「土生」の例は全国各地に多く、「傾斜地」をさす古語である。青木茂、「因島市史 全」(昭和43年)p.28
広島県編、「広島県史近世2通史Ⅳ」(昭和59年)、p.823に「箱崎の漁法と分村」の記述あり。
歴代庄屋・戸長・村長・町長
初代土生村庄屋 慶長ヨリ寛永五年迄参拾ヶ年勤務 土生村 清左ェ門光時
二代土生村庄屋 寛永五年ヨリ承応元年迄二十五年勤務 清左ェ門ノ子 久右衛門時一
三代土生村庄屋 承応元年ヨリ明暦三年迄四ヶ年勤務 久右衛門ノ子 久右衛門明久
四代土生村庄屋 明暦三年ヨリ元録九年迄四十二年勤務 久右衛門ノ子 清九郎光氏
五代土生村庄屋 元録九年ヨリ享保六年迄貳拾六年勤務 清九郎ノ子 清左ヱ門光弘
六代土生村庄屋 享保六年ヨリ元文三年迄拾八 ヶ年勤務 清左ヱ門ノ子 多郎四郎光政 但四十二年卒ス
七代 土生村庄屋 元文三年ヨリ安永五年迄勤務 多郎四郎ノ子 清左衛門康貞 但六十七年卒ス 但安永五年ヨリ寛政元年迄重井村庄屋兼帯、天明元年ヨリ寛政元年迄土生村庄屋再勤、年数五十二年勤務此年数ノ内、大浜村椋浦庄屋兼務ス 年限不詳。
八代土生村庄屋 安永五年ヨリ天明六年迄拾壱ケ年勤務 清左衛門ノ子 又次右衛門貞久
九代土生村庄屋 寛政二年ヨリ文化四年迄勤務一七年 清左衛門ノ子 藤蔵康久 但八十二年卒ス
十代土生村庄屋 文化四年ヨリ文政十一年迄勤務 藤蔵ノ子宮 地久右衛門為重 但六十九年卒ス 但文化十年田熊村庄屋半役兼帯、文政四年椋之浦庄屋拝命天保六年土生村庄屋再勤、同七年田熊村庄屋兼帯、同九年社倉主役拝命、弘化二年割庄屋格拝命
十一代土生村庄屋 文政十一年日以天保六年迄勤務 久右衛門ノ子 藤三郎空光 但二十八年卒ス
十二代土生村庄屋 天保十一年以安政六年十一月迄勤務 久右衛門ノ子 清左衛門為歲 但四十三年卒ス 但嘉永二年ヨリ田熊村庄屋半役兼帯、安政四年迴船方頭取拝命、同五年ヨリ病気、同六年依願免職ス。
十三代土生村庄屋見習拝命 萬延元年申七月一日 文久二年戌八月廿八日本役拝命 清左衛門ノ養子 宮地良左衛門春房 但四十七年卒ス 当郡中庄村神宮 宮地義広四男 同官一弟 明治二十一年四月没
資料:1。「土生村庄屋大土生、宮地家家譜」を再掲する。(「郷土文化」18号)[p.96]
はぶみち