2019年2月28日木曜日

夕凪亭閑話 2008年12月 decembre

2008年12月5日。金曜日 雨後晴れ。 旧暦11.8. つちのと う 三碧 赤口
 忙しかったわけでもなく,体調不良だったわけでもなく,いつものように生活しておりましたが,あっという間に12月も5日となってしまいました。早朝から大雨で,午後は晴れておりましたが,夕方の冷え込みには驚きかつ振るえました。
 江戸川乱歩の「覆面の舞踏者」(全集2)は,タイトルほどおどろおどろしい話ではなく,仮面舞踏会のようなもので,主催者があらかじめ設定していた相手通りにならなかったという,話で,特別の意味はないのですが,仮装するときに,乱歩の変装へのあこがれぶりが遺憾なく発揮されており,乱歩ワールドの巾の広さに畏れいった次第。そういえば,似たような趣向が太宰治の「人間失格」や三島さんの「仮面の告白」にもありましたねェ。
 
 
2008年12月6日。土曜日 晴れ時々小雪。 旧暦11.9. かのえ たつ 二黒 先勝
 今日は昨夜の続きで大変寒い一日であった。少しだけ外で作業をしましたが,すぐにやめました。
 福田恆存訳「ヘンリー四世」(新潮世界文学2)を読んだ。放蕩息子のハリーが面白い。しかし,後半,王のもとでよく奮闘する。この辺の変わり身の速さの状況をもう少し描いていればおもしろくなったのではないかと思われる。史劇とはいうもののあくまで個人のドラマに近い。さて,この全集に収められている「リチャード三世」は,三年ほど前に読んだので,今回はパスすることにする。ということで,新潮世界文学の1のほうに移ることにしよう。
 
 
2008年12月7日。日曜日 晴れ。 旧暦11.10. かのと み 一白 友引  大雪
 今日も寒い一日でした。庭のメダカを飼っている池や発泡スチロールにいれている水が凍って夕方になっても解けなかったので,相当寒い一日だったと思います。夕方,例の金星と木星が出て晴れた寒空で瞬いていました。
 三島由紀夫さんの「孔雀」という短編を集英社の文学全集で読みました。昭和44年の12版(今流にいうと12刷でしょうか)で,290円のものですが,印刷も濃く,今でも読みやすく,内容も良い本です。三島さんの作品は傑作が多く,この頃各社から出た文学全集ではいずれもどれを載せるか苦労されたようです。代表作を網羅していたらとてもではないが,収まりきれないし,代表作と思われるものばっかり選んでいたら,他社のものと同じになるし・・・。「金閣寺」と「潮騒」があって,短編が八作品というのは,よい選択です。短編もなかなかよいものを選んでおります。その中でも「孔雀」は最後のところが,リアリズムに反しておりまして,どう納得させるか難しい作品です。金閣寺の焼亡のニュースを聞いて,その後でそれが放火によるものだったと聞いて,驚くとともに,先を越された,それは自分こそがやるべきだった,と思った人はいないと思います。いるかも知れませんが,やはりいないと思います。三島さんだってそんなことは思わなかったと思いますよ。しかし,そう思っていたに違いないと誤解する子供がいてもおかしくないほど,小説「金閣寺」はよくできております。それはさておき,遊園地の孔雀が何者かによって殺されたとき,それは,自分がやったのではないが,自分がやりたかったことだと思う人はいないでしょう。そんな人がいるのかな? いないと思うけど・・・。 「孔雀」は,そういうお話なのです。そして,それを殺すのは,年取ったおじさんではいけなくて,美少年でなければいけない,というのが三島さんの美学なのです。40歳の三島さんが青春時代を憧憬して書いたというよりも,むしろ成長の否定をここでも宣言しているわけですね。青春は永遠で老年は醜いという,いつものテーマです。それを言葉の彫刻で作りあげることに,不思議な魅力を感じます。
 
2008年12月8日。月曜日 晴れ後曇り,夜小雨。 旧暦11.11. みずのと うま 九紫 先負
 少しだけ寒波はやわらぎましたが,朝は寒かった。それに午後は雲って,夜になって小雨まで降りまして,冬が深まっていっております。(普通,秋は深まるとは言いますが・・・)
 江戸川乱歩の「闇に蠢く」(全集2)はかなり長い作品です。後半意外な展開となり最後には「食人鬼」となるという凄惨な話なので,内容についてはこれ以上触れませんが,作品としては完成しており,乱歩らしい,傑作と言ってもよいでしょう。「湖畔亭事件」でもでてきましたが,「覗き見」への嗜好が例によって詳しく語られます。「変装」「覗き見」「鏡」「浅草」・・・・と乱歩ワールドの小道具のオンパレードです。そういえば,三島さんの「午後の曳航」や「暁の寺」にも覗き見は出てきました。また,「鍵のかかる部屋」にもあったように記憶しております。
 
2008年12月9日。火曜日 曇り時々小雨。 旧暦11.12. みずのと ひつじ 八白 仏滅
 寒さはやわらぎましたが,ぱっとしない天気ですね。不況のようすが至るところから聞こえてきます。車の販売台数の減少。採用取り消し。マンションの販売戸数の減少。少子化は依然続いているし,物は余っているし・・・。少し前までの好景気が幻だったのではないでしょうか。団塊の世代と呼ばれている方々がどんどんと定年を迎えられているようですが,この人たちの定年後の,消費ブームが起きていないようですね。やはり,年金がこの先どうなるか不安ですから,財布の紐は堅く締めておこうという傾向があるのでしょうか。
 江戸川乱歩の「灰神楽」(全集2)は,すてきなタイトルです。だが,こういう言葉はもう死語に近いのでしょうか。火鉢など使いませんからね。火鉢といえば,過度期の様子を少し書いておきましょう。火鉢,炬燵には底に木炭を入れて,その上に熾(おき,薪などが燃え終わって炎が出なくなり,炭火となったもの,旺文社国語辞典)を置くのです。調理した後の熾(おき)を十能(スコップの小型のもの)に火箸で移して,運ぶのです。しかし,プロパンが普及してくると,竈(かまど)や七輪を使う頻度が減りますから,当然のことながら熾は出なくなります。そこで,木炭に火をつけて熾にする器具が出てきたのです。手持ち鍋の底が網になっているようなものだと思っていただければよいでしょう。実際は網ではなく金属板が斜めに渡してありましたが。それに木炭を入れ,ガスコンロに載せて,下からプロパンの火で,木炭を熾のようにするわけですね。そしてそれを,炬燵や,火鉢に入れるというわけです。やがて,石油ストーブや,電気炬燵の普及により,そのような光景は消えてしまいましたが・・・。
 さて,話を元にもどして「灰神楽」は灰汁の強くない,短編ですが,おかしさや,さわやかな気持ちの残る佳作です。完全犯罪をねらうためのトリックというのが主題なのですが,時代背景をかんがえなければ理解はできません。現在では,このような状況での事件であれば,どんな策を弄しても,すぐに検挙されてしまうでしょう。
 
2008年12月10日。水曜日 晴れ。 旧暦11.13. きのえ さる 七赤 大安
 また暖かくなりました。月がだんだん大きくなってきます。雲が少なく,くっきりと見えます。
 江戸川乱歩の「火星の運河」(全集2)は,これもすてきなタイトルですが,中身と関係ありません。一場面の比喩です。出だしと最後は感心しませんが,途中のファンタジーは素晴らしい。
 
 
2008年12月11日。木曜日 晴れ。 旧暦11.14. きのと とり 六白 赤口
 本日はさらに暖かくなりました。ガソリンがどんどん下がっていきます。不景気風とは裏腹に。
 江戸川乱歩の「モノグラム」(全集2)は,探偵小説ではありませんが,よくできた話で,一応トリックらしきものと最後のどんでん返しがよく決まっておりますから,犯罪と絡めておれば,推理小説になるのですが・・・。見知らぬ男が,どこかであったことがあると,声をかけてきます。記憶にありません。何かの間違いに違いない。そうこうするうちに,こちらも,その男にどこかであったような気持ちになる,という謎のような話が展開していきます。さて,これにいかに合理的な解釈を与えるか。その先は種明かしになるので,書きません。
 
2008年12月12日。金曜日 晴れ。 旧暦11.15. ひのえ いぬ 五黄 先勝
 秋のような暖かさで,日中窓を開けておりました。今日は,今年最後の満月です。綺麗ですね。
 江戸川乱歩の「お勢登場」(全集2)は,子供とかんれんぼをしていて,押入の中の長持ちの中に入ったら蓋がしまって開けられなくなるという話です。大人が隠れんぼしたときの,快感を乱歩はさらりと書いてますが,これも乱歩の世界ですね。もっと書きたいところを,我慢したのでしょう。さて,ダイイング・メッセージまでありながら,犯人逮捕までいたらないのですから,やや中途半端ですね。
 
 
2008年12月13日。土曜日 晴れ。 旧暦11.16. ひのと 四緑 友引
 ここ二,三日の天気だけから判断すると,暖冬ですね。いつまで続くのやら。暖冬だとスキー場は困りますね。不景気風はあまり吹いてほしくはありませんから,夏は暑く,冬は寒いのを我慢して,通常の季節の推移を期待しましょう。
 福田恆存訳「アントニーとクレオパトラ」(新潮世界文学1)は,高校のとき読んで感動したのですが,登場人物があまりにも凡庸で,がっかりです。でも,まあ歴史上の名場面ですから,こういう形で人々の記憶に刻まれるのもいいことだと思いました。
 
 
2008年12月14日。日曜日 晴れ時々雨。 旧暦11.17. つちのえ ね 三碧 先負
 昨夜少し降りました。今日は少し寒くなったせいか一時,雹が降ってました。今日は,播州赤穂の義士祭ですね。何回か行きましたが,いいですね。今年は日曜日ですから,さぞ盛況だったと思われるます。また機会があれば行ってみたいですね。ついてで赤穂温泉に泊まるとか・・・。一度,会社の慰安旅行で泊まったことがあります。二度かな? 波の音が聞こえていいところでした。
 江戸川乱歩の「人でなしの恋」(全集2)は,これまた乱歩ワールドです。結婚半年にして,夫の愛情のよそよそしさに気づいた妻がその原因を探るという話です。同性愛を連想させますが,そんなものではない・・・・。ネタバレになりますので,その先はやめておきましょう。「押し絵と旅する男」という私の好きな作品がありますが,あのようなものを想像しておりましたが・・・。 さて。これで,江戸川乱歩全集第二巻(講談社,昭和54年)は終わりです。月報には,この作品にも出てきた,土蔵を書斎にしている乱歩の写真があります。また,巻末に土屋隆夫氏のエッセー。
 
2008年12月15日。月曜日 晴れ。 旧暦11.18. つちのと うし 二黒 仏滅
 少し寒くなりました。でも,寒波というほどのことはありません。少し先週が暖かすぎたのでしょう。
 寺田寅彦「やもり物語」(全集代一巻)。しみじみとした,町のうつろいの話である。わたしにも,「やもり物語」がある。岡山で,下宿していたとき,磨りガラスの向こうに夜毎,やもりがたずねてきた。そばにあったヘアドライヤーでこちら側からゆっくりと暖めていく。だんだんガラスの温度があがって,やもりは脚を交互にあげたりして,変化に気づく。しかし,何もしない・・・。次の瞬間,ジャンプして周辺へ逃げてしまった。翌日は,さらに広い範囲で,周辺からじわじわとドライヤーを当てた。そして円を描くように暖めつつ,徐々に円を狭めていく。どうだ! 逃げられまい。と思った瞬間,またもジャンプしてやもりは裏の畑に逃げてしまった。
 さて,私のもっている岩波書店の寺田寅彦全集は全17巻の新書版で,1960年に第一刷が出たものの,1977年の第9刷である。60年のときが,三回目の寅彦全集(文学編)だということで,このときに現代表記になったようだ。だから,今でも読みやすい。活字さえ大きければ旧漢字でも構わないが,この程度の本であれば現代表記でないと読みにくいだろう。新書版で軽いので,重宝している。
 
2008年12月16日。火曜日 晴れ夜一時雨。 旧暦11.19. かのえ とら 一白 大安 さんりんぼう
 少し寒いなと思いながら,朝の月を見ながらの出勤です。暗くなって一時強い雨が降りました。冬の雨は寂しいですね。
 江戸川乱歩「鏡地獄」(全集3)。これも,またまた乱歩ワールドです。少年は一時期,レンズや鏡に凝るものです。しかし,たいていが何日も続かないでしょう。かつて遊園地のお化け屋敷に,暗いところで両側に鏡を置いてあってずっとずっと遠くまで見えて,随分怖い思いをしたことがありますが,これを自分の部屋に作って,天井も床も前も後も,すなわち六面をすべて鏡にしたら,いかなる自分が見えることか,興味は尽きません。さらにこれを,角にも鏡にして14面体にし,さらに・・・としていけば,おもしろいと思うのですが,この小説の中では,いきなり球状の鏡を作り,その中に入って発狂してしまったというのですから,怖いですね。「2001年宇宙への旅」の映像を超えているのではないでしょうか。
 
2008年12月17日。水曜日 晴れ。 旧暦11.20. かのと う 九紫 赤口
 ここ数日,朝と昼に1円ずつレギュラーガソリンを単価を下げる,ガソリンスタンドの電光掲示板が今日は,朝から99円のままで,昨日と同じ値で推移しなかった。 5時過ぎに,西の空を見ると,薄くところどころ紅に染まった空に,灰色がかった雲が乱れて浮いていた。いかにも冬空といった感じで,どんどんと暮れていく。同じようにどんどんと今年も終わっていく。
 寺田寅彦の「障子のらく書き」(全集1)は,夫の亡くなった妹とその娘を引き取って,郷里に向けての列車を見送った日の感慨を述べたものである。夜家に帰って,障子に姪の書いた落書きを見て,「名状のできぬ暗愁が胸にこみあげて来て,外套のかくしに入れたままの拳を握りしめて強く下くちびるをかんだ。」
 
 
2008年12月18日。木曜日 晴れ。 旧暦11.21. みずのえ たつ 八白 先勝
 ガソリンスタンドは,さらに1円下げて,98円になりました。まだまだ暖かい。 
 江戸川乱歩「木馬は廻る」(全集2)は傑作である。推理小説ではないが,実に見事な短編小説である。木馬館の貧しいラッパ吹き,そしてまた貧しい切符切りの娘。中年のラッパ吹きは娘に恋心を抱く。娘はまずしいせいか,給料をもらっても流行のショールも買えない。男は買ってやりたいが,その余裕はない。ある日,スリが刑事に追われて,盗んだ給料袋を,木馬に乗って,この娘の後ポケットに隠す。娘は気がつかない。ラッパ吹きは恋文だと思って,娘に気がつかれないように抜き取る。これだけあればショールも買える。貧しさ・女,このお金を掠めてもおかしくないようなストリーがここまで展開してきた。この男の転落の人生が今始まろうとしている。このお金を使ったら,もとが貧しいのだから,返すことはできないだろう。もし家にもって帰って,妻が事情を知らずに使っても,やはり取り返しはつかないだろう。まるで近松の世界だ。お金に弱い,女に弱い。これが,世の中の男の大部分だ。・・・ラッパ吹きは,娘にショールを買ってやる,ともののはずみで言ってしまった。もう引き返せない。そして高揚したラッパ吹きは,みんなにおごるからと言って,木馬に乗る。さあ,それでも,この男は引き返せるのか。貧しいながら,日々ラッパを吹いておれば,家族も養っていける。もし,このお金をねこばばしたことがわかれば,犯罪になるし,この木馬館を解雇されるのは,目に見えている。悲惨な物語が始まるのか,寸出のところで男は反省して,引き返すのか,と読者がその続きに期待したところで,この小説は終わる。実に見事な終わりかたである。
 
 
2008年12月19日。金曜日 晴れ。 旧暦11.22. みずのと み 七赤 友引
 日中暖かかったが,日ぐれとともに気温は下がり,夜はしんしんとしている。夕方,五時過ぎに西の空を見ると,燃えるような赤色がビルの向こう側の日の沈んだあたりを染めている。目を南のほうへ転じると,やや高いところで,金星が大きく光っている。土星は少し,西のほうへ,以前よりもずっと離れて,そして小さくなっている。
 寺田寅彦「花物語」(全集1)は,花が,しおりのように添えられた,花とはあまり関係ないエッセーである。蝙蝠がいる,カブトムシがいる,清水がある,桶屋がある・・・多くが今は見ることができない光景である。ただ,私の小さい頃には,まだそのような生活が少しではあるが息づいていた。それにしても世の中は変わったものだ。今も急激に変わりつつある。この先の変化も予想はできない。人間の能力もその変化に応じて進化していけばいいのだが,どうもそうはいかないようだ。人間の進化は遅い。
 
 
2008年12月20日。土曜日 晴れ。 旧暦11.23.   きのえ うま 七赤 先負
 暖かい。床に雑巾がけをした以外は,気儘に過ごした。振替を出そうと思って歩いて郵便局へ行ったがATMが故障して,普及の見通しはありません,後できて下さい,と言われたのでまた歩いて帰った,公園は,ポプラも桜も銀杏も皆散って,黒い枝が青空を背景に天に向かって伸びて,冬の日を浴びていた。見渡せば,花も紅葉もなかりけり,である。 
 寺田寅彦「まじょりか皿」(全集1)。まじょりかというのはどこかで聞いたことが有るが,確かでないのでネットで検索をかけてみたが,珍しく出てこない。しかたがないので,重たい「大辞泉」を開くと見事にあった。「15世紀から16世紀にかけてイタリアで発達した陶器」とある。「もとになる陶器がスペインからマジョルカ島を経て輸入されたから」とある。しかし,この随筆の主題は,その陶器のことではない。陶器を買った心である。フリーターをしていて,大晦に原稿料の30円が入った。前から欲しかった5円のマジョリカの絵皿を買った。が,「ことしは例年のことを思えば楽な暮れであるが,去年や一昨年の苦しかった暮れには,かえって覚えなかった一種の不安とさびしさを覚え」たという話である。芥川の「鼻」とは少し違うが,一種の「満足の不満足」という感情をうまく書いた好随筆である。慌ただしく年を越すほうが,却って落ち着くのかも知れない。
 
 
 
2008年12月21日。日曜日。 雨時々曇り。 旧暦11.24. きのと ひつじ 八白 仏滅 冬至
 例年になく暖かい冬至です。雨になりました。断続的に降っています。時々激しく。今年も10日ほどです。時が経つのが速いといって嘆くこともなく,自分の自由になる時間を最大限に活用できれば,それでよしとしましょう。
 福田恆存訳「リア王」(新潮世界文学1)。リア王と三人の娘への遺産配分というよく知られた話は,唐突にも愛情の程度を,娘達に宣言させるところから始まる。「巧言令色鮮なし仁」というのは論語の中でも群を抜いて理解しやすい語句だから,この開幕のリア王の要求は,はなはだ陳腐に見える。それは「ロミオとジュリエット」の突然の一目惚れにも似て,観客や読者に違和感を抱かせるところであろう。しかし,この陳腐な芝居はあっという間に,もとの主題からそれて,グロスターの庶子の悪巧みの世界へと突入していく。エドマンドという,決して主役にはなれそうにない平凡な男が計画を実施に移して行ったかと思うとこの話があたかもメインであるかのごとくに複雑に展開していく。しかし,それでいてやはり主役はリア王であったと,最後には納得させるところが,このドラマの凄いところである。それぞれの会話がまた素晴らしく,特に道化の台詞のひとつひとつが,光っている。複雑に絡みあう複数の場面の目まぐるしい展開の妙味もまたこの作品の魅力で,断片を読むよりも通して読む方がはるかに面白い。
 
 
2008年12月22日。月曜日。 晴れ。 旧暦11.25. ひのえ さる 九紫 大安
 久しぶりの寒波。黒みを帯びた冬の雲が湧き,寒風に流れる。
 花澤哲文氏の「高坂正顕 京都学派と歴史哲学」(燈影舎)を読んだ。大学へ入って間もなく高坂氏の「ツァラトゥストラを読む人のために」というのを大学の図書館で貪るように読んだのは,もう既に遠い記憶だ。その高坂氏の思索の跡を京都学派の諸氏との交友と絡めながら,主著「歴史哲学」の分析とともに示した労作である。その高坂は戦後京都大学の哲学哲学史第一講座の教授職の候補に挙がりながら,そこに復職することはなかった。このことが京都学派の戦後ルネッサンスの夢は潰えたことの最大の理由だと思う。そして我が国の哲学の主流は,西欧哲学の紹介と解釈という従来のパターンを継承しながら現在に至っているということは,多くの人が感じていることだろう。
 
 
2008年12月23日。火曜日。 晴れ。 旧暦11.26. ひのと とり 一白 赤口  天皇誕生日
 寒い日でした。トヨタ赤字というのには驚きますね。そういうことがあるのでしょうか。今の車はなかなか壊れませんからね。どんどん製造されて地球上を覆い尽くすまで作られるのでしょうね,きっと。鉄だけでできていれば,製鉄所に放り込んで,もう一度鋼鉄にしてしまえばいいのでしょうが,いろんなものが入っていますから,解体分別がたいへんでしょうね。
 寺田寅彦「先生への通信」(全集1)。これはヨーロッパ留学中の手紙である。勿論,先生とは漱石のことで,漱石が朝日新聞に掲載した。おもしろいのは,スイスの山でのできごとです。「お前は日本人ではないかと聞きますから,そうだと答えたら。私は英人でウェストンというものだが,日本には八年間もいてあらゆる高山へ登り,富士へは六回登ったことがあると話しました」(p.122)という記述です。上高地の梓川沿いを散歩していたら記念碑があって,その前で写真を撮ってもらったことがあります。そのウォルター・ウェストンのことですね。
 
 
2008年12月24日。水曜日。 晴れ。 旧暦11.27. つちのえ いぬ 二黒 先勝
 郊外に住んでいますし,テレビも見ませんので,ジングルベルの音楽は,今年は一度も聞いておりませんが,洋菓子屋さんの前に,車が溢れておりましたから,多くの家庭で,不景気にもかかわらず,あるいは不景気故に,何千円もするケーキを食べておられるのでしょうね。雪は降っていませんが,よいお天気で,外を出歩くのには,適した気候だったと思います。何十年か前に,ロンドンへ行ったら,翌日は店が閉まっていて,ちょっと残念だった思い出があります。
 寺田寅彦「方則について」(全集1)は,読み応えがあります。物理や化学の法則のことです。初出が「大正四年十月,理学界」となっておりますから,当時は「方則」と書いていたのでしょう。
 その法則の限界と効用について,見事に,なおかつ丁寧に書いたものです。結論は「自分は科学というものの方法や価値や限界などを多少でも暗示することがかえって百千の事実方則を暗記させるよりも有益だと信じたい」(p.153)ということになるのですが,前半の法則にまで致る実験への影響を与える因子とそれをどのように考えて法則が得られるのかを示したところが凄い。やはり寺田寅彦は卓越した物理学者であったのだ,と改めて思った。
 
 
2008年12月25日。木曜日。 晴れ一時小雨。 旧暦11.28. つちのと い 三碧 友引
 作家の早乙女貢さんがお亡くなりになられました。ご冥福をお祈り致します。30年ほど前になりますが,岡山で,講演をお聞きしたことがありました。田辺茂一さんもご一緒でした。印象に残っているのは,三島さんの死について,書けなくなったから自殺されたのだと明言されました。作家だから,書くことがあれば死なないというわけです。ここで書けないという意味が重要です。その作家にとっての作品を書けないという意味です。三島さんの場合は,時代と自分の芸術観との接点を書くというのが書くということだったわけですから,そこに意義を見いだせなくなったという意味で書けなくなったと言うことは言えるでしょう。
 寺田寅彦「物質とエネルギー」(全集1)は,物理の内容をわかりやすく解説したもので,いろいろと教えられることがたくさんありました。寺田寅彦の科学的な随筆は,身の回りの現象などに言及したものが好んで引用されますが,科学の概念そのものについて書かれたものも,素晴らしいのです。中学や高校の教科書に出てくるような概念についても,その本質をついた解説には感心します。この中にも記憶に留めておきたいことがたくさんありますが,一つだけ引用しましょう。「物理の理の字はまさにかくのごとき総括を意味するとも言える。」(p.164)いかがでしょうか。「昔の物理学では五感の立場から全く別物として取り扱ったものがだんだんいっしょになって来る」(p.163)という流れを言っているのです。光と電気現象,磁気現象が統一され・・・それが更に・・という具合に。現在は一般相対性理論と量子力学を統一しようとして努力が続けられているのは周知のことだと思います。「五感の立場から」云々というのは,プランクの講演にもありましたので,興味のお持ちの方は,「世界の名著・現代の科学Ⅱ」のp.93以降をお読み下さい。
 
 
2008年12月26日。金曜日。 晴れ一時小雪。 旧暦11.29. かのえ ね 四緑 先負
 時折小雪の舞う寒い日となりました。ガソリンは95円くらいのところで,ここ数日安定しているようです。
 寺田寅彦「科学上における権威の価値と弊害」(全集1)もなかなか素晴らしい科学論である。科学の内容というよりも学習の仕方,自然への接し方,自然科学に対する態度,というものへの洞察である。著者の狙いは,科学の進歩は権威への反逆から成し遂げられている。偉い人の言うことのすべてが正しいわけではない,というところにあるのだが,易しい例として前半に語られる例ももっともなことである。例えば,教科書で学習することもまた,権威のもつ価値と弊害の問題を含む。権威ある教科書故に,自然をそのようにしてしか見られないとしたら,それは正しい自然への向き合い方ではない。科学は教科書の中にあるのではなく,自然の中にあるということを忘れてはならない。
 
 
 
2008年12月27日。土曜日。 晴れ。 旧暦12.1. かのと うし 五黄 赤口
 実は,たくさんある趣味の一つ(下手の横好き)で,遠きにありて思う故郷(某所)で錦鯉の稚魚を飼っているのだが,何とカワセミが襲来していることがわかった。あの飛ぶ翡翠(動く翡翠?)とも呼ばれる青い美しい鳥だ。宮沢賢治の「やまなし」にも出てきたかな?(もう忘れました。老化がどんどん進みます。下り廊下) しあわせの青い鳥とは思えない。悪名高き鷺(何しろオンが詐欺と通じますからね)に備えて,ネットは張ってあるのだが,何しろそのネットの目よりも小さいのだから,どうしょうもない。 
 寺田寅彦「科学者と芸術家」(全集1)。このタイトルを見たとき,寅彦の随筆の最もポピュラーなものがこのタイプのものではないかと思う人が結構多いのではなかろうか。世間一般に,別のタイプの能力や,人間が従事していると思われる分野を上げて,実はよく似ているところもあるのだ,というように展開する。例えば,科学者には数学が得意な人が多いが,芸術家には苦手な人が多い,とかいう調子で。芸術家にも数学が得意な人はかなりいるだろうが,長い芸術家になるための訓練の間に,数学を勉強する時間などあまり多くなかった人が大部分だろう。こういう調子で,違いを述べる。そして次に,ところが・・・と,似たものを挙げていく。
 どうですか,自分ならいくつぐらい挙げられるか,試みに書いてみてから読んでみるといいでしょう。多分多くのの人が寅彦には負けるでしょう。例えの多さ。それにそのことを説得する論理の細やかさにおいて。ニュートンとゲーテというように歴史上の人物まで持ち出すのであるから,やはり寅彦はすごい。と,書いたが当然といえば当然,あたりまえのことである。寅彦自身が,偉大な物理学者にして偉大な芸術家(例えば随筆という文芸の)であることは,多くの人が認めることであろう。ならば,このタイプの随筆を書くのに寺田寅彦ほど適した人はいまい。そして,寅彦の書いた文章に,多かれ少なかれ,このような発想のものが含まれるのも,また当然のことでもある。
 では,こういう科学随筆の走りのようなものを前にして,寅彦の専売特許かというに,さにあらず。思ったほど難しくはない。何でもいいから手当たり次第に比較してみよう。
 例えば,物理学者と競泳選手。共通点その1。どちらも好きなことをしている。好きでないとやれませんからね。その2.どちらも日々研鑽・努力している。その3。最後の栄冠は,片やオリンピックの金メダル。片やノーベルメダル。ノーベルメダルも金ですよ。何故金メダルかというと,ゴール! et.・・・・いかがでございましたでしょうか。でも,やはり品位と発想の豊かさでは,なかなか,寅彦を超えることはできませんでしょうね。
 
 
2008年12月28日。日曜日。 晴れ。 旧暦12.2. みずのえ とら 六白 先勝 三りんぼう
 良いお天気であったが,いつものように時間はたち,いつものように今年も終わりつつある。時間の上での話である。しかし,世の中は俄に不景気で操業短縮の会社も多いらしく,長い正月休みをとる人たちが多いと聞く。正月休みだけでなく,日本への滞在に見切りをつけて,帰国する人たちも多い,と聞く。今回の不況は,どこか変である。これまでの不況には,どこかに納得するものがあって,世間並みに財布のヒモをを引き締めて静かにくらしていこうと,不況の風を正面から迎えて,歓迎していたわけではないが,とにかくそういう雰囲気の中に浸ることができた。しかし,今回の不況は,よくわからない。海外ではその兆候がはるか以前からあって,慧眼なエコノミストにはわかっていたことなのだろうが,世情に疎い小生にはよくわからない。世界中で車が売れないということはどういうことなのだろうか。売れないことは,わかる。だか,それでは,なぜ今まで売れていたのか,ということがわからないのだ。自動車は流れ作業で生産される。一日に世界中で何台生産されていたのか知らないが,それが今まで売れ続けたということは,買い換え需要以上の需要があったとしか考えられない。世界人口は確実に増えているが,その分だけ自動車が売れたというものでもあるまい。地球人口における,自動車購入層,すなわち高所得者層が確実に増えていたのに違いない。それが止まると言うことは,大変なことで,その結果として,影響がまたそちらへ戻ってくる。すなわち低所得者層の増加ということになるのなら,社会の構造そのものが変わらざるを得ないだろう。今回の世界同時不況は,20世紀型の社会が崩壊して,21世紀の社会へ否応なく転換せざるを得なくなったということかも知れない。
 寺田寅彦「自然現象の予報」(全集1)。当たった,はずれたの世界である。今も昔もかわらない。庶民は期待する。期待が大きい故に,はずれたときの憤りが大きい。予報官は科学的な訓練を受けて来た人だ。科学的な根拠に基づいて予報を出す。だから,ここでの話は,素人対科学者ということになる。だから,この問題は昨日の「芸術家と科学者」のバリエーションである。出るべくして出た一文である。主眼は,科学的な考え方から説きおこして,予報の限界を述べ,素人と科学者の間の溝について一考を促す。現在でも,自然現象の予報と言えば,天気予報と地震予知のことを考える。天気予知とも地震予報とも言わない。それほど,天気予報と地震予知は「自然現象の予報」に違いないが,問題は多いに隔たっている。理論の発達も勿論原因の一つであるが,観測の問題も入ってくる。
 予知や予報の恩恵に預かりたい人は,素人なりに,その意味するところを確認し,いたずらに期待することや,逆にせっかくの予知に対して無関心になっていることを戒めようではありませんか。
 日本のe-text状況は,外国のものに比べたら極めておそまつなもので,これが世界に冠たる工業国か? と疑問を持っている方は多いのでは無かろうか。我が国のe-textの例でまとまりのあるものをを挙げるなら。国立国会図書館の近代ディジタルアーカイブと青空文庫くらいしかないではないか。勿論,各大学の図書館がやっている貴著書の画像とか,大蔵経データーベースとか,大学の研究室がやっている古典などの公開とか,学術雑誌のオンライン化とか・・・色々あるのだろうが,寂しいですね。もし私が外国人で日本語が少しわかったとしたら,これがSONYやTOYOTAの国の現状かと,驚き呆れてしまいます。そして,(これはあくまでも喩えとして)SONYやTOYOTAのブランドが消えたとしても,会社の経営が悪いのではなく,国民の文化レベルが低いのだから仕方がないと思ってしまいます。
 近代ディジタルアーカイブの使い勝手の悪さは,如何なものでしょうか。中身がないから,非難の声がでないのでしょうか。そんなことはありません。けっこうまともなものもありますから,一括ダウンロードできるようにしてもらいたいものですね。それはさておき,青空文庫がやっているくらいのことは,国会図書館がやるべきですね。そして少なくともテキストと画像の両方で提供すべきです。さらに著作権が切れていなくても,許可を得て,公開すべき価値のある絶版本も相当あると思いますが,そういうのを積極的に発掘すべきでしょうね。
 不満はありますが,存在しないよりはいいというのは事実です。ですから,少しでも利用していきましょう。
 岡本綺堂「読書雑感」(青空文庫)。蔵書家に本を読ませてもらいに行くという苦労。
 太宰治「ア、秋」(青空文庫)。タイトルが粋である。「あっ,秋」と読ませられそうだが,五十音順に並べたノートのアの項ということである。
 太宰治「I can speak」(青空文庫)。小説のような随筆,随筆のような小説。
 太宰治「愛と美について」(青空文庫)。タイトルから考えて,随筆だと思っていたら,にわかに小説のようになって,やはり最後は小説で終わった。
 
2008年12月29日。月曜日。 晴れ。 旧暦12.3. みずのと う 七赤 友引
 残り枚数一枚のカレンダーを見ながら,今年もあと三日かと思うと,さすがに寂しいものだ。まもなく2009年,平成21年ということになる。激動の昭和が終わって平成になって20年が経ったわけだ。平成元年は一月八日に始まったのだから,ほぼ一年間あった。だから,今年の年末をもって20年経ったと言ってもおかしくはない。景気の変動はいくらかあったが,平成の字の通り平和であったと言ってもいいと思う。ただ社会がよくなったか悪くなったかということは一概に言えないので,これは後世の評価を待つべきであろう。ただ,教育について言えば,「悪化」だったと思う。
  寺田寅彦「物理学と感覚」(全集1)。物理学が感覚の感知しうるところのものから生じたのは以前にも書いたとおりであるが,その感覚と物理学について詳しく論じたものである。その一つに,感覚から生じながらも,その感覚は極めてあやふやなもので,その標準が人間から離れることによって物理学として発展してきた,というのがある。しかし,感覚的なるものを完全に捨象して幾何学にしてしまうわけにもいかないのである。
 青空文庫を少し読んでみました。
 太宰治「青森」(青空文庫)。「豊田様のお家の、あの画が、もっと、うんと、高くなってくれたらいいと思って居ります。」。この願いどおり,棟方志功のあの画はうんと高くなって,太宰も草葉の陰で喜んでいることでしょう。でも,そう思うのは小生だけで,ひょっとするとこの随筆は作者にとっては小説で,ほんとうは棟方志功の画ではないのかもしれませんね。
 太宰治「朝」(青空文庫)。川端さんが嫌ったのは,こういう作品に流れている感情だろうか,とふと思いました。
 太宰治「あさましきもの」(青空文庫)。「破廉恥(はれんち)の市井(しせい)売文の徒(ともがら)、あさましとも、はずかしとも、ひとりでは大家のような気で居れど、誰も大家と見ぬぞ悲しき。一笑」。新潮社の一人一巻の「日本文学全集」の太宰の巻の解説に,奥野健男さんが太宰についての講演をしたときのことを書いておられたが,さて,太宰は今でも,中学生や高校生に読まれているのだろうか。
 太宰治「兄たち」。「父に早く死なれた兄弟は、なんぼうお金はあっても、可哀想なものだと思います。」今度こそ随筆だと思って読んでいたのですが,最後は小説だと思わされてしまうのですね。「私小説」と,今はこんな言葉をわざわざ使う人はいませんが,言われていたのですが,健康的でないですね。作品作りはうまいのですが。
 
 
2008年12月30日。火曜日。 晴れ。 旧暦12.4. きのえ たつ 八白 先負
 曇りがちで寒い日であった。寒波というよりも,陽が照らなかったので,と言ったほうがよいだろう。午後,公園を散歩するも,閑散として少数の小学生や一組の親子がキャッチボールをしているばかり。時折,北風が吹くので早々に引き上げようと思っていたら,雲が移動し,太陽が明るく照りだしたので楽しく散歩できました。
 注連飾りを買うのを忘れているので明日行こうと言ったら,一夜飾りはよくないなどと馬鹿なことを言うものがいたので,車で五分ほどのところにある百円ショップへ向かって夜の街へ繰り出した。土星の下の小さな三日月が美しく輝いているではないか。日中は正月準備の客でごった返していたと思われるショッピング街も,寒いせいか思いの外,人が少なかった。来年も使えるような一番安いものを買った。
 寺田寅彦「物理学実験の教授について」(全集1)。タイトルの通りのことであるが,これはこれで立派な科学論になっている。実験と簡単に言うが,ただやればいいものではない。いろいろと問題があるのだ。それを知らずにやっているだけのことだ。それを寅彦はここでは教えるべきこととして記してあるが,現在のように情報の溢れた社会では,学生が自ら学んでこそ身につくことがらであろうと思われる。それぞれの分野において,書物は溢れているのだから,自ら問題意識をもって実験者が探究すべきであろう。ただ,この一文などは,その概論として実によくまとめてあるので,自然科学を専攻する学生にはぜひ一度読んでもらいたいものだと思う。
 青空文庫を少し。
 岡本綺堂「中国怪奇小説集 凡例 開会の辞 捜神記(六朝)」(青空文庫)
 その想像力の豊富さに驚く。さすがに中国は広いだけあって,怪異咄も凄い。ハーンの「むじな」のラストを思わせるのもある。また,「羽衣」には,「どの女もみな鳥のような羽衣(はごろも)を着ているのである」とある。謡曲「羽衣」では何故かレースのような天人の服を連想するのだが,ここに書いているように羽でできた衣(服)ということで,これで飛べると解するとよく分かる。また,「八犬伝」の典拠となった話も出てくる。
 なお,捜神記の原文はウィキソースにありますので,興味の有る方はご覧下さい。
 太宰治「或る忠告」(青空文庫)。自己反省というようりも,自己解剖ですね。このようにして,自分の皮膚の皮を1枚ずつ,1作ごとに剥がしていくのですね。書くことがなくなったら。自分の足を喰う鮹のように。行き着く先が見えているようです,かわいそうですね。でもそれを極端にすすめるところが他の人たちとの差でしょうか。
 太宰治「老ハイデルベルヒ」(青空文庫)。五十三次の三島のことです。老をアルトと読ませるのです。このことについては,作者は何も書いてないので,その自虐めいた性根を云々してもはじまらないでしょうから,詮索はやめましょう。それは別にしても内容は,いいです。好きです。大林監督の「廃市」という映画がありました。福永さんの小説の映画化です。福永さんは,私が高校・大学生の頃,人気のある作家の一人でしたが,他の本を読むのに忙しく,一冊も読んでありません。ボードレールの翻訳がありましたが,それ以外は。その映画の「廃市」のような,因習を残した,時代に取り残されたような町が,もの悲しくも美しく描かれております。
 太宰治「一日の労苦」(青空文庫)。青空文庫は作品が五十音順に並んでいる。やっと「イ」に入った。またしても自嘲的な自己解剖である。「私は、ディレッタントである。物好きである。生活が作品である。しどろもどろである。私の書くものが、それがどんな形式であろうが、それはきっと私の全存在に素直なものであった筈である。この安心は、たいしたものだ。すっかり居直ってしまった形である。自分ながらあきれている。どうにも、手のつけようがない」。自己解剖の名手,三島さんを思い出した。実によく似ている。ただ,方向が反対なのだ。だから,三島さんは,ことあるごとに太宰は嫌いだと言い続けた。
 
 
2008年12月31日。水曜日。 晴れ。 旧暦12.5. きのと み 九紫 仏滅
 とうとう,今年最後の日がやってきました。これくらいの寒さなら例年並みといってよいでしょうか。午後になって公園を散歩すると,凧揚げをしている子供と老人がおりましたが,よく揚がっておりました。何年前かの正月に,一向に風が無くて,全然揚がらないときがありましたが,やはり凧揚げができるくらい風には吹いてもらいたいものですね。現代は,ほとんどがインディアン凧と呼ばれていたポリエチレン製のもので垂直に揚がりますね。小さい頃は凧のことを「ヨーズ」と言っていました。揚子江のほうから来たのだから,「ヨーズ」というのだそうです。カボチャのことを南京というのと同じですね。
 さて,私は年内は年賀状を書かない主義ですから,まだ書いておりません。テレビも見ませんので,あと三時間ほどですが,いつものように静かに一日の変わり目を迎えるだけです。
 福田恆存訳「オセロー」(新潮世界文学1)。以前二回ほど読んでおり,退屈な悲劇だという印象があったので,今回は後のほうにまわしていたのです。今回読んで,どうしてどうして,おもしろいではありませんか。特にオセローの台詞がよい。退屈しませんね。福田さんの解説にもあるように嫉妬が主題でもないし,まして家庭劇でもない。イアゴーという悪人の言葉にオセローが理性を失っていくという大変わかりやすい話です。ですから,四大悲劇の中では最も現代的と言えるかもしれませんねでもただ一つの欠点はイアゴーが劇の上ではなかなか狡知に長けているとはいうものの,証拠もないのに妻を疑いだすオセローの愚かさが理解できませんね。こういう愚かさは,多分現代人には理解できないのではないでしょうか。こう考えると,これは悲劇でもなんでもない。オセローという愚かな人間の迷妄に過ぎないと思いたくなります。こんなことを言えば,「ロミオとジュリエット」も「リア王」も「マクベス」も「ハムレット」も全て成り立たなくなります。ここは作者がしつらえた登場人物の弱点は全て認めて,その上でドラマの展開を,歯の浮くような台詞とともに楽しめばいいのでしょうね。そう考えると,この作品も傑作であることにはまちがいはない。棺桶に入る前にもう一度読むかもしれませんね。さて,それはともあれ,新潮社の「新潮世界文学」の1巻と2巻が終わりました。この文学全集は,高校のとき出だしたもので,スタインベックとかカミュなどを借りて読んだことを覚えております。本題に戻って,シェイクスピアは,持っている本は皆読んでしまったので,残っている作品は近くの市立図書館から借りてきて読むことにしましょう。今年の読書計画は,史記だったわけでして,9月に史記を終わり,その後がシェイクスピアの全作品を夜むことにしましたので,この残りは来年に持ち越すわけです。その次は,いろいろ候補があるのですが,決まっておりませんので,とりあえず,来年もシェイクスピアを続けるということを記すにとどめておきましょう。
 次ぎに,ここ二三日恒例の青空文庫です。
 太宰治「一問一答」(青空文庫)。「生活に於いては、いつも、愛という事を考えていますが、これは私に限らず、誰でも考えている事でしょう。ところが、これは、むずかしいものです。愛などと言うと、甘ったるいもののようにお考えかも知れませんが、むずかしいものですよ」。どんなエッセーでもフィクションだろうと思って読んでしまいがちですが,この部分だけは嘘ではないでしょうね。
 太宰治「一燈」(青空文庫)。変な随筆が小説のように展開していく。貧者一燈から「皇太子殿下、昭和八年十二月二十三日御誕生。その、国を挙げてのよろこびの日に、私ひとりは、先刻から兄に叱られ、私は二重に悲しく、やりきれなくていたのである」という話へと展開していくのである。
 太宰治「一歩前進二歩退却」(青空文庫)。自分で私生活を書いておいて,「作家の私生活、底の底まで剥(は)ごうとする。失敬である。安売りしているのは作品である。作家の人間までを売ってはいない。謙譲は、読者にこそ之(これ)を要求したい」ということはあるまい。こう書くことの滑稽さを百も承知で書いているから,大人には嫌われる。
 太宰治「『井伏鱒二選集』後記」(青空文庫)。嘘は書いていないと思われるが,この人は都合の悪いことは要領よく忘れることができるらしい。それは嘘を書くことと同じではないが,本当のことを書いていないのである。
 岡本綺堂「秋の修善寺」(青空文庫)。こちらは,「十番随筆」新作社1924(大正13)年4月初版発行に出て,例の「修善寺物語」は「美芸画報」1911(明治44)年6月号に出ているのだから,こちらの随筆が後だと思うのだが,小生にはそれ以上はわからない。
 では,皆様よいお年をお迎え下さい。 以上で夕凪亭閑話 2008年12月を擱筆といたしましょう。この1年のご愛読を感謝しつつ。