8月の夕凪亭閑話 その2
2004.8.11
さて,身近多忙で2日ほど飛んでしまったが,ページが大きくなりすぎたので新しいページにしたい。
先日,高校生になる息子が,友達とうどんを食べてきたと言った。(子供だけでいく初めての外食だったようだ。)そこで,人類の歴史について話してやった。人類の歴史といっても大げさなものではない。話が長くなるので結論だけ書くと,人類はデンプンをどの植物からとり,それをどのようにして食べるか,長い間かかって探し改善してきた,ということ。いろんな地域で,いろんな民族が様々な形でデンプンを摂取している。うどんというのは,その成果のひとつで,快適で良い形態であるに違いない。そうでなければ,さぬきうどんという看板に曳かれて,お金を出してまで行くわけがないではないか。・・・ところで,来るべき未来は,その小麦粉が今のように容易に手に入るのだろうか。安くて,おいしい,さぬきうどんが食べれるのも,そう長くは続かないかもしれない。
デンプンと言えば,馬鈴薯もよい植物である。馬鈴薯が移入されたアイルランドでは,多くの人を飢餓から救ったという。今度は逆に人口が増え,多くの人が新天地をめざして新大陸へ移民した。その中の子孫から後に大統領となるジョン・F・ケネディが生まれた。さて,ケネディ家がアメリカへ渡った動機に,どの程度馬鈴薯がかかわっていたのか。
僕が子供の頃は,馬鈴薯といえば男爵だったが,最近ではメークインも多く,スーパーではメークインのほうが主流かな? 男爵のほうがおいしいが,最近のメークインも品種改良されたのか,ほとんどかわらないくらいにおいしくなっているようですね。(違いにうるさい人からは軽蔑されそう)。男爵というのは,函館の川田竜吉男爵が原種をアメリカから取り寄せたからだそうである。函館の郊外に確か男爵馬鈴薯発祥の地の石碑があった。自分で運転していなかったので,場所はよく覚えていないが・・・。種芋はもちろん生産量も北海道がトップだというのは容易に予想できる。北海道から岡山へ,そして岡山から徳島へ。徳島から各地へ。そして静脈を通してわれわれの体内へ,という長い馬鈴薯の旅が,食べないほうのデンプンの旅である。ついでながら,ジャガイモというのは,言うまでもなくジャワから伝わったということですね。インドネシアはオランダの植民地で,オランダの東インド会社というのは,世界史で習いましたね。だから伝えたのはオランダ人。とはいえ,原産地は南米ペルーのアンデスだと言われてますから,また,話が南米に戻って来ますね。・・・・と,蛇足が蛇足を呼び,小麦の話が馬鈴薯に飛びと,どうしょうもないですね。・・・・長くなるのでこのへんにしておきましょう。
2004.8.13
先日,といってももう1週間くらいになるが,テレビで懐かしのメロディーという,毎年この時期にやっているのを少しみていたら,例によって「ふるさと」というのが出てくる。歌詞が字幕で流れていく。「こころざしを果たして いつの日にか帰らん」というところを見て,はっとした。この歌が海外で好まれる理由がよくわかる。海外で生まれた二世三世は別にして,海を渡った多くの日本人にとって,「志を果たして いつの日にか帰らん」というのは,今もその思いは生き続けていることではないかと思う。国内でこのように思っている人がどれくらいいるのでしょうかね。志を果たしてとか,あるいは釈月性とかいう人が作った漢詩にある「学もし成らずんば死すとも帰らず」というような思いはとっくに廃れてしまって,想像の埒外になってしまったような時勢ですが,海外へ渡った多くの人は,そこへ永住するのが目的ではなく,お金を貯めて帰ってこようと当初は思っていたというのが,大部分だったということです。そうでないと,あんなに多くの日本人が海外へ出ていくことはありえないですよね。本来,移民というのは,たとえば,ヨーロッパからアメリカ(今の合衆国)へ行く,というのは,お金もうけをして,ヨーロッパの故郷に錦を飾るというようなものではなく,未開の地を開拓して,そこの国民になるという,そういう悲愴な覚悟の上での移動であったのではないでしょうか。ところが我が国では,「出稼ぎ移民」という言葉があるように,本来の目的はそのような人が多かった。しかし,事実は逆に,多くの人が定住移住になってしまった,というところに,日本人の移住史を考えるときの難しさがあると思います。
2004.8.16
パラグアイ移住史の続きである。今日は,フラム移住地について書く。パラグアイの日本人移住地は,アマンバイ地区を除くと,すべて分譲型である。アマンバイ地区はカフェ耕地とかジョンソン耕地とか呼ばれ,ブラジルの多くで見られたような契約雇用農(コロノ)であった。そして,戦前から移住が行われていたラ・コルメナ地区を除くと,戦後に順次開かれた移住地である。それは,チャベス移住地,フラム移住地,アルトパラナ(ピラポ)移住地,イグアス移住地の4移住地である。その2番目のフラム移住地が今日の主題である。
戦後2番目の移住地で,まだ十分に受け入れ体制が整っていなかったということも,忘れてはならない点だろう。それは,この移住地の構成や地区の割り振りにもよく現れている。それはともかくとして,フラム移住地と,一言でいっても,なかなか複雑である。現在の日本の町村合併の例で見られるように,合併・併合を繰り返すことによって都市のあるいは町村の示す名称がどの地域を指すかということは,時代によって異なるからである。
フラム地区は現在ラ・パス市になっているが,このラ・パスという地名もフラム移住地の一地区の名称であったものである。すなわち,フラム移住地のうち,沼隈移住団が入植したところに付けた名称がラ・パスだったのである。フラム移住地は,フジ地区,ラ・パス地区,サンタローサ地区の3つから成る。フラム移住地は後続の移住地のように日本海外移住振興会社が土地を購入して分譲する直轄移住地ということになっているが,歴史的にはやや複雑である。
まず,戦後最初の移住地であるチャベス移住地が隣にある。ここはパラグアイ国が設立した国際移住地である。そこに戦後最初に移住した日本人は入植した。しかし,ここが満植になった後になっても,どんどんと移住者が渡航し,隣接のフラム移住地のフジ地区に入植した。1955年6月34日,12家族である。日本海外移住振興会社が土地購入の交渉を開始したのが同年の9月頃,調印されたのが1956年12月15日である。ということは,フジ地区は,他のフラム移住地と同じように我が国の直轄移住地ではなかったということだ。その頃フジ地区は満植になる。
ところで,同じ12月28日に沼隈移住団第一陣がエンカルナシオンに到着している。すなわち,やっと土地購入が調印されたばかりのところに,第一陣が乗り込んだということである。すなわち,道路や,公共施設など,準備しようにもできない段階のところに現地入りしたということである。
その沼隈移住団が入植したところが,ラ・パス地区で,ここは1960年までに約90家族が入植したことになっている。ラ・パス地区が満植になる前に,1957年には隣のサンタローサ地区に高知県大正町から集団移住で21家族が入植を開始した。これが沼隈町の町ぐるみ集団移住の影響を受けて行われた町ぐるみ集団移住の二例目である。サンタローサ地区が1960年末には満植になり,これでフラム地区全体が満植となったのである。
かくの如く,フラム移住地といっても複雑で一筋縄ではいかない。しかし,この流れを見ただけでも,沼隈移住団の置かれていた位置がわかろうというものである。
2004.8.17
さて,ひとりごと,も随分長くなったので,名前を変えることにする。夕凪亭閑話とする。夕凪亭とは何か? それは,見果てぬ夢である。私の海の家とも山荘とも判別つきかねる,書斎のことである。潮の流れはもちろん朝焼けの海と夕暮れの海の両方が見える小高い丘に作り,四方に開けたガラス窓から終日海と空を眺めて暮らすのが,私の憧れで,随分前から候補地を探しているのだが,まだ決定していないし,(ある程度はめどがついているのだが,それは秘密である),まだ隠居できる身分でもないので,見果てぬ夢なのである。なので,今いる,この方丈の間が,夕凪亭である。だからといって,この駄文を方丈記などと呼ぶほども,私は非常識でもない。・・・ということで,夕凪亭閑話なのである。
2004.8.18
パラグアイ移住史の続き。フラム移住地というのは,日本海外移住振興会社が購入した土地が,フラム土地会社が所有するものだったから,以後,フラム移住地と呼ばれるようになった。ここで,11580町歩の土地を購入したのが1956年12月15日であったが,それ以前から日本では入植者の募集が行われていた。
1町は1ヘクタールである。その,入植条件というのは,沼隈移住団とも直接関係があることなので,詳しく記しておきたい。募集人員は400家族。分譲面積は1家族1区画25町歩で,最大2区画まで分譲可能である。これはあとで説明する予定であるが,構成家族といって入植の条件を満たさないので,他の家族の同伴として渡航し,すぐに1区画をもって独立できるという便利なものである。分譲価格は1区画133000円。昭和31年のことである。25町に対して13万なら,非常に安い。しかし,当時のお金で13万円を準備することが容易であったとは考えられない。分割払いでは144000円で,半額は2年据え置きとなっている。資格として農業者で3人以上の稼働者を有すること,というのがある。これは夫婦と,中学生くらい以上の子供一人ということになろうか。携行資金として20万円用意でき,また土地購入資金の半分は国内で支払いできるものという条件もある。これでは,日本では土地が少ないので,海外で一儲けをと願っているものにとっては,易々と出ていくわけにいかない金額であるのは,あきらかである。
2004.8.20
「青春と読書」9月号が届く。木田元氏の「新人生論ノート」が最終回。「・・・どれが恵まれた人生で,どれが不幸な人生だなどとはとても言う気にはならない。どの人生もそれぞれに完結したものだとしか思えないのだ。」 大学に入ってまもなく読んだ「現象学」(岩波新書)以来,木田氏の本は時々読んできた。メルロ・ポンティなどの翻訳でも,訳者の中に木田氏の名があると,安心して読めた。海外の思想の紹介も素晴らしいが,その生き方も,(木田氏は多くを語られないけれども,)また素晴らしいと思った。