2025年1月24日金曜日

夏雲

  夏雲


 グランドを軽くランニングしたりすると、今でもあの日のことが思い出される。別に強いて思い出すことを拒否しているわけではないし、さりとて思い出したからといって感傷に耽るわけでもない。

 父が亡くなってから、半年が過ぎた。あの日のことが今だに夢のように感じられる。本当に夢であればよかった、といつも思う。あの春先の雷で、父が亡くなるなんて、そんなことがあっていいものだろうか。誰も悪いことはしていない。まじめに、そして平凡に生活している私たちが、なぜこのような酷い運命を引き受けなければならないのか。裕美にはわからなかった。

 もし、神というものがいるとしたら、自分は神を呪うだろう。働きざかりの父を一瞬で奪うというようなことを、神が果たして行なうだろうか。              

 一学期の期末考査の時間割りが発表された日も、いつものように蒸し暑かった。夏休みが近付いてくるにつれて、日に日に気温が上昇していった。そして日本の初夏独特の多湿で、不愉快な毎日が続いた。

 七月の半ばになって、梅雨あけが広島地方気象台によって発表されたが、それよりも一週間くらい前から、雨は降らなくなって、気温が連日三十度を越した。気温は九時頃から急激に上昇して、いつも四限と五限が猛烈に蒸し暑い。六限になると、多少和らぐが、それでも夕刻まで蒸し蒸ししている。

 六限の体育終了後、教室の掃除をしてから、美術教室にやってきた。三週間ほど前から果物の静物を描いている。果物といっても、机の上に置いてあるのは精巧に出来たレプリカで、はじめて見ると本物かと思ってしまう。相当近付いて、やっと粘土か何かでできたデッサン用の置物だとわかる。

 一つが梨で、ふたつが林檎である。それをステンレスの皿の上に無造作に置いてある。誰が置いたのか、もう三ヵ月もこの配置はくずされていない。

 普通なら、こんな置き方はすまいと思われるほど三つの果物は勝手な方に向かって個を主張しているようだった。その配置は、一見何の意味もないように最初は思っていたが、それでありながら静物画にしてみると、妙に安定するとともに、何かを象徴しているようで魅力的であった。

 しかし、それが何の象徴であるかは、裕美は思いつかなかった。ただ、初夏のさわやかさに見えたり、自分の心の空洞のように思ったりして、それらの象徴だと、自分で勝手に決めたりした。今日見ればまたこの配置が、この蒸し暑い梅雨時の人間の気持ちをうったえているように見えて、心がなごむのであった。

 あと、一週間もすれば、一学期の期末考査が始まる。そしてそれが終わると、夏休みである。中学生の頃は、夏休みが来るのがいつも楽しみだった。六月になって若葉の色がしだいに目になれ、昨日よりも今日が、一昨日よりも昨日のほうが暑いように感じられて、今年もまた夏が来たのかと思うと、すぐに夏休みのことを考えてしまう。確かに日中は暑いけれど、日が落ちたあとの、夕涼みのすがすがしさ、早朝の、夜露が乾く前の町並みのさわやかさが、裕美にはこの上なく貴重なものに思えるのだった。冬は寒いし、夏は暑いけれども、ふたつの季節にはさまれているからこそ、春の陽気や、秋の寂寥が心の奥底まで感じられるのだと思う。

 しかしまた、考えてみれば、夏の日中だって暑い暑いと言いながらも、その暑さの汗を思い切り出すことによって、身体のバランスをとっているのかもしれないから、万更暑さを厭う理由もない。また、日中でも木陰のすがすがしさや、川面に流れる冷気の爽快さは、やはり夏があるからこそ感じられるものだと思う。

 だから裕美は夏が好きだった。夏休みが毎年待遠しかった。そう思うと、梅雨時の暑気も蒸し暑さも、裕美にはさして気にはならなかった。梅雨が開ける。夏が来る。完全な夏が来ると思うと、裕美は、新しく生まれでた生命のように身も心も躍動を始めるのが感じられるのであった。

 ……やがて高校生になって最初に迎える夏がやってこようとしている。最初の夏休みがすぐそこまで来ている。しかし、今年は違う。今年の夏休みは、裕美にとってまったくはじめて経験するものであった。裕美にとってはある種の恐怖に似た感情が、次第に自分をとりまいて来るのを感じないではいられなかった。

 高校になってからのはじめての夏休みである。それはまた、今までのように絵を思い切って描いてきた夏休みとは違って、小説も読んでみたいと思い始めた最初の夏休みである。人生というものをー今はほんのわずかしかわからないけれどー生まれてはじめて意識し、少しずつわかりかけてきた最初の夏休みなのである。自分が成長するとともに、母の本を読み終えることに、少しずつ、ほんとうに少しずつ人生というものが、見えてくるような気がする。そういう自分が迎える夏休みであるから、今までのものとは明らかに異なるのである。

 考えてみるまでもなく、子供だって、少しずつ成長しているのだから、毎年迎える夏休みには、前の年とは違った感慨をもつのは当然のことである。ある人にとって、小学校四年生の夏休みは、三年生のときとはまったく異なる夏休みだし、五年生のときの夏休みも、四年生のときと、大きく異なるであろう。

 だから、裕美が高校生になって迎える最初の夏休みが、以前の夏休みと異なるように思えても不思議なことではない。

 それでもやはり、今年の夏休みは違う。なぜなら、父がいなくなってはじめて迎える夏休みだからである。

 今までは、絵を描いたり、水泳に行ったり、キャンプに行ったり、比較的好きなように、夏休みを送った。楽しく送った。退屈で困ったということもなければ、ただ遊ぶだけで、夏休みが終わって後悔と失望しか残らなかった、というようなこともなかった。楽しみが多いのと同じ程度に実りも多かった。充実していたと、いつも自分で思っていた。

 しかし、父のいない夏休みが、どのようなものになるかは、裕美にはまったく考えてみることもできなかった。

 ……しかし、確実に夏休みは近づいてくる。裕美の夏休みへの思いがどのようなものであろうとも、梅雨が開けて、入道雲が銀色の堆積を、濃い青空に浮かべて、そのコントラストが日に日に鮮やかになっていくにつれて、季節は初夏から盛夏へと、転じていく。習慣というものは恐ろしい。心の奥深いところでは、執拗に夏休みの到来を拒否している不安の根がありながら、それでもこの時期になると、いつものように、夏休みを待ってしまう。条件反射のように、梅雨が半ば過ぎると、考えようとしなくても、心がそう欲していることに気づく。習慣であろうか、と思う。いや、習慣というよりも、むしろ性格、それも裕美自身の体にしみついた性格といったほうがいいのかも知れなかった。

 お皿の上にのった果物の静物をデッサンする手を少しやすめて、裕美はもの思いに耽る。ほんとうは次をどのように描こうかと果物の模型を見たまま、手を止めると、どうしても次が描けなくて、そのままの姿勢で別のことに思いが移っていくのである。描いている途中で絵筆を止めて、次をどのように描こうかと思案することは、誰にでもよくあることだから、裕美が、手を止めて、じっと対象を凝視しても、だれも声をかけたりはしない。 われに返った裕美がふと目をあげると、北西の三滝の山の上に、真っ白い入道雲が、午後の陽に燦然と輝いているのが見える。ちょうど千一夜物語にでも出てくるような、少しおどけた感じに盛り上がり、黒みがかった灰色のもとの部分と、あたかも次々と成長しているような感じを抱かせる先端の純白が相拮抗しながらも互いに協力して、青空の透明の中に広がっていっているようであった。

 やはり夏が来たんだと、裕美は思った。そう思うと手がひとりでに次の部分へと移った。夏休みはまでは、この静物を描いていようと思う。今日の分はもう少しで終わりだ。昨日よりも今日のがいいとは思わない。しかし、高校に入学したときの曲線と、今日描いた曲線の違いが、自分でもわかるような気がする。確かに三ヵ月で、自分は成長したと思う。それは今日の自分がうまくなったというのではなく、今までの自分の技術があまりにも拙劣であったと思うのである。曲線だけでなく、何十本という直線が、そして無限の空間を紡いでいく陰影が、少しずつ豊かになっていっているのだと思う。

 一本一本の線に、どれだけ自分の心を重ねることができるかが勝負です、と母が以前言ったことがある。そんなことが小学生の裕美に理解できるはずがなかった。しかし、それでも、その言葉は、裕美の心の中に宿り、時々自分より他人のほうが、楽しそうに絵を描いていると思えたときなど、この言葉を思い出したものである。そして、今では、裕美の目標にすらなっている。

 そう思うことによって、絵を描く自分というものを新しく発見することができた。今までの自分は、いわばできるだけ実物に忠実に描こうとしていた。しかしそれだけでは、単なる手作業と変わらないかもしれない。自分の目に対して正直になったところで、やはり、対象の忠実な再現であったような気がする。しかし、一本の線に自分の心を重ねて描こうと努力するとき、裕美は、いつも自然や対象がいかに豊かであるかということを知ることができるのであった。

 ……自分でも進歩のあとが感じられるようになることほど、何事かを学ぶ上において励みになることはない。

 裕美にとって戸外で写生をすることは好きであった。そして一生、絵を描き続ければ、これほどいいことはないと思った。ある日、そのことを母に打ち明けたとき、母は即座に「それじゃ、基礎からまなばなくちゃ。絵の場合でも同じよ。基礎がしっかりしていなくては長続きしないわ。まして、一生絵を描き続けるつもりがあるのだったら、多少は回り道でも、基礎をしっかりやっておかなくてはいけないわ」と母は言った。

 だから、高校に入って美術部に入ったのはもちろん、絵がすきだからそうしたのには違いないが、母が言ったように基礎からしっかりと勉強したかったのである。正直なところ写生は好きだが、デッサンはあまり好きではなかった。慣れるにつれて、はじめの頃ほど苦にはならなくなったが、それでも時々、デッサンをしている最中に、別のことを考えたり、投げ出して、野山を描きに出掛けたくなることもあった。そんな裕美は少しでもたくさん自分の心を画用紙の上に描こうと必死になってやってきた。一本の線にできるだけ多くの自分の心をこめようと思うと、ひとりでに鉛筆をもつ右手に力が入るのであった。


「裕美、そろそろおしまいにしない」

 同じ一年生の伊藤ますみが、遠慮がちに声をかけた。同じ、美術部の中でも、伊藤とはよく話があった。


 ・・・・・・あれから三年の歳月が過ぎた。

 裕美は大学生になっていた。

 その年は4月から新しい生活が始まったので、何もかも慌ただしかった。しかし、その慌ただしさは日常の生活の上のことで、祐美の心の中は逆にクールで着実であった。表面の慌ただしさに、心の中が侵略されるということは微塵もなかった。

 父の死に比べたら、衝撃は少なく感じたものの、日が経つにつれてじわりじわりと、母の死という事実が自分の全身を包んでいることに気づいた。

 母の遺書を整理した。私あての長い手紙があった。

 わたしには、お父さんの他に愛した人がいました。その人とは互いに深く愛し合い結婚する予定でした。しかし、どうしたことか二人の間にふとした行き違いから、二人は別れ、それぞれ別の人と結婚しました。

 しばらくして、男の子が生まれました。

 重夫です。重夫を保育園に預けて仕事を続けました。その頃、ふとした偶然で、かつて愛した人と出会ったのです。こんなことを言うと、いい大人が、とあなたには笑われそうですが、二人はかつての愛を確かめるように、何度か逢瀬を繰り返しました。そして身篭もりました。今のおとうさんが嫌いになったわけではありません。

 二人とも同じように愛していたのです。ですから、わたしは、二人に内緒にして生むことにしました。女の子が生まれました。それがあなたです。

 ですから、兄の重夫とあなたは父親が異なる兄妹です。

 腹がたって腹がたって仕方がなかった。そんなの母のエゴイズムよ。生まれてきた私はどうなるの。自分の子供だと信じて育て慈しんでくれてる父に対して、ずっと騙し続けることになるわ。それも私が生きている限り。

 母の遺書と言ってもいいような母の手紙をはじめて読んだときには、頭がかっーとなって身体一杯に怒りを漲らせていた。今から考えると不思議なほと、私の身体には母への怒りが溢れた。

 しかししばらくすると、不思議なことだが、母を半ば許している自分に気づいた。母を許すだけではなく母の生き方を肯定しようとしている自分を発見した。

 しかし、その理由は、自分でもわからない。自分が今まで人を愛したことがないからかもしれない。人を愛するって、どういうことだろうか。

 壁のほうを向いているが、何も見ていなかった。

 今は肯定できないけど、ひょっとしたら、母を許せるようになるかもしれない、と思った。もし、誰かを愛することができれば……


  何日かたって、日々薄れていく感情の中でもう一度反芻してみようと思った。そう思うと、これまでと違った見方ができるように思った。

 これが母の青春である。こんなにも母は生きるということに執念を燃やしたのだ。それだけでも素晴らしい。

 反面、今から思うと、父の影が薄かったような気がする。