謹賀新年 明けましておめでとうございます。
今年の目標は,昨秋から読んでいる,シェイクスピアの全作品を読み終えることです。その次の目標は決まっておりません。(候補はいろいろあるのですが・・・)
またまた新しい年が始まりました。少し寒いですが,凧揚げにはよいでしょう。時折雲間から柔らかい日が洩れております。
寺田寅彦「津田青楓君の絵と南画の芸術的価値」(全集1)は,長い画論ですが,ややアクセントに欠けます。でもこんなに書くことがありますね,と感心するぐらいです。寅彦という人がほんとうに絵が好きだったということがよくわかります。これで,新書版のこの全集の第1巻が終わりです。因みに1997年7月発行の第9刷です。昭和52年12月20日に購入しております。
ついでに青空文庫から。
太宰治「陰火」(青空文庫)。よくわからない作品である。よいできとは思えませんね。習作でしょうね。
2009年1月2日。金曜日。晴れ。 旧暦12.7 ひのと ひつじ 二黒 赤口
年賀状の返事を投函しに行ったついでに公園を散歩してきた。風が吹いてやや寒かったが,その分凧揚げには最適で,今まで見たこともないほどの数の家族が,凧揚げに励んでいた。それに風が強いでの高く揚がって壮観だった。昔,奴凧を遠くまで揚げ,結局取りにいかなったことがある。高く(長く)揚げるのは楽しい。
寺田寅彦「科学上の骨董趣味と温故知新」(全集2)
科学の世界にも骨董趣味のようなものがある。古い科学者の遺品を集めるとか,不必要な過去の論文の引用などである。しかし,この世界も温故知新で,骨董趣味必ずしも卑しむべからずということになる。科学上の概念は多くが過去の説の変形されたリバイバルである。古いことも大いに勉強しようという訳だ。
年賀状の返事を書いて,冬空の街へ投函しに行ってきたので,青空文庫を読んだ。
太宰治「嘘」(青空文庫)。これはいい作品である。そして,作者名を伏せておいて,誰の作品ということを言わなくても,まずまずの評価は受ける作品ではなかろうか。ということは,太宰らしさが無くて,変にいじけたことがない佳作だということである。モーパッサンの短編集にあるような田舎のスケッチとしてよく書けている。ただ,最後の二行は余分なように思うが。
2009年1月3日。土曜日。晴れ。 旧暦12.8 つちのえ さる 三碧 先勝ち
いわゆる正月の三が日が終わりました。何もしないでいいからいいのですが,昨日の午後くらいから,不快になってまいります。別に何が気にいらないという訳でもないのですが,あの8月の後半の小学校のときの気持ちと言ったら分かっていただけますでしょうか。日一日と夏休みが少なくなっていく悲しさ。お菓子なら,食べないで我慢すれば減ることはないのですが,夏休みだけは,何をしようと,日に日に減っていきます。あの,気持ちが大人になっても執拗に甦ってきます。だから,正月休みはある意味では嫌いです。
寺田寅彦「病中記」(全集2)。大学の自室で血を吐いて,入院したときの記録である。勿論,ある程度回復してから,記憶を辿りながら書いたものであろうが,天性の観察家が書くと,どうしても,その場で観察しているような雰囲気が自ずと出るものである。或いは寅彦にとっては,物理の実験観察も,日常生活も同じように観察の対象だったのかも知れない。
太宰治「鬱屈禍」(青空文庫)。「鬱屈禍」という三文字を二分ほどじっと見つめていると,「太宰治」という字になってしまった。それほど,この小文のタイトルは内容以上に作者の心模様をよく表している。
2009年1月4日。日曜日。晴れ。 旧暦12.9. つちのと とり 四緑 友引
日曜日であるので,正月とはまた違った感じで休日を送る。風が無く,三が日よりももっと暖かい,穏やかな日であった。
寺田寅彦「病室の夜明けの物音」(全集2)。病気になって寝ていると,することがないせいか,普段全くといっていいほど気にならない音が気になるものである。いつも暮らしている家においてもそうだから,まして病院のようなところに行くと,耳慣れない音が気にならないはずはない。そして,人一倍観察欲の強い寅彦であってみれば,病院の音に関するエッセーがあっても一向に不思議では無かろう。そしてまた,その考察も期待に違わない。
2009年1月5日。月曜日。晴れ。 旧暦12.10. かのえ いぬ 五黄 先負 小寒
工藤昭雄訳「コリオレーナス」(集英社,世界文学全集5)。と,書いても,誰の作品かわからない人も多いと思う。閑話子も,今回はじめて,シェイクスピアにこのような作品があることを知った。実は,この文学全集も,閑話子が高校の頃出版されたもので,これを読んでいないので知らなかったという訳だ。当時,集英社が,廉価版の日本文学全集と世界文学全集をひっさげて文芸分野に進出した。その宣伝のひとつだろうが,文学振興会のようなものを作って,毎年全国の高校で文芸講演会を行った。勿論,集英社がスポンサーだから講演料は無料である。そして,その文学全集まで寄贈するという熱の入れ方だった。雑誌出版で相当儲かっていたのではないかと思う。その講演会が高校であり,近辺の他の二校でも,同じような講演会がもたれた。その時の,講師が新進気鋭の評論家・江藤淳氏であったことは,以前にも書いた。当時の閑話子は,へんなブランド嗜好があって,集英社の文学全集ではなくて新潮社のほうばかり読んでいたというわけだ。だが,今そのラインナッププを見ても,その豪華さには驚く。今回読んだものは,その頃の廉価版ではなくて,同じシリーズの装幀の立派なほうであるが,今から思うとよき時代であった。
さて,このシェイクスピアの作品について書こう。主人公ケーアス・マーシャスは武人である。ヴォルサイ人と戦って勝利し,コリオレーナスという称号を受け,さらに執政官になる。しかし根から貴族主義者で庶民の心情もわからねば理解しようともしない。その性格から,追放され宿敵,タイタス・ラーシャスの旗下でローマに攻める。(何と馬鹿な,と思う。ここで,マーシャスの運命は決まっている)。しかし母と妻に説得されて途中で引き返す。当然のことながらラーシャスは許さない。他の作品同様に愚かな主人公と言ってしまえば,身も蓋もないが,しかし,この作品は素晴らしい。愚かではないのだ。性格なのだ。そして変わらないのだ。だから,見事な性格悲劇になるわけだ。この作品は好きである。
2009年1月6日。火曜日。晴れ。 旧暦12.11. かのと い 六白 仏滅
日中の気持ちのよい暖かさは,この頃にしては異常でしょうね。夜は,それなりに寒いですが。
寺田寅彦「鸚鵡のイズム」(全集2)。 psitacismすなわち,「反省的自覚なき心の機会的状態」「鸚鵡のような心的状態」について,書かれたものである。何度も言っていればわかったような気持ちになる。これは学習の初期の段階では役に立つことである。ただ,そこからいかに深化させるかか問題であって,深化しないものをこそpsitacismと言うべきであろう。だから,psitacismが悪いのではなく,そこから深化しない,鸚鵡のような心的状態,があるということで,これは善悪の問題ではない。
2009年1月7日。水曜日。晴れ。 旧暦12.12. 壬子(つちのえ ね) 七赤 大安
寺田寅彦「丸善と三越」(全集2)。美術についてながながと書く人だから,書物について書き出したら,終わるということがないのではないかと予想される。丸善についても然りである。長々と書いてある。後半の三越のことは後回しにして,まずは丸善のことだけについて。寅彦の,自分の行為から一般論を引き出したりする性癖は何に由来するのだろうか。おそらく身の回りの物理現象にするどい観察眼をむけて何らかの法則めいたものを求めようようとした,根っから物理好きの,そしてそれを普遍的なものへもっていくという,本物の物理学者の態度が,そうさせるのだと思うが,自分の丸善を一回りする行為から,客の行動を観察すればおもしろい結果がでるかも知れないなどと思うところは,まさに寅彦主義である。このようなおもしろい観察と感想に溢れたエッセーであるが,一番感心したのは,次のような件りである。「正面をはいった右側に西洋小間物を売る区画があが,自分はついぞここをのぞいて見たことがない。どういうものか自分はここだけ,よその商人が店借(たなが)りして入り込んでいる気がする。」(p.39)。店借り,今で言えば,テナントであろうか。どうだろう。この表現の妙は。寅彦に限らず,丸善の名は白樺派の小説家をはじめ多くの文人の作品にでてきていたので,一種の憧れをもっていた。かつて,広島や岡山の地方店へ行ったとき,あの1階の客のほとんどいないネクタイやらソックスやら,万年筆を並べたコーナーを横切ったときの違和感を思い出した。同じような思いを感じた人は多いと思う。今はどうか知らないが,昭和の終わり頃でもそうであったから,これはオーナーの趣味を超えた,願望かメッセージの何かであったのに違いない,と当時を懐かしく思い出した。
2009年1月8日。木曜日。晴れ。 旧暦12.13. 癸丑(つちのと うし) 八白 赤口
小津次郎訳「冬物語」(集英社・世界文学全集5)。これは,時々上演されたりして新聞等でタイトルだけは,よく目にしたものである。いい作品である。舞台を見ても面白いだろう。それぞれの人物の性格も鮮やかに書き分けられているし,台詞も見事である。前半と後半に大きく別れる。前半は,シシリア王・レオンティーズが,友人のボヘミア王・ポリクシニーズに嫉妬して,美貌の王妃・ハーマイオニーの不貞を妄想し,狂ってしまう。その結果王妃,王子は死に,生まれたばかりの王女は捨て子にされる。(エディプス王の物語の捨て子を思い出せばよい。やはり,羊飼いに育てられる)。ただ,王の妄想による厳命に,家臣が盲従するというのではなく,それぞれが,立派に抵抗するところが,この劇をさわやかなものにしている。特に王妃お付きのパーライナの見事さは,王妃の抗弁の弁舌とともに特筆に値する。後半は,捨て子のシシリアの王女がボヘミアの羊飼いの娘として成長し,これまた類い希なる優れた女性として登場する。それに惚れたのがボヘミアの王子だから,ハッピーエンドで終わるかと思いきや,ボヘミア王は,羊飼いの娘を嫁にすることに断固反対する。二人は,シシリア王の保護を求めてシシリアまで逃亡するが,ボヘミア王の追っ手が迫る。間一髪で,羊飼いが王女の身元を証明する物を明かすことによって,事なきを得る。簡単に書けば,こういうことだが,これがまた複雑な(多少混乱した)筋書きですすめられたり,身元を証明するところは,間接話法で語られたり,となかなか技巧に富んだ劇である。さらに,後日譚もあるのだが,未読の方の興を殺ぐといけないので,このへんでやめておこう。ということで,マイナーな作品(私が勝手にそう思っていただけかもしれない)にも,こんな傑作があるのだから,改めてシェイクスピアの偉大さを実感した。
2009年1月9日。金曜日。晴れ。夜小雨。 旧暦12.14. 甲寅(きのえ とら) 九紫先勝
寒くなった。雪が降るかもしれない。
寺田寅彦の「丸善と三越」(全集2)の後半は三越の話である。大正八年の頃と現在では三越の商品構成も随分と変わっただろうが,それ以上に変わったのは,人々の気持ちのほうである。現在のようにものが溢れている時代ではないときは,消費は欲望の対象と成りうる。そして,欲望であるが故に浪費と倹約という二つの価値観に支配される。しかし,物が余ると,今度はそこに別の価値観を賦与せざるを得ない現在とは,大きく異なる。その差異を見ることができる。
2009年1月10日。土曜日。晴れ時々小雨。 旧暦12.15. 乙卯(きのと う) 一白友引
成人の日というのは,物心ついたときから1月15日で,三学期がはじまって,退屈している頃にちょうどよい具合に連休となり,一息ついていたのが,長い間の過ごし方であった。それが,少し前から,成人の日が惑星のように動き回るので,何とも言えないアンバランスを感じている。とはいえ,3日間自由になるのは,有り難い。このうち1日は他者のために使い(他者本位),2日間を自分のために使いたい(自己本位)。この割合は人によって異なるだろう。すべて,他者のために使っておられる人がいる。尊敬に値するが,逆立ちをしても真似できないので,見習おうとも思わない。傍観のみ。時間は自分のためにあるというのが,今も昔も変わらぬ信念である。もっと詮索すれば,1969年11月23日から始まる。その日は,今は別の会社になった中央公論社から出ていた世界の名著シリーズの「46 ニーチェ」を買った日である。おそらくそれまでに図書館の本で読んでいて,ある程度(以上に)共感して,この日買ったのである。ニーチェの思想を一言で言えば,「超人への意志」である。わかりやすく言えば,自らの意志で現在の自分を乗り越えよ,ということで,極めて人間的な思想である。自分を乗り越えるということは,批判的に,あるいは否定的に現状を突破するということであるから,まさに哲学的な生き方ということでもある。意志というのは,即物的に言えば,時間の使い方を自分で選ぶということである。だらだらとテレビを見るというのとは違う。本もまた自分で選んで読むということである。こういう考えかたで曲がりなりにも,39年間生きてきたわけであるから,随分他人から嫌われたであろうことは憶測に難くないが,自分としてはこれが,ささやかなる「持続する志」に他ならない。意志して他者のために生き,自らを高めるというのもありますけど・・・。
寺田寅彦「電車と風呂」(全集2)。これも極めて寅彦的なエッセーである。これを読むと,寅彦の文章の妙味がその分析癖にあることがわかる。観察癖も寅彦にはつきものであるが,今回は,観察は電車の中の日本人の顔の,ごく一面に限定され,そこから延々と,そのよってきたる原因を推理し,銭湯と比較したり,外国の例を挙げて分析したりする。そのさまがまことに面白い。それでは,その結論というと,今のわれわれの世界と比べればおのずと明らかであろう。半分当たっていて,半分は却下される。衣食足りて礼節を知る,というように,衣食が足りれば,ひとりでに人は寛容になるものである。そしてまた,過剰になれば,逆に退行するものである。
2009年1月11日。日曜日。晴れ時々雪。 旧暦12.16. 丙辰(ひのえ たつ) 二黒先負
雪といっても少し舞った程度で,地面を濡らすほどのことはありませんでした。でも,少々寒うございました。2時頃散歩に行き,早々に帰ってきました。夜になって益々寒くなりました。ストーヴの設定温度を少し上げました。それでもまだ寒い。
寺田寅彦「病室の花」(全集2)。今度は観察の話である。少し前に読んだのが,胃潰瘍で倒れ緊急入院したわけであるが,その入院中のことである。次々に届けられる家族や知人からのお見舞いの花に対して,いつものように執拗な観察が続く。最近ではホームセンター経由の花で溢れ,その美しさを当たり前のように感じて,愛でることが少なくなったが,それぞれの造化の妙をもっと楽しまないといけない。
2009年1月12日。月曜日。晴れ時々雪。 旧暦12.17. 丁巳(ひのと み) 三碧仏滅 成人の日
今日も小雪がちらついて寒い日でした。寒いので散歩はお休みです。風もありましたしね。夜になって,今年最初の満月が明るく出ております。寒いから,外へ出るのが嫌ですから,窓を開けて眺めました。今年では最も明るく,いつもの満月よりおよそ14%大きくて、30%明るいのだそうです。去年の12月12日には少し負けますが。今後は2016年まで,こんなに明るい満月はないようです。あと7年ですね。それまで生きていたとしても,老年期に入ると自覚すべき頃ですね。体力の衰えが出はじめる頃でしょうね。
夏目漱石「それから」(全集4)。青空文庫と全集を読み継いで,今日終わりました。全集は昭和41年版で,50年の2刷版です。活字も大きいし,紙質も最高で,老後も楽しめます。ただし,重たいので寝そっべって読むわけにはいかないのが欠点です。
さて,「それから」は名作です。恋愛小説の傑作です。「野菊の墓」とか,あの類とは少し異なりますが。「こころ」の先生が友人と下宿先のお嬢さんを争うというのも迫力がありましたが,こちらはいったん友人に斡旋した三千代という女を奪い返すというか,取るというか,なかなか凄まじいものがあります。恋愛に関しては,漱石の最高傑作と呼んでもいいのではないでしょうか。「明暗」が一応漱石の最高作品ということになっておりますが,観点が違いますからね。「明暗」の迫力は,認めるにしても,「それから」も見事な小説という他ありませんね。そのクライマックより後ですが,少し引用しておきましょう。
「彼(かれ)は彼(かれ)の頭(あたま)の中(うち)に、彼自身に正当な道を歩(あゆ)んだといふ自信があつた。彼は夫で満足であつた。その満足を理解して呉れるものは三千代丈であつた。三千代以外には、父(ちゝ)も兄(あに)も社会も人間も悉く敵(てき)であつた。彼等は赫々(かく/\)たる炎火(えんくわ)の裡(うち)に、二人(ふたり)を包(つゝ)んで焼(や)き殺(ころ)さうとしてゐる。代助は無言の儘、三千代と抱き合つて、此焔(ほのほ)の風に早く己れを焼(や)き尽(つく)すのを、此上(うへ)もない本望とした。」(p.620)
「赫々たる炎火」ですから,凄いですね。漱石から名文句を引用していたらキリがありませんから,やめておきましょう。「それから」のそれからは「門」で,三千代さんは,お米さんに変わって,役所に勤める主人公と坂の下の家でひっそりと暮らすという,これまた史上稀なる夫婦小説となる訳ですから,二人は精神的にはともかく焼き尽くされずに済んだわけです。
2009年1月13日。火曜日。晴れたり曇ったり時々雪。 旧暦12.18. 戊午(つちのえ うま) 四緑大安
朝厚い氷がはっていました。新聞によると最低気温の予想は-2℃でした。日中も,少し寒かった。
寺田彦「浅草紙」(全集2)。浅草紙というのは,千代紙のことで,浅草の土産に売られている物だろうというような気持ちで,読み始め,だんだんと,今でいうリサイクル紙でトイレットペーパーのことだろうと思い始めた。読み終わって,一応確かめてみようとネットで調べたら,古い歴史のある産物で,リサイクル品でトイレットペーパーであるということには間違いはなかった。鼻紙にもなったらしい。この再生紙は粗悪で,灰色をしているのだが,寅彦が観察しているように,紙は完全に砕かれてなくて,マッチ箱とか広告紙というように元の形を想像できるものがあったり,あるいは動物の毛や髪の毛までも入っており,その来歴がかなり怪しいものだし,現在の感覚からすれば相当不衛生なようなものであったようだ。寅彦の観察の素晴らしいのはいつもの通りなのだが,ここから文学作品や,絵画の来歴の話に飛ぶ。すなわち,先行作品の吸収と消化。そしてまた,浅草紙も改良の余地があろう,ということになる。
2009年1月14日。水曜日。曇り時々晴れ。一時小雨。 旧暦12.19. 己未(つちのと ひつじ) 五黄赤口
今日も寒かった。冬ですね。
シェイクスピア,西脇順三郎「ソネット詩集」(筑摩書房・世界文学全集66)。集英社の文学全集で読んでいたのですけれど,返却日が近づいたので返しました。そして,以前某古書店で100円か150円で買った「世界名詩集」というのがあり,はじめのほうにソネットがあったというのを思いだし,結局,後半はこちらで読みました。さて,このソネットはよくわからないものだらけです。同性愛の対象者が誰かもわからないので,ここに謳われていることがフィクションかなんらかの事実かもわからないのだそうです。では,作品としてつまらないかというと,ストーリーらしきものは,たいしたことはないのですが,さすがにシェイクスピアと思わせる比喩やトーンがたびたび出てきますから,一流の詩には違いありません。ただ,違和感もありますが。それでは,この作品は何なのかと考えてみるのですが,これも他の芝居と同じようなフィクションではないかと思います。そして,何らかの種本のようなものがあって,想像を膨らませてこの詩形式で書いてみたのではないでしょうか。そしてその時,ドラマほど内容を明確にしなかったし,また複数の内容を統一せずに使ったのではないかと思います。これは,あくまでも翻訳を読んだ印象ですので,原文を読むとまた別の印象をもつかもしれません。
2009年1月15日。木曜日。晴れ。 旧暦12.20. 庚申(かのえ さる) 六白先勝
雪こそ降らないが,寒い一日でございました。冬といえばこんなものなのでしょうが,寒がりの小生には嫌ですね。
寺田寅彦「春寒」(全集2)。病床の春まだ浅き日,英語版のHeimskringlaを娘のピアノ練習をBGMとして読んだことを記したもので,寅彦の読書の広さに驚いた。ということは,寅彦の,観察癖も分析癖も天性のものと思っていたのだが,幅広い読書に支えられた後天的な磨きも多いにあったのだと,思わざるを得ない。
ヘイムスクリングラ(heimskringla)というのは,ノルウェーの王のサガのことであって,英語も原語のものもweb上にあるようであるが,今はそちらに興味がいかない。読み出したらおもしろいかも知れない。
2009年1月16日。金曜日。晴れ。 旧暦12.21. 辛酉(かのと とり) 七赤友引
早くも1年の24分の1が終わった。朝はまだなかなか明けなくて,7時でも薄暗いが,夜は随分遅くまで明るくなった。梅の蕾を見ていると,既に春の息吹も感じられるが,気温はずっと低くて,まだまだ,冬は去りそうにもない。
Anaïs NinのLittle Birds(A PENGUIN BOOK)を読んだ。これは,同名の短編集の中の最初の1編である。この1作品でも彼女の並々ならぬ才能が伺える。エマニュエルという小男の夢と現実の話で,小学校の見えるテラスで鳥を飼って,少女たちを誘う。少女たちは,またlittle birdsであり,作者の夢に驚いて,like little birds, and ran away.となる。
2009年1月17日。土曜日。晴れ。 旧暦12.22. 壬戌(みずのえ いぬ) 八白先負
少し寒波が遠ざかったのか,あるいは単なる気象の気まぐれか,はたまた三寒四温と,古来より言い習わされた,よくあるパターンか。まずは,ともあれありがたい。
寺田寅彦「文学の中の科学的要素」(全集2)。いつものように寅彦の得意とするところのエッセーである。主眼点は3つある。まず,自然現象の記述が入るとき。これは間違っていてはおかしいので,ある程度(程度問題ではある)正しくないといけない。火事でも植物でも,動物の動作でも。2つ目は,心理的描写である。これは自由度が大きくなるが,あまり不自然なものではいけない。最後に簡単に触れられている,ファンタジーの類である。異境に舞台を設定するとか,文体を変えることによって自然科学的事実に反することも記述しうると示す。
2009年1月18日。日曜日。曇り一時雨。 旧暦12.23. 癸亥(みずのと い) 九紫仏滅
あまり寒くはないのですが,朝からどんより雲ってせっかくの日曜日が,もったいないように思いました。家の中でもいろいろとすることはあるのですが,でも,こういう時期だからこそ,太陽に照ってほしいと思いました。夜になってかなり雨が降っていたのですが,いつのまにやら止んでおります。雨もそろそろまとめて降ってほしいところですね。
シェイクスピア作,小田島雄志訳「間違いの喜劇」(筑摩・世界古典文学全集42)。残りの作品は,筑摩書房の世界古典文学全集所収の6巻本のシェイクスピア全集を読むことにします。これは「シェイククスピアⅡ」の巻頭を飾る作品です。
さしずめ,現代で言えば,幽体離脱かクローン人間の登場ということになろうか。それを双子の兄弟,双子の召使いという設定で行うのだから,どうしても作者の才能というものを考えてしまう。トラブルが起こるには何個かの事件も必用である。しかし,多すぎると煩雑になって観客のほうも混乱してくる。そのあたりのバランスのよさには,いつもながら感心する。少し気になるのは演出方法である。双子の兄弟は一人二役でやって,最後のところだけ代役を立てるのだろうか,それとも背格好のよく似た訳者を似たような化粧で双子にしたててやるのだろうか。どちらにせよ,見るほうは大変だ。他の訳を見てないのだが,この小田島氏の訳は素晴らしい。ただ,観客があまり笑うと台詞が聞き難くなるということも起こるかも知れない。
2009年1月19日。月曜日。晴れ。 旧暦12.24. 甲子(きのえ ね) 一白大安
寒波が去って,穏やかな冬の日が戻りました。氷も張っておりません。北風は少し吹いておりました。でも,これくらいは当然のことです。窓から入る太陽の光線に思わず感謝したくなります。昨日がうらめしい。ところで,太陽はどうして燃え尽きないのでしょうか。不思議ですね。勿論,燃え尽きたら困るのですが・・・。
ギボン著,中野好夫訳「ローマ帝国衰亡史」(筑摩書房)のうち,「第八章 アルダシル一世による王国再興後のペルシア情勢 226-240年」を読んだ。私が持っている第Ⅰ卷は1976年10月30日発行の初版第4刷である。これを1980年1月24日に求め,1月27日に読み始めている。そして,同じ年の12月8日に第七章を終えたところで長い中断の期間に入った。そして,今日までのあいだに,塩野七生さんの「ローマ人の物語」を読んでいる。いつか続きを読みたいと思っていたのだが,実に三十年近くたって,今年の1月12日から,再読を開始した。何故にローマにこだわるのか,と問われても答えることなどない。辻邦生さんの「背教者ユリアヌス」,ユルスナール女史の「ハドリアヌス帝の回想」,弓削達さんの「永遠のローマ」と,思いつくままに昔読んだものを思い出すと,必ず更に読みたくなるということのくり返しなのだ。シェイクスピアも峠を越したようだし,この本に少しつきあってみるのも一考だと思う。この章は,これまた不思議の国ペルシアのことで,ゾロアスター教などが出てくる。それに負け戦も。謙信,信玄,家康,信長,秀吉,誰でもよい。後から見れば,傍目八目で,何とでも言える。しかし渦中に立ってみれば,暗黙の未来に向けて飛翔するようなもので,先のことはわからない,というのが,大部分だったのではないかと思う。負けたからと言って,あるいは不甲斐ない戦い振りだと書かれてあるのを見ても,笑う気にはならないし,まして侮る気にもならない。ただ,不向きな戦いに出ていかなければならなかったその人の宿命に同情するだけである。
2009年1月20日。火曜日。晴れ。 旧暦12.25. 乙丑(きのと うし) 二黒赤口 大寒
さらに暖かくなった。灯油の減りようが違う。寒くなった,暖かくなった,と言いながら,一月もやがて終わり,そして二月も,そのうち終わる。それはそれでいいのだし,今は今でいいのだ。
寺田寅彦「凍雨と雨氷」(全集2),何とも奇妙な言葉である。日本語の場合は普通は前が形容詞で後が名詞となる。だから,凍雨と書けば,凍った雨だし,雨氷なら雨の氷ということになる。とは言え,水は液体,固体,気体の3つの状態を普通はとる。他の物質でもそうだが,水の場合には,われわれの日常的な温度での話であるところが,違う。鉄の液体を日常的に見られるかというと,それはまずない。灯油の固体を見たことがあるか?と子供に尋ねてみるとよい。鉛なら,鍋に入れて熱すれば融けるだろうが,では,鉛の蒸気をどれだけ,あると感じることができるか。ヨウ素を熱すれば,気体を見ることはできる。ならば液体のヨウ素を長い間見ることができるか? というように,水は日常的に三態を見ることができる。勿論,気体である水蒸気は見えないが,冷やされて湯気や霧になった状態から,それまでそこにあったことが容易に想像できる。だから,見えない水蒸気は考えないことにすると,見える水は液体と固体しかない。雨は水であり,当然液体である。液体以外の水が空から降ってきたら,それは固体の水であるから,とにかく氷である。その氷の形やら堅さで,雪と呼んだり,雹(ひょう)と呼んだり,霰(あられ)と呼んだりする。雨と霰が混ざったものが霙(みぞれ)であろう。ここまでは,いつも考えていることを漠然と書いただけだから,違っているかも知れないが,雪,雹,霰が水が氷った状態に間違いはないだろう。固体でなかったら,液体であるから雨になる。
雪やこんこん,あられやこんこん,と歌うが,霰はぱらぱらと降っている感じがするので,こんこんというのもわからないわけではない。しかし,雪がなぜ,こんこんなのか,私にはわからない。「雪がしんしんと降る」というのなら,まずわかるが・・・。それはさておき,雪はやわらかい。あられは雪が丸まった感じで,中に隙間があって軽そうである。だから,落ちて跳ねる。だが,こんこんと跳ねる動物はいない。昏という字が,よく似合う。雹は氷である。はねることははねるけど,雪が丸くなったり,四角になったようには見えない。透明な氷である。時に大きなものが降ってくることがある。直接頭に当たったことはないので,痛いかどうかわからない。雪,と雹と霰の違いは,気象条件で,どの位置で氷るのかによるのだろう。兎に角,われわれが見るときには,氷っているのだ。霜は気体から直接氷っているので,別だ。
さて,寅彦さんに戻すと,さらにあるというのだから,驚きである。それを寅彦さんが一流の観察力で見て書いたのなら,さらに驚くのだが,今回は気象学の解説である。(目的は別だが)。雨氷というのは,地面でも植物でもいいが,何かに触れて氷るのを言うのだそうである。これはひょっとしたら,自動車の窓ガラスに当たった直後にそうなっているのを何回か見たように思うが,いかんせん,窓ガラスに当たる前が見えないから,厳密なことが言えない。しかし,氷の飛び散る様は,水が散りながら氷っているように見える。こういうのが雨氷である。要するに過冷却水だ。凍雨というのは,一見言葉の矛盾だが,霰でも雹でもなく,雨が氷って丸い球になり中が空洞だったりする。こう書けば,雹でも霰でもないことがわかるだろう。丸い雹は見たことがない。透明な霰も見たことがない。なるほど,と思って読むと楽しい。観察できればさらに楽しい。しかし,写真に写すことはなかなかできない。やはり,読んで考えるのがいい。
2009年1月21日。水曜日。曇り後雨。 旧暦12.26. 丙寅(ひのえ とら) 三碧先勝
夕方からかなりの雨で,久しぶりのまとまった雨である。とはいえ,大雨というほどではないから,降水量はわずかか。雨の夜は寒い。
Anaïs NinのThe Woman on the Dunes (A PENGUIN BOOK)という短編は,男女の関係を書いたものでストーリーというほどのものはないのだが,不思議な魅力を湛えた作品である。その魅力がどこにあるのかというと,ちょっと漠然として掴みようがないのだが,通俗小説を超えたものを作品化したということは事実であろう。
2009年1月22日。木曜日。曇り後雨。 旧暦12.27. 丁卯(ひのと う) 四緑友引
今日も夕方から雨が降り出した。深夜になってもまだ降っている。昨日は意外に早く止んだようだ。今日の方が多いのかも知れない。
寺田寅彦「漫画と科学」(全集2)は比較文学的に漫画を論じているように見えて,実はそうではなくて,漫画における方法序説を科学の方法と対比しながら述べているのが,このエッセーである。しかし,一言で漫画といっても,寅彦の時代の,寅彦が思う漫画と,21世紀のはじめに我々がもっている漫画との間には大きな逕庭がある。そこのところが明確でないせいか,いくら読んでも,隔靴掻痒の感を拭い去ることはできないであろう。
2009年1月23日。金曜日。晴れ時々曇り。 旧暦12.28. 戊辰(つちのえ たつ) 五黄先負。
今日も,夕方から雲って,また雨になるのかと思われたが,そうはならなかった。またまた寒波が来ているのか,戸外は寒い。寺田寅彦「球根」(全集2)は,心境小説の趣で書かれたものである。病気療養中の主人公のもとへ球根が送られて来る。差出人が誰かわからない。いろいろと想像をめぐらす。一方,病中の生活は読書三昧で,冴え渡る日々が多い。そんな中時々,倦怠の時も周期的に訪れる,と記す。これは病中でなくても,誰にもあることである。後日,予想外の遠戚からの葉書で,送り主が判明する。そして「外の世界とちょっとでも接触する所には,もう無際限な永遠の闇が始まる」と認識する。そうなのだ,自己と他者の関係は,無際限な永遠の闇との境界なのだ。
2009年1月24日。土曜日。晴れ一時小雪。 旧暦12.29. 己巳(つちのと み) 六白仏滅。
予想通り寒波到来。昨夜,かなり吹いていた。猫の往来を妨害する目的で,溝の中に立てている水を入れたペットボトルの何本かが倒れていた。明日も寒そう。炬燵で,「元祖ボール」プラス「小粒やねん」を食べながら,本を読むことにしよう。
シェイクスピア作,北川悌二訳「ヴェロナの二紳士」(筑摩・世界古典文学全集42)。残念ながら紳士ではない。友情を裏切って恋のライバルになる。そしてそのやり口がよろしくない。だが,不思議な劇である。会話はそれぞれが面白い。原文の洒落がわかれば,もっとおもしろくなろう。さらにその上に舞台で見れば,さらに面白くなると思う。ただ,ストーリー展開は,意に添わなくても我慢しなくてはならない。現代小説に慣れた我々には主たるストーリーの展開には,敏感になっているものである。だから,主人公の友情が裏切られるのも不自然だし,また簡単に最後は改心してハッピーエンドに終わるのは納得がいかない。一夜の喜劇だから,と言われてしまえば,それだけである。
2009年1月25日。日曜日。晴れ。 旧暦12.30. 庚午(かのえ うま) 七赤大安。さんりんぼう。
庭のメダカ池に厚い氷が張っておりました。気温は低いようでしたが,よく晴れて,風もなく穏やかな日曜日でした。でも,寒いので,山茶花の花びらを掃除した程度で,冷気にあたって風邪など引かぬよう,用心に勤めました。
ギボン著,中野好夫訳「ローマ帝国衰亡史Ⅰ」(筑摩書房)のうち「第九章 デキウス帝時代,蛮族による入寇が開始されるまでのゲルマニア情勢 249-252年」を読んだ。ローマ帝国衰亡史なのだから,滅びの歌であるのは言うまでもない。その一番の原因は北方のゲルマン民族である。あの高校の世界史で「ゲルマン民族み3な7うご5く」などと言って覚えた,ゲルマン民族が大移動はしないまでも,ローマと境を接して絶えず脅かすわけだから,蛮族などと呼んで軽視してはいけない。孫子の兵法ではないが,敵を知らずして戦うわけにいかない。ここ,第九章は,戦いにではなく,この蛮族と呼ばれるゲルマン人についての,解説である。375年頃のゲルマン民族に対して,この大入寇の頃のゲルマン民族を古代ゲルマン人などと呼ぶようである。
そのゲルマン諸族との長い戦いは,塩野さんの「ローマ人の物語」の後半に夥しくでてくるのだが,ギボンはここで,その特質をまず書いておく。おもしろいのは,中世騎士道とか,封建制などに古代ゲルマン人の習慣がすでにあったという歴史家の見解の紹介などである。ほとんどが,タキトゥスなどの試料によるものであるが,それでもなかなかにおもしろい章で,ここだけ読んでも,ヨーロッパの前史として意義深い。
2009年1月26日。月曜日。晴れ。 旧暦1.1. 辛未(かのと ひつじ) 八白先勝。旧正月。
旧正月である。中国はともかくとして,我が国で,どれくらいの人が,この旧正月を祝っているのだろうか。。それもだんだん減っていることは予想される。しかし,今日から春なのである。そして謹賀新春とか、迎春とかいうのも今日がふさわしい。1月2月3月が春なのである。ということで,自分一人で旧正月を祝いたい。謹賀新春! 折しも石焼き芋の拡声器の声が寒空の下を流れる。
寺田寅彦「自画像」(全集2)は,静謐とでもいえばいいような,静かなエッセーである。自宅療養中のことである。読書に飽きたのと季節の変わり目に,絵を描きたくなって,写生に行けないので自画像を描いたという訳である。自画像を描きながら様々な想念が出来する。それらをひとつずつ丹念に描いて(絵ではなく文章に)いく。しかし,読んでいるうちに,またまた寅彦の観察癖に出会う。キャンパスの上の自分の手が成したことの一つ一つが物理の実験のように,正確に記録されなければならない。そうであるが故に,かどうかはともかくとして,絵は完成しない。
2009年1月27日。火曜日。晴れ。 旧暦1.2. 壬申(みずのえ さる) 九紫友引。
謹賀新春などと言っても,まだ寒い。まだまだ冬である。ただ,朝夕の時間が日に日に広がっていっているのは確かだ。朝は7時に薄暗いということはなくなった。夕方も6時頃まで薄明るい。冬の中にも春があるというのは,確かである。日射しがやや明るい。猫の啼き声が増えた。
寺田寅彦「蓑虫と雲」(全集2)。寅彦版昆虫記である。そういえば,最近では蓑虫など見る機会がめっきり減った。自然から遠ざかっている訳ではない。木々は身近に豊富にある。なのに。何故であろうか。思うに鳥のせいだと思う。最近家の周りに来る鳥の種類が随分と変わったように思う。燕はいることはいるが,少ない。雲雀は,まったくといっていいほど見ない。多すぎるのがヒヨドリだ。ヒヨドリは,私が小さい頃,というと50年ほど前のことになるが,冬になるとやってきては,蜜柑の熟れたのを啄んでいた。それがどうだ。年中家の近くにいて,猛烈な勢いで花びらを落としたりしている。そういう環境が,きっと蓑虫を駆逐したのではないだろうか。寅彦は,例によって観察癖をここでも発揮して,蓑虫の横穴から入る小さな蜘蛛のことまで,書いているのだが,果たして,何という蜘蛛の仕業なのであろうか。
2009年1月28日。水曜日。晴れ。 旧暦1.3. 癸酉(みずのと とり) 一白先負。
朝は1℃の中を通勤している。それでも,昼間西のほうを見るとまばようばかりの日射しで,春の息吹が感じられた。夕凪亭の前の梅の木の蕾がどんどん大きくなる。これは鉢植えの残り物を半値で買ったものを路地に植えたものである。残念ながら実は大きくならないが,花は咲く。そして何よりも木の成長が早い。
寺田寅彦「蜂が団子を作る話」(全集2)。昨日に引き続き,寅彦版昆虫記である。庭の植木を荒らす昆虫たちの話から,ついには蜂が毛虫を団子にする話に致るという,まことに楽しい随筆である。私にも蜂の思いでは数々あるが,団子を作っているところは見たことがない。蜂の学名などが出てくるわけではないのに,この話は実に楽しい。ファーブルの昆虫記は,完全には読んでいない。フランス語の対訳で読もうと岩波文庫を買ってあるが,原文のほうが相当難物で,今では二階の本棚に押しやられている。下ろしてきて読みたくなった。
2009年1月29日。木曜日。晴れ後小雨。 旧暦1.4. 甲戌(きのえ いぬ) 二黒仏滅。
夕方になって小雨。夜になって強くはないがかなりの雨。この頃の雨は,一雨ごとに春に近づいていく。特に今年のように暖冬の年はそうだ。もう何回か寒波は来るのだろうが,日々春に近づいて行く。季節のみならず山々の木々にとっても,この頃の雨は成長の糧に違いない。
寺田寅彦「田園雑感」(全集2)は,田舎の風物に寅彦流観察癖を発揮したものである。ここに書かれているような田舎の光景は,半分以上は廃れているのだろうが,今なお存続しているものもあるだろう。
「反応を要求しない親切ならば受けてもそれほど恐ろしくないが、田舎(いなか)の人の質樸(しつぼく)さと正直さはそのような投げやりな事は許容しない。それでこれらの人々から受けた親切は一々明細に記録しておいて、気長にそしてなしくずしにこれを償却しなければならないのである。」(p.239)
物心両面にわたって,最も多く存在しているのが,ここに記されたようなことだろう。かつて,放送大学の文化人類学の講義で,南太平洋の小さな島国での,贈答儀礼について,ある文化人類学者が三つの義務があると分析した。何かの儀式や,節目に,物を贈る習慣のあるところでは,贈る義務,受けとる義務,返礼をする義務があるのだそうである。これは,田舎に限らず,多少の程度の差はあるものの,都会でも存続していて,サービス業者を益しているのかも知れない。
過疎地が日本全国津々浦々まで浸透しているが,仕事がないとかいうような経済問題だけでなく,古い習俗からの脱出(エクソダス)があったのではなかろうか。
古い習俗から離れようと田舎を飛び出したと思ったら,ある年代に生じた新興住宅団地などでは,形を変えて古い習俗の一端を移植した町内会があって,葬式にかり出されたり,変な回覧板を回されたりしているところもあって,どこまで行っても亡霊は追いかけてくる。さらに自由になろうと,マンションへと移っても・・・,その先は伝聞になるので書くのはやめておこう。
2009年1月30日。金曜日。晴れ後小雨。 旧暦1.5. 乙亥(きのと い) 三碧大安。
昨夜来の雨で気温がぐんと上がり,暖冬と春来を同時に感じることのできる一日であった。そして,今夜も激しい雨ではないが,長い間降り続いている。
シェイクスピア作,和田勇一訳「恋の骨折損」(筑摩・世界古典文学全集42)。全編洒落のオンパレードでそれを脚注で楽しむというのも変な話だが,訳者の苦労は察するに余りある。小生がその立場に立てば,「興味ある読者はぜひ自分で原文に当たってみてほしい」などと言って,お役目を御免被るところである。到底翻訳など不可能な作品である。
当時の社会で誓い破りがどの程度の悪徳になるのかわからないのだが,随分と楽しい劇である。本文に出てくる洒落がわかっていて,英語による劇を見ることができれば,この劇の面白さがよくわかるであろう。
「間違いの喜劇」と同様対になる登場人物を巧みに配した,創意に富んだ実験的作品で,十分に喜劇的なよい作品だと思う。
2009年1月31日。土曜日。曇り時々晴れ。 旧暦1.6. 丙子(ひのえ ね) 四緑赤口。
明け方まで降っていた雨は止んで,気温は異常に高く春のようだった。しかし,後に低気圧の影響で北風の舞う一日となった。
ファーブル昆虫記より「ラングドックのあなばち」(山田吉彦・林達夫訳,岩波文庫1-10)。獲物の昆虫を歩いて運び,近くに巣穴を掘る蜂の話である。
この岩波文庫の第一巻には総目次が付いているのだが,ファーブル昆虫記というのは膨大なvolumeである。よく,私の好きな本などとして挙げる人が多いが,全巻を読んでそうしている人がどれくらいいるのだろうか。児童文学全集などの抄訳の抄訳などで,それが昆虫記だと思っている人が多いのではなかろうか。だから,教科書だけとか,どこかで一つのエピソードを読んだだけでも,堂々と昆虫記が好きと言ってもいいと思う。
どこをとっても,金太郎飴のように面白いので,あれだけ人気があるのだ。ちょっと立ち止まって考えれば,志賀直哉の私小説にも寺田寅彦の随筆にもよく似ている。まことに読みやすくて楽しい。さて,小生の読書計画であるが,全巻読破の射程にはまだ入っていない。多分,死ぬまでに最後まで至らないだろうと思う。気長に,気の向いたところか読んで,それぞれで楽しめば,それでもって瞑目すべし。
暖冬の一月は今日で終わる。