2015年3月19日木曜日

因島市土生町 長崎城跡

はぶみち
土生町荒神。
2015.3.21.ナティーク城山の駐車場にある説明板。
2015.3.21.説明板隣りの史跡標示。
2015.3.21.南側絶壁。
2015.3.21.南側絶壁。東寄り。
2015.3.21.南面の絶壁を下から見たところ。
2015.3.21.東側絶壁。
2015.3.21.北西面を北から見たところ。


2015.5.17.岩礁に残るピット(棒杭穴)の残骸。元は丸い穴だったものが四角に削られたのではないか。

2016.11.17.



2015.3.25.田熊町山伏山から南方を望む。赤い桟橋の上の緑が長崎城跡。クレーンの下の屋根の左端付近が荒神山城跡。四国山脈がかすかに見える。








参考:
因島市教育委員会編、「因島市の文化財」、因島市教育委員会、1990、p.9には次のように記されている。
土生町。
県史跡。
昭和32年9月30日指定。
 村上氏が因島に構えた最初の拠点で、村上顕長(吉豊)居城と伝え、厳島合戦で向島を得た村上新蔵人吉充が、弘治3年(1557)向島余崎城へ移るまでの180年間の本城であった。
 本丸跡南隅に城山神社の小祠がある。

最近では、向島の岡島城を落として向島を得たことになっている。
また、城山神社は現在は造船所の東門近くにある。 

村上顕長(吉豊)とは誰であるか。このことは重要である。なぜならば、この人をこそ因島村上家の初代とすべき人だからである。

さいわい、田中稔、「因島史考」、因島市文化財協会、1996年、p.6には以下のように記されている。
師清の子息又三郎吉豊が因島本主家を継承して、土生の長崎山を居所とした。

ここまでをまとめると、因島本主家は、村上顕長(吉豊)の代になるまで因島には城を構えてなかったことになる。

青木茂編、「因島市史 全」、因島市史編集委員会、昭和43年、p.181には次のように記されている。
以上長長とのべてきたが義弘幸賀説は無意味だし、古文書記録も鵜呑みにはできないし、備中入道以前の因島村上は、とんとわからない。

備中入道とは吉豊のことである。ではあるが、師清は箱崎合戦の師清だから、そのあたりから、追っていこう。

東京帝国大学文学部史料編纂所編、「史料綜覧 巻7」、朝陽会、昭和2至8、P.555
(正長1年10月20日 1条)に「備後守護山名時熙、同國多嶋地頭職を村上備中入道に宛行ふ、村上文書」とある。






はぶみち