2007年9月1日。土曜日。晴れ。旧暦7・20 つちのえ いぬ 五黄 友引 二百十日
今日は雨は降りませんでした。秋らしい一日でした。
「ローマ人の物語XⅡ 迷走する帝国TERTLL . SAECULI CRISIS」(新潮社)第一部 ローマ帝国・三世紀前半 第三章(紀元235年-260年) 皇帝デキウス(在位249年-251) p.183-p.205
またまた歴史の転回点である。デキウスは,はじめてキリスト教徒弾圧をはじめる。これまでは布教活動を行う祭司階級が弾圧されていたのだが,ここにいたって信者個人も取り締まりの対象となった。そして,また蛮族の侵入。これも深くオラキアまで,騎馬による侵入を許してしまうのだから,ドナウ防衛線が機能しなくなったことになる。多数の蛮族に対して飛び飛びの軍団基地や駐屯地では,その間を渡河してくる蛮族には対応できない。以後,侵入した蛮族との戦いに明け暮れるようになる。皇帝デキウスも,息子の共同統治していた皇帝エトゥルクスも,その戦いの中で死ぬ。もっと後代になるが,辻邦生さんの「背教者ユリアヌス」の主人公も確か,蛮族との戦いの中で死んだ。
2007年9月2日。日曜日。晴れ。旧暦7・21 つちのと い 四緑 先負 さんりんぼう
よいお天気で,少し暑いようでした。でもこれくらいの残暑ならがまんできます。夜は,さすがに秋の趣です。
「ローマ人の物語XⅡ 迷走する帝国TERTLL . SAECULI CRISIS」(新潮社)第一部
ローマ帝国・三世紀前半 第三章(紀元235年-260年) 皇帝ヴァレリアヌス(在位253年-260) p.205-p.212
この12巻目のタイトルは「迷走する帝国」であって,その頭である皇帝を追っていると,いつの間にか迷路に入り込んでしまいそうである。だから,皇帝デキウスの後は飛ばして,次が皇帝ヴァレリアヌスである。この時代も,これまでと同様であって,益々悪くなっていく。蛮族はどんどん侵入し略奪し,ついには地中海にまで出て,海賊行為までする。海からの守りの弱い都市はひとたまりもない。そういう国家の危機に際して,協力しないのがキリスト教である。おまけに国家財政は破綻に近いのに,お金を持っている。これでは迫害されても仕方があるまい,と思いたくなる。
2007年9月3日。月曜日。晴れ。旧暦7・22 かのえ ね 三碧 仏滅
夏が戻ってきたような暑さです。でも夜は少し,涼しくなりました。
「ローマ人の物語XⅡ 迷走する帝国TERTLL . SAECULI CRISIS」(新潮社)第二部 ローマ帝国・三世紀後半 第一章(紀元260年-270年)p.214-p.223
皇帝ヴァレリアヌスの話が続く。皇帝ヴァレリアヌスは高齢で息子のガリエヌスを共同皇帝にしており,一人がローマで政治を一人が蛮族を相手に総司令官になるというやりかたであったが,ササン朝ペルシアのシャプール王の活動が活発になった。それに対応したのがヴァレリアヌスで息子のガリエヌスは北方蛮族に当たった。東方では,皇帝ヴァレリアヌスが生きたままで捕らえられた。捕虜になったローマ兵は見事な公共工事を残しているという。
2007年9月4日。火曜日。晴れ。旧暦7・23 かのと うし 二黒 大安
ふぅーっ。暑うございました。残暑お見舞い申し上げます。衷心より。
「ローマ人の物語XⅡ 迷走する帝国TERTLL . SAECULI CRISIS」 (新潮社)第二部 ローマ帝国・三世紀後半 第一章 皇帝ガリエヌス(在位253年-268年) p.223-p.257
皇帝ガリエヌスは,ローマの歴史上はじめて外敵に捕囚された皇帝ヴァレリアヌスの息子である。父帝が捕囚されたから皇帝になったのではなく,既に二人で共同皇帝としてやっていたわけであって,260年からは,一人でローマ帝国を背負うことになる。とはいえ,北方蛮族の侵入への応戦に明け暮れ,東方の父帝救出どころか,ローマにも帰らず,孤軍奮闘するしかなかった。それでも迷走する皇帝群の中ではよくやったほうではなかったか。
しかし,それにしても大変な時代だ。崩壊過程と言ってしまえばそれまでだが,それでも,ガリエヌスはガリエヌスなりにベストを尽くしたのだろう。元老院の評判は悪くとも。そのひとつにガリア帝国がある。ガリア帝国というのは,ローマ帝国からの分離独立である。皇帝争いに似てはいるが,少し違う。しかし,衝突することでは同じである。その衝突は勝負がつかない。それでガリエヌスは,そのまま放置するという政策をとる。そうすればライン防衛線はガリア帝国の領域になるというわけだ。ガリア帝国は14年間も続く。次が少し東によったゲルマニア防壁だ。これも,アレマンノ族という蛮族を,防壁の内部に住ませ,これをもって防衛線としたことだ。敗退・縮小といえばそうであるし,安定化といえば,この状況でよくぞ成したとも言える奇策である。そして,東方へ戦力を集中するというのである。
さらにまた,東方,対ペルシア戦においても奇妙な事が起こる。パルミア人オデナトゥスが父帝ヴァレリアヌスの代から弓で武装した自前の軽騎兵団を連れて志願し,取り立てられる。ヴァレリアヌスが捕囚されてからも,態度は変えず,ガリエヌスは東方担当司令官という,シリア総督以上の地位につけ,対ペルシアの守りを任す。この関係は8年間も良好に続いた。
しかし,この「信義」はやがて終焉する。オデナトゥスが仲間割れによって,長男とともに殺害されると。するとオデナトゥスの二度目の妻ゼノビアが息子を後釜にして自らは後見人になるから,話は複雑になる。
ゼノビアは夫がしなかったことをする。皇帝ガリエヌスの弱みにつけこんでカッパドキアとエジプトまで,自分の支配権として認めさせた。こうなれば,もはや均衡は崩れるしかない。
この間,またまた大きく歴史は回転する。元老院と軍隊の完全分離である。皇帝ガリエヌスが提案し,元老院が認めたのだろうから,そのときの状況には合っていたのだろう。
不思議なローマの元老院が,元老院でなくなるのだから,ローマ帝国も,もはや再興の可能性は無くなると言ってもいい。
そして,もう一つ。重装歩兵主体のローマ軍を軽装騎兵主体の軍団に変えたのである。侵入してくる蛮族が騎馬でくれば,重装歩兵では間に合わない。ということで,まことに時代に対応したもののように見える。その通りであったのだろう。しかし,そのことが軍人の体質まで変えてしまったのである。
このように次から次へと手を打つ皇帝ガリエヌスであったが,事態はいっこうによくならない。そういう状況に我慢できない部下によって皇帝ガリエヌスは殺される。軍事クーデターである。
2007年9月5日。水曜日。晴れ。旧暦7・24 みずのえ とら 一白 赤口
連日最高気温34℃で,残暑が続いております。秋の虫はよく鳴いていますが・・・。
「ローマ人の物語XⅡ 迷走する帝国TERTLL . SAECULI CRISIS」(新潮社)第二部 ローマ帝国・三世紀後半 第一章 皇帝クラウディウス・ゴティクス(在位268年-270年)p.257-p.264
次の皇帝クラウディウス・ゴティクスは,軽騎兵隊の隊長出身です。アドリア海の北,ドナウ河南のイリリア地方出身で,以後,出身地やキャリアの同じような皇帝が続きます。
クラウディウス・ゴティクスもローマに行くことなく,皇帝として蛮族,特にゴート族の侵入に対して戦います。そして,ある程度の成果を得ます。勝って,ゴート族の若い者にはローマ軍に誘い,またそれ以外の者には属州モエシアへの入植を進めます。国境に入植して防衛線となるのは,戦後のドミニカ移民を思い出しますが,ローマ帝国では常套手段です。しかし,敵国人にそうさせるのは始めてです。が,その政策がうまく行ったようです。しかし,残念なことに皇帝クラウディウス・ゴティクスは疫病に倒れます。
2007年9月6日。木曜日。晴れ。旧暦7・25 みずのと う 九紫 先勝
台風が関東地方に接近して雨が降っているようですが,こちらは昨日よりも暑く,三四℃を越えたのではないでしょうか。ただ朝夕は少しだけ気温が下がってきましたが。
「ローマ人の物語XⅡ 迷走する帝国TERTLL . SAECULI CRISIS」(新潮社)第二部 ローマ帝国・三世紀後半 第二章 皇帝アウレリアヌス(在位270年-275年)p.265-p.304
皇帝アウレリアヌスは,ペルシア王シャプール一世に捕囚された皇帝ヴァレリアヌスに抜擢され,その時も後方の安全を任されたいた。しかし,二千五百の兵士ではどうすることもできなかったようである。
皇帝アウレリアヌスの政策で,これまた大きな転回点となるのが通貨改革で,元老院に発行の権限があった銅貨を廃止したこと。またローマの周辺に城壁を設けたこと。これはカエサルが廃止して以来である。さらに北方ダキアの放棄である。これは,ドナウ河より北で,わずかの兵士で守備することが不可能になっていたのを,有利な条件で撤退したと考えた方がよいようであるが,しかし表面的には失政と見なされたようだ。ドナウ河南の新ダキアはずっと平和が続く。
北方が安定すると,次は東方である。ゼノビアが女王として反旗を翻している。すなわち,ローマ帝国はガリア帝国,パルミア王国,そしてローマ帝国本体と,三分割されているのだ。まずは,対パルミア。三回で征服。このとき,キリスト教徒から,ローマの司祭とパルミアの司祭ではどちらが上かという争いの決着を求められる。ローマではローマ,パルミアではパルミアと,地元優先の決定を下しておけばよいのに,キリスト教の組織をよく知らなかったのか,ローマという裁定を下してしまった。以後,これが他の地域においても踏襲されるのだから,歴史というのは恐ろしい。小さなことでも,後世の歴史を大きく変えてしまう。次に,ガリア帝国。これは,戦わずしてアウレリアヌスの下に帰する。このように矢継ぎ早にローマ帝国を修復していくアウレリアヌスではあるが,次の敵・ササン朝ペルシアを目指して遠征中に,些細なトラブルから死ぬ。このあと不思議なことだが,現地軍団と,元老院との間で互いに次期皇帝の決定を譲りあって,五ヶ月も空位の状態が続く。誰もが後を継げないと思わせるほど偉大な皇帝であったのである。
2007年9月7日。金曜日。晴れ。旧暦7・26 きのえ たつ 八白 友引
台風は東日本を北上して雨も降らせたようだが,こちらは昨日ほどではないとはいえ,連日の猛暑が続いている。しかし,夜明は遅く,日没は早くなっている。日暮れ前の長く伸びた影の長さに驚く。いつのまにやら,秋の気配に染まっていっている。残るは気温だけだ。
「ローマ人の物語XⅡ 迷走する帝国TERTLL . SAECULI CRISIS」(新潮社)第二部 ローマ帝国・三世紀後半 第二章 皇帝タキトゥス(在位275年-276年)p.304-p.308
固辞した挙げ句仕方が無く皇帝になったタキトゥスは,全財産を処分し,ただ一つ歴史家タキトゥスの全著作を帝国全体の図書館に備えることを要求して,ペルシア戦役に向かった。しかし,75才のタキトゥスが行ったのはそこまでである。自然死である。
第二章 皇帝プロブス(在位276年-282年)p.308-p.316
皇帝プロブスも,落日のローマ帝国の中でよくやったほうだろう。全戦全勝でドナウ河,ライン河防衛線の北まで攻め,そして帝国内への蛮族の植民というように北方の安定化に勤めた。次はペルシアだというときになって,国内の反乱兵士に時間を捕られるのは気の毒といえば言えるが,帝国が衰退しているのだから何が起こってもおかしくはない。そして,また,荒廃地を耕地にするのに使役されることに反抗する下級兵士に殺される。2007年9月8日。土曜日。晴れ。旧暦7・27 きのと み 七赤 先負
今日は青春18切符で琵琶湖まで行ってきた。西国33カ所観音霊場めぐりの12番,岩間寺,13番石山寺,14番三井寺が予定である。6時の山陽線に乗り,岡山,兵庫,大阪,京都を横切って,途中新快速に乗り換えたりして,10時半に東海道線の石山へ着いた。駅前からタクシーで岩間寺へ。引き返して,石山寺へ。その後,観光遊覧船で瀬田の唐橋へ。そこから京阪電車で三井寺へというコースです。
「ローマ人の物語XⅡ 迷走する帝国TERTLL . SAECULI CRISIS」(新潮社)第二部 ローマ帝国・三世紀後半 第二章 皇帝カルス(在位282年-283年)p.316-p.321
皇帝カルスは兵士を耕作地の回復などに使わずに,オリエントへ向けた。目指すはササン朝ペルシア。これまた全戦全勝。要するに相手が弱かっただけなのだが,三ヶ月ほどでメソポタミアの征服を完了する。ここでやめておけばよかった,ということにはならない。事故だ。落雷という事故によって,皇帝カルスは即死する。共同皇帝の長男カリヌスは北方蛮族の押さえに,次男ヌメリアヌスが同行していた。しかし,次男はすぐに殺される。その下手人らしき者も,ヌメエリアヌスの警護責任者のディオクレスが殺した。次はディオクレス率いるローマ軍と長男カリヌスとの対決,すなわち内乱になる予定であったが,皇帝カリヌスは部下に殺されるから,次の皇帝はディオクレス,すなわちディオクレティアヌスになる。といおうことで,73年間に22人の皇帝が目まぐるしく入れ替わった迷走状態はやっと終わる。
2007年9月9日。日曜日。晴れ。旧暦7・28 ひのえ うま 六白 仏滅 重陽
今日は松竹歌舞伎で岡本綺堂の「番町皿屋敷」を見てきた。
「ローマ人の物語XⅡ 迷走する帝国TERTLL . SAECULI CRISIS」(新潮社)第二部 ローマ帝国・三世紀後半 第三章 ローマ帝国とキリスト教
しかし,まだ12巻目は終わらない。キリスト教徒の数がだんだんと増えてくる。なぜか? と,いうのがこの章の目的であって,いろいろと書かれている。それはそれでよくわかる。それで思ったのは,日本がこれから先,未曾有の状況におかれたとき,ローマ帝国と同じように,庶民がキリスト教に大いにすがるということは,十分にあり得る。
2007年9月10日。月曜日。晴れ。旧暦7・29 ひのと ひつじ 五黄 大安
朝,まとまった雨が降りました。昨夜から少し涼しかったようです。もう秋日和になると思ったら甘かった。日がいつものように照りだし,いつものような残暑です。とはいえ,夕方になると早く日も傾き,気温も下がり,やはり秋の気配です。
「ローマ人の物語XⅢ 最後の努力 DE ULTMIS LABORIBUS」(新潮社)第一部 ディオクレティアヌスの時代 p.14-p.131
史上有名な,というよりもローマにある凱旋門で有名な,コンスタンティヌス大帝の前の皇帝の話である。しかし,これまでに抱いた感覚とは別の世界のようだ。ディオクレティアヌスが何もかも変えたのだ。もはやそれはローマ帝国ではない。ローマ帝国の遺跡の上にあった別の,魅力のない4国連合に過ぎない。四分割された,とまでは言えないが,四頭政,すなわち,四人の皇帝で帝国の防衛を受け持つという大変革がなされたからである。そしてそれはある程度は成功した。外敵の侵入を喰い止め,崩壊寸前の帝国を対外的には甦らせたのであるから,ディオクレティアヌス帝の20年の統治は評価できないことはない。しかし,皇帝の性格,兵士の増加,税制の改変,職業の世襲,最高価格の制限,キリスト教の弾圧・・・とかつてのローマ帝国の長所をすべて切り捨ててしまった。こうまでして甦らせるくらいなら,滅んだほうがよかったのではないかと思う。
高坂正尭さんの「文明が衰亡するとき」(新潮選書)は,ローマ帝国の衰退と比べつつアメリカ合衆国の衰退について述べたものだったが,ローマ帝国の末期症状は,現在の日本にもよく似ている。抜本的な改革はやらずに,頭だけがいたずらに変わる。2007年9月11日。火曜日。晴れ。旧暦8朔 つちのえ さる 四緑 友引 二百二十日
やっと,秋になりました。明け方は少し寒いくらいでした。秋になったと喜んでいいのでしょうか。安心していいのでしょうか。また残暑が戻ってきそうです。
「ローマ人の物語XⅢ 最後の努力 DE ULTMIS LABORIBUS」(新潮社)第二部 コンスタンティヌスの時代 p.133-p.251
ディオクレティアヌス帝が史上初めて皇帝を引退するという快挙を成し遂げ,第二次四頭政がはじまったのが,305年である。ディオクレティアヌスとともに正帝であったマクシミアヌスも引退し,二人の副帝が正帝になり,新たに二人の副帝の起用である。東方の正帝がガレリウス,西方の正帝がコンスタンティウス・クロルスである。しかし。第二次四頭政が始まって一年二ヶ月後に西方の正帝・コンスタンティウス・クロルスがブリタニアで死ぬ。暗殺でも何でもない。突然死である。そのとき実子のコンスタンティヌスが一年前から父のもとに従って,有能な武将ぶりを発揮していた。年齢も31才という良い時期であった。そこで,父の死後,正帝を継いで四頭政を壊してしまう。東方の正帝が合議する間もなくやってしまったのである。知らせを承けた正帝ガレリウスは,仕方がなくコンスタンティヌスを副帝,副帝であったセヴェルスを正帝にすることで,コンスタンティヌスに妥協する。
こんな勝手しほうだいが許されるのなら・・・と思った男がローマにいた。前の西方正帝マクシミアヌスの息子マクセンティウスだ。そして彼は一人だけでやるよりも二人でやったほうが効果的だと思ったのか,引退していたがまだ若い父,前の正帝マクシミアヌスまでかつぎ出す。これが六頭政だ。こうなるとこの二人を征伐するのは正帝セヴェルスの番となるのが当然だ。なぜなら,ローマは彼の管轄下だったのだから。要するに内乱である。
さてここからレースが始まる。6人のうち,誰が一番になるか?だ。それは,歴史が示しているように,コンスタンティヌスに他ならない。6人から始めて,ラストワン,オンリーワンになるのがコンスタンティヌスの生涯。相手が減るごとに東へ東へと移動し,オンリーワンになったときにはビザンティウムに宮殿を建て,コンスタンチノープルにしてしまう。
朝が涼しいというよりも寒くなりました。でも日中は暑かった。どんどんと季節は移る。そしてまた政治の季節。
「ローマ人の物語XⅢ 最後の努力 DE ULTMIS LABORIBUS」(新潮社)第三部 コンスタンティヌスとキリスト教 p.252-p.296
コンスタンティヌス大帝によって,ローマのキルスト教対策が大きく変わる。それ故に大帝となる・・・。国教ではない。公認である。313年ミラノ勅令で公認。325年ニケイア公会議で三位一体を正統とすることが決定される。
この間,キリスト教の保護政策はどんどんと進む。教会まで建ててしまう。ローマの聖ピエトロ大聖堂,イェルサレムの聖墳墓教会,そして勿論,コンスタンチノープルにも。さらに農地も教会に寄付している。
2007年9月13日。木曜日。晴れ。旧暦8・3 かのえ いぬ 二黒 仏滅
懼れていたことが起こりました。昼間の暑さがまた戻ってきました。いつまで残暑は続くのでしょうか。
「ローマ人の物語XⅣ キリストの勝利 DE CHRISTI VICTORIA」(新潮社)第一部 皇帝コンスタンティウス p.13-p.121
コンスタンティヌス大帝の跡を継ぐのは日本語表記では一文字違いのコンスタンティウスである。三人兄弟で統治しながら,最後は真ん中のコンスタンティウス一人の統治となる。この皇帝の特色は次々と身内や反対者を粛清していき,協力者さえ不足するという状況と,キリスト教のさらなる擁護である。保護である。親子二代でほぼ,国家宗教というところまでもっていく。当然,宗教による政権安定もあったのだが,ここまで変わるとは恐ろしい。そして,もはやこの宗教が前面にでてくるとあの中世だ。古代ローマ的おおらかさが消えていく。
2007年9月14日。金曜日。晴れ。旧暦8・4 かのと い 一白 大安
夕方は涼しくなったのに,夜になってまた暑さが戻ったようです。台風の影響でしょうか。まったくしつこい残暑ですねえ。
「ローマ人の物語XⅣ キリストの勝利 DE CHRISTI VICTORIA」(新潮社)第二部 皇帝ユリアヌス p.123-p.225
いよいよ背教者ユリアヌスの時代である。既に第一部で副帝となり,素人軍人が持ち前の一途さと思慮深さであれよあれよとリーダーの風格と実力を身につけていくことになる。そして粛清・権力維持に勤める正帝コンスタンティウスの陰謀にひっかからないように自重しする。しかし最後にはコンスタンティウスの無理な要求を拒否して反旗を翻す。それも幸運にも戦わずして勝ち,正帝となる。キリスト教化するローマ帝国に歯止めをかけ,古代宗教の復活を目指す。と同時に,官僚機構のリストラ,減税を行い,帝国の建て直しに勤める。・・・しかし,そこまでだった。西では成功したユリアヌスも,東方の対ペルシア戦役では,経験不足と人材の不足か作戦を誤る。撤退時には,兵士の支持すらも失ったような状態で,ペルシア軍の追撃中に倒れる。キリスト教阻止は見果てぬ夢であった。
2007年9月15日。土曜日。晴れ。旧暦8・5 みずのえ ね 九紫 赤口
相変わらず暑い天気で,でかけようという気持ちが萎えてしまいます。昨夜も暑かったが,予想通り本日も暑くなりました。夜になっても八月のようにクーラーを入れております。台風は西にそれ,どうやら接近の恐れはなさそうです。そのせいか雨もそんなに降らないでしょう。例年,夏の暑いときは毎日水やりをするのですが,九月になってもういいだろうと思って怠けると,枯れてしまうということがあります。今年もまたやってしまったようです。でも,まだ回復の可能性はある。
「ローマ人の物語XⅣ キリストの勝利 DE CHRISTI VICTORIA」(新潮社)第三部 司教アンブロシウス p.227-p.306
ユリアヌスが若くして亡くなると,当然のことながら,後継者をまだ指名しておりません。そこで,今までのように次々と皇帝が変わっていきます。しかし,大きな内乱にまでは至らず,次々と舞台から去っていって,テオドシウスが呼び出されます。しかし,テオドシウスを呼び出し東方皇帝にした西方皇帝のグラティアヌスがすぐに亡くなり,テオドシウスの一人皇帝になります。テオドシウスは二人目の大帝となるのですから,キリスト教に対しての貢献度が大きかったことがわかります。しかし,残念ながら,それはミラノ司教アンブロシウスが後ろで糸を引いていたのですから,大帝というのも,キリスト教側からの見方だと思うことにします。だから,この第三部も皇帝テオドシウスではなく,司教アンブロシウスということになります。とはいえ,何もかもキリスト教にしてしまったテオドシウスは三九五年に亡くなるが,その前に,長男アルカディウスに東側,次男ホノリウスに西側を与えていたので,以後,ローマ帝国は東西に別れるというあの歴史的事実が待っております。まことに,寂しい寂しい幕切れです。
2007年9月16日。日曜日。雨。旧暦8・6 みずのと うし 八白 先勝
台風の影響か,朝から雨です。時折激しく降ります。でも,気温は,この季節にしては高く,やや蒸し暑いと言った感じです。エアコンを入れて除湿しております。
「ローマ人の物語XⅤ ローマ世界の終焉 ROMANI MUNDI FINIS」(新潮社)第一部 最後のローマ人 p.15-p.159
いよいよ最終巻に入ります。テオドシウス帝の死後,ローマ帝国は東と西に別れますが,どうやらそれは,テオドシウス帝の意志ではなさそうです。これまでにもあったように東と西を兄弟で分担して仲良く統治するのを望んだようです。それを分裂させた犯人は誰か,というと,それは東側の宦官だったようです。(p.44)やっかいものを追い出すのに,隣家の庭先にほうり出したという感じです。すなわち西ゴート族のアラリックを東側がイリリクム地方担当の軍司令官」に任命したのです。イリリクム地方というのは西側ですから,西側としてはたまったものではありませんし,それに刃向かうということは,東側に対抗するということですから,これではもはや同一国家では済みません。
そんな中で,まさに最後のローマ人ともいうべき男がいます。ローマ軍総司令官のスティリコです。大変立派な清廉の徒でその行為の全てに尊敬の念を抱きます。しかし,状況が悪い。蛮族は次から次へと押し寄せてくる。頻度だけでなく数も多い。蛮族を押すさらに後ろのフン族があるのだからドミノ現象で,押し返ししても,防戦するにも限度がある。唯一の方策として同盟を結び,国境の中に済ませ,防衛すらも担当させる。こういう政策は今に始まったことではないが,反対派はスティリコに流れている蛮族の血を問題にして,ローマ帝国を蛮族に売ったと非難する。そして最後は宗教上の対立もあって,無能な皇帝ホノリウスの命で死ぬ。スティリコには皇帝に反旗を翻すこともできた。しかし,彼はそれをするとローマ人でなくなる,蛮族であることを自ら証明することになると考え,最後までローマに忠誠を示し,死地に赴くのである。一部の嫉妬深い宦官の陰謀に操られる国家はもはや国家ではない。スティリコ亡き後には頼れる武人はいない。ということで,ローマは蛮族の侵入を許してしまう。
2007年9月17日。月曜日。晴れ。旧暦8・7 きのえ とら 七赤 友引 さんりんぼう 敬老の日
雨はありませんが蒸し暑い天気でした。昨日一日中家の中にいたので,今日は,岡山へ行ってきました。目指すは,中国観音霊場の一番西大寺,二番餘慶寺です。以前,と言っても20年も前ですが,近くに住んでいたので,懐かしい想いで,訪ねた次第です。このふたつのお寺は吉井川を距ててあります。西大寺は観音院で有名です。また裸祭りというのが,さらに有名です。餘慶寺は上寺山といって,小高い山の上にあります。そこからの眺めはどちらを見ても美しい。
「ローマ人の物語XⅤ ローマ世界の終焉 ROMANI MUNDI FINIS」(新潮社)第二部 ローマ帝国の滅亡 p.161-p.277
西ローマ帝国は467年に滅びることになっているが,首都ローマにまでアラリック率いる西ゴート族の侵入を許した410年には実質既に滅びていた。
それではこの間はどうなっていたのだろうかということになる。西ローマ帝国内は多数の蛮族が移動したり留まったり,衝突したりとてんやわんやであった。そんな中でも,西ゴート族と同盟関係すなわち,傭兵関係を結んだりして,敵か味方かわからなくなってくる。もともとがローマ帝国は征服した者も認めるということだったから,その延長と言えなくもないが,圧倒的多数の蛮族に住民が置き換わっていくのは,時間の問題だった。それは政体を主体とした年代による歴史記述とは関係なく進んでいく事実だった。
帝国の末期というのはどうしょうもないものである。人間の行動がである。まったく呆れてしまう行動をとる人間が出てくる。まあ,そういう人物たちが悪くしていくのだから,さらに末期になったら益々呆れてしまうような人間が現れるのも仕方がないのかも知れない。ボニファティウスとアエティウスという優れた個性あるおもしろい武将が二人もいた。その上にいるのが,ラヴェンナにいる十一歳の皇帝(ヴァレンティニアヌスの時代になっている)の後見人ガッラ・プラチディアである。ボニファティウスは北アフリカ,アエティウスはガリアにいた。北アフリカがヴァンダル族に占拠されると,
ボニファティウスはイタリアに戻った。かつてはボニファティウスの失脚をねらったガッラ・プラチディアはガリアのアエティウス討伐にボニファティウスを向けるのである。それぞれ独立できるくらいの兵力をもってガリアや北アフリカを任されている司令官が,反旗を翻そうしているという疑惑に惑わされての命令である。帝国のどこもかしこも蛮族の侵入で火の車である。そして希有の人材が二人もいるのに,それが自分たち(皇帝側)を脅かすと思っているのだから救いようがない。このようなことは第一部でも起こった。同じことの繰り返しである。実力のない名前ばかりの皇帝。そして嫉妬深い取り巻き。残された人材までが,この取り巻きの嫉妬によって排除されるという構造。まったくどうしょうもない。滅びるしかないのだが,ここまでしぶとく続いたのは,蛮族が互いに同士討ちをしていたおかげである。さて,その二人の武将による内戦が二年間も続いた。
その内戦に勝ったアエティウスは不思議なことに皇帝を廃して自分が皇帝になれるのにならなかった。東ローマ帝国の出方を待ったというわけだ。しかし実権はアエティウスが握り,ガッラ・プラチディアを排した。
しかしアテティウスは22年間もフン族を相手によく善戦する。そのアエティウスも愚かな皇帝により殺される。これまでもあったが,これからも,帝国末期には,唯一といってもいい実力のある武将が敵に殺されるのでなく,内部の者に殺されるというパターンを繰り返し自滅するしかないのだ。
2007年9月18日。火曜日。晴れ。旧暦8・8 きのと う 六白 先負
日中は暑いのに,夜の公園はさすがに秋満色で,コオロギと鈴虫の合唱の中に涼しい風が吹き渡ります。
「ローマ人の物語XⅤ ローマ世界の終焉 ROMANI MUNDI FINIS」(新潮社)第三部 帝国以後 p.280-p.401
いよいよ最終巻の最終章である。章立てではなく部立てではあるが。
西ローマ帝国滅亡後,不思議なことに平和が戻ってきます。オドアケルが17年。テオドリックが33年間に渡って統治しますがいずれも蛮族の長で,支配はしますが同化はしません。ローマ人の反乱も起こりません。要するに平和なのです。外敵さえ侵略してこなければ,皇帝であろうと蛮族の長であろうと,誰が支配していてもいいのです。
一方東ローマ帝国は皇帝ユスティニアヌスのとき西方の回復に向かう。若き武将ベリサリウスが,北アフリカに居座って百年になるヴァンダル王国を滅ばす。失地回復をしたものの,征服後に送られた行政官には,かつての繁栄を取り戻す力はなく砂漠化は益々進むだけであった。
さらに,イタリア本国へと進み,ゴート族と戦うがこれまた泥試合でローマの疲弊はますます進む。さらにベリサリウスに変わってナルセスがゴート族(ゴート王国)を滅ばし皇帝代官としてローマを支配する。その後また,ナルセスがローマ奪還に雇い武器の使い方を教えたロンゴバルド族に征服される。そしてしばらくしてマホメットの歴史舞台への登場で,かつてのローマ帝国は周辺から北方を残してイスラム教の支配地となる。
東ローマ帝国には支配はしても統治する能力はなかったのだから,仕方がない。
ということで,15巻のローマ人の物語も,終わりです。長い長い旅でした。いろいろと,わからなかったことも,よくわかりました。塩野さんに感謝。
2007年9月19日。水曜日。晴れ。旧暦8・9 ひのえ たつ 五黄 仏滅
日中はまたまた暑くなりました。しかしそれでも秋で,朝夕が涼しく,暑くなる時間も短いので何とか我慢できます。太陽が出ている時間が短くなっているのだから,暑さももう少しの間でしょう。
さて,「ローマ人の物語」が終わったので,次は,史記を読んでみることにしました。当然といえば当然ですが列伝からです。テキストはいろいろあるのでその都度書くことにします。これまでも少しは読んでいるので,改まってというほどのことはないのですが。全巻読破などという大それたことは考えておりません。気が変わったらいつでも止めるという覚悟で,史記への旅再開です。これまでに一番よく読んでいるのは,「世界の名著」の貝塚茂樹さんの訳です。当分,こちらの,まだ読んでいないところを読むことにしようと思うのですが,岩波文庫も買ってみました。買ってから前書きを読んでみると,筑摩の世界古典文学全集のものとほぼ同じであるということでした。こちらのほうは持っているので,少しがっかりしたのですが,ポータブルということで,繙くこともあるでしょう。ということで,初心に帰って,列伝の第一からいきましょう。
「伯夷敵列伝 第一」(岩波文庫・史記列伝一)
改めて初めを読んでみたら,案外読みやすい。(活字の配置が)。この章は「列伝全部の序論ともいうべき意味をもっている」(p.13)と注にも書いてあるので,そのつもりで読んだ。伯夷叔斉のようなものが早く死に,極悪人が天寿を全うしたりする。これでよいのであろうか。「天道といわれるものがただしいのか,ただしくないのか」。伯夷叔斉は自ら信じることをしたのであるから,それでよいではないか。本人たちも満足していると思う。よいことをしても,それが世に知られるか知られないかは運による。「悲しいことではある。」が,知られないほうが多いのである。何ら嘆けくこともあるまい。世に知られたり歴史に名を残すためによいことをするのではないのだから。と,閑話子は思うのだが,司馬遷は違う。だからこそ書かなければならない,ということらしい。
2007年9月20日。木曜日。晴れ。旧暦8・10 ひのと み 四緑 大安 彼岸
暑さ寒さも彼岸まで,のお彼岸である。しかし,一向に涼しくならぬ。昔,エアコンも網戸も無かった頃,夜は庭の(カドの,と書くべきだが)バンコと呼んでいた涼み台に寝そべって,銀河をよく眺めていたものである。その頃,新暦でも,八月一五日になってお盆が終わる頃には,涼しい風が吹いて,秋も間近だなと感じたものである。そして,秋分の日の頃には,「暑い」と思う日はほとんど無くなって,暑さ寒さも彼岸まで,という言葉を実感したものである。どうなったんでしょうかねえ。
「第六十九 貨殖列伝」(世界の名著)
太子公自序が第七〇であるから,貨殖列伝というのは,史記列伝でも最後の話ということになる。財産家の話である。資産家の寄せ集めである。これらの人々は「物の道理をおしはかって行動し,時の動きに応じて姿勢をかえ,そこから生まれる大きな利潤をわがものとしたのである。」(p.525)「彼らの態勢変化には節度を守るところがある。だからこそ叙述する価値がある。」(p.525)。と,いうことで,まじめに金儲けをした人の話である。
2007年9月21日。金曜日。晴れ。旧暦8・11 つちのえ うま 三碧 赤口
まだまだ暑うございます。
「第六十六 滑稽列伝」(世界の名著)
三人の男が描かれる。シェイクスピア劇に出てくる道化clownを思い出すとよい。彼らは専制君主の宮廷に雇われ,機知でもって笑いをもたらすが,反面,身分が低く,あるいは愚者であったために何を言っても罰されることがなかった。そのため絶対君主故に部下が言えないことを,暗に諭すという,重要な役割を担っていた。したがって,道化に本気で怒ってしまうように余裕がなくなったら王は破滅するしかなかった。このような役目をもった俳優の話である。「これらの人々もまた偉いでものではないか」(p.506)と司馬遷もその役目の意義をよく認識していた。
2007年9月22日。土曜日。晴れ。一時雨。旧暦8・12 つちのと ひつじ 二黒 先勝
やはり暑い日でございましたが,夕方雨が降って,少し涼しくなりました。
「第十四 孟子荀卿列伝」(世界の名著)
「利益ということこそ,まことに乱れを生ずる根本要因なのだ」(p.158)と司馬遷は嘆息する。利益をもたらさないから,孟子は取り立てられない。すなわち,すぐに役立たない知識や知恵を吹聴しても仕官できないということであった。まったく今も昔も同じである。人は目先の結果を求め過ぎる。勿論,よい結果,成果を求めるのは人間活動の基本であって悪いことではない。しかし,成果だけを目標にして邁進するという社会はいかがなものであろうか。
2007年9月23日。日曜日。晴れ。旧暦8・13 かのえ さる 一白 友引 秋分
少し暑さが和らぎましたので,瀬戸田の平山郁夫美術館へ「シルクロードの至宝」展を見に行ってきました。常設の平山画伯の作品はいつ見ても素晴らしいのだが,今回は平山夫妻が収集されたコレクションの一部が展示されている。パンフレットの写真にもある1メートルを超えるガンダーラの仏陀立像にはローマ皇帝の仕草まで取り入れられていて,文化交流の跡を見ることができる。帰りにドルチェで手作りジェラードを食べて帰りました。甘さ控えめで大変よろしい。
「第十九 范雎蔡沢列伝」(世界の名著)
屈辱によく耐えて,秦の宰相にまでなる范雎(はんしょ)の話である。その出世階段は,実に慎重で忍耐強く行われる。権力を得てから世話になったものにお礼をするのはまだよい。しかし,かつて誤解し屈辱を与えたものにまで復讐をするのは,本来の政治的目的には反する。そこまでする必用があるのか。ライバル蔡沢(さいたく)との件は,この「世界の名著」版では省略されている。かなり長いので,范雎一人に焦点を絞ってあって,これはこれで初心者にとってはよい判断だと思われる。
2007年9月24日。月曜日。晴れ後雨。旧暦8・14 かのと とり 九紫 先負 振替休日
曇り空であまり気温は上がらず,夜になって雨が降り,秋の雰囲気が漂っています。明日は十五夜ですから,このまま秋に入っていくといいのですが・・・。
「第二十八 蒙恬列伝」(世界の名著)
蒙恬(もうてん)は三代にわたって秦のために尽くした武将の家の出てある。始皇帝からも重用され,万里の長城や,大道路の建設にあたって。しかし,始皇帝が巡行中に崩じるや,宦官の趙高(ちょうこう)が始皇帝の末子胡亥を立て,蒙恬,蒙毅兄弟を死刑にする。
このあたりの話は落日のローマ帝国,コンスタンチノープルの宮廷を思い出す。嫉妬深い宦官が自分の意のなる人間で周囲をで固め,外界から閉ざされた皇帝を操る。おまけに国家にとっても有能な武将を理不尽にも殺し,そのため国家そのものが破滅に向かうというところまで同じである。しかし,司馬遷はそんなことは書かない。蒙恬,蒙毅の最後の言葉として,使者への抗弁の中で語らせるだけである。嘆いても仕方がないと思ったのであろうか。司馬遷は断ずる。始皇帝の命のままに人民を使役して大工事を行ったことが蒙恬の罪だと。果たしてそうであろうか。もしそうであるなら,始皇帝の独裁を支えたことこそ蒙恬に下った天罰であったということであろう。焚書坑儒のように。しかし,そのような高尚な理由で,趙高・胡亥が断罪したのではないことは明らかである。
2007年9月25日。火曜日。晴れ。旧暦8・15 みずのえ いぬ 八白 仏滅 十五夜
仲秋の名月である。ついこの前まで真夏のような気候だったので,十五夜の感じがしないが,夜になって涼しい風が吹いており秋たけなわである。そして,昼間時雨れたのに,夜になってくっきりと晴れ,珍しく雲に邪魔されない名月である。
「第二十一 廉頗藺相如列伝」(世界の名著)
廉頗(れんぱ)・藺相如(りんしょうじょ)列伝とは言っても,主役はやはり,藺相如です。人物的にも藺相如のほうが上のようです。藺相如は強国秦に対する趙国の使者として互角に応じ,その功により,名将廉頗より地位が上がります。それに立腹した廉頗を藺相如は避け,争いを回避します。「あの強力な秦が趙にたいして侵略してこないのは,われら二人がいるからにほかならぬ。」(p.218)というわけです。数々の人材を戦争で失うのではなく,自国の内部でのつまらぬ権力闘争で失い,国力が衰えるという例は,ローマ帝国の末期にもしばしば見られたことです。専制君主政の中国の各時代でもよく起こったことだったでしょう。そういうことを回避した稀な例です。
2007年9月26日。水曜日。晴れ。旧暦8・16 みずのと い 七赤 大安
やっと秋らしくなりました。しかし,このまま秋になるのだろうか。また暑くなったりして・・・。
「第二十七 李斯列伝」(世界の名著)
始皇帝の偉業の影に李斯(りし)有り。しかし,立派な人物といえるか。前半はよかったかも知れない。しかし,後半の行為は感心しない。始皇帝の死とともに去ればよいものを,愚者に惑わされて晩節を汚した。もともと大した男ではなかったのである。焚書坑儒も李斯がやった。
2007年9月27日。木曜日。晴れ。旧暦8・17 きのえ ね 六白 赤口
昼間は少し暑いものの,さすがに朝夕は涼しくなった。また夕暮れ時が短くあっという間に暮れてしまう。このような,秋の日の釣瓶落とし,については,Newton 11月号に詳しい。日の入りから完全な夜になるまでの「天文薄明」という時間帯の時間も秋のほうが短いから,日が落ちるとすぐに暗くなるのだそうです。その分,夜が長くなりますね。
「第三十二 淮陰侯列伝 」(世界の名著)
時は移り,項羽劉邦の時代である。高祖・劉邦のブレインの話である 。蕭何(しょうか),張良と共に漢の三傑と呼ばれた男だが,劉邦に取り立てられるようになった経緯には蕭何の才知があった。つまらない人物であったら嫉妬するところであろうが,そうしなかった蕭何こそ傑物である。「韓信の股くぐり」は,後で種明かしされるがつまらぬことを避けて,股くぐりをしてみせただけであり,当然であろう。また,そうでなければ,これだけの活躍はできないでしょう。
2007年9月28日。金曜日。晴れ。旧暦8・18 きのと うし 五黄 先勝
今日も日中が暑くなった。夜は涼しいが,それでも昨日とは違う。夕凪亭も少しクーラーを入れた。
「第三十五 樊酈滕灌列伝」(世界の名著)
樊噲(はんかい),酈商(れきしょう),滕公(とうこう)・灌嬰(かんえい)らの列伝であるが有名なのは,樊噲であろう。漢の高祖・劉邦を助け天下を取るのに活躍した。
しかし,あれだけ劉邦のために尽くした樊噲であるのに,耄碌した劉邦は讒言を入れ,樊噲を裏切る。これは劉邦がいつまでも自己の権力に妄執をもつからである。自分の死後,力量のあるものが後を継げばよいと,寛大な心さえもっておれば,讒言に惑わされることもなかったであろう。
2007年9月29日。土曜日。晴れ。夜雨。旧暦8・19 ひのえ とら 四緑 友引 さんりんぼう
今日は水道メーターボックスの周辺のコンクリート塗りをしました。水道管の取り替え工事で,ついでに量水器まで代えてくれたのだが,その部分のコクンクリートの補修まではできない,ということだったのだ。仕上げを美しくしないといけないので,結構時間がかかったが,まずは完了である。
「第三十七 酈生陸賈列伝」(世界の名著)
やはり,漢の創業の功労者,酈生(れきせい)・陸賈(りくか)の話である。はじめは酈生伝。酈生は口舌の徒である。というよりも外交官というべきか。戦わずして,漢の味方にしていく。斉の70以上の城市を交渉で開かせた。その後で列伝三十二に出てきた淮陰侯韓信が攻め入ったとき,斉王田広は酈生が裏切ったと考え酈生を殺した。(p.326)ここのところの記述は,不明瞭であるが,酈生の「大仕事を企てるものは,こまかいことにこだわらぬ。」「わが輩はてまえなどにたいして二枚舌を使うものか。」というのが真実であろう。結果として連携プレーはうまくいかないが,それに拘泥する酈生ではなかったということであろう。
陸賈も一流の外交官であった。さらに彼の偉いところは,劉邦に歴史を学ぶことの必要性を説いて,納得させたところである。さらに,偉いところは自らの引き際を心得ていたところである。
2007年9月30日。日曜日。雨のち曇り。旧暦8・20 ひのと う 三碧 先負
昨夜からの雨が朝まで降っていて,寒い午前中であった。温度変化が激しすぎて,ついていけない。早速長袖に替えた。
暑い暑いと言っていた九月も今日で終わり。いよいよ秋本番。でも,日中はまだまだ暑そうですね。
「第三十九 劉敬叔孫通列伝」(世界の名著)
劉敬(りゅうけい)と叔孫通(しゅくそんつう)は高祖のブレーンである。ということで,この時代は漢の高祖・劉邦が天下を平定した後の話である。
まず,劉敬のことから。劉敬の業績は短い記述ながらも生き生きと描写されている。首都を洛陽ではなく関中にすべきことの進言。対匈奴戦を避けることの進言。これは高祖によって当初無視されるが,高祖が手痛い目にあって劉敬の見識を再認識する。次いで匈奴への懐柔策。これもすべては受け入れられない。最後が,首府関中へ各地の有力者や名門の強制移住策。これは実施された。
叔孫通は,変わった人物である。時流というものをよく見ていた。悪く言えば節操がない。変節漢と嘲笑されながらも巧み激動のフランス革命時代を生き抜いたフーシェと似たような能力をもっていたものと思われる。だから,劉邦から恵帝へとトップが変わっても失脚することもない。漢の儀礼を作ったという。司馬遷は武力だけの劉邦一人で帝国ができるものではなく,いろんな能力をもった者が歴史を作ると,叔孫通を評価する。かくなる生き方故に評価は分かれるところであろう。