ピエロがくれた金魚
中国山地のうち、広島県と岡山県の県境のあたりでは、赤い魚は魔性のものの変化だと信じられており、現在でも、錦鯉や金魚を家庭では飼育しなゐ地域はかなりある。 川上翠庵「備後の伝承」(鳳文館、大正十二年)
一 土曜夜店
「土曜夜店にね、三村さんが一緒に行こうと言ってたの」
日は高い。夕暮には間があった。
三村さんというのは、由里の同級生のことである。
「お姉ちゃんだけ行くの。私も行きたい」
「コーちゃんも行く」
「浩司も連れて行ってやったら?」
「そうしょうか?」
長女の由里が明るい声で答えた。珍しいと言ってよかった。こと浩司のことになると、母が少々頼んでも、拒否することのほうが多かった。浩司を連れて行くのは苦手なのである。それが、どういう風の吹きまわしか、素直に母に同意した。
母のほうがどちらかというと驚いた。でも由里は、いつもと同じような顔で、みんなを見ていた。特別の表情ではない。わがままな浩司を、ほんとうは連れて行きたくなかったのだけれど、いつも母に小言を言われるのも癪だし、それに今日は夜店だから、一緒に遊ぶのではなく、どんどんと歩くことが中心だからまあいいか、と思ったのだ。
「一人三百円ずつでいいかしら」
急にママの機嫌がよくなったと、次女の美樹は思った。
「三百円? ラムネが八十円に、綿飴が二百円で、風船釣りが百円だから、すぐになくなっちゃうよ」
こういう計算になると美樹のほうが早い。こういうことはたいていが、妹の役目だと由里は思っているわけではないが、それでも救われる。何となく、言い出しにくい。だいたい、いちばん上というのは、しかられ役で育ってきたようなものだ。それがためか、どうもお小遣いの交渉は苦手だ。その点、妹はいいなと思うことがしばしばある。妹が何でもいいわけではないが、でも自分からみると、やはり得しているな、という場面のほうが多い、と由里は思った。
そしてそれ以上に、タイミングよくこういうことが言える妹に感心した。確かに妹の言うとおりなのだ。三百円だったら、三十分で帰るようになる。それじゃ、何のためにわざわざ行くのかわからなくなってしまう。
「そうか、じゃあ、五百円にするわ。一人五百円ね。これならいいいでしょう」
「コーちゃんにも、五百円ね?」
「ええ、そうよ。由里姉ちゃんに、あずけておくわ」
そう言いながらママは財布をひっくり返した。都合よく、百円玉が十五枚もあるはずがない。かろうじて五百円玉2枚と百円玉五枚を探しだし、由里のポシェットに入れてやった。
「美樹、お友達は?」
ママが美樹のほうを振り返った。
「美樹ちゃん、約束してないわ」
「そう、それじゃ由里のお友達の三村さんだけね」
「うん、六時になったら、私ん家(ち)に来ることになってるわ」
「もう六時?」
と、浩司は一応は時計のほうを向いている。これはいつの間にかついた習慣である。時計は読めないのに、時計の話が出ると、気になる。そういう年令なのだ。
「まだ三十分もあるよ。コーちゃん、テレビ見ようよ」
美樹は立ち上がった。
「うん、もう行くの?」
「違うよ。時間が来たら呼んであげるからテレビを見てたら」
由里が言っても浩司は動かなかった。
「晩ご飯はどうする?」
少し早いかな、とママは思った。
「帰って食べるー」
「帰って食べるー」
由里と浩司が歌うように言う。
美樹はテレビを見ている。
由里と浩司はママとキッチンで話をしている。外はまだ明るい。
ピンポンー、ピンポンー。
「三村さんよ」
ママの声を聞きながら由里は時計を見た。六時きっかりだ。
「美樹、浩司、行くよ」
「六時になったの? 夜店に行くんでしょ。お姉ちゃんと一緒だよね」
浩司は口を開くだけで、動作がついて来ない。
美樹は、すぐにテレビを消して玄関に走った。玄関では由里はすでにスニーカーを履いていた。
「そうよ、ぺちゃくちゃ言わずに早く行きなさい。おいて行かれるわよ」
ママがせかすように言った。
やっと浩司は椅子からおりた。
「お姉ちゃん、待ってよー。」
怒り怒り浩司は後を追った。しかし、浩司があわてるほど、三人は先に行っているわけではない。門扉のところで浩司の来るのを待っているのだ。
門の前を車が往来する。マンホールの鉄の蓋を踏む音が定期的に鳴って、次第に遠ざかる。アスファルトは夕日に映えており、通過する車の影が斜めに走った。
浩司をかばうように、みんなは歩き始めた。
商店街の夜店は毎年七月の半ばから八月の半ばまで、土曜日の夕方から九時頃まで開かれる。
今年は七月十七日に始まった。この行事も恒例になっていて、特に初日は各商店も大安売りをとすることになっている。
三人の姉弟と三村さんとが商店街に近づくにつれて、道行く人の数も増えた。
大人も少しはいるが、たいていは小学生や中学生で、何人かで連れ立って来ていた。
話したことはないが、明らかに同じ小学校の上級生だとわかるグループもあった。
日がまだ高いので、あまり客は多くない。それでも、前のほうを歩いている人もいたいし、路地が交差しているとき、その路地のほうを見ると、遠くのほうにも、くつろいだ親子連れがいたから、やはり夜店に出掛ける人はかなりいるのだと思った。
遠くからでも商店街の雑踏は認められた。また、夜店が目的でそちらへ行っていると一目でわかる、名前を知らない子供たちのグループや、親子づれが、同じ方角へ向かって歩いている。
「商店街の人がね、ぬいぐるみを着たり、仮装をしているんだよね」
浩司と同じような調子の声がしたので、美樹は思わず振り返った。その男の子は浩司よりも、まだ小さい子だった。そういえば、去年もこの夜店で仮装をした人たちにたくさん出会った、と美樹は思い出した。熊のぬいぐるみを着た人と握手をしたのは、去年のことのように思えるし、あるいは、別の遊園地での出来事のようにも思える。このような、経験はすぐにごっちゃにになってしまう。
風がないので、蒸し暑いが、それでも、昼間の暑さや、家の中のなま暖かい空気に比べると、外の空気は快適だった。
商店街の歩道には、すでに人がたくさん出ていた。歩道のあちこちに灯された裸電球が揺らめいて、外はまだ明るいのにもう夜かと思わせる。由里と美樹はそれを見ただけでもうわくわくししだした。 商店街の入り口ではまず恐竜のぬいぐるみが迎えてくれた。恐竜といっても鰐を大きくしたようなもので、形ばかりの尻尾がゆれていた。蜥蝪のような前脚に入れた手を振っていたので、美樹と浩司は手を振った。
歩道の真ん中に二、三のグループが集まっている。涼み台の両サイドにラムネの山があった。
「おいしそうな、においだね。焼きもろこしでしょ?」
「あはぁ」
三村さんが美樹の顔を見て笑った。美樹も笑いながら三村さんの顔を見た。
「由里姉ちゃん、焼きもろこしでしょ?」
浩司は無視されたものだから、ますます大きい声を出した。
烏賊を焼いている匂いが、鼻をつく。
由里の鼻がひくひくと動いたように美樹は思った。何だかお腹がすいたなあ、いや、さっき食べたばかりなのに、どうもこのにおいのせいだわ。いやだわ、美樹は小さく小さく言って笑った。由里と目があった。
烏賊にしようか、と言いかけてやめた。においにつられて買ったことは何度かある。しかし、裏切られることのほうが多かった。でも、売っている人が悪いのではない。責任は過大な期待を抱く自分にある。それがしゃくなのだ。だから、手が汚れるから嫌だわ、と思う。トランプに
「お姉ちゃん、見て見て」
由里が美樹の向いているほうをみると、ある商店の前にも人だかりができていた。そして、その中心に一際目立つのが、ピエロの帽子だった。細長い三角帽子の先が指さす7月のはじめ、土曜夜店で金魚掬いをして金魚を買ってくる。
ピエロの金魚売りが一匹おまけをくれる。
みんな仮装している。
二 帰宅した子供たち
「ただいまー」
「ただいまー」
「ただいまー」
門扉をガシャガシャとゆすって、子供たちは帰ってきた。
外はすでにうす暗い。でも、これから出掛ける人たちの交わす会話が表の通りから聞こえた。
続いて玄関の戸が開いた。
「金魚すくいしたよ。いっぱいいっぱいつれた」
浩司が、たどたどしく、大きな声を張り上げた。
「わたしが2匹で、ヨシちゃんが1匹」
由里がほんとのことを言った。
「コーちゃんは1匹もすくわずに、みなおじさんが入れてくれたの」
「おもしろいピエロのおじさんが、いっぱいいっぱいくれたの」
「へえ、何でピエロのおじさんなの?」
「ママ、もう忘れたの。夜店で、ときどき仮装の人が出てるじゃないの」
由里が不思議そうな顔をして言った。ママは夜店に行ったことがないのだろうか。いや、去年はみんなで行ったのに。忘れっぽいママだわ。
「あ、そうか。今日は初日だから、仮装や縫いぐるみを出すと言ってたわね」
「そうそう、それよ。美樹ちゃん去年も同じ縫いぐるみ見たよ」
「美樹は、こういうことはよく覚えているね。去年はママも行ったわね。いま思い出したわ」
「へえ、コーちゃんも去年行ったの?」
「行ったじゃないの」。
由里が呆れたように言う。
「でも小さいから覚えてなくても仕方がないわ」
ママは笑っていた。
「金魚、どうしようか?」
美樹はずっと、金魚の入ったポリエチレンの袋を持っている。光りの当たり具合によって、銀色になったり、透明になったりした。赤いビニールの紐を中心にして、くるくると回る。
「そうか、金魚ね。でも、嫌だわ」
「ママ、金魚嫌い?」
美樹が、小さな声で訊ねた。
「え? ええ、でも、仕方ないわ。今さら捨てるわけにもいかないし、飼いましょ」
と、言いながら洗濯機の傍にある青いバケツをもってきた。
そしてママは美樹からポリエチレンの袋を受け取ると、「動物はすぐに死ぬから嫌なのよね」
と言いながらポリエチレンの袋から金魚をバケツに移した。
「まあ、そう言わずにできるだけ長く生きれるように飼ってみようよ」
「あら、パパ帰っていたの。お帰りなさい」
由里が、たいして驚いたようすもなく言った。由里にしても、美樹にしても、驚くということがあるのかと思えるほど、言葉に態度が伴わないのが普通だった。
「買ってきたときはいいのよね。みんな喜んで世話をするけど、すぐにしなくなるんだから。今、ペペの世話をしているのは誰か知ってる」
「ママー」
「ママー」
由里と、美樹が同時に答えた。
「金魚の世話もすぐにママの仕事になるのだから、嫌だわ」
「金魚は、ときどき餌をやるだけでいいのでしょ? だったら美樹がするわ」
「ええ、期待はしないけど、そういうことにしておきましょう」
ママは笑いながら言った。皮肉が皮肉にならないのは、やはり、子供の性格を見ていると、いたるところに自分の幼児の面影を発見するからである。いいにつけ、悪いにつけ、子供というのは親のコピーなのだ、と最近では諦め気味である。しかし、育てる部分はやはり、躾けていかねばならないから、小言になったり、皮肉になったりする。しかし、どこかに憎めぬものを持っているから、子供たちも気楽であった。愛情などと呼ぶ必要のない習慣であった。
「明日、水槽を買ってこよう。今日は取りあえず、それに入れておくことにすればいい」
パパの賛成を得たんだから、美樹と浩司は喜んだ。
「水槽買いに行くとき、コーちゃんも行ってもいい?」
「美樹ちゃんも行く」
「コーちゃんも行く」
「美樹ちゃんも行く」
「コーちゃんも行く」
水槽を買いに行くということは決まっているのだから、付いて行こうと行くまいと、大きな問題ではないのだが、子供たちにしては、とても大切なことだ。そういうことが母親には、子どもの主張のあとでないとわからない。
ということで、その夜は金魚はポリバケツにいれておくことにした。そして、戸外に出しておくと猫に捕られるのは目に見えているので、玄関のカナリアの下に置いておくことにした。
三 カナリア・ピピの失踪
「おい、ママ!」
パパのいつもにもない甲高い声が、家の中に響いた。しかし、ママの返事はない。
「ママ! ピピどうしたんだ?」
ベランダに洗濯ものを干していたママが降りてきたので、パパはもう一度言った。
「子供たちが出したのかしら」
ママは自信なさそうに言った。
「由里! 美樹! ピピは二階にいるのか?」
パパは階段の下まで行って叫んだ。
パパとしては、心配なのだ。今までにこんなことは一度もなかった。
「なあに? パパ」
二階から由里の声が聞こえた。
「ピピがいないんだ」
「ピピ? ピピがいない? そんな・・」
由里が驚いたように言う。
「下には、いないんだよ。だから、二階に連れて上がっているのかと思って・・」
「んん、二階には連れてきてないわ」
由里は階段を下り始めた。
「美樹ちゃん、まだ今朝はピピのところに行ってないわ」
由里のうしろから、美樹もついてきた。
「へんだなぁー」
ピピを入れていた鳥篭を見ながらパパはしょぼんとしている。
「へんねぇー」
鳥籠のステンレスが朝日を反射している。廊下の端に、空っぽの鳥篭はある。食べ残しの餌と新聞紙についた糞が、いつものように日に当たっている。さっきまでいたに違いない。しかし、ピピはいない。風に鳥篭が静かにゆれた。
由里は不思議そうな顔をしている。
「猫が入ってくるということはないよね」
美樹としてはこれ以上のことは思いつかなかった。
「戸締まりは完璧よ。朝起きたとき戸はどこも閉まっていたわ」
ママが自信をもって言った。
「ピピがどうかしたの?」
みんなが騒いでいるのが、浩司にも気になったらしい。
「ピピがいなくなったの。コウちゃん知らない?」
美樹が浩司を見つめて言った。はじめから、美樹には浩司が知っているなどと百パーセント思ってはいない。でも、みんなが考えているのと同じように、自分も一生懸命になろうと思っていただけである。
「知らない。美樹ねえちゃんも知らないの?」
まるで、鸚鵡との会話であった。しかし、実際にいなくなったのは鸚鵡ではなく、カナリアである。まぎれもなく一羽のオスのカナリアなのである。
だれにも、ピピの行方はわからなかった。
「いやだわ」
ママがぽつんと言った。
「何が?」
由里がすかさず訊ねた。
「何が、って、ピピがいなくなったことよ」
「それは、わかるわ。みんな、心配しいるわ。でも……それだけじゃなくて、ママの心配事ふやしちゃったかな。ねえ、ママ。金魚買ってきたのいけなかった?」
由里には、昨日の金魚と引き換えに今日のピピの失踪があるような感じがした。まったく関係ない二つの出来事が、セットになっているような気がした。
「いいえ、そんなことはないわ」
誰も、ピピの行方を知る者はいなかった。そして、誰もが、ピピの行方を推理することもできなかった。
もちろん、翌日になって帰ってきたわけでもない。