2025年1月28日火曜日

山野狭

 山野狭          


 雪が降ると峠の道は車では越せない。歩いてみるとそんなに急な峠ではないが、所々に驚くほどの勾配があり、さらにその上に雪でも降ろうものなら、これはこれで相当な難所になるのは仕方がない。うねうねと続く山道は右へいったり左へいったりと、めまぐるしく方向を変える。それだけ山の入りくんだところに作られた道である。方向を変えるとともに、高度も急速に増していく。まるで麓の村から逃げるかのように、道は険しくなり、山へ山へと木立の中を昇っていく。

 また、足が滑った。雪が半ば凍り、さながらガラスのように光っている。凍ってない雪は、ガラスの上に敷かれた無数の砂粒のように靴の裏の摩擦を限りなく小さいものにしている。それでも、歩ける限り歩いて、できるだけ深く山懐に潜りこみたい。そこで人知れず暮らすことができれば、そうしてみたいと思う。

 ふと、あのなつかしい交響曲のメロディーが脳裏をこだまする。全編を流れる主旋律が繰り返し繰り返しよみがえって自分を勇気づける。クラッシック音楽というものがこんなにも切実に感じられたことは今までない。こんな逃避行の場で、自分の胸の奥底まで響く感動が、人生のひとつのありようをを示しているように思えた。

 人生とはそれにしても奇妙なものではないかという思いが意識の中で反芻する。いいのだ、いいのだ、これでいいのだと自分に言い聞かせる。いまさら後悔しても仕方がない。

 雪道で足がまた滑った。谷の急斜面に生える杉の小枝から積もっていた雪が一塊下に向かって滑った。真下に連なる木々を揺さ振る音がするほうを見ると、小枝が上下に揺れていた。

 高校を卒業して、勤め始めた頃のことが無性に懐かしく思い出される。小さな薬品問屋であったが、仕事は単調で、まじめにやっておれば、まず間違えることはなかった。営業部であったが最初の一年はたいてい倉庫をやることになっていた。外勤の営業部員がとってきた注文に従い、荷だし伝票が廻ってくると顧客ごとに商品をまとめ担当者に渡すというのが主な仕事である。その仕事が済み外勤部員が出払ってしまうと、倉庫の管理のほうにまわる。



 このまま進んでもよいのだろうか。このまま進んでいるとやがては体力がつき、登山者がよくするように遭難するのではないかという不安に襲われる。その都度、このまま死んでしまえばそれでもいいではないかと思ったりする。でも、もっと進み、手ごろな場所をみつけて隠れていたいと思う。その隠れ家で誰にも会わずひっそりと暮らせるだろうか。やれるだけやってみるだけだ。

 実は、橋本にとってこの地を最終的な逃亡先に選んだのには理由があった。実は父が隠れていたのも、この先の山懐なのだ。



 そこにたどりついた橋本はそこでひっそりと暮らす。