見えたらしい。さらにそれに反発したのか、わざわざその部分を削った痕跡があるのには、複雑な気持ちになる。私はキリスト教徒ではないから、クリスチャンの気持ちはわからないが、こんなものまで十字架と呼ばれたら不愉快だと思うだろう。ところが、白滝山を隠れキリシタンの遺跡だと思い、時を隔てて同じ信仰の仲間を見つけたと思ったのか、喜んだ人がいたのには驚いた。白滝山の石仏群は作られた当時から多くの人に見てもらうのが目的だった。また、江戸時代のキリシタン禁制というのは、一部の地方の法律などというものではなく、徳川幕府そのものと言っていいほどの、最も厳しい法律であったことも忘れてはなるまい。

 それでは白滝山の十字架というのは、何だったのだろうか。それは、戦前の鬼畜米英から一転して国際親善を教え始めた青い山脈の新制中学校教師、不勉強の新聞記者、二流と三流の区別のつかない観光推進者たちの、無知の連鎖が生み出した共同幻想だった、と私は思う。

 ここが舞台と考えられる湊かなえさんの小説「石の十字架」は、タイトル通り愚史の記念碑として、長く読み継がれるであろう。




ふるさとの史跡をたずねて(168)

一観夫婦像(因島重井町白滝山)

 白滝山上の石造物の中でも正面の釈迦三尊像についで目を引くのが、頂上近くにある伝六夫婦像である。(写真)白滝山上に五百羅漢像を作ろうと提案した柏原伝六は観音道一観と自ら名のったので、一観夫婦像と呼ばれている。

 伝六は、仏教、神道、儒教に当時ご禁制のキリスト教を加えて一観教という新しい宗教を作った、と多くのところに書かれている。今回はこの文章の妥当性について考える。結論から記すとこれは全く間違っている。それは神道やキリスト教がいいとか悪いとかいう倫理の問題ではなく、思考の論理の問題である。

 私が調べた限りでは、伝六生存中も、死後も、そして現在も

一観教を名のる宗教集団は存在しない。

 それでは、簡潔に言って一観教とはどんな宗教なのか、と調べてみても、これまたどこにも書いていない。もちろん詳しく、具体的に一観教について書いたものもない。

 新しい宗教という以上、他の宗教と異なる独自の概念があるであろう。それが何であり、ここにいう四つの宗教とどのように違うのかということも説明されなければならない。例えば、伝六の言う愛は仏教の慈悲、キリスト教のいう愛(アガペー)、儒教の仁などと、どのように違うのか。

 そして何よりも大切なことは、儒教的道徳が禁制のキリスト教を取り入れることの矛盾、それを伝六がいかに解決したのかということも、解明しておかなければならない問題である。

 また、現代の多くの人が感じているように、宗教と葬式との関係も不可分である。伝六の百回忌は因北各寺の曹洞宗の僧侶を呼んで盛大に行われた。すなわち誰もが曹洞宗から伝六が抜け出ていないことを認めていた、ということであろう。

 以上のことから想像するに、宗教というものが小学生の足し算や割り算のようにしてできると考えた人が言ったことが、無反省に書き写されてきたということであろうか。

 このような実体のない言説を意味もわからずに書き写す行為は、知性の欠如以外の何物でもない。書いた本人がわからないようなことを書いて観光客を愚弄するのは、そろそろ辞めようではないか。


 



ふるさとの史跡をたずねて(169)

八栗寺(因島重井町白滝山中腹)

 因島四国八十八ケ所85番八栗寺は白滝山中腹の岩の上にある。垂直に近いその岩は、お堂の前からは見えないが、下から見るとかなり険しい崖となっている。(写真・左端)さらにそこから前方を見るともっと大きな岩が垂直に立っている。修験者、すなわち山伏にとっては格好の修行場であっただろう。

 そのような大岩が白滝山には至るところある。だから白滝山というのはそれらの岩の上を、雨が降ったら滝のように白い水が流れたから、そのような名前になったのだろうと想像することはたやすい。そしてまた、いろいろなところに名前の由来として、そのように書かれている。

 ならば、そのような現象を見たことのある人はどれくらいいるのであろうか。私の想像では恐らく一人もいないと思う。すなわち、この白滝山の名前の由来が、「十字架」や「一観教」とともに怪しいのだ。これまた誰かがもっともらしく書くと、あとは雪崩のように書き写され、あたかも定説のようになる。

 今は白滝山と呼ばれているが、字(あざ)は滝山である。タキザンと読むのであろう。滝山というのなら、水の流れる滝が一つや二つではなく、何個もあるような印象を受ける。そして、そんなことはあるまいと、ますます疑問に思う。

 谷川健一さんの『日本の地名』(岩波新書)に、「中国地方より西ではタキの地名は断崖をさす」とあった。これなら、納得ができる。『日本国語大辞典』(小学館)にも「たき」(方言)として、絶壁、崖が中国、四国、九州地方などで使われているこが示されている。

 また、人によっては嶽、岳の字を当てたり、水の流れを表す滝も、もともとは崖のような地形を表す言葉が次第に水の方へ意味が移ったと考える人もいる。

 以上のことから因島の白滝山に関しては、水の流れる滝とは関係はなく、崖山(ガケヤマ)、あるいは白いガケヤマの意味だと考えたほうがより合理的である。





ふるさとの史跡をたずねて(170)

石観音(因島重井町白滝山)

 子供の頃読んだ本で、いつまでも不思議な印象が残っている話に「ハーメルンの笛吹き男」というのある。ネズミ退治をした笛吹き男に約束の報酬を払わなかったので、男がネズミを退治した笛で子供たちを連れ去ったという、ありえないことだろうと思いながらも、妙に現実感のある話であった。阿部謹也さんの『ハーメルンの笛吹き男』(ちくま文庫)はその謎解きをした本であるが、童話にも色々な歴史の痕跡をとどめているものがあるという例である。

 白滝山には「白滝伝説・恋し岩」という創作民話があり、その岩もある。『芸藩通志』に記載されている「石観音」とは、これのことだと思われる。それでは、白滝山の観音信仰の原点ともいうべき石観音がどのような訳で恋し岩伝説になったのだろうか、考えてみたい。

 白滝伝説・恋し岩は白滝という名の相撲取の話と、さわれば恋が叶うという話をつなぐ悲恋物語からできている。前半は、よくある地名語源説話で民話の「重の井」「弓瀬宗十郎」などと同様の構造をしている。すなわち、既にある地名なり人名の由来を説明する知的遊戯で「聖書」の中にもあるように、どこにでも見られるパターンである。力士白滝はその岩を麓から持ち上げるほどの怪力の持ち主だから、相撲史に名を留めていてもよさそうであるが、この話以外の記録はなさそうである。岩そのものは石仏等と色が違っているが、屋内に置かれていたため風化されていないだけで、山門下の石垣工事で出てきた露頭と同じ地肌で、山上のものと考えてよい。だから、前半は伝説とは言い難い。

 さて、白滝山の古いパンフレットには本堂前に陰陽石があると書いてあるが、それらしきものはない。敢えて探せば、ハート形の水鉢が陰石で、この石観音が陽石ということになる。そう考えれば、塀の下の裏参道に、子授けのご利益のある塩竈(釜)大神が祀られていることと話が合う。このようなことを下敷にして作られた話であれば「白滝伝説・恋し岩」と呼ぶ価値がある。そうでなく当今流行りの三流観光地を真似て作られた話なら「創作民話・恋し岩」とすべきであろう。




  写真・文 柏原林造

➡️ブーメランのように(文学散歩)