2020年11月19日木曜日

ふるさとの史跡を訪ねて(増補版)201-210回

ふるさとの史跡をたずねて(201)

      

因島戸長の墓(因島重井町善興寺)


 江戸時代は奇妙な時代であったが、明治時代は不可解な時代であった。それは、普通江戸時代が近世で明治時代が近代と呼ばれるのも原因の一つだと思う。近世という言葉に価値観を感じる人はいないと思う。しかし近代という言葉には斬新性と合理性が同居している。その明治時代は合理的で新しい社会であったかというと、必ずしもそうでなかった。それは明治維新が大政奉還・王政復古と呼ばれるように、極めて非近代的な体制をつくろうとしたのだから、当然といえば当然であった。

 さて、宗教学者の末木文美士氏は、江戸時代以前からの伝統を「大伝統」、明治時代から敗戦までにできた伝統を「中伝統」、戦後の伝統を「小伝統」と分け、大伝統が変貌されて中伝統となった、すなわち、大伝統が、中伝統の時代に別の解釈をされるようになったものがあると指摘されている。(『日本の思想をよむ』、角川ソフィア文庫)そのことも明治時代をわかりにくいものにしている理由の一つである。

 奇妙な江戸時代の幕藩体制を捨てるのだから紆余曲折があったのは当然であるが、明治初期には混乱を極めたものであろう。その混乱の跡を留めるのが地域の呼び名である。昭和28年に因島市が誕生する前は、島内の各町村は御調郡〇〇町、〇〇村であり、それはまた『芸藩通志』の分類にあるように、御調郡〇〇村で江戸時代を通してそのようであったと理解してよい。

 明治5年正月にそれまでの郡村制が廃止され、割庄屋もなくなり、それに替わる大区小区制となり因島は第十大区十六小区となり戸長として明治7年4月柏原啓三郎が任命される。

 柏原啓三郎の墓が重井町善興寺墓地登り口の歴代住職墓のすぐ上にある。(写真中)



写真の右は啓三郎の父の墓で、その碑文は啓三郎が明治9年に書いており長男(自分のこと)が明治7年に因島戸長となったことが記されている。

 因島戸長も明治11年3月に廃止され村ごとの戸長だけになる。戸長がいるところが戸長役場である。因島戸長役場は現在重井郵便局のある辺りに置かれ、重井村戸長役場を兼ねたが、因島戸長が廃され村の戸長だけになると、重井村の戸長役場だけとなった。


ふるさとの史跡をたずねて(202)

          

常夜灯(因島中庄町寺迫)


 明治元年になったからと言っても、今日は昨日の続きだし、明日は今日の続きであることには変わりはない。

 そして、明日からは令和元年になる、と言って日本全国が同時に暦を書き換えたこの前と違って、改元が全国津々浦々まで浸透するのに、江戸時代では時差があった。それは明治元年でも同じであっただろう。

 金蓮寺の資料館前にある灯明台(常夜灯)はJAの辺りにあったものだと聞くが、隣にある重井町一本松にあった岩と同様、まじないのために掘られた穴、すなわち盃状穴を保存するためにここに置かれている。(写真1)


 重井町の一本松にあったという盃状穴は111回で記したが、今回はこちらの灯明台について考えてみよう。実はこちらの製作が明治元年だからである。明治元年の年号が刻まれた常夜灯だと喜んでも、それは明治の世相を反映したものではありえない。やはり、江戸時代の延長と考えるべきであろう。だから形などをことさら問題にしようというのではない。そこの盃状穴が問題なのだ。(写真2)


一本松の盃状穴はいつ穿たれたものかはわからないが、こちらは明治元年に作られた灯明台である。それ以前に穴が穿たれた岩を使ったとか、あるいは作られてすぐに穴が穿たれたなどということは普通には考えられないことだから、こちらの盃状穴は明らかに明治時代以降のものと考えてよいだろう。

 盃状穴には陰陽石信仰と重なるものが見られることがある。それを合体して考えれば古代からの信仰ということになるが、ここのように盃状穴だけのものもまた多い。そのことに注目してみれば盃状穴信仰は意外と新しいのではなかろうか?

 そして前にも書いたが、石に穴を穿つというのは産道を広げるという象徴的行為で、安産祈願のおまじないから派生発展して子授け、病気平癒、果ては女性の願いごとまで祈願するようになったのではなかろうか。三庄町地蔵鼻の鼻地蔵をはじめ、妙泰神社、淡島神社などはそれぞれ由来は異なるのに、共通して女性の願いごとなら何でも叶うというご利益が付加しているのだから、盃状穴がそう考えられても不思議はない。

 そしてまた、このような派生的な考え方は江戸時代、あるいはそれ以前からあったと我々は漠然と考えているが、むしろ明治時代以降に生じた考え方であるかもしれない。








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