プロローグ・夢
同じ夢を何度も見た。自分が何であるのかはわからない。村から村へとさすらう旅人のようでもある。
風は昼すぎから吹き出した。山頂から吹き降ろす風は、時に急旋回をして、山を覆う木立の葉叢を震わせた。
夕暮れになって風は更に強くなった。しかし、雨は降っていない。いつ雨になるかはわからない。
今日はこのあたりで休みたい。そう思って、雨風を凌げる場所を探した。無ければ、大木や岩の下でもいい。どうせ一夜の宿りに過ぎない。と、思いつつしばらく歩いて、竹藪を背にした一軒家を見つけた。
外から見て、随分と荒れた空き家だが、それでも野宿よりはましかなと思った。一夜の宿りとすることにした。
こういうあばら屋を見ると、吹く風さえも冷たく感じられる。何年も人が住んでいないらしく、くすんだ土壁も半ば崩れ、半ば苔むしている。その下には、石蕗(つわぶき)の緑色の葉が埃を被って我がもの顔に茂っている。
乾いた土壁の崩れたところを越えて入ると、ちょうどあばら屋の正面に来た。雨戸の半分ほどが破けている。埃ばかりが目につく。そこから入ることにした。日は沈みかけているので、家の中に入ると一層薄暗く感じた。それでも、私一人が横になるほどの隙間はすぐに見つかった。寝るには少し早いかと、思いつつ横になった。昼間の疲れか、すぐに寝入ってしまった。
横になってどれくらい、時間がたったのだろうか。
ざわざわと、裏の竹薮が鳴った。笹が舞うのか、強風が吹き荒れているような音がそれに混ざった。しかし、昼間の天気からは想像できない。
さっきから、気になっていたのだが、隣の部屋で何かが動いているような音がする。ごそごそと動くというよりも、家全体が動いているような感じだ。地震かと思うが、そんな揺れ方ではない。
誰かが外から戸をたたく。
「きへんに春の字のていていこぼしは内か?」
中でそれに答えた。
「誰なら?」
「わしは、とうやのばずじゃ」
「そうか、こんやは、ええ肴があるから、入れ!」
しばらく静寂が続く。そして、また戸をたたく音がする。
「きへんに春の字のていていこぼしは内か?」
中から、答えた。
「誰なら?」
「わしは、さいちくりんのいちがんけいじゃ!」
「そうか、今夜は、ええ肴があるから、入れ!」
またしばらくすると、戸をたたく。
「きへんに春の字のていていこぼしは内か?」
同じように、中から、答えた。
「誰なら?」
「わしは、なんちのぎょじょじゃ」
「そうか、そんなら、今夜は、ええ肴があるから、入れ!」
…………
…………
耳ばかりに神経を集中していたので気がつかなかったのか,いつの間にか隣の状況が変わっていた。隣の部屋が明るくなっていた。襖の隙間から明かりが漏れている。
何物かが歌を歌っている。どんどん揺れる。踊っているものがいるのかも知れない。
とうやのばずは、愛しいことよ、
いつを楽とも思いもせいで、
腰は砕けて、足打ち折られ、
後は野山の土となる、ああ、土となる。
あ、よいしょっと
・・
今度は、違う声だ。別のものが歌いだした。
さいちくりんのいちがんけいは、
世にもまれなる孤独な生まれ、
人の情けはようこうむらで、
西の林に一人ねる、ああ、一人ねる。
あ、よいしょっと
・・
また、別の違う声だ。別のものが歌いだした。
なんちのぎょじょは、つめたい身やな、
水を家とも床ともなして、
いつになっても浮き世にゃ棲めぬ、
ああ諦めた、諦めた。
あ、よいしょっと
・・
今度は、歌うというよりも呟くという感じで、
ふるいちゃかすはきらわれものぞ。
わしはこの家に千年住んだ
ちゃかすでござる。
かびにまみれた埃を喰って、
生きてきたのは何かの因果。
ああ殺生ぞ、殺生ぞ。
あ、よいしょっと
……
何のことだろうか? 私はいつのまにか足が、がたがたと震えていた。
「今夜はどうやってもおんがら、またあしたの晩にしょうや」
誰かが言った。そう言ったかと思うと、水が引いていくように、隣の部屋は静かになった。
もとの闇の静けさに戻った。
いつの間にか、風はやんでいた。
……
……
私は、そのまま深い眠りについた。