2019年2月10日日曜日

夕凪亭閑話 2006年10月

  
2006年10月1日日曜日。雨。
 10月になった。神無月である。神無月は雨で始まった。秋の深まりいよいよ繁し。取り入れ前の田圃を高いところから眺めると,まさに黄金色と言うにふさわしい光景にしばしば出会う。ということで,背景はそれに近づけた。
 最近の読書から。司馬遼太郎「空海の風景 上」(中公文庫) 
 同行二人(どうぎょうににん)のお大師さんである。四国八十八ヶ所2回結願(けちがん)の身には気になる存在である。当然,小生の生まれ育った僻村にも大師堂というのがあって,春先になると,チロリンチロリンと鈴の音ものどかに,田舎道を巡礼する旅人で溢れた。周辺の島からやって来る新四国八十八ヶ所である。人によっては島四国と呼んでもいた。方々にある,四国巡りのミニチュア版の一つである。また,お大師講なるものもある。鯖大師伝説もある。弘法大師が巡礼中に鯖を恵んでくれと漁師に言う。拒んだ。後で見ると鯖が腐っていた,という噺だ。この類の伝説は全国にどれだけあるか知れない。役行者,阿倍晴明とともに,説話界の三大スーパーヒーローである。 
 その弘法大師については,日本の名著第3巻の中にあるから,ほどよく解説されてあるはずであった。しかし,あろうことか,伝記はほとんど書かれていない。編者の中国哲学の大家福永光司さんは司馬さんとの対談で「伝記に関してはこんどは全部省きました。あくまでも漢文の学ということだけで,伝記は司馬さんの『空海の風景』にお任せすることにしました」(月報12p)と語られているのだから,こちらに当たってみるしかないと思った次第だ。
 空海はその生涯の事績の大きさに比べたら驚くほど知られていない。特に,大学を辞め,遣唐使船に乗るまでの間は,山岳修験者に混じって四国の山々で修行したのではなかろうかと言われているに過ぎない。その朦朧とした空海の生涯を司馬さんが文字という絵の具で描く。小説ということで,不明の部分は司馬さんの想像で補われる。そして何となく空海という人物がわかったような気持ちになるが,読み終わってみると,空海のいる風景が遠ざかる。そして,空海はわれわれの想像を超えた存在であるという,いつも思っているところに着地する。
 上巻では,空海は国際都市長安で周到に準備した後,青龍寺に恵果を訪ね,そして恵果と会うところまでである。
 
月変わり雨の日曜しとしとと草を濡らして秋は深まり
薩摩芋赤き薄皮はがさんとぽろぽろ落ちる秋の味覚や
桜葉の枯れて小枝にかかりけり秋のおとづれ庭の隅にも
ミニ薔薇の赤き花弁をぬらす雨音もなく降る秋の日の暮れ
あもあますあまとあまむすあまちすと覚えし日々は遠き日の夢
    秋雨
風来巻雨日黄昏 
木葉連村鳥雀喧 
秋水茅蘆人不寝 
開芳相對菊花園 
  
2006年10月2日月曜日。曇り時々晴。 
 縄をなうということ
 縄を編むというのだろうか。言わない。網や袋を作るのは編むであろうが,やはり縄は綯うというべきだ。その縄を綯うということについて書いておこう。紐を両手で持って,交互に動かすすと,それぞれの紐が回転しながら,互いに絡まりつく。これが縄を綯うということである。私はこういう動作を何十年もしていなかったが,注連飾りの縄を作ってくれと言われて,手を動かしてみると,さっとできたので自分でも驚いた。
 実は,小さい頃縄を綯って遊んでいたことがあるのである。幼稚園と保育園と小学校前は二年行ったが,それより前ではないかと思う。同居していた若い男の人が教えてくれたのである。まず,槌を作る。山から木を切ってきて,手に持つ部分を削る。同じようなミニチュアを僕のためにも作ってくれた。いや,作り方を教えてくれて自分で作ったのかも知れない。
 次は藁だ。手に持てる程の束を水で少し湿らせて,細いほうを持って,根元に近い太い方でパシッパシッと石を叩いて鞘(さや)を取り除く。次に槌で叩いて節を潰す。これで準備完了だ。次に立ち膝をして座り,足の親指と人差し指の間に数本の藁を挟んで,下から上へと綯っていくのである。手の甲の下の部分をくっつけて押さえながら捩りながら滑らせて回転させる。同時に上へと押すように綯ってゆく。
  やがて藁を2,3本追加するのだが,右と左が同時にならないように追加するタイミングをずらす。どれくらいこういうことをしたのか覚えてはいないが,雨が降って遊びに行かないときに何度かしたようだ。身体で覚えているので,今でも手がひとりでに動く。 足の指藁をはさんで縄をなう遠きむかしの雨の日の午後
 
故郷(ふるさと)の夕日を浴びた柿の実にここにも秋の訪れを知る
秋の夜の澄み渡れれば月明かり庭に回りしこの夕べかも
もののふの八十路を前に曾孫(ひいまご)の生まれるを聞く年深からし
雨降って寒さ追い越す衣替え
秋晴れや朝夕のため衣替え
稲刈れば雀集うて日も忘れ
秋の日や山路を急ぐ老夫婦
遅起きの雨にはじまる神無月
    秋夜 
幽庭一夕草虫聲
半夜天空月色明
灯火少年窓下座
青編閑拾厭虚名
 
2006年10月3日火曜日。晴。
 岡山空港がまだ児島湖の近くにあった頃,よく野鳥を見に行っていました。と言っても野鳥を観察するというのではなく,ただたくさんの野鳥が群れているのを見るだけです。児島湖とは反対側の調整池には小さな鳥がいたし,児島湖のほうには鴨があの独特の飛び方で,あちらへ移り,こちらへ移りしていたのを飽かず眺めておりました。そして時折離発着する飛行機を真下から眺めるのも大きな楽しみでした。
 最近は子供が大きくなったせいか,鳥を見に行くとか,飛行機を見に行く,というような目的らしくない目的で外出することがとんと減ったように思います。そして,時間が経ってしまうと,そういう行為が貴重で,喜びに満ちていたかけがえのない体験だったことがわかります。 飛行機に負けじと湖水鴨渡る   
 
秋深み鳴く虫の音も澄み渡り雲いの月の蒼き夜かな
故郷(ふるさと)に変わらざりけり夕暮れの海山川に秋風の吹く
おぎの葉に秋吹く風はもの言わでただ眺むるは夜半の月かな
稲穂干す田の畦道に雀来てせわしせわしと日の暮れるまで
やまざとの日暮れの近き木の葉道秋風さけて鳥らかくるる
 
自転車の家路を急ぐ長き影
灯もつけでどこかせわしき秋の暮れ
秋の夜やパソコンの音ころころと
携帯の着メロ響く秋の月
少年の帰る夜道の秋の風
 
 
   夜想
風露西流夜漸深 
星光隔在憶人心 
白雲万里少年夢 
月影不知千古侵   
 
 
2006年10月4日水曜日。晴。
ヌートリア
 児島湖にはヌートリアの繁殖地があった。ヌートリアについてはかなり小さい頃から知っている。近所といってもいつもいくほどの近所ではないが,今で言えば車で5分ほどのところにヌートリアを飼っていたのだ。親戚の畑があって,その傍の家だ。2回ほど見たことがある。金網で四方と天井が囲ってあり,中には池があって大きなドブネズミという感じのきたいない生き物が数匹住んでいた。幸い野生化したとは聞かないから,逃亡は逃れたのだろう。
 ヌートリアのことはその後忘れていた。岡山の西大寺の砂川を大きなドブネズミが泳いでいたと話したら,ヌートリアだと教えてくれる人がいて驚いた。戦闘帽の毛としてとるためにアメリカから戦前輸入して飼育していたものが野生化したということだった。岡山には多くの水系にいるということだった。砂川の近くの住宅の前の用水路が凍結したとき,その上を走っているのを,家内も見たと言っていた。
 児島湖では児島半島側の八浜中学校のあたりで多数のヌートリアが浮き草の上にいるのを毎日のように見たことがあった。もうあれから何年もたつが今でもあのコロニーはあるのだろうか。 秋来れば巣作り急ぐヌートリア 
 
子猫らが傍若無人に日を浴びてわが家のような顔をしてをり
テレビにて四国遍路のたしなみを聞きつつ想う繁き山河を
必修の単位とれたとメール来て秋の夜更けに携帯光る
かの地より速達届き書留の記録捨ててもいいと教える
 
    日暮
千枝佳色菊花香
野地荒村樹樹涼
白月天空秋一露
日斜暮色是我郷
 
2006年10月5日木曜日。雨。 
児島湾
 児島湾の干拓は小学校の教科書にのっていたが,実際に見たのは小学校の4年生か5年生の頃だろうか。その頃は四国に渡るには,岡山から宇野線に乗って,宇高連絡船というものに乗っていた。徳島への旅行だった。その時,灘崎だか彦崎だったか常山だったか覚えていないが,列車が止まったとき,「児島湾干拓地 農林省」という文字が凛々しく書かれた木が建っていた。
 それから,はるかにはるかに時が経って,その地の近くに住むことになった。たいていは,児島半島側にある小串へ連なる締め切り堤防を通っていたが,時に30号線,すなわち宇野線側も通ることがあった。また,干拓地の中の農道も何度か通った。
 締め切り堤防の中が児島湖で人造湖である。干潮時に水は排出される。干拓地には,ところどころ調整池があって,そこから児島湖のほうへポンプて排水されていた。干拓地を作るのは大変なことなのだと実感したものである。
 干拓地をめぐる水路にはもちろん淡水魚がいるのだが,時にサヨリのようなものが水門を遡って入ってくる。イナは見たことはないが,多分時々は入ってきていたのではないか,と思う。 田圃わきサヨリ泳いで迷い込み
 
秋深み軒端の枯葉はらはらと揺れる曇り日雨の予感や 
人避けし庇の下の子猫らに小雨吹き寄せ秋は深まり
彼岸花枯れゆく時を前にして小雨に煙る秋の夕暮れ
最果ての海見る街へ一人行き小雨降る夜は四年目の秋

       秋雨
 茫々雲迷一天遙
 村巷雨声懸柳条
 孤雁帰程灯影淡
 窓前顥気夜寥寥
 
2006年10月6日金曜日。曇り時々雨。
 仲秋の名月である。夜になって雨は上がり,時々雲に隠れるが,見事に澄んだ秋空に美しい名月が輝く。こんなに美しい仲秋の名月は久しぶりのような気がする。夕凪亭の窓からも夜半まで観賞できました。
 小さい頃,私の育った田舎では,“げし”に薄や月見草がたくさん生えていました。勿論その頃は舗装されていなくて,ときおりオート三輪(バタンコと呼んでいました)が通ると白いほこりが舞い上がり,ヨモギやチチグサの葉の上に白く積もっておりました。ああ,あの頃は空はいつも澄んでいたなあ。  澄んだ空蝿蚊たくさん棲んでをり
 
若き日に仕事教えし先輩の命潰えし名月の夜
南さす雲の通い路かすめつつ名月光るこの夕べかも
昼飯のかわりをせんと名月を眺めながらもおだんごを食う
窓開く夕凪亭の真上には寒き夜更けの仲秋の月
露降りる小はぎが上の名月に秋の叢雲意地悪をして
名月やだんご食べ食べテレビ見る
目を細め猫も名月眺めけり
 
   仲秋
心焦日暮雨初収 
村静雲流明鏡秋
淡照桂花名月夜
長天嫦娥又風流
 
 
2006年10月8日日曜日。晴。
 見事な秋晴れである。こういう日に家にいるのは勿体ない。しかし,昨日外出してくたくたなので今日は一日骨休みだ。
 昨日は,宇治,奈良方面へ,西国三十三観音霊場巡りに行ってきた。要するに秋の大和路にいってきたわけである。そのついでに宇治にも寄った次第。
 目標は,第6番壷坂山つぼさかさん南法華寺みなみほっけじ通称・壷坂寺 奈良県高市郡高取町,第7番東光山とうこうさん龍蓋寺りゅうがいじ通称・岡寺 奈良県高市郡明日香村,第8番豊山ぶざん長谷寺はせでら  奈良県桜井市,第9番興福寺南円堂こうふくじなんえんどう  奈良県奈良市,第10番明星山みょうじょうざん三室戸寺みむろとじ  京都府宇治市である。
 第10番三室戸寺。新幹線で京都まで行き,京阪宇治線で三室戸へ。しかし,これは失敗だった。駅前にはタクシーはいないし,近鉄で一回乗り換え,さらに京阪に乗り換えと,時間的ロスが多い。JR奈良線で宇治駅まで,そこからタクシーで向かうべきだった。幸いバス通りまで出てタクシーが来たので,近いけどタクシーで駐車場まで。ツツジやアジサイの花は咲いてないが,きれいに手入れされていて,開花の時期は見事だろうと想像した。小雨を避けて杉の小枝の下を登って行くと本堂が迫る。庭には多数の睡蓮鉢。なかには睡蓮の実が残っているものも。
 三室戸寺雨を避けての杉小枝
 三室戸は宇治の川風鐘楼の紐を揺らしつ秋の雨降る
 本堂の傍に腹這う勝牛に小雨煙って塔はかすめり
 雨が止んだので,下山してタクシーで平等院へ。中学校の修学旅行以来。解体修理中の阿弥陀如来の後背なども見ることができた。出たところで抹茶を大量に振りかけたソフトクリームを食べて,宇治川を見て,歩いてJR駅へ。奈良へ向かう。
 鳳凰を写した池に鯉遊ぶ
 笛を吹く供養菩薩は雲に乗り阿弥陀如来は黙して聞かむ
 宇治橋の下を流るる大川は宇治十帖の浮舟の川
 
 第9番興福寺南円堂。奈良は何と20年ぶり。正確には19年ぶりか。駅前が賑やかになっているような感じがする。すぐにタクシーで,三条通りを通って南円堂へ。猿沢の池のところ。階段を上がったところの円いお堂が南円堂。ご本尊は不空羂索(ふくうけんじゃく)観世音菩薩というものだが,残念ながら開陳していない。それにしても南円堂は優雅だ。境内を散策して歩いて駅へ。
 秋空や南円堂の屋根光る
 奈良駅の古都のにぎわい秋の日や
 
 第8番長谷寺。更級日記にも出てくる,あの初瀬である。JR桜井線で南下。途中に見える小山は,崇神天皇陵か。このあたりが山の辺の道だ。三輪には大きな鳥居がある。桜井で近鉄大阪線に乗り換えて,朝倉を過ぎると長谷寺駅だ。駅前からタクシーで長谷寺へ。歩いてもいいほどだが,先があるので,急ぐ。初瀬川沿いに一キロほど門前町が続く。タクシーはその間をゆっくり進む。長谷寺は牡丹で有名だが,今は咲いていない。その牡丹の枯れ枝の間にある回廊を登る。小雨が降り始めたが,幸い回廊の屋根に守られて安心だ。本堂は真ん中を歩けるようになっており,高さ7.85mという金色に燦然と輝く十一面観世音菩薩像が拝める。思わず感嘆。これなら全国から初瀬詣での参拝客があっても不思議ではない。外に出ると外舞台がある。回廊を下山しながらタクシーを頼み,再び近鉄長谷寺駅へ。
 長谷寺や登る回廊秋の雨
 秋雨の花のみ寺の長谷寺の観音さまは大きく光り
 
 第6番壷坂寺。ここで岡寺を後にして,先に壷坂寺へ向かう。本日の最後を岡寺にして,残った時間を万葉の故地で過ごすためだ。近鉄線を乗り継いで,壺坂山駅へ向かう。バスが出ているから,タクシーもきっといるに違いないと踏んでのことだ。
 桜井を過ぎると耳成山が見える。次の大和八木で乗り換える。畝傍山や天香具山を過ぎて,橿原神宮前でまた乗り換えだ。近鉄吉野線で,岡寺,明日香を過ぎると壺坂山。幸い,タクシーは二台客待ちをしていた。壺坂寺へ行って待っていてもらい,岡寺まで行ってもらえるかと確認をしておく。以前,お寺に着いて待ってもらうように交渉したとき,予約があるので,と帰られたことがあるので,乗ったときにコースを告げておくのがよいのだ。
 タクシーは幸い門前まで行く。全体が朱色できらびやかなのだが,調和がとれていて全体が美しい。本堂の十一面千手観音菩薩が,思いの外美しい。御利益がありそう気配だ。多くの人がはるばる訪ねてくるのがわかる。高さ20mの大観音像は東側の少し上に立つ。近くへ行ってみたいと思ったが,時間がないのでパス。「壺坂霊験記」という浄瑠璃は,明治時代に作られたもので,当然のことながら古典文学大系には収載されておりませんが,映画になったり,舞台上演されたり,かなり有名なものようです。その,お里,沢一の像が本堂の隣にあった。このように,眼病に霊験あらたかなご本尊である。珍しいレリーフの大石堂など時間をかけて見たいものも沢山あったが後ろ髪引かれる思いで下山。
 本堂の壺坂山の観音は蟹のごとくに手を曲げてをり
 観音は壺坂寺の秋の日を浴びつほほえむ秋の夕日を
 
 第7番龍蓋寺・岡寺。あの明日香である。19年前と同じように日暮れ時になった。壺坂山から近鉄で,岡寺まで引き返して,そこでタクシーにと,当初考えていたが,壺坂寺からそのままタクシーで来てもらったのは正解だった。近鉄・明日香駅前を右折して高松塚古墳の横を通って左に天武・持統天皇陵,右に橘寺などを見つつ,明日香村役場の前を通って岡寺へ。時間を気にせず参拝するので,タクシーはここまでとする。4100円。本堂の本尊は如意輪観世音菩薩で,その像は高さ4.8m。弘法大師空海が,インド,中国,日本の土を使って作ったといわれている。塑像としては日本一だそうである。
 七番のあすか岡寺厄(やく)よけと土の観音シャクナゲの寺
 岡寺の大師つくりし観音は秋の日射しに笑うがごとし
 
 さて,下山である。雲っているので五時とはいえ,ややもの寂しい。歩いて下山することにする。(待っていれば循環バスが来たのかも知れない。途中で出会った。) 少し歩いたところに店を閉めた茶屋があり,さらにレンタサイクルを並べた民宿があるではないか。借りられると言うことで,借りる。一安心。
 早速,石舞台古墳へ。そして,もと来た道を戻って高松塚古墳の横を通って,近鉄明日香駅へ。ちょうど19年前と時間的にも同じころになった。19年前も10月10日前後で体育の日との連休だった。車で,法隆寺,薬師寺,唐招提寺を見て,奈良公園の近くをさっと通って,そこは翌日にまわして,南下して明日香へ。石舞台古墳を見て,橘寺を過ぎて走っていると高松塚への案内をみつけた。小さな駐車場へ車を駐めて,下の子が寝ていたので,そのまま車に残して大急ぎで行ったが思いの外遠くて,竹藪をまわって写真を写して,また大急ぎで戻った。道も広くなっているし,近くに駐車場ができている。あの時は,仏像ばかり見ていたので,さすがに興福寺で,また仏さんか,といって子供が飽きた。ローマからパリへ行って,ノートルダム,パンテオン,アンバリッドとどこまで行っても石の教会かと思ったものだが,奈良は古墳という小山か仏像だらけである。そして木造のお寺。   
 夕風や秋の日暮れる石舞台
 日暮れ近し明日香の村の竹藪の高松塚にあの日走りし
 秋の日の明日香の村は人去りてレンタサイクル夕風寒し
 万葉の故地は暮れゆく稲穂道
 王子でJRへ乗り換えることにした。橿原神宮前で乗り換え,次に近鉄橿原線で田原本で降りる。いちど外に出て,近鉄田原本線というのに乗り換えると終点が新王子で,JR王子駅と隣り合っている。関西本線で大阪駅へ。そこから新快速を乗り継いで帰ったのは前回と同じ。
 名所旧跡はたくさんあるのに,駆け足で巡った勿体ないような旅行でございました。
 
 
2006年10月9日月曜日。晴。
 今日も秋晴れの素晴らしい日だったが,日本列島は海も山も大荒れである。そこで,
 海の波無いと言えどもあるのだしあると言えるはさらにあるなり


    山寺
 四山遠近白雲流
 厓樹苔痕林径幽
 楓澗暮鐘遊子意
 斜陽塔影満山秋


2006年10月10日火曜日。晴。
 いつまでたっても10月10日が体育の日のような気がします。ひかりという新幹線が走り,プロ野球が早々と終わり,東京オリンピックの開会式が行われた日だったと思います。
 
木犀のほのかな香り戻り来ていよいよ秋の白雲高し
竜胆の蕾開かず紫のかすかな色をそっとのぞかせ
ススキ揺れすじ雲切れば秋の日の午後は静に流れゆくなり
夕日受け橘もどき赤き実は林檎のような形して口に入れたし
濃紫斜めに咲きて日を浴びし
旅じたくふけ待ち月が照らしけり
日は下がり菱の実の棘メダカ寄る
 
    夕景
 西郊茅舎一川流
 樹林千茎帰鳥分
 落帽牧童牛背笛
 夕陽山寺暮鐘聞
 
2006年10月11日水曜日。晴。 
 最近の読書から。山口昌伴「水の道具誌」(岩波新書)。これは近頃珍しい好著である。水に関連した道具の来歴,名前の由来,本来の姿,その盛衰などなどが,語られ,つい最近までの,古き時代の追憶に誘う,読後感のさわやかな本である。あまりに日々変化が激しくて,何か伝統の中にあるよきものが失われているのではなからろうかと,思う人は是非読んでみられるがよろしいでしょう。知らなかった多くの正しい言葉や,名前の由来を教わりました。


木酢で猫追い払う秋野花
木犀の香り流れる日暮れ道
石榴の実枝は撓んで夕日さす
稲架(はざ)の木の軒の下にて出番待つ
稲村にビニールかけて綱を張る
鳩麦を集める老婆駅前道
水曜日いつとはなしにテレビの日この年にして時間を気にし
ひとりして子供旅たつその朝は不安かくして秋空を見る
いつもより人数減りし夕食はあっという間に終わってしまう
 
   秋日
片籬四壁草虫鳴
晴日白雲夢又清
茅屋風鈴残照外
野花一葉送秋声
 
2006年10月12日木曜日。晴。
朝霧のたちこめる街子猫来て遊びをせんと裾によりつく
あづま地の父行かぬ地へ子は行きてメール送りし安堵したきに
木犀の午後の香りは酔いもせで眠りさそいし馬肥ゆる秋
わがやどは秋の野辺かと思うらし百合の枯れ茎秋風揺する
西空は夕焼けの色青になり静かに寄せる秋の夕暮れ
 
公園の人も少なし秋の暮れ
犬の声遠くひびきて秋の暮れ
芋の蔓ミニ耕耘機に絡まれり
早朝のまだ薄暗き月の友
朝霧に隠れてさりし秋の月
眼下には稲刈る前の黄金色
 
 
   秋思
苔径閑行暮色催
帰林鳥語夕陽哀
風声落葉梧桐影
無限天辺思百端   
 
2006年10月13日金曜日。晴。
山里を訪ねる人の影長し
秋霧の立ちし隠せばからごろも竜田のもみじ色を待つらむ
花すすき揺れてたゆたう水のなか長き青藻の踊るがごとし


  琵琶湖夕陽
過雁鐘声風景幽
孤舟返照夕陽流
寺楼残影湖辺夕
落日孤身感旅愁 
  
2006年10月14日土曜日。晴。
秋祭りお宮の夜の思いでは風は冷たし篝火あわし
しらたきの山をさすらい松茸の姿さがせし崖の上下(うえした)
潮かをる白き砂山ふるさとの海は静に暮れにけり
ふるさとの蜜柑の色は秋の日に青空うつして色づきはじめ
潮風の迎えるような秋の日の船待つ街のアーケード
 
秋空や目覚ましかけて昼寝する
秋風や子猫交互に訪ねけり
夕凪亭窓のひざしや秋の暮れ
秋の雲高圧線の向こう側
すすき揺れ日影の道は肌寒し
 
 
   悼先輩
聞訃無言名月時
紅顔齋志友兼師
相思痛哭霊檀下
影冷空庭無限悲  
 
2006年10月15日日曜日。晴。
 最近の読書から。北原白秋「とんぼの眼玉」(白秋全集25)。白秋全集の25巻から28巻まで4巻が童謡集になっております。「雨がふります。雨がふる。」の雨とか,「赤い鳥小鳥」の2つしか知りませんが,白秋は凄い人だなと改めて思いました。15年ほど前になるかと思いますが,九州柳川の白秋の生家を訪ねたことがあります。家の中を水路が流れていて,もう一つの雨のうた,「雨 雨 ふれふれ母さんが・・・」という歌が流れていました。春休みの最初の日で,鳥栖のインターチェンジで降りて,南下していると菜の花が美しく咲いていました。そういえば,春休みの始まる日を間違えており,終業式の日から宿を予約していて,直前になって気づいて,慌てて変更したのを思い出しました。その日は佐賀に泊まり,翌日は西海橋からオランダ村へ行き,翌日平和公園とグラバー邸へ行ったのだったかな。山陽道は岩国のへんが開通してなくて,1時間もかかったし・・・。あ,オランダ村も今は変わったのだったなあ。時は否応がなくたち,こちらは当然の帰結として老いてゆく。自然の摂理です。
 今日は,10月15日で,50年前のこの日,パラグアイへの沼隈町移住団第一陣が神戸港を出航しました。1週間前の10月7日に,沼隈町山南の金明会館(光照寺の本堂のこと)で,壮行会があり,昼過ぎに岩船港からあき丸という船で神戸へ向い,神戸移住斡旋所で研修を受けた後,出発したのでした。ということで,今日はその50年目の記念日である。なおパラグアイは最初に日本人が住み始めてから70年。沼隈移住団が入植したラパスは1年前から入植が開始されていたから去年が50周年。第一陣の宮里伝氏が現在ラパス市長。元ラパス市長の田岡功氏が現在駐日パラグアイ共和国特命全権大使で,10月12日の日経新聞に寄稿されております。 
 
2006年10月16日月曜日。晴。 
 よいお天気が続いておりますが,朝夕は確かに寒くなって,どんどん秋は深まっていっているようです。リクライニングチェアー(背曲がり椅子)に座ってうたた寝をすると風邪をひきそうです。今年はそれを仕舞って,炬燵などおいたらよかろうか,と思っております。
 
かつて世をつくしやはせぬ入り会いの鐘はめぐりて湖畔暮れゆく
秋深く過ぎしを語れ思い草白雲の下夕日の去りて
今朝見れば花も枯れゆく百日紅散っては咲いて三月(みつき)の夏を



             落日
閑庭啼鳥又帰林
獨坐半窓落日沈
浄机幽居何事好
吹愁仰屋夜寒侵
 
2006年10月17日火曜日。晴。
 最近の読書から。米沢富美子「人物で語る物理入門」(上)(岩波新書)。上下読む順序が逆になったのは入荷の順による。しかし,結果論だが,このように読む方が最近の話題を先に読めて興味が増すという効果があった。上巻は人物よりも歴史的流れがやや前面に出るが,決して退屈ではない。これは,著者が下巻の魅力ある人物伝以上に,物理学の内容をやさしく語るという才能を遺憾なく発揮されておられるからに違いない。この類の入門書のうちでも,長く残る名著である。
朝夕に冷えて木々の葉色づかむ戸を開けて見む日の暮れるまで
岩がねに這う濃紫(こむらさき)蜥蜴(とかげ)来て蜻蛉(とんぼ)追いつつ秋のみぎりに
草も木も夕べの露に濡れるころ子猫の姉妹そっと訪ねし 
秋の山煙流れるひともしごろ
秋の風夜の街灯やや揺らす
秋の陽は思いもかけず肌を焼き
 
     旧懐
久濶空留愛眼睛
寄言双鯉旧詞盟
江山陋巷相逢処
君去低徊万里情  
 
2006年10月18日水曜日。晴。
 二人の著名な歴史家の訃報に接した。昔読んだお二人の著書を紐解いて,ご冥福をお祈りすることにしたい。
 「人類史の,文明の前進の,つぎの一歩を踏み出す役割を担ったものは,マイナス価値に苦しめられた人びとであった。」弓削達「永遠のローマ」p.376 講談社世界の歴史3,後に学術文庫に。
 「世界中で日本人ほど「物知り」の国民はなく,日本人ほど知識が力となっていない国民も珍しい。」木村尚三郎「新しい対話の時代」p.36 講談社学術文庫。
小さい子秋になっても子のままで遅く生まれしメダカの子らは
サルすべり散り行く華をおうがごと澄める空にも秋風ぞ吹く
入り日さす春日の山に風吹けば揺れる梢に落ちる木の葉に
コスモスの揺れる世界や小宇宙
コスモスの咲く道ぎわを車行く
あぶれ蚊のまだ襲うのか椅子の下
公園の荒れ地野菊に塵積もり
 
    偶成
閑庭臨水露華鮮 
野客風姿隠几眠
養夢詩思耽誦読
多年困学竹窓前
 
2006年10月19日木曜日。晴。
 「狗神」や「死国」でその才筆に魅了された坂東真砂子さんが,鳥野辺のことを「青春と読書」(2006.11.p.2)に書かれている。死の受容の中に中世の活力があるという好エッセーである。そういえば,エッセー集を1冊買ってあるのにまだ読んでいないことを思い出した。
 
秋づけばはらみて歩む猫なれど少子化のことしばし忘れむ
左から追い越して行き右からは対向車の午後の国道
紅き日の落つる街を見今日のひとひのおわりを思ふ
少年は待つもの憂さを口にせでピアノなど弾く秋のゆうべに
人生をここに始める少年に老いたる父は何をか語らむ
萩の風メダカ気にせず餌(えさ)を喰ふ
秋晴るる日のゆふやけはけふも紅
回覧を届ける子らや秋の暮れ
秋の暮れ公民館の詩吟かな
 
     山行
長途深浅白雲帰 
風冷相呼嵐気霏
険阻奇峰人跡少
仰看絶景遠山微
 
2006年10月20日金曜日。晴。
 長い秋である。何が長いのかというと,秋になって長いのである。夏は昨年と同じように猛暑で温暖化の影響だろうと思っていたし,9月も猛烈な残暑ではないかと思っていました。それが,9月になって,あっという間に秋らしくなったので,すぐに寒くなると思っていました。近頃秋も春も短かったので,今年の秋にも期待していませんでした。それが,9月以来,ずっとおだやかな気候が続いているのが不思議です。ちょうど秋の折り返し点でしょうか。秋が深まったという感じです。そろそろ朝夕が冷えだし,紅葉の便りが聞かれる頃になるでしょう。ということで,今年の秋の前半は,秋のよい時候を長く楽しませていただきました。
 
公園の秋は深まり蟋蟀の鳴く声さえもかなしかるらむ
あしひきの西の山日に砂塵舞ひ燃えるが如し秋のゆふぐれ
いかにして君いますらむこの夕べ虫の鳴く音も少なくなるを
過ぎし日は遠きにありてうつそみの命の残りいかばかりかと
(え)を切らしちいさきからだ冬越しに耐へなば耐へね秋のめだかよ
 
蟋蟀は床の下にて鳴くものぞ
帰り猫蜥蜴の尻尾土産かな
守宮(やもり)の子早く太らにゃ冬が来る
雀来るつばめのいない電線に
柿の葉が風に流れるアスファルト
 
    小春閑居
来往千紅結夢遅
語書花下対君時
残桜一露西窓夢
多感追懐歳月移 
 
2006年10月21日土曜日。晴。
 西国33ヶ寺詣は,今年はもうやめておこう思います。廻り終わると楽しみがなくなりますので,残りは来年ということで,先憂後楽という訳ではありませんが,楽しみは後にとっておこうということです。それで,今日は,遠出はやめて,鞆の浦に昼ご飯を食べに行ってきました。よく晴れて風もなく海も大変おだやかで,遠くのほうまで見えて,大変美しい鞆の浦でございました。大伴旅人の万葉歌碑が仙酔島への渡船場のところにあります。道路を隔てて反対側の崖の下です。万葉仮名で書かれていて,あまり感心しません。室の木が2本植えられてあります。子供の頃,クリスマスツリーにしていたものです。何となく絵本に書かれている樅の木に似てます。
 この崖の上が有名な対潮楼です。実は学生時代にここに泊めてもらったことがあります。朝夕には波止のほうにも行ったものです。当時は四国と結ぶ航路が殷賑を極めており,双胴船などが何分間かおきに出入りし,汽笛の音ものどかに木霊していました。乗客もかなりいて海の玄関といった感じでした。
 保命酒(ほうめいしゅと読みます)は,養命酒の元祖です。ここの保命酒の職人さんが養命酒をはじめたのだから,本当の意味での元祖です。また,森下仁丹の創業者も鞆町のご出身ですから,保命酒がヒントになって仁丹ができたのかもしれません。その保命酒はペリー提督も飲まれたということで,新聞にも載りましたし,また,最近では饅頭やキャンディーやらいろいろな関連製品が開発されてより親しみやすくなりました。保命酒饅頭と糟とラーメンを買ったら,保命酒のど飴というのをおまけしてくれました。
 鞆の古くて狭い町並みを抜けて,うしろやま公園,グリーンラインをドライブして帰りました。山上からの眺望もよく,優雅な秋の日の午後でございました。 
 
旅人らが見し鞆の浦のむろの木は常世には無く別のもの見ゆ
鞆の浦の磯のむろの木草枕遊子眺めし秋の日の午後
磯の上に根這ふむろの木白鷺の塒(ねぐら)になりし弁天島の
大夫(ますらを)の手に巻き持てる鞆の浦翠の潮(うしを)つどひぶつかる
帆を立てる海人(あま)の小舟(をぶね)のいさなとり鞆の浦廻(うらみ)は波も立たずに
秋晴れの弁天島に鷺の舞う
秋の日や船釘(ふなくぎ)叩く鞆の町
潮待ちの保命酒(ほうめいしゅ)の菓子を喰う
うしろ山櫨(はぜ)の色づく鞆の海
鞆の浦かぶれの木々は緋に染まり
 
    海村秋
潮声打岸翠煙浮
鴎白来遊午影楼
点々扁舟蒼海濶
漁歌断続海村秋
 
2006年10月22日日曜日。晴後曇り。夜一時雨。
最近の読書から。司馬遼太郎「空海の風景 下」(中公文庫) やはり,空海はわからない。不思議な人物である。それを司馬さんに導かれてわかったような積もりになる。しかし,窓の外を眺めてまた,眼を転じると,空海がどこにいるかわからなくなる。結局,説話に出てくる話をたくさん読んだような気持ちに戻ってしまう。
 下巻は長安での空海から。青龍寺の恵果(えか)から密教のすべて伝授される。その恵果と会ってからの長安である。やがてp46で,長安を去り,帰国の途に着く。しかしすぐには帰国できない。次は越州である。龍興寺に順暁を訪ね,最澄が来たことを知る。ここより,空海と最澄との確執の記述がはじまり,このことは下巻の中心となる。最澄は亜流である雑密を伝授せられ帰国する。最澄の不運のはじまりである。
 p.65で,空海は帰国した。九州筑紫に上陸するものの,上洛はしない。したたかな空海が描かれる。長安で恵果にすぐに逢いに行かなかったように,上洛しない。そうすることで,空海の評判が高まる。ここまで読んでやっと,上巻の最後の恵果との対面に至る空海のしたたかさが理解できた。
 p84で筑紫を離れる。筑紫を離れた空海は難波までは帰る。しかし,まだ上洛はしない。和泉国槙尾山寺に入る。渡海以前に剃髪した空海ゆかりの寺である。槙尾山での空海はp131まで。いよいよ京に入る。髙尾山寺である。和気氏の私寺である。そして,そこで最澄と会う。最澄のほうから接近する。大同4年(809)8月24日のことである。これがはじめての出会いだと,司馬さんは考える。ここは重要なところである。最澄は密教の経典を借りにきたのだ。勿論使いを通してではあるが。
 p.313から,いよいよ高野山の話しとなる。帰国後10年を経ている。
 かつて,宮坂宥勝博士の「空海」(ちくま学芸文庫)を読んでよくわからなかったことが,少しわかった。とはいえ,わかったような気がする,と書いたほうがより本当のことに近い。
 
ストーブに場所譲らんと扇風機羽を洗いて引き揚げにけり
時移り光増やせと枝葉刈り秋の日洩るる庭のまがきに
子猫連れ散歩しがたき親猫は秋の日見つつ道を横切る
椎の実とバベのどんぐり数競う
雲流れ午後の昼寝はやや寒し
水瓶を少し満たして秋時雨
Lunam filiae vident nautarum.
 
 
      感偶
千里浮雲夢自多
孤灯才子奈愁何
山禽不去黄昏月
空照髙楼歳月過
 
2006年10月23日月曜日。小雨後曇り。
 今日は24節気の霜降である。22時26分に太陽黄経210°に至る。午後,少し風が吹いて晩秋の趣深し。
大西風(おおにし)というほどになく風の吹く
霜降の日に少しだけ雨の降る
秋時雨まだ餌を喰うめだかかな
Stellas videmus in silva .
 
ひさかたの雨も降らぬかかた土の水すうときぞこぬか雨だに
秋の日の午後の紅茶にとんずらをするずらといい今はまからむ
蟋蟀はか細く鳴きて公園の一雨ごとに秋は深まり
 
   海夕
白鴎細浪海湯湯
一過潮風魚気香
十里白雲天似水
夕煙縹緲送斜陽
 
 
2006年10月24日火曜日。曇り。
 関東では低気圧の影響で荒れ模様のようです。こちらは雨は降っていませんが,少し夜になって気温が下がったようです。秋は深まり,そしてやがて遠ざかっていく・・・・。
 
とつ国の古き言葉の活用を覚えて忘れ忘れて覚え
星見むと見上げる空の彼方には飛行機の色秋の夕暮れ
友を呼びピアノを習う少年の心のひびき如何に聞くらむ
日に日にと秋は深まり日暮れみち
鈴虫の去りし公園蟋蟀の夜
親離れどこかさみしき子猫かな
Mox occidentur gladiator.
 
 
     閑居
柴扉啼鳥月斜臨
静坐青灯碧水潯
竹径無光人独歩
詩情風月故人心
 
2006年10月25日水曜日。晴。
かわゆくて手を差しのべてちかづげば逃げる子猫や野良猫のさが
秋風の吹く夕暮れは三日月のかぼそくのぼりかぼそく消える
秋風の吹く公園に歩く人黙しておれば姿も見えず
 
柿の葉や道に迷うて飛ばされて
団栗を拾う子なくて日に当たり
 
     秋野
西郊野渡一山迎
流白蕎花秋気清
緩歩村童前日景
風光黄雲遠山平
 
 
2006年10月26日。木曜日。晴。夜雨。
最近の読書から。童門冬二「小説 田中久重」(集英社インターナショナル)。昨今はやりの大人の科学というのがあって,その中にからくり人形がある。縁あって「弓曳童子」の組み立てに2回かかわった。箱の下には,ユーモラスな中国人の子供が仕事をして金の瓢箪をつり上げている。この弓曳童子の作者が,田中久重さんである。「明治維新を動かした天才技術者」という副題がついている。「からくり儀右衛門」あるいは「東芝の父」と呼べば,どういう人物のことであるか,だいたいの想像はつくだろう。その人の伝記小説である。小説というよりも,童門節ともいうべき,童門さんの明解な人物評論である。それにやや想像が加わって,人物が動いている。
からくり人形に道教の影響があるということも教えられた
 そして何よりも,物作りの伝統が脈々と流れていて,それが明治の近代化を成し遂げた大きな理由だと思う。
 
2006年10月27日。金曜日。晴。
 ほんとうに秋も深まったという感じです。月光仮面の額についていたような三日月が出ていました。野良猫の子が三匹出没しています。親もいます。親は真っ黒です。子猫は2匹が白黒の斑模様で遠く眼にはかわいいが,近くで見ると,黒の斑点が黒子のように顔にあり,あまり美男子(美女?)ではありません。もう一匹はうすい黒で決して美しくはありません。しかし,顔は整っています。子猫がじゃれあっているのは実にかわいい。しかし油断禁物。
 
台風の如く時間が通り過ぎしばし佇み明日を忘れて
しらしらと流れる時の片隅に立ち止まりては空間をみゆ
夜も更けて風が吹くのか高圧線のしゅるしゅるといふ音のする
三日月の下を走るは救急車
三日月の出る頃少し寒くなり
     賀夢
春陽好夢気軒昂
仙果群来希望長
才子無量書可読
春風満座喜洋々
 
2006年10月28日。土曜日。晴。
 最近の読書から。長岡洋介「量子力学とはなんだろう」(岩波ジュニア新書)」。この本は,量子力学と著者との関わりを元に記述した,量子力学の入門書です。それ故,著者のご専門の物性論のところが面白く他の類書には見られない特徴となっています。やや難解なところもありますが,量子力学の奥深さと同時に全体をざっと知るにはいい本だと思います。ただこういう本は著者の一時の誤解や偏見がたくさん書かれてあるほどユニークな本になると思いますから,もう少しハメを外した本にしたほうがもっと親しみがわくものになったのではないかと思いました。とはいうものの,岩波ジュニア新書ですから,そういうことは期待するほうが無理というものかも知れませんが。
 
朝日出て気温あがれど人も無き桜の葉散る朝の公園
早起きのふみよむことの多かれど午前も午後もうたた寝ぞする
見上げれば三日月過ぎし秋の月鳴くねかしましこほろぎの聲
 
けふも来て溝によこたふ柿紅葉
寒さ呼び南天の実は色づけり
冷ややかに毛虫何する秋の庭
蟷螂(かまきり)の少し急ぎて塀のうへ
Ecce lunam pulcheram.
 
    秋閑行
秋光深碧白雲中
半日閑行立晩風
返照暮山紅葉散
林梢瑟々路斜通
 
2006年10月29日。日曜日。晴。
  Sunrise Yellowさんから,背景画が届きましたので,早いのですが変えてみます。前回と顎と指はほとんど同じです。小生は西瓜の中味を食べてくりぬき蝋燭を灯したことはありますが,南瓜でそういうことをしたことはございません。
 因みに,小生には,ボーラン,ナンキン,カボチャという順に呼ぶ方が親しみやすい。方言地図をお持ちの方は捜してみてください。ところで,何故ボーランなのだ? 南京とカンボジアというのは伝達経路でしょうねぇ。だけどポーランドということはあり得ないでしょうねぇ。
 原産地ではありませんよ。原産地に興味をお持ちの方は,Newtonの2006年11月号をお読み下さい。なお,ここには,以前にも書いたことがある,なぜ南米でブラジルだけがポルトガル語かということ,すなわち「教皇子午線」と「トルデシリャス条約」のことや,アイルランドと馬鈴薯の話しも書かれております。
 
光満ち木の葉色づく故郷にまどろむ午後の秋風の吹く
砂浜に立ちいでてみれば人も無く秋のうしほは静に流る
蟷螂の逆さに歩む午後の日や
外つ国で南瓜くりぬく神無月
 
     秋思
蛩声満地夜窓幽
独対金風往事悠
月白玲瓏君健否
三更顥気座書楼
 
2006年10月30日。月曜日。晴。
 タンギンという試罪法では,被告人にカラバル豆を食べさせる。被告人が冤罪であればやけを起こして一気に食べ吐き気を催して,吐き出すので死ないので無罪放免となる。一方身に覚えのある真犯人は恐る恐る食べるので吐き気を催す前に豆の成分が吸収されて死んでしまうのだそうです。こういうお話しが,コリンエステラーゼ阻害の例として,京都薬科大学の梶本哲也先生によって紹介されておりました(化学と教育,vol.54,564)。全ての犯人及び冤罪に当てはまるのかは,疑問があるにしても,考えついた人は凄い心理学者ですね。呪術として発展してきたものであるにしても,凄いことだと思います。 カラバルを喰いて戻すは無罪なり  タンギンを考えた人何物ぞ
 また,p559の同じ梶本先生の文に,夾竹桃とバーベキューの話しがシャーロックホームズに出てくるとあります。夾竹桃の枝には毒があって,キャンプ場の近くにあって,それでバーベキューをして中毒したという話しは,かつて読んだことがありますが,シャーロックホームズに出てくるとは,知りませんでした。シャーロックホームズは新潮文庫で大学4年のときに全て読んでいるのですが,残念ながら記憶にございません。 原爆の廃墟に咲きし夾竹桃  子供らよ枝に触るな夾竹桃
 
朝刊の上に丸まる野良子猫折り重なって寒さしのぎつ
半月の冷たく光り神無月秋のゆうべば静かに更けゆく
 
柿とる手母の頭上に伸びてゆき
半月の見える窓辺はうそ寒し
午後の日の影は短し小紫
 
     書屋
南軒三径夢中尋
浮沈江湖惜寸陰
臨水閑来書屋静
窓燈一架到更深
 
2006年10月31日。火曜日。晴。
 雨のほとんど降らなかった神無月が今日で終わりです。朝夕に少しずつ冷気を感じる頃となりましたが,それにしても,長い秋でした。季節は巡り,晩秋の風情が日増しに深まっております。とはいえ,夕凪亭閑話10月は少しワンパターンになってしまいました。されど,妙案なし。妙案ないままで,これにて閉店・・・・。
 
紅葉の季節到らば山陰のちいさき町に住める日思ふ
入校は五月にするも秋風の吹く頃になり免許をとるは
大山は日に日に変わり近づけばススキは揺れる海の秋風
 
秋の庭日影の池のメダカかな
良寛の赤き装丁秋の夜
十月を見送る夜の夕凪亭
 
    秋夜
満天散尽夜闌干
一片詩篇月巳残
遠樹沈沈秋夜永

虫声枯坐一灯寒