2015年11月20日金曜日

夕凪亭閑話(2004.7.14~7.31)

夕凪亭閑話(2004.7.14~7.31)    crystal home 
2004.7.14
 開店のご挨拶。日記でもなく,感想とういうほどのものでもなく・・・・,ひとりごと,としておきましょう。(その後,夕凪亭閑話,と名称変更)
 最近,複数の方々から,小生のホームページが更新されていないという,ご指摘をいただいた。元来,飽きっぽく,うつろいやすく,気まぐれの性格をしていて,年とともにそれを認め改善陶冶をとっくに諦めているので,ホームページなど更新しだしても,いつまで続くものやら全然保証できないし,自分でも永く続けるつもりはない。ただ,今は,そういうご指摘もあり,たまたま,やっていたことが一段落ついたので,少し,書いてみようと思う。それに,最近パソコンを新しく購入したので,ディレクトリーの編集なども兼ねて,古いコンテンツを整理しているので,ちょうどいい機会でもある。(8月の半ば頃までにはやめてしまうでしょう)
 とはいえ,こういう作業から離れて随分と月日が経過したので,FTPの使い方もあらかた忘れていた。そしてホームページエディターともなると,はじめからやってみるのと同じレベルまで退化しているのに,驚かされる。しかし,よくしたものでツールアイコンを眺めていると,既視感のようなものが沸き上がってくるので,年をとってからのことではあったが,昔やったことは案外早く思い出せるのではないかと,思っている。
 某古書店に寄って文庫本ばかり少し買ってきた。開高健「夏の闇」。いかにも涼しそうなので。というのは冗談で,単行本が発売されたとき,買いたかったので。梶山季之「ルポ戦後縦断」。梶山さんは,南洋関係の資料を収集されていたので,それに関したことがないかと目次をめくってみたら,戦後ブラジルの勝ち組について書かれてあるのをみつけたので。なお,南洋関係の資料はハワイ大学に寄贈されていて,梶山文庫として整理されている。見てみたい本がたくさんあるのにハワイまでは・・・・。「O・ヘンリー ミステリー傑作選」。こういう編集もおもしろそうなので。岩波文庫「ことばの贈物」。「ルーツ」。この本に関心を最も示したのは,日系市民だとヘイリー氏が語っていたと,ある本で読んでいたので。同じことが解説に書いてあった。それに,音読王のCDで「ミスターキンテ,ミスターキンテ・・・」というのが,妙に耳に残っていたので。
2004.7.18.
  ブラジルの勝ち組というのは,先の戦争(第二次世界大戦)で,戦後日本が勝ったと信じていた日本人集団のことです。反対に,負けたと認めたグループを負け組とか認識派と呼びます。ブラジルにいた日本人は戦争中敵国人として,日本語の使用禁止,日系新聞の停止,集会の禁止,ラジオの没収と,完全に情報が遮断されてしまい,今では考えられないようなことが起こったのです。
 両者の争いは激化してテロも生じます。また,詐欺行為が横行しました。梶山氏のこのルポの特徴は,その背景に,日本軍票や紙幣を処理しようとしたユダヤ人がいたというものです。もちろん,勝ち組負け組の発生とその事情,そしてその騒擾の一部が,簡潔にまとめられております。現地の日本人に直接取材したということで,貴重な記録になると思います。なお,興味のある方は北杜夫さんの「輝ける碧き空の下で」(新潮文庫)や高橋幸春さんの「蒼氓の大地」(講談社文庫)をお読みください。もっとも北さんの小説で勝ち組負け組がでるのは第二部になってからですが・・・・。また,アマゾンを開拓した日本人の戦中のことは角田房子さんの「アマゾンの歌」(中公文庫)に記されております。
2004.7.20.
 山之口洋さんの「ITスーパー書斎術」(オール讀物7月号)は久々におもしろいエッセーだった。とはいえ,昭和40年代の後半だったと思うが,そのころ「知的生産の技術」以降,このたぐいの本はいろいろと出版さており,あまり影響は受けなくなりましたが,山之口さんのは,その実践徹底ぶりが,おもしろかった。要点を記せば,本は背を裁断してスキャナーにかけてpdfファイルにしておけば何かと便利,立って書くとよい。ステップワゴンを使って移動式書斎,ということです。私の個人的意見を述べれば,床が曲がろうが,家が傾むこうが,フォルダを探すよりは本棚を探したほうが便利。ステップワゴンより,ストリームが好き。車は寝る箱である前に走る箱だと思います。でも,ステップワゴンが,家族3人が寝るのによいとは,初耳です。ストリームで一夜を過ごしたことがありますが,倒したシートの角度がよくありません。ということで,見解の相違はありますが,このエッセーはよかった。パワーがあって,熱気が籠もっていて,それにものづくりの楽しさが溢れていて・・・。高名な「オルガニスト」も,なにも読んでいませんが,機会があれば読んでみたいと,思いました。
2004.7.22
 ブラジルでの戦後の勝ち組負け組の混乱は,サンパウロから周辺へと舞台を移しながら,10年近くも続いたといわれております。あるいはそれ以上だった可能性も十分あります。ブラジルは広いのだし,情報伝達の手段が乏しかったのだから。情報伝達に関しては今の我々の感覚のほうが,特別なのであって,10年ほど前は,携帯もインターネットもなかったのですから。そのような事情も含めると,沼隈町の神原町長が,日本人移住地としてブラジルよりもパラグアイのほうが適していると判断されたのは,妥当なことだと思う。
2004..7.23
 鈴木光司さんの「エッジ・シティ」(「野生時代」2004.1から7月号)の連載が終わったのでまとめて読みました。途中までは毎月読んでいたのですが,一月もたつと忘れてしまうので,連載終了後にまとめて読むことに方向転換しました。これも昭和40年代の頃のことですが,中村光夫さんが文芸時評で,連載は終了後にまとめて読むので,と書かれておられましたが,最近,その境地がわかってきました。さて,失踪を扱った「エッジ・シティ」ですが,盛りだくさんの怪事で随分楽しませてくれますね。
  はじめの諏訪の一家失踪事件は,先頃解決した広島県世羅郡の一家失踪事件をモデルにしたのかと思いました。世羅の事件といっても「新潮45」で読んだくらいですから,詳しいことは知りませんので,逆に世羅の件はこのような感じかなと,「エッジ・シティ」を読みながら思ったものです。そのほかいろいろと大風呂敷を広げて物語はおもしろくなるのですが,果たしてどこに着地するのか心配になります。「地球が公転軌道をずれたもよう」と書けばすべては許される。オープンエンドですから,続編があるかも。
 真保裕一さんの「真夜中の神話」にしてもそうだけど,不思議な話を大まじめによく書けますね。多分科学的には説明がつかないけど,否定はできない,という現象が今でもたくさんあるということの証拠だし,それを,その否定はできない現象に親近感を抱いている人が多いということでしょうか。そうでないと,荒唐無稽と退けられて,読んでもらえないですからね。読者の側にも期待している向きがありますからね。
  半村良さんの「石の血脈」とか,志茂田景樹さんの「北辰の秘宝」などを思い出しました。これらは,伝奇小説などと呼ばれていますが,「エッジ・シティ」をそう呼ぶのには抵抗がありますね。さりとて,SFだろうかというとそうでもない。まあ,それぞれのジャンルのマニアにはそれなりのこだわりがありますので,安易にその型にほうりこむと非難されますので,やめておきましょう。それはさておき,人類の未来に立ち向かう主人公は,なかなか感動的でした。「海に出れば・・・,アメリカ大陸に渡る方法も見つかるかもしれない」。そして最後は「『わたしはひとりではない』」と,救いがあります。
  響堂新さんの「ダーウィンの時計」のラストに,ベ-リング海峡を見下ろす,新しい種の人類が感動的に描かれております。孤独な旅立ちへの決意ですね。そういえば,「奥の細道」でも「伊勢物語」にも旅への決意や不安や孤独が溢れております。現在の気楽な旅行は,この種の旅立ちとは次元が異なるということを確認しておきましょう。
2004.7.26
  土・日曜日と京都へ行って来ました。今回は福山からの高速バスが往復4000円という破格の感謝キャンペーン中だったので,行ったというわけです。単なる観光で,調査とか取材というのとは違いますので,報告すべきことでもないのですが,感想を少し・・・。
 バスが四条河原町に着いたのは昼前で,祇園祭の花傘巡行の最中で折良く観ることができました。猛暑の中,汗を流しながらの巡行で,こちらは日陰で眺めているだけで,申し訳ないような気持ちになりました。それにしても白粉を塗りたくった京都の女性は美しい。「清水へ祇園をよぎる桜月夜こよひ逢ふ人みなうつくしき」と「みだれ髪」にあるのは,そのとおりでしょうね。
 その後,金閣寺へ。金閣は真夏の太陽を浴びて燦然と輝いていた。何の説明も不用。ただ,見るだけです。売店には,おもしろそうなものがたくさんあったが,新潮文庫の「金閣寺」は置いてありません。まあ,書かれていることから当然と言えば当然ですが。でも置いておけばいいのにと,私は思います。三島さんが取材を申し込んだとき,鹿園寺には断られて,他の禅寺に泊めてもらって調べたということです。「金閣寺」を巡っては。小林秀雄さんとの有名な対談があります。その前に小林さんは,「潮騒」を潮の香りのしない小説だと言いながら新潮文学賞に選んでいますから,接点のあまりないような二人ですが,小林さんは三島さんの才能を認めていたようです。だから,三島さんが亡くなったとき,小林さんは「感想」という文章を書かれるわけです。 
 次は竜安寺。白い小石の間に浮かぶ大小の奇岩も,せっかくの苔が枯れて,やや殺風景。仁和寺は,私の机の上の電子血圧計に記されているOMRONでおなじみの御室御所だったわけですから,お寺といっても別格なわけでしょう。それを吉田兼好は「仁和寺にある法師,石清水に参らんとて・・・」と揶揄するわけです。かといってある時代のように不敬罪などということはない。
 嵐山では,天竜寺と美空ひばり記念館へ。美空ひばりさんは12歳で映画デビュー以来,映画出演158本,シングル527本,舞台出演作品数89本という超人的な仕事をなされたわけですね。映画や舞台に出るということは当然せりふも覚えないといけないのだし,いつ寝ていたのでしょうか。ただただ敬服。
 翌日は朝からタクシーで大原へ。はじめに寂光院へ。寂光院は「平家物語」の巻末にある大原御幸の舞台。清盛の娘で安徳天皇の母である建礼門院徳子の隠棲したところ。後白河法皇がお忍びで訪ねたとき,建礼門院は山へ花を摘みに出ていたという話は有名です。でも,私は史実とは信じてはおりません。なかなか物語としてよくできていて,すぐに会うのと,間を置くのとでは大違い。ドラマ作りの名手の技だと思う。ここにも,与謝野晶子は足跡を留めており「ほととぎす鳴くや 治承寿永の御国母 三十にして経読ます寺」と歌っている。私が訪ねたとき,ホトトギスが鳴いていなかったから思う訳ではないが,平家物語のホトトギスが晶子の頭の中で鳴いていたのである。だから,晶子の前で鳴こうと鳴くまいともはや関係ないのである。
 寂光院の本堂は再建中であったので,小生もわずかばかり修復基金の拠金をしてきた。「平家物語の寂光院のところは好きですから・・」とか言いながら。祇園精舎の鐘のこゑで始まった長い平家の物語は,寂光院の鐘のこゑで巻を閉じる。少しだけ引用してみよう。「さるほどに寂光院の鐘のこ,けふも暮れぬとうち知られ,夕陽(せきよう)西にかたぶけば,御名残おしうはおぼしけれども,御涙をおさへて還御ならせ給ひけり。」これは建礼門院の最後の場面である。
 三千院は杉苔がいつ見ても美しい。昨日みた寺院の杉苔が元気がなかったのに,さすがに洛北,すばらしい。
 三千院にお参りしたあと島原壬生へ。新撰組はあまり好きでないので,司馬さんの「燃えよ剣」ぐらいで,ほとんど本も読んでいなし,テレビも見ません。浅田次郎さんが「輪違屋糸里」を書いておられたので,輪違屋と壬生寺の距離が気になっていたので訪ねた次第。島原大門,輪違屋,西門跡,角屋と見てきました。輪違屋が置屋で角屋が揚屋です。壬生寺には近藤勇と芹沢鴨の墓があります。土方さんは確か五稜郭へ行って函館戦争で亡くなったので,墓はここにはありません。壬生寺といえば壬生狂言で,私の好きな薄田泣菫の「望郷の歌」という詩にも,「壬生狂言の歌舞伎子が 技の手振りの戯ればみに 笑み廣ごりて興じ合ふ かなたへ, 君といざかへらまし」と,出てきます。
 ついでというわけではないのですが,「横山大観展」が開催中で観てきました。横山大観というとあの田舎風のみすぼらしい子供ですが,よく見ると太っていて栄養たっぷりです。一堂に集められた作品の数々。ただただ圧倒されます。今回初めて観たのですが,美人画風のもなかなかいいですね。私は,竹林の七賢とか荘子とか中国人を描いたのは,好みではありません。でも屈原は例外的によかった。
 小池真理子さんの「虚無のオペラ」に貴船の雪景色が美しく描かれていて,貴船にも行ってみたいと思ったのですが,今回はパス。阿倍晴明神社も,今回はパス。
 
2004.7.28
 さて,今日は日本の負け組の話。勝さんが,といっても座頭市の勝さんではなく,咸臨丸の勝さんが,幕府瓦解のおり,千人近くの失職役人を静岡に移住させたのはよく知られている。その人たちの一部が原野を開墾して茶畑にした。そこは川筋から遠く,灌水に苦労したという。そこに灌漑施設がついたのはつい最近のことだとテレビで知った。テレビのレポーターは,負け組だったから,とは言ってなかったが,小生にはそう思えてならない。
 一方,会津若松では,これも一部の人ではあるが,明治2年に武器商人エドワード・シュネールとともに20人(一説には40人)近くが海を渡り,カリファオルニア州サクラメントの近くへ移住した。これが「ワカマツ・コロニー」である。しかし入植後,問題が起こる。地主から購入した土地に公有地が含まれていたのだ。これは当局の好意で購入することが認められたが,お金がいる。資金調達のためシュネールは妻子を連れて日本へ帰国する。しかしシュネールは戻ってこなかった。結局,住人は四散し,北米大陸最初の集団移住は失敗する。井上靖さんは「わだつみ」の序章で,シュネールは住民をだましたのではなく,お金が集まらず戻れなくなったのではないかと,解釈されている。シュネール家の女中だったおけいさんは,かの地の地主に雇われるが若くして亡くなる。アメリカに最初に移住した日本女性ということで,おけいさんのことは,時々話題になる。最近では,「日本人の足跡1」(産経新聞社)に詳しい。
2004.7.29
  遠くの藩のことを昨日は書きましたが,わが福山藩はどうだったのでしょうか。阿部福山藩は老中首座を出す家柄ですから,当然のことながら,幕末の政変では,負け組側になります。しかし鳥羽伏見の戦いで大勢が判明したところで,幕府方へつかず,福山藩は薩長の新政府に与し,ひたすら恭順政策をとります。その結果が函館戦争への出兵です。福山藩への要請は500人の出兵です。明治元年9月8日のことです。これに福山藩はすすんで協力します。函館戦争の出てくる佐々木譲さんの小説が連載されていたとき,福山藩が出てきて驚いたものですが,そういうことだったのです。そして10月2日イギリス船モナード号に乗り込み,鞆港を出航します。下関から日本海へ出るルートになります。
2004.7.30
 モナード号は下関から日本海へ出て北上します。途中,敦賀に寄ります。ここで越前大野藩の兵士を乗せるのです。さて,福山藩函館出兵の参謀を勤めた江木鰐水翁の日記(岩波書店から出ている「江木鰐水日記」)にはこのときのことは記されていないが,翁は別に「北征記行」を記している。それは刊行されていないが,幸い福山城博物館友の会編集になる「函館戦争に於ける福山藩」に翻刻されていて,当時の様子をうかがうことができる。
  そこで,興味があるのは,敦賀にモナード号が寄港したとき翁らが,水戸天狗党の墓に詣でていることである。水戸天狗党については,吉村昭さんの「天狗争乱」という,すごい小説があるので読まれた方も多いと思う。筑波山からはるばる西行して,最後は敦賀で降伏して鰊(ニシン)蔵に閉じこめられ,処刑されるわけです。二二六事件のときと同じで,温情を信じて礼儀正しく縄につくわけです。しかし,そんなに甘くはありません。いつの時代にも反乱者に対する体制側の処置が過酷なのは洋の東西を問わず同じなのです。どうして最後まで戦わなかったんだ,と歯がゆくなります。そしてニシン蔵は天井も高くさぞや寒かったのではないかと想像しながら,読んだものです。先年,敦賀を訪ね,武田耕雲斉以下同志の墓に額づき併せてニシン蔵も見てきましたが,思ったより小さかった。
2004.7.31
  さて,そのニシン蔵は,かつてたくさんあったが,現在残っているのは,この敦賀の水戸天狗党が留置場所として,その記念に保存されているのが唯一のものだそうだ。このことは司馬遼太郎さんの「街道をゆく」の中に出てくる。朝日文庫版では「街道をゆく4 洛北諸道ほか」の236ページである。ニシンと言えばソーラン節である。夏祭りで若者たちが歌いかつ踊っているあの歌の原型である。ソーラン節は北海道民謡だが,いうまでもなく労働歌である。網を曳くリズムと重なっているのだろう。ニシン漁については見たことはない。辻邦生さんの「樹の声 海の声」にでてきたシーンから,その勇壮さと巨大な番屋,過酷な労働などを想像するだけである。最近,なかにし礼さんの「兄弟」や「跳べわが思いよ」から,その投機的性格を知った。また,「石狩挽歌」といういう有名な歌謡曲がそれを背景にしていることも知った。
 「街道をゆく」で敦賀はどこだったかと捜していて,「高山彦九郎の旅」というのを見つけた。(「街道をゆく3 陸奥のみちほか」)。先週京都で三条大橋東詰に風変わりな座像があり,皇居を拝す高山彦九郎だと,バスの中から伺えた。近くに住んでいる人にとってはどうということはないのだろうが,そこは田舎もののお上りさんである。名所旧跡石碑記念碑地名すべてがおもしろい。
   さて誰であったか,どこかで読んだことがあるが,と頭の中をサーチしてもヒットしない。幕末の勤王の志士かと思うがそれならメモリーにあるはずだから,と諦めた。その高山彦九郎については確かにこの本で一度読んでいるということが今わかった,1989年と鉛筆書きのメモがある。「寛政の三奇人」「遊歴家」である。
  司馬さんはこんなサノサを紹介する。「人は武士 気概は高山彦九郎 京は三条の橋の上 遙かに皇居を伏しおがみ 落つる涙は鴨の水」。ということはこの伏し拝む像は,このサノサに基づくものか。
   近年全国に歌謡歌碑というものが夥しく建立される。壬生寺にも三橋美智也の「ああ新撰組」の歌詞をを書いた碑があり,ボタンを押せば歌が流れるようになっていた。先年,越前海岸を車で走ったときも越前岬とかいう歌謡碑があった。これと似たようなものか。
  お上りさん根性のついでに宿の近くの五条大橋まで行ってみた。四条大橋ほどのにぎやかさはない。確か弁慶牛若の像があったはずだが,と思ってきょろきょろすると,西側の道路の中央分離帯にあった。橋の欄干に,でかでかと掲げてほしいと思うのは私だけか。「京の五条の橋の上,牛若丸と弁慶が・・・」というのがあったように思う。