2019年2月28日木曜日

夕凪亭閑話 2008年6月

2008年6月1日。日曜日。晴れ。旧暦4.28. みずのえ さる 一白 先勝
 六月になりました。戸外にしばらく出ていると暑いようですが,屋内なら過ごしやすい。メダカがどんどん生まれます。毎日,ホテイアオイの根についた卵を移します。水温が上がったせいか,日に日に誕生してきます。少し,密度が高くなったので,稚魚だけを別の親のいないところに移動します。
 モーパッサン,青柳瑞穂訳「クロシェートClochette」(新潮文庫)は,一週間に一度通って来ていたお針ばあさんの話です。大好きだったお針ばあさんが,亡くなります。お医者さんが誰も知らない彼女の秘密を語るという,見事な短編です。
 
2008年6月2日。月曜日。雨。旧暦4.29. みずのと とり 九紫 友引
 またもや天気予報に反して一日中雨でした。気温は昨日よりも少し下がり,夜になると寒いようです。梅雨といってもおかしくないような日々です。例年,入梅宣言が実際の気候より遅いように観じます。梅雨前線を元にしているからでしょう。実際には,雨はよく降ります。そして梅雨入り宣言が為されると,いわゆる空梅雨の如く雨の降らない日々が続きます。今年はどうなることでしょうか。
 「二人の友Deux amis」(新潮文庫・モーパッサン短編集Ⅲ・青柳瑞穂訳)。こちらは,新潮文庫の短編集ではⅢです。昨日のはⅠです。さて,このⅢには戦争もの,怪奇ものが集められているようですが,この作品も,反戦ものです。ただ,戦争に対する深い抗議は在りませんが,かえって,それが,また深く戦争を憎まないではいられなくさせる作品です。
 
2008年6月3日。火曜日。雨後曇り。旧暦4.30. きのえ いぬ 八白 先負
 朝から降っていた雨はやがてやんで,曇った一日になりました。気温は上がらず,今日も寒いような一日でした。周辺部が梅雨になったのに,こちらはまだです。今度雨が降ったら中国地方も梅雨入り宣言してくださるのでしょうね。別に宣言してもらわなくても,個人的には梅雨だと思っておりますが。
 
 「母親La Mere Sauvage」新潮文庫・モーパッサン短編集Ⅲ・青柳瑞穂訳)
 これも戦争中の話。息子が出征中に,プロシャ兵が進駐してきて四人が,この婆さんのところに泊まるようになった。婆さんと四人の関係は非常によかった。しかし,ある日息子の戦死を知らせる手紙が届いた。婆さんは四人が寝ている自分の家に火をつけた。この婆さんに同情こそすれ,誰も非難するする人はあるまい。
 
2008年6月4日。水曜日。曇り,夕方小雨。旧暦5.1. きのと い 七赤 大安 さんりんぼう
 夕方小雨が降ったものの止んだので,傘をもって歩いた。今日は公園を30分散歩した。足のほうは何とか大丈夫だと思っている。
 今日は新月で,職場で月のことが話題になった。上弦・下弦の月というのがよくわからないと思っている人が多かった。そこで,Newton2008.6 p.124の 渡部潤一氏の解説を思い出した。上旬の弦月,下旬の弦月のことであると書かれている。弦が上にあるから上弦,下にあれば下弦,と思っている人は多い。弦が下のものを夜中に起きたとき捜したが,そんな月は見たことがなかった。このように考えると,下弦の月は見たことがないという人も多いのではなかろうか。そこで,弦月というのを調べて見ると,弓張月とある。弓張月というのは三日月のことだと思っていたが,さにあらず。月の球部の端と端に弦を張ったときできるのは,半月しかない。これが弦月で弓張月と言ってもいいことがわかる。そして月は右から少しずつ左へ大きくなり,左弦の半月を経て満月になる。今度は右から左に向かって欠けていくから,右弦の半月になり,最後は左三日月を経て・・・(この頃はほとんど見ることもないが),新月に戻る。ということで,上弦の月は七日頃の左弦の半月,下弦の月は,二二日頃の右弦の半月ということになるでは,ありませんか。
 「呂后本紀第九」(新釈漢文大系)終わる。高祖亡き後に,呂氏が天下を掌握しても悪いことではない。強い者が支配するのが世の常であるから。しかし,あまりにもすることが汚い。創造ではなく破壊だ。歴史の後退である。呂氏一族が殲滅されても,間違っているという人はいないだろう。
 
2008年6月5日。木曜日。雨後晴れ。旧暦5.2. ひのえ ね 六白 赤口 芒種 
 二十四節気の芒種(ぼうしゅ)というのは,「のぎ」(芒)のある作物を植える季節ということだが,田植えは場所ごとに異なり,北のほうは既に終わっている。先週,近くの駅へ行くとわずかに残っている田圃に水を入れていたから,このへんでは,今頃田植えだろうか。それにしても随分と田圃が減った。田圃は在っても草が生えて田植えをしない田圃もかなりある。高齢化の影響か。
 芒と言えば,稲穂よりも麦の穂を思い出す。緑の麦の穂は,葉や茎とともに柔らかく生気に満ちているが,取り入れ時の実った穂は茶色になっていかにも芒という字に相応しい。梅雨の長雨に入る前に,麦は稔った。除虫菊の収穫も梅雨前である。そして雨に合わせて薩摩芋の蔓が植えられる。畑に植えられた蔓を,先週見た。枯れたようになっていても,元気に出てくるから雑草のように逞しい。
 中村誠太郎「湯川秀樹と朝永振一郎」(読売新聞社)を読んだ。中村誠太郎博士の相対論や量子論の解説書には,若い頃に随分お世話になったものだ。それに翻訳物も。この本はその中村博士の湯川・朝永「両先生」とその時代に関するエッセーで楽しい読み物になっている。
 先日,再読した湯川博士の「物理講義」も,中村博士が仕掛人であるよし。出版するにあたって,「難しい術語の補注をつけたが、湯川先生の逆鱗にふれた」(p.149)とある。不必要だと,湯川博士は思われたのだろうか。小生の立場からは,中村博士の行為は有り難い。
 また,福井謙一博士が,湯川博士の教科書で量子力学を勉強されたという話は,福井博士の講演でお聞きしたことがある。その本についての福井博士の発言も採録されていて面白い。
 
 
2008年6月6日。金曜日。晴れ。旧暦5.3. ひのと うし 五黄 先勝
 インターネット配信の高校生のための金曜特別講座が,「新訳聖書ギリシア語入門」の著者・大貫隆先生の日だったので,聴講に行った。ユダ福音書についてのお話だったが,まず新訳聖書の中のユダ像について,そしてグノーシス主義のお話,最後に「ユダの福音書」の中のユダの役割という三部構成の内容であった。壮大な世界について,深い学識に基づいたわかりやすいご講演で,興味深く聞くことができた。精神世界の発展というものに,人間の叡智の歴史が籠められていると感じた。
 「口ひげLa moustache」(新潮文庫・モーパッサン短編集Ⅲ・青柳瑞穂訳)は,口ひげ賛歌である。しかし,戦死者を敵兵かフランス兵か見分けるのに口ひげをもってしたという挿話は哀しい。
 
 
2008年6月7日。土曜日。晴れ。旧暦5.4. つちのえ とら 四緑 友引 さんりんぼう
 中国地方はまだ入梅宣言はなされていませんが,この季節特有の蒸し暑い曇天のもと,いや,炎天下と言ってもおかしくはない天気のもと,元気に走っている人たちの一団を見た。こんなに多くの人が走るのが好きなとは,衰躬の身には想像もできませんから,ある種の感動を覚えたものです。日本本体は,その絡繰りすべてが公開されているわけではないから,いざ知らず,国民はまだまだ元気なのだと,つくづく思ったものです。
 「ミロンじいさんLe pere Milon」(新潮文庫・モーパッサン短編集Ⅲ・青柳瑞穂訳)
 これも戦争ものです。しかし,実に爽快な話です。いつものようにプロシャ兵が占領して民家に我が物顔で駐屯します。ミロン爺さんの家には参謀部が駐留します。そして,ミロン爺さんは親切にもてなします。ところが,プロシャ兵が次々と殺されていくのです。しかし,犯人はみつかりません。実はそれはミロン爺さんの仕業だったのです。武勇談もかっこよければ,発覚してからのミロン爺さんの態度も実に見事で,モーパッサンのペンの冴えはいや増しに増します。
 
2008年6月8日。日曜日。晴れ。旧暦5.5. つちのと う 三碧 先負 旧端午の節句
 時候がよくなったので,久しぶりに早起きをして,昧爽の公園を散歩してきた。ホトトギスが鳴いていた。早起きは三文の得,と思っていたが昼前に眠くなった。本日は,先負であった。
 一昨日の講演で,グノーシス主義について理解が深まったので,荒井献氏の「原始キリスト教の成立」(岩波講座・世界歴史2)というのがあったのを思い出して,読み返してみた。25年ほど前に読んでいるのだが,ほとんど忘れている。この間,ローマ人の物語で,ユダヤには,複雑な背景があったことは知った。パウロの伝道が思っていたより早い時期であった。それでも,パウロはナザレのイエスを知らない。思想の転換については,ついていけないが,かなりあったようである。他派を異端として斥けることによって,今に連なるキリスト教が徐々にできあがったのであろう。
 
2008年6月10日。火曜日。晴れ。旧暦5.7. かのと み 一白 大安 入梅
 暦上の入梅と期を同じくして,九州北部も梅雨入りしました。関東甲信越地方まで,現在梅雨入りしていますから,ぽっかりと中国地方が取り残された感じです。天気予報では,明日は時々雨ですからきっと梅雨入りの発表があるでしょう。発表と言っても,漠然としたものですが。
 「二十九号の寝台Le lit 29」(新潮文庫・モーパッサン短編集Ⅲ・青柳瑞穂訳)
 これもプロシャ兵との話。ルーアンに進駐してきたプロシャ兵に梅毒をうつされたので,更に多くのプロシャ兵にうつしてやったという女の話。
 
 
2008年6月11日。水曜日。曇り後雨。旧暦5.8. みずのえ うま 九紫 赤口
 午後になって雨が降り出し,中国地方も梅雨入りしました。気象庁の発表よりも,既に梅雨のような気候になっていましたから,あまり大きな意味は有りませんが,それでも昔人間の閑話子は,「今年も梅雨になったか」と納得するのです。雨のため月は見えませんが,今日はちょうど真半分で弦月です。すなわち,上旬の弦月ですので,上弦の月であります。月は出ておりませんが,夜になっても,ホトトギスが繁く鳴いております。
 「孝文本紀第十」(新釈漢文大系)を終わる。呂氏殲滅後,請われて帝位についた孝文帝は,まことに有徳の人で,ひたすら善政に勤めるという,稀に見る英君です。今も昔も,建物を造れば目立つのですが,倹約に勤めたので,これと言ってめぼしい業績がないように見えるのは仕方がないことですが,戦争も,刑罰も,王宮の建設も最小限にしたのですから,やはり優れた政治家だったと思います。
 「農は天下の本なり,努,これよりも大なるはなし。今,身を勤め事に従ひて,しかも租税の賦有り。これ本末を為す者,以て異なるなきなり。それ農を勧むるの道に於て,未だ備はらず。それ田の租税を除け」というのは,壊滅的状況にある,我が国の農業事情を見るにつけ,印象に残る言葉です。
 
 
2008年6月12日。木曜日。曇り後晴れ。旧暦5.9. みずのと ひつじ 八白 先勝
 昨日の雨が嘘のように止んでいるが,からっと晴れないところが,このシーズン特有の中途半端な日照りである。このような気候を恨むかのごとく,今夕はホトトギスも鳴かない。ホトトギスは情趣を解するのか? そして趣き深い日には思う存分鳴いて,さらに情趣を増すのであろうか。
 富士川英郎「菅茶山と頼山陽」(平凡社・東洋文庫195は,良い本である。書簡と漢詩から二人の交友をあたう限り詳細に辿った労作である。山陽と茶山の関係はまさに因縁浅からざる関係で,それが茶山の死まで続いたというのであるから,驚愕の念を禁じ得ないところであるが,やはりそんなところにも,茶山の類い希なる交遊の才と独特の人柄に寄るものではないかと思われる。こういう本が読めるということは有り難い。著者の労苦に感謝。
 
 
2008年6月13日。金曜日。晴れ。旧暦5.10. きのえ さる 七赤 友引
 例年の如く,入梅後の晴天が続く。今日は27-8℃はあったようだ。
 「孝景本紀第十一」(新釈漢文大系)終わる。孝景帝の顔は見えず。ただ,年表の如く,記事が羅列されるのみ。
 
2008年6月14日。土曜日。晴れ。旧暦5.11. きのと とり 六白 先負 
 大きな地震に愕いている。地震ほど怖いものはない。
 アンズが黄色い色で熟れてきたので,食べた。例年酸っぱくて,ジャムにするぐらいしか,利用の仕方がないので,捨ててしまう。ところが,気候があっていたのか,うまい。誰も食べないので,一人で食べていたのだが,青梅による青酸中毒の話を思い出し,適当なところで止めておいた。
 サガンの「悲しみよこんにちはBonjour tristesse」(新潮文庫・朝吹登水子訳)を読んだ。
 「その夏,私は十七だった。そして私はまったく幸福だった。Cet ete-la ,j'avais dix-sept ans et j'etais parfaitement heureuse.」海辺の白い貸し別荘。17才の主人公セシル。父と,半玄人の愛人エルザ,近くの別荘の大学生シリル。彼ら流のバカンスがある。そこへ亡き母の友人アンヌが来る。常識人のアンヌのおかげで,父と築いてきた生活が脅かされる。アンヌを殺す計画を建てるように小説が展開しておけば,さらに衝撃的に世界中に迎えられ,やがて現実に追い越されてしまう運命にあっただろう。しかし,作者はフランス人で舞台はアメリカではなかった。セシルは心理戦を挑む。結末を想定している訳ではない。躊躇いながら,屈折していながら,それでいて,行為は直截である。作戦は成功し,アンヌを父から引き裂くことはできた。思ってもいなかった結末で。アンヌは事故死か自殺かわからない方法で死ぬ。
 自分の生き方を強引に変えようとしたアンヌの思い出がよみがえる。「ものうさと甘さとがつきまとって離れないこの見知らぬ感情に,悲しみという重々しい,立派な名をつけようか,と私は迷う。」と,冒頭で示されたことを思い出そう。あの夏のアンヌの思い出に,セシルはためらうことなく悲しみと名付け,迎える。Bonjour Tristesseと。
 
 
2008年6月15日。日曜日。曇り後雨。旧暦5.12. ひのえ いぬ 五黄 仏滅
 昨日の天気予報では一週間は雨が降りそうになかったのに,今日になって大幅に変わりました。今日も当然雨は降らないようでしたのに,朝から雲っておりました。そして今日も雨マーク。夕方頃から降り出しました。今週,後半も雨のようです。今夜は少し,気温が下がっています。
 「捕虜Les prisonniers」(新潮文庫・モーパッサン短編集Ⅲ・青柳瑞穂訳)
 夜になると狼がでてくるようなところの森番の家で,勇敢な娘が気を利かしてプロシャ兵を地下室に閉じ込め,最後は,若者不在の町を守っている頼りない国防軍の人たちが,捕獲します。そのありさまがユーモラスに描かれている短編です。辺境ではこういう光景もあったのでしょう。きっと。
 
 
2008年6月16日。月曜日。晴れ。旧暦5.13. ひのと い 四緑 大安
 一転して,晴天。それでも,例年に比べれば,暑くないようです。
 「ヴァルター・シュナッフスの冒険L'adventure de Walter Schnaffs」(新潮文庫・モーパッサン短編集Ⅲ・青柳瑞穂訳)
 今度は迷い込んだ,太って歩くのも億劫なプロシャ兵の側から書いた話。戦う気力もないし,死にたくもないし。・・・捕虜になることを選ぶのだが,それでも無事捕虜になれるか,心配で,ついつい足も遅くなる。幸い,捕虜になって,大喜び。これで殺されることもないと。
 
 
2008年6月17日。火曜日。晴れ。旧暦5.14. つちのえ ね 三碧 赤口
 今日も暑かった。夜になっても暑い。窓を開けて我慢している。ホトトギスが先ほどまで鳴いていた。満月に近い月が静かに昇ってきた。静かな夏の夜である。雨が降っていれば,人魂というのはこんな夜にでるのだろうか,と思ったりする季節ではあるが,雨は降っていない。
 「廃兵L'infirme」(新潮文庫・モーパッサン短編集Ⅲ・青柳瑞穂訳)
 廃兵というのは寂しい。傷痍軍人と言うべし。記憶を辿るシーンがある。この年になると,そういうことがあるものだと,理解できる。これから十年も生きれば,かつて会った人たちの多くを,すぐには思い出せなくなるであろう。そして,両足を戦争で失う前に,この大尉を愛していた少女があったことを思い出す。そこから,その後の二人の人生はどうなったのだろうかと,本人を前にして想像するシーンになる。神業的なモーパッサンの筆である。
 
 
2008年6月18日。水曜日。晴れ。旧暦5.15. つちのと うし 二黒 先勝
 急に蒸し暑くなった。雨は降っていないがい,まことに梅雨時の天気らしい。あと一月はこういう天気が続くだろう。
 「従卒L'ordonnance」(新潮文庫・モーパッサン短編集Ⅲ・青柳瑞穂訳)
  愛する妻に自殺された連隊長・大佐の話。埋葬から帰ると遺書が届けられている。他に書かれてもよいことがあるのに書かない。手紙を読んだ大佐の悲痛に焦点が絞られているのだろう。
 
 
 
2008年6月19日。木曜日。晴れたり降ったり。旧暦5.16. かのえ とら 一白 友引 さんりんぼう
 今日は一日中雨だろうと,天気予報を見て思っていたのだが,あまり降らなかった。それでも,朝,昼,夕としばしば降って,蒸し暑さとともに,いつもの梅雨の一日であった。
 「帰郷Le retour」(新潮文庫・モーパッサン短編集Ⅰ・青柳瑞穂訳)
 何気なく開いて.読んでいて,いつもの戦争話ではないな,と思ってよく見ると短編集Ⅰだった。以前読んでいるのにすっかり忘れている。
 貧しい漁師の母娘。そこに乞食のような男がたびたび来るので,母子ともに怪しんでいる。亭主は夜にならないと帰ってこない,というように話を振って,この母と夫との関係を紹介する。女のかつての夫は娘二人を残して(詳しく書けば一人半),鱈漁に出たまま行方不明になる。女は一人で二人の子を育てる。「このおかみの気丈で善良な性質を見こまれて,土地の漁師で,男の子の一人ある,やもめ」の男に結婚を申し込まれた。
 二人の子どもがさらにでき,貧しくとも人が感心するほどの夫婦仲であった。
 ここまで読めば,タイトルからもわかるように,怪しい男が元の亭主だとすぐに読者にはわかる。さあ,その男がどのように身の上を開かすか,そしてこの複雑な関係をどう解決するか,とモーパッサンの腕前を期待せざるを得ない。・・・その後の展開も見事で,さすがモーパッサン。見事な傑作である。さてどのように,この関係を解決するか? ・・・・
 
2008年6月21日。土曜日。曇り後雨。旧暦5.18. みずのえ たつ 八白 仏滅 夏至
 西日本を中心に大雨のようである。空梅雨という言葉も聞かれず,本格的な梅雨になったようです。それに,今日は夏至ですね。晴れておれば長い一日を楽しめたのに・・・。 
 「恐怖La peau」(新潮文庫・モーパッサン短編集Ⅲ・青柳瑞穂訳)
 短編集Ⅲは戦争ものと恐怖ものを集めたということであるが,本編から恐怖ものなるようだ。一人の男の体験談。一つは砂漠で。もう一つは寒い森の家で。他人の恐怖が感染するようだ。
 
 
2008年6月22日。日曜日。曇り時々雨。旧暦5.19. みずのと み 七赤 大安
 気温も上がり,雨が降ると,どっと湿気が押し寄せる。飽和水蒸気圧を示せば,21.070mmHg(23℃),以下22.379(24),23.758(25),25.211(26),26.741(27),28.351(28),30.045(29)というようになっている。ここで差をとってみよう。1.309,1.379,1.453,1.53,1.610,1.694 このことから,気温が1℃上がれば,同じように蒸気圧も上がるかというと,そうならずに,もっと上がっていっていることがわかる。だから,この頃の気温差1度が大きく湿気に影響する。
 雨上がりの,街を散歩する。公園が海になっていたので,久しぶりに団地の上のほうへ足を向けた。相変わらず子どもはいない。さらに悲しいことに,以前にも増して,空家が目立つ。世代交代が進んだのは確かであろう。しかし,次の世代が,関西や関東に出て行って戻らないという場合も多いのではないか。製鉄所のある地方都市にしてこれだから,日本全国ごく一部の都市を除いて同じような現象が起こっているのではなかろうか。寂しいことだ。
 「孝武本紀第十二」(新釈漢文大系)。
 これは,がっかりである。とは言うものの,司馬遷が書いたものかどうかわからない。司馬遷が書いた同時代の孝武帝についての記述は破棄することを命じられたので,後人が書いたとも言えるし,あるいは,破棄して,怪しい道士らの言うことに従った事実を上げることによって,暗に風刺ししたとも考えられるようだ。後者であるにしても退屈である。ということで,最後はドラマチックではなかったが,これで史記本紀全十二巻を終わる。新釈漢文大系では「史記二(本紀)」である。
 
 
2008年6月23日。月曜日。晴れ。旧暦5.20. きのえ うま 六白 赤口
 梅雨らしくないくらい晴れ上がり,湿度も高くない。いうなれば,普通の夏。
 中村元「思想をどうとらえるか」(東書選書)は,実に多くの思想が比較され,その類似性と相違が示される。そして思想から行動へと進む場合もあったことが示される。認識から行為へというわけだ。こうして時代を横断してみたとき,一見,行為無き認識が無意味のように見えるが,そのように理解しなくてもよいだろう。ちょうど,数学者の多くの仕事のように,思想のための思想であってもよい。科学技術が数学の遺産を活用したように,行動家が,過去の思想家の遺産を活用することだって大いにあり得る。
 とはいえ,思想の目的の行き着く先は,現代の我々であり,現代の我々の問題である。人間が人間であることを再確認し,それを阻むものを執拗に追求しなくてはならないだろう。平和の反対概念が,国家というものに基づく以上,コスモポリタンであることが平和への最短距離だと説かれることは,よく分かる。
 
2008年6月24日。火曜日。晴れ。旧暦5.21. きのと ひつじ 五黄 先勝
 今日も晴れていましたが,明日は雨でしょう。梅雨ですから。朝四時過ぎに散歩に出ると月が残っておりました。まもなく弦月になるでしょう。右下がまだ少し残っていますから。こういう形を見ていると,弦が下だから・・・などと思ってしまいそうですが,だから下弦というのではありません。以前書いた通りです。
 「オルラLe Horla」(新潮文庫・モーパッサン短編集Ⅲ・青柳瑞穂訳)
 主人公の勝手な妄想に付き合うということは,小説を読むときの,最も基本的な技術であるので,真剣につきあっていると,だんだんエスカレートしていくので,最後は何が出てくるのだろうかと,興味津々で読んでみるが,結局何も出てきはしない。しかし,ストーリー展開は破綻していないので,恐怖小説の佳作と言える。オルラとは何だろうか。かつて一世を風靡した(今も,と書くべきか)オーラのような雰囲気があるが・・・。
 
 
2008年6月25日。水曜日。晴れ。旧暦5.22. ひのえ さる 四緑 友引
 予想に反してほとんど雨はふりません。気温は少しずつ上がっているようです。梅雨の前にはかなり雨が降りましたが,梅雨に入ってからは,雨量は少ないほうだと思います。真夏には雨が少ないのですからもっともっと今のうちに降っておいてほしいですね。
 「たれぞ知るQui sait?」(新潮文庫・モーパッサン短編集Ⅲ・青柳瑞穂訳)
 これは難しい。最初から自己の精神の変調を告白しているわけであるから,以後展開され説明される出来事が,本当にあったことか,主人公の妄想か判断に迷います。仮に妄想であるにしても,ディテールはよく書かれておもしろい。それに「オルラ」の延長として考えられなくもない部分もあり,そういう意味では楽しむことはできる。
 
 
2008年6月26日。木曜日。曇り一時雨。旧暦5.23. ひのと とり 三碧 先負
 夕方散歩していると,俄に黒い雲がでてきて雨が降り出した。朝から曇りがちの天気だから,いつかは降るだろうと思っていたが,やっと降った。それでも梅雨にしては少ない。 
 「礼書第一」(新釈漢文大系)
 八書に入る。新釈漢文大系では41巻で,「史記四(八書)」とである。八書については,武田泰淳さんの「司馬遷-史記の世界-」(講談社文庫)にも,宮崎市定さんの「史記を語る」(岩波新書)にも出てこない。筑摩学芸文庫「史記2」には,わずかに吉川忠夫氏の解説がある。順序としては十表が先だろうが,新釈漢文大系では,十表が二冊に分かれていて,下のほうがまだ発行されていないので(本年六月発行予定だから、間もなくお目にかかれるでしょう),八書から読むことにする。これは,今までの歴史書と趣を異にし,歴史家司馬遷ではなく,思想家司馬遷の一面を見ることができる。まことに名文である。しかし,残念ながら書かれていることをそのまま受容するわけにはいかない。その一つは,国家の理念と個人の生き方は異なると思うからである。国家は礼で成るものではない。国家は必要悪として,認めざるを得ない。その中で,人間の生き方を考えるべきだと思う。次に,自然現象と倫理の問題を一緒にしていることに違和感がある。自然と人間というのは,現在でも,人間の生き方にとって重要なテーマのひとつである。しかし,自然現象を礼として捕らえることは,迷信の世界に入ることになる。第三点は,テキストの問題で,どこまで司馬遷が書いたのか判然としないところがある。他の思想家のものが混ざり込んだのか,司馬遷が利用したのか,資料として挿入したのか。著作というものに対する考え方が,現在と違ったのであろう。
 
 
2008年6月27日。金曜日。晴れ。旧暦5.24. つちのえ いぬ 二黒 仏滅
 暑い日であった。だから夕方から吹く風が妙に心地よかった。おまけに今日は金曜日だ。日暮れの公園を散歩しても気持ちがよい。 
 「手La main」(新潮文庫・モーパッサン短編集Ⅲ・青柳瑞穂訳)
 恐怖ものの傑作の一つであろう。復讐譚である。その執念が怖い。切り取られた手が復讐したのか,残った手,すなわち本人が復讐したのか,わからないところが怖い。本人の復讐と,理性的には解釈されているのだが,物語は既に手そのものが復讐するかの如く物語れていたのだから,怖いほうに解釈は傾く。
 
 
2008年6月28日。土曜日。曇り時々雨。旧暦5.25. つちのと い 一白 大安
 朝から雲っていて降ったり止んだりしている。歩く分には差し支えないので,朝も夕方も歩く。今年は気温が低いせいか,あまり汗が出なくて歩きやすい。
 新聞を見ていると少年の不幸な事件が多いのが,最近の傾向だ。今に始まったことではないと,情報通の方々はおっしゃられるだろうが,やはり憂慮すべきことではなかろうか。少年期は,いつの時代にも不安定なものである。ゴム風船のように,ちょっとした突起に出会うと爆発する。その爆発寸前のところを支え合うのが,自己と周囲の人である。社会だの家族だのと言っても,言ってみるだけである。家族の場合もあるし,それ以外の場合もある。要するに自己以外の他人である。
 不安定な反面,少年期には,夢もある。未来が決まらないだけ,夢を育む余地がある。夢は想像力の産物であるから,幼児から訓練しておかなければ,できない。想像力を発揮できる訓練? これは手本も何もない。 外から,決められたプログラムを邁進するようでは,育たないことは確かだろう。のびのびと育つことが必用だ。 もっとはっきり言えば,何もしないということも大切なことなのだ。
 
 「水の上Sur l'eau」(新潮文庫・モーパッサン短編集Ⅲ・青柳瑞穂訳)
 セーヌの岸辺に住む男の話。錨を降ろして一服した。そこまでは,よかった。その後奇妙な雰囲気になる。錨を上げようとしても,持ち上がらない。太い鎖で結ばれているので,切るわけにもいかない。泳いで帰る手もあるが,霧が出ているし,水草に足をとられるかもしれない。・・・漁師が通りかかったので,助けを求める。二人でも錨は上がらない。もう一人の漁師にも手伝ってもらって,やっと錨は上がってきたのだが・・・。どこで恐怖感が最高潮に達するかが,作者の狙い目であるような作品。
 
2008年6月29日。日曜日。曇り時々雨。旧暦5.26. かのえ ね 九紫 赤口
 五時半に起きると,かなり濡れていて,夜の間に雨が降ったようだ。半乾きの公園を散歩するとすがすがしい。昼頃激しく降ったが,あとはほとんど降らないといったほうがいいような天気であった。
 「山の宿L'auberge」(新潮文庫・モーパッサン短編集Ⅲ・青柳瑞穂訳)
 今度は山の話である。冬場は麓の村に帰って休業する山の宿がある。そこには二人が越冬する。一人は老人。もう一人は,今年が初めての越冬である若者。相棒の爺さんが,夜になっても帰って来ない。遭難したのだろう。ここから若者の孤独な戦い,妄想との戦いが始まる。・・そして負ける。かくも困難な環境でなぜ越冬しなければならないのか。そのことは問われない。習慣なのであろう。
 
 
2008年6月30日。月曜日。晴れ。旧暦5.27. かのと うし 八白 先勝
 梅雨らしくない夏の一日。気温が高くない。雨が連続して降らない。雨が降らないときは,じめじめしていない。ということで,今年の梅雨は,梅雨らしくないようです。その分しのぎやすいですが。エアコンの活躍も少ないようです。 
 「狼Le loup」(新潮文庫・モーパッサン短編集Ⅲ・青柳瑞穂訳)
 狩猟好きの兄弟の前に現れる強豪の狼。捜しても出てこない。二人をあざ笑うかのように家畜を襲う。ある日二人は発見し,馬で追跡する。ところが,兄は木の枝に頭を打って死んでしまう。弟と対峙する狼。その恐怖。最後は弟が勝つが,身をもって狩猟の恐怖を一族は悟る。
 今日で6月も終わりです。ということは,2008年の半分が終わったということです。つい,この前,2000年になったと思っていたのに,8.5年もたってしまったとは・・・・・。
 蝸牛を見ることはありませんが,庭には紫陽花がさいて,紫色が美しい。梔は盛りを過ぎましたが,遅咲きの花が甘酸っぱい匂いを放っております。