2007年11月1日。木曜日。曇り時々小雨。旧暦9・22 つちのと 七赤 赤口
11月になりました。霜月です。またまた背景色に悩みます。金色ではおかしいし,少し薄めにしてみました。
「カラマーゾフの兄弟」の「2 老いぼれ道化」を読む。いよいよゾシマ長老との面談であるが,フョードルの一方的な道化で,訳がわからなくなる。しかし,このような得体の知れない人物描写がドストエフスキーの本領である。とうてい付いて行けない人物の奥深さを理解しようとしても理解できない。時間はなかなか進まない。したがって物語もなかなか進まない,ように見える。だが,これがこの物語そのものなのである。まことにドストエフスキーというのは,凄い人である。
「張釈之馮唐列伝 第四十二」(新釈漢文大系)
こちらのほうは,「史記十一」「列伝四」に入りました。張釈之(ちょうせきし)と馮唐(ふうとう)の列伝である。張釈之は漢の文帝のもとで,帝に対して,自ら信じることを直言し,その都度,認められて栄達していく。しかし,文帝が崩じ景帝の世となると,かつて車から降りなかったことを非難したことがあるので,面会に行くのに躊躇する場面があるが,これには違和感が残る。張釈之ほどの人物が,この程度のことで判断を誤るとは思えない。後人の追加ではなかろうか。
2007年11月2日。金曜日。晴れ。旧暦9・23 かのえ ね 六白 先勝
夜になると少し冷気を感じます。秋が深まっていくようです。
「カラマーゾフの兄弟」の次は「3 信仰心のあつい農婦たち」で,なかなか感動的な場面である。ゾシマ長老は,悩める女たちの苦悩を聞いてやり,アドバイスを与える。神の御名によって,即ち宗教によって,苦しみや悲しみが軽減するのであれば,それは尊いことに違いない。
「張釈之馮唐列伝 第四十二」(新釈漢文大系)
後半は馮唐(ふうとう)の話である。前半の張釈之(ちょうせきし)と同様,馮唐も文帝にずけずけと物を言う。一度は文帝も怒るが,後にその理を聞き納得し,馮唐をとりたてる。君臣の良き関係であり,二人の臣下も立派だが,文帝も立派であったということである。太史公曰にある。有味哉!有味哉!(味はひ有るかな)語曰“不知其人,視其友”。二君之所稱誦,可著廊廟。書曰“不偏不黨,王道蕩蕩;不黨不偏,王道便便”。張季、馮公近之矣。
2007年11月3日。土曜日。晴れ。旧暦9・24 かのと うし 五黄 友引 文化の日
土曜日で祝日で,開いているところが開いてなかったり,閉まっているところが開いていたりと,とまどう秋の一日でございました。朝はよく晴れて放射冷却が起こったのでしょうか,気温は下がったようです。しかし,日中や秋晴れの気持ちのよい日でございました。
「4 信仰心の薄い貴婦人」
ゾシマ長老の会見は続く。奇跡のようなことが起こっている。キリストについて書いているのではないかと思う。間接的に。ここで出てくる婦人は信仰心がないのではない。少し捻れているだけであろう。アリョーシャとリーズという少女が出てくる。アリョーシャは修行中ということになっている。
今回は,「カラマーゾフの兄弟」を最後まで読むつもりはない。亀山郁夫さんの新訳が出たので,以前読んだ米川正夫さんの訳と比べてみたら,わかりやすくなっていたので,少しだけ読んでいるという次第だ。そのうち,退屈になったらやめようと思う。
「万石張叔列伝 第四十三」(新釈漢文大系)
まず前半は,万石(ばんせき)君奮とその子どもたちの話である。長子建,末子慶が主として語られる。皆いずれも謹言実直で天子に重んじられ栄達に預かる。儒教の説く理想の人物のようであるが,儒家嫌いの后に,言少なく実直であるところが重んじられるというようなところもあるが,有能な官吏であったようだ。本人と四人の子どもがそれぞれ二千石取りに封じられるので合わせて一万石であるので万石君と景帝が呼んだ。しかし,政治家としては,たいした働きはしない。謹厳実直の極端な人物を極端に書くというのが司馬遷の文学的なところである。
2007年11月4日。日曜日。晴れ。旧暦9・25 みずのえ とら 四緑 先負
夜になると温度が下がります。こうして秋は深まっていき,当方はどんどんと年をとっていきます。
ツワブキが間もなく咲きそうです。去年は刈り過ぎてほとんど咲かなかったので,今年は少し残しております。
「5 アーメン,アーメン」
ああ,ついにここに至って話が難しくなってきた。ゾシマ長老が,イワンとミウーソフが議論しているところに戻ってきた。国家と教会のどちらが上かという議論が延々と続く。教会が国家を凌ぐのはよくないが,歴史はそうはならなかった。
「万石張叔列伝 第四十三」(新釈漢文大系)
二番目は建陵候衛綰(えいわん)の話である。この人も,謹言実直で文帝,景帝に信頼され取り立てられる。郎官有譴(せめあれば),常蒙其罪,不與他將爭;有功,常讓他將。というような立派な人物ではある。しかし,然自初官以至丞相,終無可言。(何らの建議を行わなかった)し,景帝病みしとき丞相の職務を十分果たしていなかったので多くの冤罪者を出したという罪で,景帝崩き後に罷免された。
2007年11月5日。月曜日。曇り後雨。旧暦9・26 みずのと う 三碧 仏滅
天気予報どおり午後から雨になった。とはいえ小雨である。また秋が深まるのであろう。
「6 どうしてこんな男が生きているんだ!」
ますます,話は複雑になっていく。とはいうものの,ここでは,キリスト教論ではなくて,遅れてきたドミートリーと父親との対決である。そしてゾシマ長老はあたかもドミートリーを許すが如くドミートリーの足下にひざまずいてお辞儀をする。ここも難解なところである。
さて,若い頃は結末が知りたさにただ読むことに夢中になって,それぞれのところを味わう余裕がなかったように思う。それが二度目になると,あせらなくてもいいので,それぞれのところを楽しむことができる。そういう意味では,難解なれども存分にドストエフスキー的世界を楽しむことができるところではあった。それともう一つ,この年になると,こういう長いものは,この次に読む機会はもう無いのではなかろうかという自覚である。だからわからないところは,永遠にわからないのであり,それはそれで認めるしかないと思うのである。
「万石張叔列伝 第四十三」(新釈漢文大系)
三番目は,短いが郎中令周文の話である。周文は性格が重厚で景帝に気にいられた。わざと襤褸を着て,不潔にしていたので,宮女も近づかないだろうということで帝の寝所にも出入りが許された。また下賜されたものも受けとらなかった。
最後が御史大夫張叔(ちょうしゅく)である。張叔は役人になっても人を取り調べなかったので部下からも信頼され裏切られることもなかった。
太史公曰では,仲尼有言曰“君子欲訥於言而敏於行”,其萬石、建陵、張叔之謂邪?また,塞侯微巧,而周文處?(おもねりの態度),君子譏之,為其近於佞也。然斯可謂篤行君子矣!(しかれどもこれ篤行君子と謂ふべし)と記す。
2007年11月6日。火曜日。曇り一時小雨。旧暦9・27 きのえ たつ 二黒 大安
雨は止みましたが,寒くなりました。風も吹いています。冬の影がちらちら。
「7 出世志向の神学生」(光文社文庫)
まずアリョーシャとゾシマ長老の別れの場面がある。「悲しみのなかに幸せを求めよ」そしてしっかり働きなさいと,という遺言をする。その後,ラチーキンとアリョーシャとの対話。カラマーゾフ家のもめ事の詳細が読者の前にあきらかになる。見事な小説作りである。
田叔列伝 第四十四」(新釈漢文大系)
田叔(でんしゅく)というまことに徳の篤い人物の伝記である。司馬遷は太史公曰で,義不忘賢,明主之美以救過と記す。田叔の子・仁は田叔の死に際し魯王から百金が送られたが,“不以百金傷先人名。”と言って受けとらなかった。仁についての小伝は錯綜していてよくわからない。
2007年11月7日。水曜日。晴れ。旧暦9・28 きのと 一白 赤口
秋晴れの暖かい日であった。それ故か,夜になってどんどんと気温が下がっていく。
「田叔列伝 第四十四」(新釈漢文大系)
後半は褚少孫の補作で田叔の子・仁と任安の伝記である。ともに貧しかったが認められてからは責任ある地位につき有名になる。しかし最後は二人とも失脚し,刑死する。知進而不知退,久乘富貴,禍積為祟というのが褚少孫の結論。
2007年11月8日。木曜日。晴れ。旧暦9・29 ひのえ うま 九紫 先勝 立冬
もう立冬である。水温が下がったせいか,メダカも,金魚も,鯉も動きが鈍くなった。少し前からヒーターを入れ,時々加温している。ウォーターレタスとホテイアオイにとっても冬を越すためには必用なのだ。
「扁鵲倉公列伝 第四十五」(新釈漢文大系)
扁鵲(へんじゃく)と倉公(そうこう)という二人の名医の話である。はじめから透視だの死人を生き返らせるたりと,いささか眉唾的な話題で閉口する。岩波文庫も「医学の記述について正確に訳しうる自信がない」とのことで省略されている。
扁鵲は秦の太醫,令李醯(れいいき)により刺客に殺される。しかし,脈法は今なお扁鵲にしたがっているという。秦太醫令李醯自知伎不如扁鵲也,使人刺殺之。至今天下言脈者,由扁鵲也。
後半の倉公伝は長い。
2007年11月9日。金曜日。晴れ。旧暦9・30 ひのと ひつじ 八白 友引
「扁鵲倉公列伝 第四十五」(新釈漢文大系)
倉公(そうこう)は斉の太倉の長官なので太倉公と呼ばれた。若い頃から医学を勉強していたが,公乗陽慶から秘伝の医術(扁鵲の医術)を伝授された。しかし,治療をほどこさなかったので病人の家族から恨まれた。讒言され肉刑になるところを,四女が上書し,文帝は倉公を許すとともに肉刑を廃止した。
2007年11月11日。日曜日。晴れ。旧暦10・2 つちのと とり 六白 大安
一昨日,昨日と所用で鳥取へ行ってきました。昭和50年には米子に住んで出張でよく鳥取に行っていたものです。その頃に比べて駅前にはホテルやビルが増えています。しかし商店街を歩くと,昔ながらのお店屋さんが,かなり残っていて旅情を感じます。空気の澄みようは,鳥取,倉吉と,まことに素晴らしい。水もきれいです。
「扁鵲倉公列伝 第四十五」(新釈漢文大系)
倉公(そうこう)は娘の嘆願によって許され隠居しているときに孝文帝から,来歴,治療歴を尋ねられ答えております。そういうのが複数回あり,それが混ざって史記が書かれているのではないかと,考えられているようです。また診断歴が,他の列伝と比べても極端に長いので,後世による補作・追記があったという説には,納得します。
2007年11月12日。月曜日。晴れ。旧暦10・3 かのえ いぬ 五黄 赤口
朝夕がさらに寒くなった。
まだ,同じところを読んでいる。
「扁鵲倉公列伝 第四十五」(新釈漢文大系)
倉公の診断例が長々と続く。多くは脈により診断するのだが,時には顔色から見分ける場合もある。他の医者が診断を下していて倉公がそれを誤りだと指摘する例が多い。また,倉公が診断しっときは治らない病気になっており予言通りに死ぬ場合が多いが,正しい治療(薬や灸)で快癒した例も挙げられる。患者の身分もいろいろである。というように,多数の事例が挙げられるが同じものは無く,バラエティに富んでいる。
2007年11月13日。火曜日。晴れ。旧暦10・4 かのと い 四緑 先勝 さんりんぼう
新聞が大山の初冠雪を報じている。最高気温が20℃で最低気温が8℃というのが,こちらの住んでいる地方の状況である。晩秋と呼んでよいのであろう。
「扁鵲倉公列伝 第四十五」(新釈漢文大系)
やっと巻末に到達しました。最後は孝文帝に倉公が答える形で,倉公の経歴や診断の解説が述べられております。そして最後は同じみの太史公曰ですが,これは此の巻の二度目で明らかに補筆者の言であります。女無美惡,居宮見妒(女は美悪となく宮におれば妬まれ);士無賢不肖,入朝見疑。(士は賢不肖となく朝に入れば疑わる)。故扁鵲以其伎見殃(故に扁鵲はその伎をもってわざはいにあひ),倉公乃匿跡自隱而當刑。(倉公は乃ち跡を匿し自ら隱れて,而も刑に當す)という訳である。少しわかりすぎる評言がかえって,司馬遷の言でないことを示しているようだ。
2007年11月14日。水曜日。晴れ。旧暦10・5 みずのえ ね 三碧 友引
寒くなった夕空に美しい三日月が浮かんでいます。
「魏其武安侯列伝 第四十七」(新釈漢文大系)
魏其(ぎき),武安侯(ぶあんこう),それに灌夫の三人の伝記であるが,正直言っておもしろくない。人物が小者なのだ。
2007年11月15日。木曜日。晴れ。旧暦10・6 みずのと うし 二黒 先負 七五三
「韓長孺列伝 第四十八」(新釈漢文大系)
韓長孺(かんちょうじゅ),すなわち韓安国の話である。匈奴ととの和睦策を出すが,最後まで徹底しない。賄賂を送って出世するのだが,日々の行為は立派であるという複雑な人物である。
2007年11月16日。金曜日。曇り一時雨。旧暦10・7 きのえ とら 一白 仏滅
朝から雲って寒い一日だった。ごごになって少し雨が降った。ほんのわずか。
「南越列伝 第五十三」(筑摩・古典世界文学19)
趙佗(ちょうた)すなわち尉佗(いた)は秦が滅ぶとともに漢にも服さず揚越で独立国家を建てた。漢の属国として独立していたが,五代93年で漢との関係を悪くして滅ぼされた。「呂嘉が目先だけの小さな忠義にとらわれたために」国は滅んだと司馬遷は言う。辺境の小国にとっては,漢の使節とうまくやっておくことが大切だったのである。
2007年11月17日。土曜日。晴れ。旧暦10・8 きのと う 九紫 大安
昨日とはうって変わり,本日はまことによいお天気だった。しかし,徐々に秋は深まっていく。
「東越列伝 第五十四」(新釈漢文大系)
越王句践の子孫たちの物語である。司馬遷による蛮族であるのに長く国がもっているのは句践の功徳によるものだと言う。大国の辺境の小国の運命というものはいつの時代にも危ういものである。
2007年11月18日。日曜日。晴れ,一時雨。旧暦10・9 ひのえ たつ 八白 赤口
朝,町内会の道路掃除がありました。小雨の中冷たい風が吹いて冬の到来です。
午後,井原市の「華鴒大塚美術館」へ「近代京都画壇 画家たちの挑戦 ~動物を描く~」を見に行ってきました。動物中心の日本画で大変美しい。動物写真ではないから,一瞬の表情という訳ではないが,画家たちの眼と触れあった動物たちの表情が印象的です。兎,猫,鹿,猿,犬,虎,ヒョウ,・・・たくさんの動物画で,秋に相応しい。それに中庭の日本庭園が見事です。
ひさしぶりに,「8 大醜態」。光文社文庫「カラマーゾフの兄弟1」です。修道院長の部屋で会食をしようとしたとき,帰ったはずのフョードルが戻って来て,またもや道化を演じます。理解しがたい醜態を演じるわけですが,その理解しがたい行為を行う性格を描くことによってこの場面が荒唐無稽ではなく,作者によって実に丹念にフョードルの性格が作られているということがわかります。そうおいう意味では,ここはこの凄い小説の一つの山場であるでしょう。ここまでで,第一部第二編「場違いな会合」が終わります。
「朝鮮列伝 第五十五」(新釈漢文大系)
大国と辺境の小国との関係である。小国を維持するためには,大国のご機嫌を取り,有効な関係を維持しないとやっていけない。多分,21世紀初頭の日本と米国でも同じであろう。ことの善し悪し,個々人の思いとは別にして。燕の衛満が朝鮮国を作る。小国が大国からの慫慂を拒否したとき,戦争は始まる。孫の右渠の時代になったとき漢に背いたから争いが生じた。結果としてこのときの朝鮮国は滅びる。しかし,勝った漢の将の功無く,負けた朝鮮国の将たちが後の支配地の候に封ぜられるのだから,漢の将たちは何の為に戦ったのかわからないではないか。
2007年11月19日。月曜日。晴れ。旧暦10・10 ひのと み 七赤 先勝
寒くなりました。全国的に寒いようです。
「西南夷列伝 第五十六」(新釈漢文大系)
これまた辺境の小国の話であるが,今回は西域である。すなわちはるか西方,シルクロードの地,夜郎国をはじめとする小国である。果たして,これらの地を支配することに,どれだけの利があったのか判然としないが,むしろ労多くして益少なし,との感が強い。
2007年11月20日。火曜日。晴れ。旧暦10・11 つちのえ うま 六白 友引
例年にない早い冬の訪れにとまどっております。
「淮南衡山列伝 第五十八」(新釈漢文大系)
生まれつき,争いの渦中にあるような人もいるものである。淮南(わいなん)王劉長などはその典型であろう。高祖の子として生まれるが,長子ではないので,その跡を継ぐことはできない。それでも淮南王にしてもらっただけでもいい。万葉の時代にもあった虎を野に放つようなものです,という言葉を思い出す。最後は反乱を起こし死んでしまうという劉長の伝記が前半。
2007年11月21日。水曜日。晴れ。旧暦10・12 つちのと ひつじ 五黄 先負
冬まっただ中であります。灯油もどんどん使います。
「ホーキング・未来を語る」(佐藤勝彦訳・SB文庫)を読みました。図も美しく大変楽しい本です。文庫で求めましたが,図と,その説明やコラムの活字が小さくて読みにくいので,単行本の大きな活字で読んだほうがよかったか,と後悔。宇宙が益々神秘的に思われてきます。また,未来についての洞察は素晴らしいものがあります。ついでに書くと,「猿の惑星」「続猿の惑星」を久々に見ました。ホーキング博士の本と,頭の中がよくマッチしました。別に意図したわけではありませんが。
「淮南衡山列伝 第五十八」(新釈漢文大系)
次は淮南王劉長の子,劉安と劉賜の兄弟の話であるが,まずは劉安から。文帝は劉長の兄で,劉長を殺しても,その子たちを殺しはしない。劉安を淮南王に,劉賜を廬江王にしてやる。しかし,劉安は父の死を恨み反乱を起こし,死んでしまうし,淮南国は無くなる。
2007年11月22日。木曜日。晴れ。旧暦10・13 かのえ さる 四緑 仏滅
やはりい寒い。今日は「新 猿の惑星」を見た。前二作の解説が籠められており,よくわかる。
「淮南衡山列伝 第五十八」(新釈漢文大系)
最後は,廬江王・劉賜,すなわち淮南王劉安の弟である。後に衡山王と追号される。本文はもっぱら衡山王と記す。こちらの兄弟も仲が悪く,兄に併合されるのではないかという恐れから反乱の準備をして,結局は衡山国も滅ばされて衡山郡となる。司馬遷は,楚の人柄や臣下に有能な者がいなかったことなども,愚策の因として挙げる。
なお「淮南子」の編者である劉安は学問好きであったということであるが,そのことは本巻では触れられない。
新釈漢文大系の「列伝五」は本年九月に発売されたばかりである。「列伝六」は未刊である。
2007年11月23日。金曜日。晴れ。旧暦10・14 かのと とり 三碧 大安 小雪 勤労感謝の日
勤労感謝の日ですが,誰が何に感謝するのかわかりませんので,自分で日々の労働に(仕事があることに)感謝して,ゆっくり休むのがいいのかも知れません。出かける予定でしたが,寒くなったのでキャンセルして家でのんびりとしておりました。祭日に感謝,感謝。歴史的には五穀豊穣に感謝すべきでしょうから,果物とか,ご飯に感謝も致しましたが。
「猿の惑星 征服」を見る。シリーズ四作目で,ストーリーが繋がっているのが楽しい。犬と猫が宇宙飛行士が持ち帰ったウイルスで絶滅し,代わりに猿がペットとして飼われだし,奴隷として働かされている社会という設定は,SFとしては無理がありません。
「日者列伝 第六十七」(古典世界文学19)
筑摩の古典世界文学19 というのは筑摩の世界古典文学全集20のリプリントである。岩波文庫の親本である。明治書院の新釈漢文大系では,「列伝六」になるのであろうが,まだ刊行されていないので,こちらに依る。
日者(にっしゃ)というのは,日の占いをする人のことである。司馬季主(しばきしゅ)について語られる。太子公曰くでは,昔の占者は記録になく,司馬季主については記憶してあると書いてある。
2007年11月24日。土曜日。晴れ。旧暦10・15 みずのえ いぬ 二黒 赤口
今日は冬にしては珍しくよいお天気であったので庭の掃除などした。海は大潮で潮の流れも速く,白波が美しい。日が暮れるとこれまた澄んだ空に大きな満月がくっきりと浮かんですがすがしい。あそこに住む人たちがそのうち出てくるかも知れないが,その頃には,こちらはとっくに生命活動を停止しているので,ご苦労さんの一言も言えないが,そのような世の中になるまで人類が生存しているかということが一番大きな問題ではないかと思う。
「亀策列伝 第六十八」(和訳史記列伝)
岩波文庫の巻1にあるように小川環樹氏らの訳でも「亀卜の方法について正確に訳しうることが不可能」として現代語訳されていない。新釈漢文大系は刊行されていない。(筑摩文庫については未見)ということで国立国会図書館の近代デジタルライブラリーにある田岡嶺雲訳注「和訳史記列伝」(玄黄社,明治44年)を見ることにした。
はじめを記せば, 太史公曰く:古より圣王將に國を建て命を受けて,事業を興動せんとする,何ぞ嘗て卜筮を寶として以って善を助けざらん!唐虞以上は,記すべからざるのみ。三代の興ってより,各禎祥に據る。涂山の兆し從にして夏?世つぐ,飛燕の卜順なる故に殷興る,百谷の筮吉なる故に周王たり。王は諸疑を決定する,參するに卜筮を以てし,斷ずるに蓍龜を以てす。不易の道なり。
ということで,亀による占いが記されている。前半は司馬遷の筆になるものかも知れないが途中から 褚先生曰となり他の巻と同様追記がある。この前に少しあるが。その?先生の記述だと思われるが,占いの場合と結果が夥しく記述されて退屈である。その巻末は,太史公曰くではなく,大論に曰くとなっていて,これも司馬遷が書いたものではあるまいと思う。そこも引用しておこう。
大論に曰く:外は人なり,内は自我なり;外は女なり,内は男なり。首俛する者は憂う。大なる者は身なり,小なる者は枝なり。大法に,病者は,足?(月+今,以下同じ)まれば生き,足開けば死す。行く者は,足開けば至り,足?まれば至らず。行く者は,足?れば行かず,足開けば行く。求むる有るは,足開けば得,足?まれば得ず。系がるる者は,足?まれば出でず,開けば出づ。其の病を卜するに,足開いて死する者は,内高くして外下しと。
最後はあまり面白くなかったが,以上で史記列伝70巻を終える。
2007年11月25日。日曜日。晴れ。旧暦10・16 みずのと い 一白 先勝 さんりんぼう
今日は三島さんの命日です。昭和四五年のあの日も,今日のように暖かい日でした。
今日はショーン・コネリー主演の「薔薇の名前」を見ました。大作ですが,推理を楽しむほどの明解さはないように思います。
「呉太伯世家 第一 史記巻三十一」(新釈漢文大系)
今日から世家に入ります。テキストは新釈漢文大系の「史記五 世家上」です。
この巻は王家を継がずに兄弟に譲る話が中心です。まず,周の太王の子らが末子に譲って呉に行きます。これが呉太伯です。次に太伯の弟が継ぎ,何代かたちます。兄弟で後を継ぐようにしたとき,大変すぐれた人物である末子の季札がやはり王位を避けるという話が書かれます。そいう遺伝子の家系かもしれません。それでまた兄の子どもに返り,その後,有名な越王句践と呉王夫差の戦いがあって,呉王は負け,滅びます。途中,刺客の話などもあり,楽しめる巻です。
2007年11月26日。月曜日。晴れ。旧暦10・17 きのえ ね 一白 友引
三連休の後の気分は多くのヒトにとって同じようなものだろうから,書くだけ野暮というものだろう。おまけにそれに水を注すような天気だから・・・。
ともあれ,また新しい一週間が始まった。
「斉太公世家 第二 史記巻三十二」(新釈漢文大系)
前半は斉太公すなわち太公望呂尚の話である。呂尚の死後どんどんと代が代わるのであるが,管鮑の交わりで有名な管中鮑叔が出てくる。そして斉の桓公の話となる。
2007年11月28日。水曜日。晴れ。旧暦10・19 ひのえ とら 三碧 仏滅
今週は最高気温も上がらず寒くなると予想されたが,寒さのほうはやや和らいで例年並みの冬になったのではないかと思う。
「斉太公世家 第二 史記巻三十二」(新釈漢文大系)
桓公の死後も次々と王は代わり歴史は続くのだが,これと言って善政が行われないのは寂しい。いたずらに戦い・殺戮を繰り返すのは,優れた人物が排出しないからであろうか。
2007年11月29日。木曜日。晴れ。旧暦10・20 ひのと う 四緑 大安
山茶花がもう咲いております。例年より早いように思います。
曇り空の下に11月が音もなく過ぎ去ろうとしているようです。明日で11月も終わりです。
「魯周公世家 第三 史記巻三十三」(新釈漢文大系)
またまた歴史は周の初期に帰ります。「我文王之子,武王之弟,成王之叔父」という周公旦の話から始まります。武王十一年に殷を破ったとき,遍く功臣同姓戚者を封ずということになり,封周公旦於少昊之虛曲阜,是為魯公ということになりますが,周公不就封,留佐武王として留まります。
魯周公というのはそういうことですが,名前は旦ででてきます。巻頭に戻ると,次のように始まります。周公旦者,周武王弟也。自文王在時,旦為子孝,篤仁,異於群子。及武王即位,旦常輔翼武王,用事居多。
旦,子となりて孝に,仁篤くして,群子と異なれり。なかなかうまい表現だと思います。エリートの伝記の書き出しとしてはよくできていると思われますが,後から書いたことですから,これくらいは当然だとしても,ヒーローの資格十分です。
2007年11月30日。金曜日。晴れ。旧暦10・21 ついちのえ たつ 五黄 赤口
今日はこの時期にしては珍しくよいお天気で,明るく太陽が照って気持ちのよい日でした。近くの山は赤茶黄に染まり初冬のやわらかい日に輝いておりました。ということで寒さに愕いた11月も今日で終わりです。
「魯周公世家 第三 史記巻三十三」(新釈漢文大系)
周公は兄の武王が亡くなっても即位しない。武王の子どもの成王を立て,補佐する。その忠勤ぶりがこの巻の中心になる。時に周囲の反抗にあったり成王にも疑われたりするが,死後いかに周公がわが身を顧みず尽くしたか理解し,文王の墓のあるところに葬り尊敬したという美談になる。一方,魯を任された周公の息子伯禽はそれほどの才能を示さない。以下魯の歴史が語られるが,いずれの後継者も短く特別のことはない。