2025年1月20日月曜日

女子大生殺人事件

女子大生殺人事件


 香住田さんとは,もう五年来のつきあいがある。老人大学で知り合って,いろいろと話をしたり,旅行に行ったりしているうちに,元は警察官だというようなことがわかった。しかし,公務上知り得た秘密は,自分一人の胸に秘めて墓場にもって行くつもりか,われわれの仲間に話したことがない。

 それが,三ヶ月ほど体調を崩して会わなかったら,再開後,古い話だが,と言って昔の事件について話し始めた。おそらく,自分の寿命について何か思うことがあったのに違いない。



 主人公: 香住田亮輔

 昼過ぎから降り出した雨は夕方には止んで西の空には、茜色の夕焼けがかかった。

 その夕焼けが消え入ると、それと入れ替わるように夜が訪れた。   

 雨後の澄んだ夜の空が高く続いている。その下では,岡山駅西口の駐車場の水銀燈の明かりが漏れ、アスファルトの道が輝いていた。黒々と、そして銀色に。

 風は吹いていない。あたりの静かさのせいか、秋の気配を感じた。夏だということを忘れそうだ。一ト月前のあの夏の暑さが夢のようだ。

 その夜、雨に洗われた夜道を香住田亮輔は、自転車を走らせた。五分も走れば「山の音」に着く。

 店の前に自転車が二台ある。いかにも古めかしいタイプのもので、黒っぽい塗装から一目で男物とわかった。その一台が武岡さんのだと、亮輔は思った。子供を載せてもいいように、荷台が広くなっていて、手を掛ける握り棒までついている。もう一台は誰のかわからない。

 自転車のすぐ傍を通って、コンクリートの床にピッタリと着いた、堅い木製のドアを押し開けると、酒の匂いに混じって床のコンクリートの匂いが、プーンと広がってきた。

 蛍光燈がかぼそくともっているのだが、ちょうどカウンターの上に玉蜀黍が三本束ねて吊りさげてあったり、どこかの土産物屋で買ってきた草鞋や干魚が掛かってあって、店内は薄暗くなっている。

 入り口のところに髪の長い、よれよれのジーンズの上着を着た男が一人。ひとつあいて武岡さん。その向こうがカメラマンの橋本さん。入り口の男とは初対面だ。

 香住田亮輔はまず武岡輝道にご無沙汰を詫び、ついで橋本良夫のほうを見て頷いた。

 橋本さんというのは、額が広くて目が窪んでいて、初対面のときは少し気味のわるい人だと思ったが、童謡亭「山の音」の常連のひとりで、いつのまにか話をするようになった。

 以前こんなことがあった。自分の写真が新聞に載ったと言って、新聞を持って来た。よく見ると、甲子園出場の地元代表校を取材している橋本さんが、選手の後ろに小さく写っている。カメラマンが同僚に写されるようになったらシャレにもならない。

 香住田亮輔が橋本良夫に挨拶をしている間に、武岡輝道は一つ右に寄り、香住田亮輔が武岡と橋本の間に座った。

 香住田亮輔は椅子を引きよせながら、橋本の頭ごしに飾り棚をちらりと見た。いつも見慣れているので取り立てて注意する必要もないのだが、いつもの習慣か、目がひとりでにいくのである。

 この飾り棚には馴染みの客がもってきたこけしややら置物やらがところせましと並んでいる。手に載るほどの水車小屋の置物の隣には、備前焼きの十二支のセットがあるという具合だ。雑多といってもよいほどのバラエティの豊富さが、そのまま童謡亭「山の音」の客の幅の広さを示している。古くなったからといって捨てたりはしないから、香住田が「山の音」に来はじめのころに、あったものも後ろのほうに下がって今でもある。

 デンマークで買ってきたという、人魚姫のブロンズ像のミニチアが話題になっていた夜のことは、今でもよく覚えている。香住田が武岡に連れられて初めてここに来たときのことである。

 その、人魚姫の像もかなり後ろのほうに押しやられて、その前にいろいろな物が付け加えられていて、時の経過をよく表している。

 身体を後ろに引くようにして、武岡輝道が、香住田亮輔をよれよれの上着の男に引き合わせた。

「紹介しとこう。こちらが香住田さん。こちらが大神さん、今は、フリーのライター。岡山にもこういう人のいるちゅうことを、覚えておくのもよかろう」

 いつもこんな調子だ。少しばかり形式を踏みつつ、半分照れ気味に、薄くなった額を撫でながら笑顔をつくった。これまでにも何人かの人を紹介してもらった。

「はー、それでは週刊誌の記事など書かれるのですか」

 大神という人は何も答えない。

「奥さんは元気か」

 大神純平でなく、武岡輝道が口を開いた。「ええ、今、里に帰っていますがね」

「ああ、連休で帰っとんか。井原じゃたかの。……ヒバゴンか何か出たいうて、ずっと前言っとたが……」

「ああ、あれはヤマゴンと言うんです」

「ふーん、そうじゃったか」

「ヒバゴンというのは、広島県のずっと奥のほうですよ。比婆郡というところですよ。

 ヤマゴンの方は……広島県と岡山県の境に山野狭という渓谷があるんです。井原から少し北の方へ行ったところです。そこで、井原市の職員が猿か人間かわからんようなものを見たというて、大騒ぎになったんです。それで、観光課の職員が″ヤマゴン″と名付けて、人寄せにでもしようというわけでしょう」

 一ト月程前の夕刊に取り上げられたが、中国山地のまっ只中のヒバゴン騒動と違って、おもしろみはない。それでも新聞が書き立て、少しでも観光客が多くなれば、という腹らしかった。

「ヤマゴンか。おもしろい名前じゃ。ヒバゴンの方は結局どうなったんかの」

「あれは、東京のほうから,大学の探検部なんかもきたそうですが、結局手掛りなしですよ。でも、新聞には書かれるし、人は来るしで、地元としちゃあいい宣伝になったんと違いますか」「ふうん、そうか。でも、小説にはならんな」

「ええ、話が単純すぎて…………」と香住田亮輔。

「やはり、ミステリーはトリックが第一だから、話になりませんね」

 武岡輝道との会話を黙って聞いていた大神純平が、香住田亮輔のほうを向いて、口を開いた。そして、手元にあった銚子でお酒を一杯口の中に流しこんだ。

「ところで、岡山にはミステリークラブがないでしょう。香住田さんいかがですか」

「いやぁー、僕は、ミステリーが専門という方じゃないし……、だめですよ。トリックもほとんど知らないんだから」

 香住田亮輔は、他人とミステリーについて話すほど研究したことはなかった。ここはお断りするしかあるまい、と思った。

 「先程、あなたが来られる前に、先生から伺ったのですが、相当書かれているということでしたが……。ねえ、先生」

「ふん」

「そんなことはありませんよ」

「ところで、香住田さんの原稿をひとついただきたいのじゃが」

 うまい具合に武岡さんが話題を変えてくれた。ミステリークラブに,いまのところ興味はない。かといってこちらの話題がいいというものでもない,と香住田は思った。

「そのうちにひとつくらいはと,思ってますが,まだ調査が済んでませんからね」

「そういう論文でなくて,エッセーの類でいいから,できるだけ早くひとつを頼みたいんじゃが」

  ああ,またあの話かと香住田は思った。武岡が,勤務する女子大から,学生サークルの同人誌のようなものを任されているという話は以前伺ったことがある。学外からも寄稿してもらい,より一般受けのするものをつくるようんというのが,大学の要望で,武岡が編集を任されているらしい。


「今晩は! おっ、相変わらず景気がいいね」

「お晩です」

 すでに、何処かで一杯やってきたらしい。顔に赤みが浮かんで、蛍光灯の日にあたって光っている。それに、入ってくるなり、アルコールの芳香が、ついて来た。

「いらっしゃい」

 威勢のいい声に連れられたように、童謡亭「山の音」のマスターとお上さんが迎えた。 このマスターは「山の音」を始めるまでは、小学校の教員をしていたということだ。長年子供たちに接してきたせいか、その物腰の柔らかさが、奇妙な魅力となっていた。また、頑固一徹な面があって、その風貌からも伺えた。

 お上さんーーもちろんマスターの奥さんのことであるが、ここではこう呼んでおこうーーは、丸顔で日本髪のよく似合う人である。関西の方の育ちだそうで、柔らかい言葉の端ばしにその名残をとどめていた。

「ほんに、久しぶりで。皆さんお元気でしたか」

「久しぶり言っても、この前も来たけどな。あ、お母さん、いなかったんじゃない」

 四人のうち、最初に入って来た男がよく通る声で言った。

「そうじゃ、そうじゃ。あんたがおらん時じゃったわ。この前も来てもろうた」

 童謡亭「山の音」の主人夫婦は、岡山駅に近い店の方には住んでいないらしい。たいてい、マスターが一人でやっていて、遅くなってからお上さんがやって来る。時々、女子大生のアルバイトが手伝っているが、その日はいなっかた。

「そうでしたか。そりゃ、すまんことでしたな。あら、もうできあがってお出なさったん?」と言いながら、煮ものの入った小鉢を四人の前に置いた。

「ちょっと、卓囲んでる時に、喉を潤ませた程度だけど、そんな風に見えますかね」

 と濃紺の背広を着た男が言った。どうやらこの男が一番年長らしく、「山の音」にも最も馴染みの客らしい。一番最初に入ってきたが、三人を奥の方に座らせて自分は戸口に近いところに座った。四人は麻雀をやっての帰りらしい。

 香住田亮輔の方は、最近ではずっと「山の音」にご無沙汰していたから、この四人を見るのは初めてだった。マスターやお上さんとの話しぶりから、彼らも常連客のようだ。

「備前市で通り魔が出たそうだけど、夕刊ないかな」

 香住田亮輔が振り返ると一番奥のメタルフレームの眼鏡の男だった。香住田亮輔が振り返るより早く大神純平は、顔を少し上下に振った。

 大神純平も初めて聞いたらしく、興味深くそちらに視線を移した。

「夕刊ならここにありますけど、載っておりまへんわ。……ほんに、かわいそうなことでしたなあ。器量のええ子で、よう気がつく娘さんやした」

「えっ! 殺された娘知ってたの?」

「ええ、ちょっと前のことですが、このお店手伝ってもらってたことあるんです。半年ぐらい前になりましょうかなあ。あの娘が女子大に入った年の夏休みからでしたから……」 お上さんの知ってる女子大生、それも山の音で働いていた女性が殺されたということで、香住田亮輔たちの会話は完全に止まって、武岡輝道も彼らの方を向いた。香住田亮輔は隣に座っているカメラマンの橋本さんに声をかけた。

「一体何があったんですか」

 橋本さんは既に知っていたらしく、かいつまんで話してくれた。

 岡山県の東部、備前市伊部で瀬戸内女子大の学生が殺された。死体が発見されたのは午後四時前後で、夕刊には間に合わなかったらしい。テレビは現場の状況から通り魔による犯行ではないかと伝えたそうである。

「それにしても、伊部なんかに、何しに行ったんでしょう。確か、住所は岡山だと聞いたが……」

 奥から二人目の一番若そうな男の発言で、「山の音」にいた皆の話題が一つになった。

「僕が見たのは、山陽放送だったかな。地域研究というのが、三年生になるとあるのだそうですよ。それで、今年は備前市を調べることになっていて、調査に行っていたということだったそうです」

 橋本さんという人は、毎晩のように「山の音」に来ている人だから、かねてより相当の暇人だと思っていたが、その期待にたがわず、さすがに夕方のテレビなどもよく見ているものだと、香住田亮輔は感心した。

「そしたら、殺されに行ったようなものですね。……通り魔か。岡山県も物騒になったな」

 今度は奥から三人目の男が言った。真ん中の二人が若く、社会人一年生という感じだ。 通り魔というのは、以前は変質者が夜陰に隠れていて、女性に刃物で切りつけたりしていたものであるのに、最近では麻薬中毒患者の妄想による犯罪が、白昼堂々と行われるようになった。それは、大都市といわず地方都市や田舎でも、徐々に増えている傾向にあった。

 最近では、岡山市や周辺部でも麻薬常習者の摘発や、妄想にもとづく暴力事件が、時々新聞を賑わせるようになったから、こういう事件が起こっても不思議ではなかった。

「しかし、目撃者はおろか犯人さえ捕まっていないというのに、すぐに通り魔だと断定するのはどうでしょうか。それとも何か決定的なものがあるんでしょうか」

 これが香住田亮輔の素直な感想だった。そう思ったのは、香住田亮輔だけでなく大神純平もほば同じように考えていたようだ。

「そう、あらゆる可能性を検討してみなくては……」

 フリーのライターだけあって、やはり現実の事件にもかなりの関心を抱いているようである。そんな大神純平や香住田亮輔の気持ちを察したのか、武岡輝道は黙って備前焼きの銚子を口に運んでいるだけである。どうやら武岡輝道は大神純平や香住田亮輔ほど、この事件に関心はないようであった。

「詳しいことは知らないけど、土地の人間でないものが昼間刃物で刺されれば、誰でも通り魔かと考えるのではないかな。それにまだ通り魔と決まったわけではないでしょう。確か、通り魔的犯行と言ってただけだと思いますよ」と最初にこの話題を出した眼鏡をかけた男が言葉使いを正した。

 確かにその通りであろう。犯人が逮捕されていないのだから、断定的なことは言えない。しかし、ほとんどの人が通り魔が出たと信じたのであるから、テレビというものの力の大きさに、香住田亮輔はあらためて驚いた。

 夕刊には間に合わなくて、皆の判断もテレビのニュースに頼るしかないのであるから、それ以上話が進展するはずはなかった。明日になって朝刊で詳しいことを知るしかあるまい、というのが誰からともなく言いだされたその場の結論であった。

 そして結果としてはここでの話が、はからずも大神純平と香住田亮輔の関心が現実に起こった事件にあるということがはっきりしたのであった。

 その後、三人で取りとめのない話をして別れた。別れ際に大神純平は、今度電話させて頂くかもしれませんからと、香住田亮輔の電話番号を尋ねた。

大神純平からの電話は、童謡亭「山の音」で紹介された翌日の夜かかってきた。

「昨夜聞いた備前署の事件、まだ解決していないようですね。……実は明日行ってみようと思っているのですが、いかがですか?」

 突然の電話に香住田亮輔は驚いた。

 このとき、香住田亮輔は、はっと驚いた。心臓の鼓動が急に激しくなるのが自分でもわかった。

 その時はなぜ自分がそんなにまでも上気したのか理解できなかったが、後から思うと、この事件に深くかかわりあうようになった最初の分岐点(ターニングポイント)であり、その予兆に、香住田亮輔の胸は震えていたに違いない。それに対して、大神さんの声は淡々としたものだった。何ら強引さも脅迫めいた口調は感じられなかった。……それなのに香住田亮輔のほうは、この一声で承諾せざるを得ないような気持ちになっていた。

 昨夜の山の音での会話から、香住田亮輔がこの事件に興味をもっているのだろうと前置きし、通り魔殺人であると断定できないと言った香住田亮輔の言葉がおもしろかったと言うのであった。そして、備前署には大神純平の知人がいるから、行ってみようと香住田亮輔を誘たのである。実は大神純平も、この事件はすぐに解決するだろうと思っていた。それが今日になっても解決しないところをみると長引くような気持ちになっていた。

 そして、さらに推理小説を書いている香住田亮輔が、実際に警察の捜査に触れたことがあるのか、と聞いた。もちろん香住田亮輔にはそんな体験はなかった。大神純平は、だったら一度実際に見ておくのもよかろうと言うのである。香住田亮輔は大神純平の理路整然とした話しぶりに感心した。「山の音」での大神純平とは人が違うようだ。

 これは、引っ込み地案な香住田亮輔の性格を知っての理屈で、大神純平は香住田亮輔の好奇心の方を先にとらえて、同行を誘ったのに違いない。こんなところにも、大神純平の優しさと心遣いが溢れていると香住田亮輔は思った。

「はい、ありがとうございます。」

 香住田亮輔は、自分の意志ではない何物かに支配されているかのように答えた。しかし、このことは、ずっと後から考えても間違った判断だったとは思わなかった。

 香住田亮輔には、断る理由などあるはずはなかった。

 香住田亮輔はその日の午後今日までの新聞を取り出して、この事件に関する記事を丁寧に切り取っていた。大筋は一昨夜、「山の音」で聞いたのと違いはなかったが、時間や氏名が具体的に記されていた。

 それによると、県立女子大の教育学部で三年生を中心に行う地域研究で、焼き物の町備前市を調査中に、女子学生が何物かに刺殺されたということであった。

 被害者は、岡山県立女子大学教育学部三年、黒沢由紀、二十一才。住所は岡山市津島南三丁目。

 死体は備前市西峰の根津神社の境内で発見された。現場は医王山と不老山の間にある窪置で、北に向かって道路が続き、備前西大窯跡や、さらに行けば鬼ケ城、下池、上池へと山道が伸びているところで、ちょうどその入り口に当たる部分であった。

 胸部から腹部にかけて、鋭い刃物で刺されており、周囲の状況から警察では土地感のある者の犯行とみなしていた。

 さらにその日の新聞には、学生のショックも大きいので、地域研究をしばらく見合わせるという、大学側の発表も報道されていた。 香住田亮輔がビデオ・テープのことを思い出したのは新聞を切り抜いていたときのことだった。

 実は一昨日、教育テレビの趣味講座を録るつもりでセットしておきながら、チャンネルを誤ってNHK総合の方を録ってしまっていた。

 VTRのチャンネルの選択は押しボタン式で、電源を入れると一番左側にセットしてあるチャンネルになってしまう。それ以外のチャンネルの場合はタイマーをセットする時点で合わせる必要があった。

 香住田亮輔の場合は一番左にはNHK総合がセットされているので、何もしなければNHK総合に自動的にセットされていまうというわけだった。

 時々同じようなミスをする。この日も時間だけセットしてチャンネルのセットを教育テレビの方にセットするのを忘れていたのだ。 そんな些細なミスが幸いして、この事件を報じた夕方のローカルニュースを録画することが可能となったのだ。

 このテープを見たのは、大神純平から電話のあった日であったから、既に事件の全貌は新聞で知っていたが、女子学生の死体が発見された神社の周りもはっきりと写っていた。 香住田亮輔はこの時既に大神純平の言う、長引きそうだという感想に興味を持っていた。ひょっとすると難事件ではないか。そしてその捜査の状況を大神純平と一緒に見ることができる。ーーそう思うと、香住田亮輔の心は踊った。以前、推理小説を書こうと思ったことがあったが、結局、止めた。やはり、大神純平の言うとおり、一度は犯罪捜査を見ておくのも悪くないような気がした。

「実は、ビデオで間違ってあの日のニュースを録画しておりましてね、さっき見てたのです。……怪我の巧妙とでも言うんですか。それにしても、死体が発見された場所ーー根津神社と言いましたか、古木が欝蒼と茂って、何か不気味な気持ちがしましたね。テレビで見てあれですから、実物を見るともっと凄いかもしれない……」

「そうですか。あなたもそう思われましたか」

 香住田亮輔と大神純平は午前九時0二分発の上り赤穂線に乗った。秋の淡い陽射しが車窓から斜めに差し込んでいる。客は少ない。遊山らしい老人のグループ、それに高校生が一人。「お仕事のほうはよろしかったんですか」

「はい、いつでも休めますから」

 香住田亮輔は家を出る前に病院のほうへ電話を入れておいた。香住田亮輔の勤務先は私立病院の臨床検査部で、人員も十分あったから比較的休暇は楽にとれた。有給休暇も相当残っていた。

 備前市なら車で二時間もあれば行ける距離である。しかし大神純平は、列車で行くことを主張した。

 赤穂線は山陽本線の南側を走っている。岡山を出ると東岡山までは、山陽線の上を走る。ここで山陽線と分かれ、南へ進路をとりまもなく東行きとなる。山陽本線は中国地方を東西に走っているようであるが、岡山駅周辺ではどちらかというと南北に走っている。

 東岡山を過ぎると、大多羅、西大寺と列車は通過して行く。乗る人はあまりいない。赤穂線は単線で、西大寺駅には既に下り列車が入っており、ここで擦れ違うように待っていた。しかし、我々の乗った列車が着いても下り列車は止まったままで、一分程して上り列車の方が先に出た。帰りも同様で、我々はその日の夕刻、西大寺駅で五分待たされた。どうやら、登り列車が優先のようである。

 西大寺駅を出た列車は、まもなく吉井川の鉄橋を渡り、大富駅に着いた。ここは岡山市ではなく邑久郡となっている。そして邑久(邑久郡邑久町)、長船(邑久郡長船町)、香登(備前市香登)に着いた。香登に着く前から、列車は国道二号線に平行して走った。国道二号線のさらに北側に山陽新幹線の高架が走っている。

 香登を過ぎると、その高架の下に青々と水をたたえた池が見えた。ちょうど池の真ん中を新幹線が走っている感じだ。先程「ホテル大ケ池」という看板が目に入ったから、これが大ケ池という名前だということがわかった。「伊部焼きの土を採った跡に水が溜ってできた池ですよ」

 大神純平が教えてくれた。

 列車は相当のスピードで走っていたし、それでもしばらくの間池が見えていたから、かなりの大きさだと思われた。

 大神純平は車窓を後ろへ去っていく大ケ池を黙って見つめていた。

 大ケ池が車窓から消えるとあっという間に列車は伊部駅に着いた。駅の改札を抜けるとすぐ前に二号線。二号線に面して東側に四階建くらいの備前陶芸会館があった。土産物の展示場と観光案内所のようだ。この前で我々はタクシーに乗った。五分とたたないうちに備前警察署に着いた。


 大神純平と香住田亮輔は、備前警察署の二階で、女子大生殺人事件について詳しく聞いた。

 大神純平と同郷の音倉警部のはからいで、この事件の全貌を詳細に聞くことができた。 備前市伊部の国道二号線沿いにある備前署は、いかにも焼き物の街にふさわしく、室内の至る所に伊部焼きの花瓶や壷が置いてあった。二階の小会議室のロッカーの上の花瓶はなかなか立派なもので、古備前に倣ったつくりと表面の一部にかかった火だすきの幽玄な感じが、見るものの心を妙に和ませる。

 その部屋で二人は音倉警部から話を伺うことになった。

「これはまだ発表はしていないのだが、実は、有力な容疑者というのは、全てシロなんだ。結局捜査は、初めからやりなおすしかないんだ」

 音倉警部は沈痛な表情で語りはじめたが、言いにくいことを言ってしまうと、胸の内がすっきりしたかのように、さわやかな表情になった。

「初めから?」

 大神純平が気の抜けたような声を出す。しかし、たいして驚いたようでもないのは、ある程度予期していたからかもしれなかった。「ん…ん、まあ、初めからといっても検問ノートがあるので、一つ一つ当たってみると言うことだよ」

「はあ」

「しかし、被害者の発見が遅れたということが最大のネックだった。死後二時間もたっていたのだから」

「発見が遅れたといっても……」

「いや、実は前の日に牛窓署管内で強盗事件があって、午前中まで包囲配備を敷いていたんだ。その後の交替の時間で、いつもより通常警備が手薄になっていたようだ。牛窓署事件さえなければ……」


      

 その牛窓署事件というのは、音倉警部によると以下のようなものだった。

 ーー午後七時頃、邑久郡牛窓町、通称旭街、前嶋渡し桟橋前にある民宿「鎌田」に若い男が強盗に入った。七十二才になる老婆、鎌田カメヨが玄関で店番をしていた。当日は雨で戸外を歩いている人はいなかった。

 男は入って来るなり、鎌田カメヨに「金を出せ!」と言った。

 老婆は「カニャーネェー」ときっぱり言った。男はさらに、包丁のようなもので脅迫した。

「民宿をしとるんじゃけぇ、金ぐらいあるじゃろう」

 老婆はカウンターの下の手提げ金庫ーーその時、鍵はかかっていなかったーーから、六万円を取り出し、牛窓信用金庫の社名入りの麻色封筒に入ったままのものを男に差し出した。これは昼間に民宿「鎌田」の主人が牛窓信用金庫から下ろしてきたものである。

 男はそれを鷲掴みにして逃げた。

 老婆はすぐに奥に入り、息子の鎌田武夫(五十一)に「ゼニを取られた」と言った。それを聞いた武夫が一一0番通報をした。警察の記録では、七時十五分のことである。

 しかし、被害者が老人のことで、犯人の人相、着衣についての記憶が曖昧で、捜査活動に大いに支障を来たしたのは言うまでもない。 現場に急行した巡査がかろうじて鎌田カメヨから以下のことを聞きだした。

 黒っぽいものを頭から被るようにしていたということから、警察では、アノラックか、レインコートを着たものとみなした。逃走手段については、車によるものか徒歩によるものかは断定できなかった。

 身長は百七十センチぐらい。年齢は三十才ぐらいと推定し、県下近接各署に手配した。 牛窓署と所轄を接する備前署でも、ただちに包囲配備に入った。ブルーハイウェイの備前大橋、県境の三石検問所と要所要所で検問が開始され、詳細な検問ノートが作成された。 岡山県警の厳重な包囲配備と機動隊の念入りな捜査にもかかわらず、夜半になっても犯人は検挙されなかった。

 翌日の捜査会議では次の二点が反省された。一つは、犯人に対する情報が極めて少なかったこと。これは被害者が七十才を過ぎた老人であり、不意をつかれた出来事に動転して、犯人逮捕に結びつく証言が得られなかった。逃げた方向でもわかっておればともかく、それすらもわかっていなかったのである。

 二番目に、牛窓署の署員到着が遅れたこと。これは、雨のせいか一本しかない道路がいつもにもなく混んでいたためである。署員の乗ったパトカーが、現場に最初に着いたのは、事件発生後十五分という遅さであった。乗用車でも5分で行ける距離だから、本来ならば、百十番通報を受けて、三、四分で現場近くまで、パトカーは来れただろう。

 女子大生殺しと牛窓署事件の関係について、音倉警部は一応関係ないものとみているが、しかし、その線を全く否定しているわけではないと言った。

 例えば牛窓署事件の犯人が、包囲配備をくぐり抜けて備前市内に入り、黒沢由紀を殺したということが考えられないわけではない。しかし、現時点では別件として取り組んでいるということだ。したがって牛窓署事件は牛窓署でやっており、女子大生殺人事件の方は備前署に捜査本部が置かれている。


 ……女子大生の刺殺死体が発見されてから既に四日たっている。通り魔殺人ということで、早期解決が予想されただけに、捜査当局の焦りが感じられると地方新聞が書きはじめたが、やむを得ない。 

「ところで、凶器の方はどうなっているのでしょうか」

 大神純平はさっきから不満そうに聞いていたが、やっと重い口を開いた。

「実は、全力をあげて捜しているのだが、まだ見つからない。凶器さえ発見できれば、そちらのルートからも追えるのだが……」

 やはり、捜査当局の焦りというのも、あながち誤報でもなさそうである。

 このような状況のところへ、大神純平氏と香住田亮輔がのりだしても、足手纏いにこそなれ事件解決に役立つとは思われなかった。結局、二人は当局からやや詳しい説明を聞いたということと、新聞やテレビの報道がおおむね間違ってないということを確認したにとどまるのではないか、と香住田は思った。そして、再び備前署に来ることはあるまいと考えていた。こういう傍観者的な香住田亮輔と違って、大神純平はずっと熱心に尋ねている。

 後から,香住田亮輔が聞いたことであるが、大神純平と倉警部は小学校、中学校が同窓で幼い頃から周知の間柄であるということであった。年齢は四、五才は離れているが、県北の小さな田舎町のことで、かつては一緒に草木茂る野山を走り回った仲だということであった。そういう関係であるから、二人はまったく気軽に話し合うことができた。

 そしてまた大神純平にとっては、音倉警部はかつての憧れの仕事についている人であり、同じ立場で推理したかったし、できることなら援助したいとも思っていたようである。 これも後で大神純平から聞いた話であるが、小学校のときから警察官に憧れていたのは大神純平の方で、音倉警部はにはそういう考えはまったくなかったのだそうである。

 そんな大神純平は、高校に入って同級生の影響で文芸サークルなどをやっているうちに、すっかり文学に魅せられて大学時代を経て現在まで、ずっとボヘミアンスタイルで生活しているのだった。しかし、小説家として一向に芽がでずに呻吟しているうちに、どこからともなく同郷の音倉氏が刑事になっているという噂を聞くと、かつて警察官に憧れていた自分を思い出し、探偵小説の分野へと分け入ることになったのである。

「どうも長引きそうですね。この種の事件なら、既に解決していてしかるべきですがね」 大神純平のこういう発言を聞いていても音倉警部の表情はくずれない。普通の刑事と市民の会話では許されるはずはないものであるが、やはり同じ山道を走り回った仲というのであろうか諍いがはじまる気配はまったくなかった。

「おいおい、君までそんなことを言ってくれちゃ困るよ。そうならないように我々は努力しているんだから」

 と音倉警部は笑った。

 秋の暖かい陽が、備前署の二階に入ってくる。伊部焼きの光に映えて赤茶色に輝く。

 そのあと、二人は音倉警部から黒沢由紀の解剖結果を聞いた。

 死体発見後、岡山県警捜査一課および鑑識課の協力を得て、現場周辺の綿密な捜査が行われた。死体発見が四時過ぎであったから現場の捜査が終わったときは七時前であたりはすっかり暗くなっていた。

 黒沢由紀の遺体は岡山大学医学部に運ばれ、司法解剖された。そのレポートのコピーがオレンジ色のファイルに入れられて、音倉警部の膝の上にあった。

 死亡推定時刻は午前十一時から十二時の間ということであった。また凶器は登山ナイフ状のものである。

「暴行された跡はない。それから胃の内容物は朝食のトースト。これは家族から裏付けが取れている。それにコーヒー状のもの。伊部駅前の喫茶店でコーヒーを飲んだ。これはグループで、駅に着いて調査に行く前に立ち寄った。喫茶店を出てそれぞれ別行動をとったらしい」

 その他、これまでの捜査の結果を聞いたが取り立てて書くほどのものはなかった。

 雑談になって焼き物の話にひとしきり花が咲いた。備前焼きといっているがかつては伊部焼きと言ったそうである。今でも土地の人は伊部焼きと言っているが、世間で備前焼きというものだから、最近ではそれが当たり前になってしまって、伊部焼きと言う人が少なくなってしまったそうである。特に山陽新幹線が岡山まで開通した昭和四十年頃から全国的なブームがおこり、それ以来この傾向は著しいということだ。

 そろそろ退出の頃合いだと香住田亮輔は思った。 

「実は、こんなものがあるのだが……」と言って、音倉警部はポケットから白い紙切れを取り出した。

  とうやのばずは、愛しいことよ、

  いつを楽とも思いもせいで、

  腰は砕けて、足打ち折られ、

  後は野山の土となる、土となる。

  ……

  さいちくりんのいちがんけいは、

  世にもまれなる片輪と生まれ、

  人の情けはようこうむらで、

  西の林に一人ねる、一人ねる。

  ……

  なんちのぎょじょは、つめたい身やな、  水を家とも床ともなして、

  いつになっても浮き世にゃ棲めぬ、

  ああ諦めた、諦めた。


 大神純平が読み終わるの待って、音倉警部が口を開いた。

「黒沢由紀のハンドバックの中にあった。何のこたやらわからない。事件に関係あるのか無いのかも見当がつかない。可能性としては少ないかもしれないが、犯人が捜している物かもしれないので、一応この件は公開していない。それにしても、何のことやら……」

「不思議な文章ですね。僕にもよくわかりません」

 大神純平はずっと下を向いて考えながらつぶやいた。

「筆跡は黒沢由紀のものに間違いないことは、確認してある。しかし、内容にについては、家族はもちろん大学の友人や同じ研究室のものもわからなかった」

「殺人事件と関係があるようでもあるし、無いのかもしれないし……不思議ですね」

 この間にその紙切れは香住田亮輔に渡された。香住田は一度読んで大神純平のほうに返し、再びその紙を自分のほうに引きよせ読みはじめた。香住田亮輔が読み終わっても、音倉も大神純平も話さないので、仕方なしに香住田は口をひらいた。

「これが事件に関係あるか無いかは、この文章の意味がわかれば明らかになるでしょうから、まずこれを何かの暗号と仮定して解読してみることが必要でしょう」

「それが、解読できないというのが我々の現状です」

 音倉警部はこれ以上は解らないと言わんばかりの、表情で言った。

「私も考えてみたいと思います。写させてもらっていいですか」

 大神純平がこういうのだから、自分も一緒に考えてみようと、香住田亮輔は思った。

 大神純平が手帳を出し写そうとすると、音倉警部は慌ててそれを制した。

「コピーはいくらでもあるから、それを持って帰ればいいよ」

     

 二人が備前警察署を出たころ、外は秋の日が既に西に大きく傾いていた。



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