2019年2月25日月曜日

夕凪亭閑話 2007年10月

  
2007年10月1日。月曜日。晴れ。旧暦8・21 つちのえ たつ 二黒 仏滅
 10月になった。やっと秋らしくなったが,日中はやはり暑い。
 「第四十 季布欒布列伝」(世界の名著)
 豪傑季布(きふ)・欒布(らんぷ)の話である。季布は項羽の下で,度々劉邦を危地に陥れたほどの英雄である。だから項羽亡き後は敗軍の将だから,苛酷な運命が待っていた。しかし,それにもよく耐え,漢の臣下となっても筋を曲げずに生きた。欒布もまた,死を恐れず,危機にあってもよく自らの信条をとおした英雄である。
 
 
2007年10月2日。火曜日。晴れ。旧暦8・22 つちのと  み  一白 大安
 朝夕が涼しくなって,どんどんと秋が深まってきます。それとともに食欲がでてきます。夏の間に麦茶を何杯も飲んで胃が大きくなっていたのでしょうか。水を飲まなくなると急に食欲が出て困ります。
 「第四十一 袁盎錯列伝」(世界の名著) 
 袁盎(えんおう)は直言居士である。嫌われても嫌われても,国家のためにかくあらねばということを説いて止まない。その根性はどこからくるのだろうか。鼂錯(ちょうさく)は怜悧な官僚タイプ。権力を一手に集めて,どんどんと改変をやっていくので,反乱を招く。
 
 
2007年10月3日。水曜日。晴れ。旧暦8・23  かのえ うま 九紫 赤口
 昼間はやや暑いようだが,確実に季節はめぐっているようだ。夜は,虫の声が聞こえるし,窓を開けていると,九時過ぎにもなると風も冷気を帯びる。夕暮れもどんどん短くなってくるし・・・。
 「第四十六 呉王列伝」(世界の名著)
  漢の高祖劉邦の兄が劉仲(りゅうちゅうで,その子どもが呉王<(ごおうひ)である。漢では,劉邦の孫景帝の時代になっているが,実権を握っているのは,列伝第四十一の鼂錯(ちょうさく)である。その圧制に対して起ったのが呉楚七国の乱である。その結果鼂錯は処刑され,反乱も鎮圧される。
 
2007年10月4日。木曜日。晴れ。一時雨。旧暦8・24 かのと ひつじ  八白 先勝
 夜,予想外の雨が降って一時的には涼しくなったが,その後蒸し暑くなってクーラーを入れた。  
 「第五十一 衛将軍驃騎列伝」(世界の名著) 
  衛(えい)将軍と驃騎(ひょうき)将軍の話である。衛将軍というのは大将軍衛青のことである。父が出仕してた候の側妾と私通してできた子どもで奴隷のような仕事をしていたが,姉が武帝に寵愛されることになり引き立てられた。見事な活躍でどんどん出世し大将軍となっても謙虚で権力も持たず,権威にもあこがれないという立派な人物であった。驃騎将軍・霍去病(かくきょへい)は大将軍衛青にとっては姉の子であるが,これまた優れた武人で軍功多くしてどんどん出世して大将軍衛青を追い越してしまう。しかし衛青はそれに僻まず淡々と生きる。まことに立派な人物である。
 
 
2007年10月5日。金曜日。晴れ。旧暦8・25 みずのえ さる 七赤 友引 赤口
 ほんとうに秋らしくなってきました。遅めの彼岸花も咲いています。我が家の庭には白いのが咲いています。急に出てきて咲きますので愕きです。
 「第五十二 平津侯主父列伝」(世界の名著) 
 前半は平津侯(へいしんこう)の話である。武帝に見出され,忌憚無く意見を言えば,一時遠ざけられているが,再度見出されて出世していく。しかし,周囲を気にせず,質素な生活を通すという類希なる官吏である。主父(しゅほ)というのは,主父偃(えん)のことです。はじめは貧しくなかなか出世の糸口が見いだせなくて,親戚縁者からも馬鹿にされます。やっとのことで武帝に推薦してくれたのが驃騎将軍の衛将軍です。しかし,武帝は召し出さなかったので,主父偃は直に武帝に上書して,匈奴討伐の益のないことを説きます。一応召し抱えられ,斉の宰相にまでなるのですが,最後は平津侯の意見により死刑になります。
 
2007年10月6日。土曜日。晴れ。旧暦8・26 みずのと とり 六白 先負
 払暁,東南の空に,新月間近で小さくなった月が出て,そのまわりに多数の星が美しく瞬いておりました。こんなにたくさんの星を見ることができるのは,珍しいことです。確実に秋の空です。
 「第五十九 循吏列伝」(世界の名著)
 個人の列伝ではなく,同種の人間のエピソードで,ここでは立派な官吏の話である。叔孫敖、子産、公儀休、石奢、李離の5人が取り上げられる。叔孫敖、子産は仁政を具体的に施行した宰相である。公儀休は為政者で高収入のものが人民から贈り物をもらうことを無くし,自ら率先して行ったり,自分の家でよい野菜ができたり,よい敷布を織る女中がいると廃止した。百姓や織工のことを考えてのことである。石奢は,泥棒を捕まえてみれば実父だったので,不孝と国法の片方でも侵すことを望まず自ら死を選んだ。李離は誤って死刑を執行したので,責任をとって自死した。理屈を言うのではなく,具体的な人物を挙げて自分の理想を述べるところが司馬遷の司馬遷たるところであろう。
 
2007年10月7日。日曜日。晴れ。旧暦8・27 きのえ いぬ 五黄 仏滅
 昨日は,松江へ行きました。まずは,蒜山へ行き,塩竃の冷泉を見て,鏡が成,桝水高原,大山寺を経て,米子へ。山陰道で安木へ。足立美術館は秋季特別展で「文展の画家たち」の作品や横山大観の大作が展示されておりました。次は島根県立美術館へ。ここでは家族を下ろしチェックインをしにホテルへ。再び県立美術館へ行き,ロビーから宍道湖を眺めて,乗船場へ。5時10分にサンセットクルーズ船は出航。湖上で見事な日没・夕景の鑑賞。そして,今日は,一畑薬師へ参詣。中海の大根島を通って境港,米子を経て帰りました。
 「第六十 汲鄭列伝」(世界の名著)
 汲黯(きゅうあん)と鄭当時(ていとうじ)の話であるが,世界の名著版では鄭当時の話は省略されている。汲黯もまた,直言居士で,武帝に諂うことなく,ずばずばと意見を言い,武帝の機嫌を損ね失職する。しかしまた,すぐに武帝は別の役職につけるという繰り返しである。そういう人生も珍しい。
 
2007年10月8日。月曜日。雨のち曇り。旧暦8・28 きのと い 四緑 大安
 今日は島田荘司さんの講演会がありましたので,行ってきました。帰ってからも蒸し暑く,またまたクーラーを入れました。カレンダーを見ると,10月8日ですからね。これでは,亜熱帯といってもおかしくはありません。
 「第六十一 儒林列伝」(世界の名著) 
 武帝の時代に学問が盛んになる。そして仕官し昇進したりする。しかし,命長ければ恥多しという訳ではないが,長く官職にあると,失脚する者も多くなる。為政者が悪い場合,直言した内容が悪い場合,人物が悪い場合,周囲の悪意,と原因は様々である。そこはわからない。しかし,彼らは仕官し,召し抱えられる。そして悲惨な末期を見る。それでも仕官したがる。学問をして,なおかつ生活していくためにはそれしか方法はなかったのであろうか。晴耕雨読で細々と自ら楽しんだ者は歴史には残らない。
 
2007年10月9日。火曜日。雨後晴れ。夜雨。旧暦8・29 ひのえ ね 三碧 赤口 寒露
 朝から雨で,少し涼しい(いや寒いというべきか)ようです。夜になってまた降りだしました。
 金木犀が開いて,例のトイレの芳香剤の臭いでお馴染みの臭いを発散させております。
 「第六十二 酷吏列伝」(世界の名著) 
 有能なのか極悪非道なのかわからない官僚が酷吏である。多分に庶民にとっては歓迎すべき者ではあるまい。ならば,権力者にとっては役に立つのかというと,役にはたつが時に独断専横に走りやすいであろう。そして,この列伝では,その独断専横ぶりが記される。
 世界の名著では,寧成,周陽由,義縦,王温舒,尹斉,減宣,杜周らの事績は省略される。
張湯の悪役ぶりがあるが,死後家産は少ないことが明らかになる。こちらのほうは清廉であったようだが,権力闘争は酷い。
 
2007年10月10日。水曜日。晴れ。旧暦8・30 ひのと うし 二黒 先勝
 少し寒いような朝でした。朝型の夕凪亭閑人としては,早くもストーヴがほしくなりました。しかし,準備はしてありませんので,震えているだけです。石油ストーヴをしまったのが,ついこの前のように思い出されます。一応,灯油だけは抜いておかなければ,故障の原因になると,昔の考えを踏襲しております。最近のは性能がよくなって大丈夫かもしれませんね。それに,先日までエアコンで冷房にしていたのですから,暖房はやはり少し早いと思いつつも,準備すべき季節になりました。
 「第六十三 大宛列伝」(世界の名著) 
 張騫のシルクロード探検の壮大な物語の一部である。漢の使節で西域に月氏と交渉するために派遣されるが,行きも帰りも匈奴に捕らえられてしまう。しかし,それでも帰還して西域事情を武帝に報告する。そして武帝に通商を勧めた。シルクロードが開かれたのはまぎれもなく張騫の功績である。なお,この世界の名著版では,李広利の伝記は省略されている。
 
2007年10月11日。木曜日。晴れ。旧暦9・1 つちのえ とら 一白 先負
 やっと通常の気候に戻ったのでしょうか。秋らしい天気になりました。夕方も,あっという間に真っ暗です。最近帰りの道路が時間がかかるようになりました。渋滞というほどではありませんが,ノロノロ運転の区間が増えました。少子化なのに自動車だけは減りません。自動車がなければ住まないようなところに住んでいるのだから,仕方がありませんが・・・・。
 「第六十五 佞幸列伝」(世界の名著) 
 佞幸(ねいこう)というのは「おべっかつかいのお気にいりたち」ということだそうです。そしてまた「彼らがお近づきをえたのは,たんに姿かたちを愛されたからだけではなく,おのずからすぐれたところをもっていたからからである」というのが司馬遷の評価である。鄧通(とうつう),韓嫣(かんえん),李延年(りえんねん)のことが描かれるが最後は悲惨な目にあっている。
 
2007年10月12日。金曜日。晴れ。旧暦9・2 つちのと う  九紫 仏滅
 秋らしい天気だった。夕方黒い雲と真っ赤な落日が見られたが,雨は降らなかった。
 「第七十 太史公自序」(世界の名著) 
 「史記」百三十巻の最終巻でもある。自分の家の歴史から起こし,諸学についての批評まである。これによっても,司馬遷が大変な読書家であったことがわかる。
 以上で,中央公論社「世界の名著」11「司馬遷」を終わる。これまで,飛び飛びに読んできたのは,この「世界の名著」版では省略されているところがあることと,以前に読んであるところは,今回読まなかったからである。
 
2007年10月13日。土曜日。晴れ。旧暦9・3 かのえ たつ 八白 大安
 軽装の好きな閑話子は半袖を着ていたのですが,午後になって長袖に替えました。どうやらすっかり秋になったようです。日の入りも早くなってきました。今日は明るいうちに歩いたので,三日月を見ることができなかった。旧暦ではまた元の新月に戻っているから,三日月大潮の頃でしょう,きっと。
 「仲尼弟子列伝  第七」(岩波文庫)
 ここから,世界の名著では省略されていた列伝を岩波文庫で読むことにします。したがってタイトルもそちらに合わせますので,「第七」というのが後に来ます。
 ここは孔子の弟子のことですが,七十七人全員ではありません。でも結構おもしろい。孔子の弟子の人物を描くのに「論語」の孔子の言葉を引用することで描くという,独特の方法が用いられていて,「論語」のダイジェストの趣すらあります。
 
 
2007年10月14日。日曜日。晴れ。旧暦9・4 かのと み 七赤 赤口
 「化学と教育」誌に三吉先生がオーストラリアのB型労働について書いておられた。B型労働というのは所得を伴わない,日曜大工のようなものを言う。オーストラリアは日本よりも平均所得は低いが生活が豊かなのはB型労働が多いからだとということだ。詳しいことは,杉本良夫「オーストラリア」(岩波新書)をどうぞ。どうやら,こういうことは杉本教授が言い出したことのようである。そのB型労働を,今日はしてきました。塩ビパイプを切ったり接続したりするというものであう。
 「樗里子・甘茂列伝  第十一」(岩波文庫) 
秦の策略家,樗里子(ちょりし),甘茂(かんも),それに甘茂の孫・甘羅の話である。譬え話はおもしろいのだが,政治的状況がつかめないので,やや話を追っていけない。この人たちは軍事的な作戦家ではない。また外交官とも違う。国家間のやりとりに際して重要な,そして意外な意見を言い,政略を変えさせる。そういう人たちである。
 
2007年10月15日。月曜日。晴れ。旧暦9・5 みずのえ うま 六白 先勝 さんりんぼう
 美しい日没の後は澄んだ空に三日月がくっきりとかかる。秋たけなわである。
 「穣侯列伝  第十二」(岩波文庫)
 秦の昭王の母の妹である穣侯はまぎれもなく秦のために大活躍し,勢力を増すのに貢献した。しかし,最後は,口舌の徒・范雎(列伝十九)の讒言を昭王が用いて,失脚する。このあたりの価値観がなかなか理解できない。そのことは本文に頻出する,他国の口舌の徒の提案が政策に反映されるという,理解しがたさと通じるものがある。
 
2007年10月16日。火曜日。晴れ。旧暦9・6 みずのと ひつじ 五黄 友引
 今月も折り返し点。朝が寒うございますので,ストーブを入れました。
 「白起・王翦列伝 第十三」(岩波文庫,新釈漢文大系)
 どうも岩波文庫版は読みづらいようだ。世界の名著で採用されなかったものを読んでいるのだから,当然といえば当然かもしれない。そこで,新釈漢文大系と併せて読むことにした。
 武安君・白起は秦の昭王,王翦(おうせん)は始皇帝の時代の話である。武安君は戦上手で大活躍するのに,これまた口舌の徒・蘇代にそそのかされた応候の讒言を照応が聞き入れて遠ざけられる。その結果,邯鄲攻略が難航する。昭王から武安君へ要請があっても病気と称して聞かない。それ故自裁させられる。他国の者の意見がまかり通るところが不思議だ。
 一方,王翦も功労者だが,最後は始皇帝に第一線から外される。そして失敗し,始皇帝自ら再登板を求められる。名誉回復は成るが,孫の代では二世皇帝のもと,項羽に囚われる。
 司馬遷の二人に対する評価は,戦上手だけだから,最後はうまくいかない,どこか欠点があったのだというが,少し厳しすぎるように思う。
 
2007年10月17日。水曜日。晴れ。旧暦9・7 きのえ さる 四緑 先負
 旧暦では7日なのに,日が沈むと三日月がでております。半月になってもいいと思うのですが・・・。朝夕が少し寒くなりました。
 「春申君列伝 第十八」(岩波文庫,新釈漢文大系)
 新釈漢文大系のほうは「史記九(列伝二)」へ入ります。知恵者であり忠義者で,大国秦から小国楚をよく守ります。最初はその秦王へ楚を攻めることの不利を説き,説得に成功します。次の功績は,一緒に秦の人質になっていた楚の太子を攻略によって帰国させます。その後楚に帰り,大活躍し,食客三千人の大勢力家にもなります。しかし,晩年李園の計略をみぬけず,殺されてしまいます。
 晩年はともかくとして,その活躍を描く筆は冴え,おもしろい一巻です。
 
2007年10月18日。木曜日。晴れ。旧暦9・8 きのと とり 三碧 仏滅
 岩波文庫の「徒然草」は,昭和45年の11月1日に購入して,拾い読みしていたようである。かなり線や書き込みがある。そしていつの頃からか,読んだ章段にチェックを入れるようになって,そのチェックが今日で完了した。昭和45年5月10日の第53刷である。紙はそんなに焼けてなくまだまだ読めそうである。なぜ,今更・・・と問われても答えようはない。「ひとり燈火のもとに文をひろげて,見ぬ世の人を友とするぞ,こよなう慰むわざなる。」(第十三段)とあるではないか。
「田単列伝 第二十二」(岩波文庫,新釈漢文大系)
 岩波文庫のほうは「史記列伝(二)」になります。燕の楽毅により70もの城を取られ,王が莒へ逃げてしまった斉で,奇策を用いてそれを取り返し王を呼び戻した田単の活躍ぶりを描きます。同じ知恵者でも奇策を伝授するのではなく実戦するところが,この巻のおもしろさである。しかし,資料が少なかったのか話が短いのが残念である。

2007年10月19日。金曜日。晴れ。旧暦9・9 ひのえ いぬ 二黒 大安 旧重陽
 「天使のナイフ」の薬丸岳さんが「悪党」というのを野生時代(11月号)に書いておられましたので,読んでみました。佳作です。犯罪被害者の思いを描けば第一人者でしょう。
 「空蝉」を与謝野源氏で読みました。「帚木」の後半からの続きです。空蝉は源氏になびかぬ女として苦悩の姿が描かれます。大変意志の強い女性です。
 光文社文庫に「カラマーゾフの兄弟」の新訳が出ました。亀井郁夫訳。岩波文庫の米川正夫訳と併せて最初のほうを読んでみました。少しだけ表現が違うのですが,受ける印象が大きく違うのは,言葉が時代を反映しているからでしょうか。終わりまで読む予定はありませんが,少しつきあってみようか,という思いになりました。亀山さんの「『カラマーゾフの兄弟』続編を空想する」(光文社新書)は,鍵括弧付きのタイトルは好きではありませんが,こちらを読みましょう。とはいえ,岩波文庫で読んだのは大昔のことですから,もう忘れたなあ,という状況です。したがって,今更続編とおっしゃられても・・・・,ということで,こちらも最後まで読むつもりはないことを表明しておきましょう。
 
2007年10月20日。土曜日。晴れ。旧暦9・10 ひのと い 一白 赤口
 今日は花梨の木をスリムにしました。一本だけ枝を残して,ばさりと切りました。花は時々咲きますが,実はなりませんので,小さくしても困りません。日当たりがよくなって,冬にはいいでしょう。
 宮城谷昌光さんの「楚漢名臣列伝」(オール讀物)の連載が始まったので,読みました。今回は序論とも言うべき通史でよくわかりました。
 「魯仲連・鄒陽列伝 第二十三」(岩波文庫・新釈漢文大系)
 前半は,魯仲連(ろちゅうれん)の話である。知恵者である。燕の将が聊城に立てこもったので魯仲連が手紙を書いて解決したということであるが,燕の将が手紙を見ただけで自殺するのはおかしい。この話には無理がある。しかし,魯仲連はどんなに勧められても報償に預からない。いかなる権力からも距離を置くことが自由の要諦であることを熟知していたものと思われる。
 
2007年10月21日。日曜日。晴れ。旧暦9・11 つちのえ ね 九紫 先勝 土用
 寒くなった。しかしすべきことは山ほどある。モッコウバラが伸びたので切った。一石トランジスタラジオを作った。トランジスタ1つで,検波と増幅作用を兼ねる。アンテナコイル(同調コイル)がない。リードインダクタというものがついている。小さな抵抗と同じような形である。これとポリバリコンでLC共振回路を作る。便利である。リードインダクタなんて中学生の頃にはなかったが・・・。
 「魯仲連・鄒陽列伝 第二十三」(岩波文庫・新釈漢文大系)
 後半は,鄒陽(すうよう)の話である。他人の讒言により捕らえられた鄒陽の,梁の孝王は許し,上客としたということで,その長い手紙だけが載っている。果たして,どこまでが資料でどこからが司馬遷の創作なのだろうか。読んでいて司馬遷の気持ちに通じるようなところがある。多分に潤色されたものであろう。
 
2007年10月22日。月曜日。晴れ。旧暦9・12 つちのと うし 八白 友引
 雨がしばらく降らない。天気予報では今週の金曜日に少し降るらしいが,いかがなものであろうか。
 「張耳・陳余列伝 第二十九」(新釈漢文大系)
 新釈漢文大系では第90巻になる。「史記十(列伝三)」である。後に景王と呼ばれる張耳と陳余は,はじめ刎頸の友であったのに,途中で仲違いし,殺し合う。司馬遷は二人を高く評価しないが,世評はやはり両人とも賢人であったということである。列伝の記述で見る限り,非は陳余のほうにあったと思われるが,溝は深まる一方であったのは,寂しい。
 
 
2007年10月23日。火曜日。晴れ。旧暦9・13 かのえ とら 七赤 先負
 「罪と罰」のエピローグを読んだ。「罪と罰」は高校のとき集英社の文学全集で読んだが,そんなに面白いとは思わなかった。総じてドストエフスキーは退屈な作家である。饒舌なのだ。延々と会話が続いたり,観念の描写が続いて,物語が進まないのだ。だから,再読などということは,夢のまた夢で,考えてもいなかった。ただ,時々,開いたところをさっと読む程度であった。それがエピローグになっただけの話であるが,実に感心した。エピローグなのだから,物語は進まなくてよいのだから,安心して饒舌につきあえるという気楽さもあったが,素晴らしい。例えば,ほとんど終わり近くの「けれどすぐその瞬間に,彼女は何もかも悟った。彼女の眼の中には無限の幸福がひらめいた。彼女は悟った。男が自分を愛している,しかも限りなく愛しているということは,彼女にとってもう何の疑いもなかった。ついにこの瞬間が到来したのである。・・・・」(米川正夫訳)という美しいシーンは,意外ではあるが,この暗い物語を大逆転させる。
 「魏豹・彭越列伝 第三十」(新釈漢文大系)
 まず,前半は魏豹(ぎほう)の話です。やはり,時代は秦の末期,漢帝国樹立前のことです。魏の王になり劉邦に益するのですが,その傲慢な性格を嫌いそむいて,韓信に捕らえられるという,まことに気骨のある生き方で終わります。自由人というには,変ですが,やはり自分の生き様は貫くという感じではないでしょうか。
 
2007年10月24日。水曜日。晴れ。旧暦9・14 かのと う 六白 仏滅 霜降
 大変美しい月が出ています。昨夜は十三夜でした。戸外は寒いのですが。それ故にまた月が冴えます。
 亀井郁夫訳「カラマーゾフの兄弟1」(光文社文庫)の「2 追い出された長男」を読みました。前節が兄弟たちの父・フョーードルのことですが,ここは長男ドミートリーです。みんな無責任で,彼を育てる人がいません。放蕩息子ということですが,彼には責任は無いように思えます。周りが悪いのです。ただ,この節は登場人物の紹介という意味で,粗筋のごとく簡潔に二十年が過ぎてしまいます。
 「魏豹・彭越列伝 第三十」(新釈漢文大系)
 後半は彭越(ほうえつ)の活躍である。高祖側で大活躍する。魏豹亡き後は魏王となり,項羽亡き後は梁王となるが,邯鄲攻略にはなぜが病気と称して出向かない。これが破滅の原因となる。司馬遷は,魏豹でもそうであったが,何故死なずに捕らえられることを認めたのかということを問題にする。私にはそれ以前の判断の誤りが気になる。やはり,優秀な軍師をもたなかったからではないかと思う。
 
2007年10月25日。木曜日。晴れ。一時雨。旧暦9・15 みずのえ たつ 五黄 大安
 一時雨と言っても午前と夕方,ほんのわずかに降っただけです。それでも久しぶりです。
   亀井郁夫訳「カラマーゾフの兄弟1」(光文社文庫)の「3 再婚と二人の子どもたち」を読んでみました。この節も登場人物の簡単な紹介ということで,話はどんどんと展開するので,退屈はしません。次男イワンと三男アリョーシャの紹介ですが,イワンについては,もう物語が始まっていると言ってよいでしょう。
 「韓信・盧綰列伝 第三十三」(新釈漢文大系)
 韓信と盧綰(ろわん)の列伝である。前半が韓信。もう一人の韓信(列伝第三十二の淮陰候韓信)と紛らわしいので 韓王信とする。漢の高祖とともに項羽に勝った功労者である。しかし漢王朝なるや辺境の王となり,匈奴の攻撃を受ける。匈奴の王と交渉するのが内通していると疑われ,匈奴に逃げる。やはり高祖の性格を知っていたので,高祖とは長く良い関係を続けることは不可能と悟ったのではなかろうか。そのあとの,いわば亡命生活は楽なものではなかっただろうが,人生を全うしたと言える。
 
2007年10月26日。金曜日。雷雨後曇り。旧暦9・16 みずのと み 四緑 赤口
 今日届いたNewton 12月号に,月探査機「かぐや」の近況が報告されております。高校時代にアポロ計画の実況中継に息を呑んで見入ったアポロ世代の小生としては,「かぐや」が月の撮影を行ったというだけで,懐かしくもあり,興奮させられます。続報が楽しみです。
 「韓信・盧綰列伝 第三十三」(新釈漢文大系)
 後半が盧綰の話。漢の高祖・劉邦と同じ村で同じ日に生まれずっと一緒にやってきて,項羽とよく戦った功労者である。それなのに,韓王信と似たような運命を辿る。すなわち謀反の疑いをかけられ,匈奴に走る。また陳豨は食客を多く集めているということで,これまた反乱を企てているという讒言で追われた。果て,どちらに非があるのであろうか。
 
2007年10月27日。土曜日。晴れ。旧暦9・17  きのえ うま 三碧 先勝 さんりんぼう
 「プラハ国立美術館展 ルーベンスとブリューゲルの時代」というのが三次市の奥田元宋・小由女美術館で開催中ですので,行ってきました。17世紀のフランドル派の作品がたくさん展示されておりました。ブリューゲルのフランドルの農村の絵とかルーベンスの聖アウグスティヌスをはじめとして70点ほどの洋画に圧倒されます。静物らしからぬ静物はバロックというよりもグロテスクと言ったほうが似合うと思いますが。常設の元宋・小由女美夫妻の絵画や人形も綺麗で感動しました。
「田儋列伝 第三十四」(新釈漢文大系)
秦末期の斉の田儋(でんたん),田栄,田横の話。田栄,田横の兄弟は田儋の従兄弟。項羽と劉邦が覇権を争っているとき,斉は項羽に刃向かう。このことが,結果的には劉邦に味方したことになった。項羽死して,漢の統一なるや,劉邦(高祖)は田横を召喚するが応じない。結局,自死し,多数の部下も殉死する。自死するくらいなら,戦えばよかったのにと思うが,戦力の差は明らかだったのであろう。また,捕囚の身にあうよりは死を選んだということであろう。
 
2007年10月28日。日曜日。晴れ。旧暦9・18 きのと ひつじ 二黒 友引
 秋晴れの快晴。
 亀井郁夫訳「カラマーゾフの兄弟1」(光文社文庫)の「4 三男アリョーシャ」を,もののついで,という雰囲気で読みました。ここではあきらかに,登場人物の簡単な紹介どころか,物語の中に読者は引っ張り込まれてしまいます。ここでは,アリョーシャが修道院に入るところまでですが,その人物が深く描かれているのに驚嘆します。
 「張丞相列伝 第三十六」(新釈漢文大系)
 張丞相(ちょうじょうしょう)すなわち張蒼は,度量衡,音律,暦を改正した有能な官吏である。前半が張丞相の話であるが,間に周昌と任敖(じんごう)の話が入る。この二人は御史大夫にはなるが,丞相にまではなれない。張丞相の後半は失脚する話であるが,短くて要を得ない。しかし,百歳まで生きた読書人である。
 
2007年10月29日。月曜日。晴れ。旧暦9・19 ひのえ さる 一白 先負
 「5 長老たち」では,ロシアの修道院における長老の制度について解説される。そしてその後,次男のイワン,長男のミーチャ(ドミートリー)が既に帰郷していると,出てくる。そして父フョードルと長男ドミートリーとの財産争いをめぐってゾシマ長老の前で家族会議が開かれる予定になっていることが紹介される。そして,また,無神論者ミウーソフも登場する。ということで,「第1編 ある家族の物語」は,登場人物の簡単な紹介という形をとっておきながら,次第に物語が動き出すと言う実に巧みな構成になっていることがわかる。
 「張丞相列伝 第三十六」(新釈漢文大系)
 列伝三十六は,次に申屠丞相嘉,すなわち申屠嘉(しんとか)について述べる。清廉潔白ではあるが,行為は今ひとつぱっとしない。列伝三十六は申屠丞相の記述の後,記述はまだ続くのだが,ここに他の列伝と同様終端部の太史公曰が入る。
 申屠嘉可謂剛毅守節矣,然無術學,殆與蕭,曹,陳平異矣。(申屠嘉は剛毅にして節を守ると謂ふ可し。然れども術學無く,殆ど蕭,曹,陳平と異なり。)
 
2007年10月30日。火曜日。曇りのち晴れ。旧暦9・20 ひのと とり 九紫 仏滅
  川瀬一馬氏の校注の「方丈記」は講談社文庫の初期の頃のもので,昭和46年に120円で買ったのが手元にある。他にもテキストはたくさんあるのだが,今回はこれで,久しぶりに読んでみて,前半の詠嘆調の部分と,後半の身の回りのことを書いた部分が,見事に呼応しているのに,ある種の爽快感をもった。世の中を見てきてこうであった,だから自分はこうして質素な生活を送っている。質素な生活はそれなりに楽しい,というわけで,大いに感心もし,そうできればそうしたいものだと思った。何を食べて生活していたのであろうか,という疑問は残ったものの。
 そして,いかにも世捨て人になったような印象を受けるが,そんなことはどこにも書いてはいない。誤解してはいけないところだろう。質素な生活をしているだけで,世の中のこと全てに関心を失ったのではないということである。むしろ逆に,作者の強い生きることへの意志のようなものが感じられるところがおもしろところである。
 「張丞相列伝 第三十六」(新釈漢文大系)
 後半は数人の丞相が羅列される。多くのエピソードはない。他人の補作だという。最後に太史公曰で豈可以智巧得哉!多有賢圣之才,困妯囡者眾甚也。(あに智巧をもって得べけんや。多く賢圣の才あれども,困妯して得ざる者多きこと甚し。)要するに丞相になれるかなれないかは才能だけではなく運にもよるのだと,補筆者は書くが,これはこれで見識だと思う。
2007年10月31日。水曜日。晴れ。旧暦9・21 つちのえ いぬ 八白 大安
 今日で10月も終わりです。「10月になった。やっと秋らしくなったが,日中はやはり暑い。」と10月1日に書いていますが,さすがに,昨今ではそんなことはありません。やや寒い,とでも書くのがいいかも知れませんが,日中は,今日もよいお天気でした。
 「カラマーゾフの兄弟」は「第2編 場違いな会合」へ入ります。「1修道院にやってきた」で,物語が少しずつ進んでいきます。ゾシマ長老に会いに修道院まで来たのですが,まだ会えません。ゾシマ長老のいる僧庵へ行くところまでで,脇役の会話が楽しく,退屈しません。
 「傅靳?成列伝 第三十八」(新釈漢文大系)
 傅(ふ),(きん),成(かいせい)すなわち傅寛,歙(きんきゅう),成公(周緤)の三人の列伝であるが,いずれも短い。三人とも高祖の初期の頃からの臣下で共に戦ったり,別に戦ったりして,戦功をあげ,そのつど出世していく。成公は高祖が親征しようとするときには,涙を流して諫め,深く信頼されたというエピソードがある程度で,他は戦功と報償の列挙である。