2015年3月11日水曜日

因島三庄町 三庄町誌

みつのしょうみち


 松本賢編、「ふるさと三庄」、三庄老青会連合会、昭和59年、p.22に以下のように記されている。
古書「三代実録」に元慶二年(八七六)二月十五日從五位下の神格をもって、椋多き地に隠島神(吉備津彦命)を奉斉す、とあり

しかし、該当のところを、佐伯有義編、「六国史. 卷九」、朝日新聞社、1928-1931、p.124
に探しても、次の図のようにあるだけでそんなことは書かれていない。(6行目、下から3文字以降)。



ならば、これは隠島の語がはじめて史書に現れる十二月十五日の誤りかと思うしかない。しかし、そうであっても、それは次の図に示すとおりである。
十五日丙子、授備後國無位隠嶋神従五位下(十五日丙子、備後の國無位隠嶋神に従五位下を授く)とあるだけである。


東寺百合文書には次の5点がある。
1301正安3年5月12日。東寺百合文書。な函/88/1/ 。
六波羅裁許状案  
地名:後国因嶋内三津庄

1301正安3年4月日。東寺百合文書。な函/88/2/ 。
備後国三津庄地頭代頼円和与状案  
地名:後国因嶋内三津庄

1332正慶元年12月8日。東寺百合文書。な函/88/3/ 。
備後国三津庄常光院年貢塩代銭送進状案  
地名:備御国三津庄

1331元弘元年11月8日。東寺百合文書。な函/88/4/ 。
備後国三津庄常光院年貢塩代銭送進状案 


11月17。日東寺百合文書。な函/88/5/
法橋真□(祐)奉書案
地名:備御国因嶋三津庄


佐藤進一「南北朝の動乱」(中央公論社・日本の歴史9)、「守護の領国」。p.361に「奉公衆の例にあげた小早川氏も至徳三年(一三八六)、山名時義から備後御津庄を与えられているし、」とある。





公文
野々宮定基卿の説に、公文は、国司から主税・主計二寮にさし出す書類の称で、それから移って御領の年貢をさしたてる書類をも公文といい、ついに庄園を掌る役名となったもので、この公文・院掌も院中の雑事を掌る意だとある。が、これは文字によった解説であるから、実際はどうであろうか。
和田英松、(所功校訂)「新訂 官職要解」、講談社(学術文庫)、1983年、p.243 
公文は現地支配者であり、文筆の能にたけているものをもって任ずる
青木茂編、「因島市史 全」、因島市史編集委員会、昭和43年、p.45


石工
沼隈町教育委員会編、「沼隈町誌 民俗編」、平成一四年、p.615に次の記述がある。
松本彦右衛門は因島三庄村から常石に住まいを移した石工で、ここを拠点にたくさんの作品を残している。彼は明治二一年(一八八八)から沼隈で仕事をはじめ、明治二八年一一月から明治三〇年二月にかけての作品には「石工因島三庄」と刻んだり、名だけを刻んでいるが、明治三一年八月以降はところを「常石」と刻んでいる。
また、p.614には作品目録がある。

地蔵鼻、鼻地蔵の伝説については、
中国新聞社編、「瀬戸内海 上」、中国新聞社、昭和34年、p.147




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