狐の嫁入り
校長先生に聞いてみたら、と言ったのは彩子である。
「校長先生といっても、今はもう退職されていて、郷土史を研究しているとか、聞いたわ」
さっそく、潤也は彩子とともに訪ねた。二年前に島にある唯一の小学校である伊沼島小学校の校長を退職したという髪の毛の薄くなった男は、うやうやしく一枚の名刺を潤也に差し出した。その名刺には、「岡山民俗研究会 会員真鍋洋太郎」と印刷されていた。
「郷土史家と伺ったのですが、民俗学がご専門ですか?」
潤也はやさしそうな真鍋の表情につられて、初対面にもかかわらず、すぐにうち解けた。
「島の人たちに、いちいち民俗学について説明するのは大変ですから、みんなが私のことを郷土史家と呼ぶのをそのままにしております」
「ああ、それではやはり、先生のことを郷土史家と思っていてもよろしいですね」
「それはかまいません」
真鍋は屈託なく笑った。潤也はもう少し世間話をしてみたいと思ったが、時間も限られているので、本題に入ることにした。
「突然ですが、六道の辻の祈祷師が、狗神の祟りだとしきりに言っていますが、如何でしょうか?」
「辻の婆ですね。このへんでは有名な祈祷師ですよ。当然占いも行います。彼女の占いはよく当たるそうです」
真鍋は相変わらずにこやかに、応対した。
「それでは、狗神の祟りというのは嘘ではないと?」
「さて、それはこまりました。この島は狐の嫁入りで有名なところです。そこに狗神というのも、そぐいません。例えば、薄田泣菫の『狐の嫁入り』という詩があります」
こういって真鍋は立ち上がり、本棚から泣菫の古い詩集を出した。ページをめくって、潤也に示した。
狐の嫁入
向う小山の山の端に、
日は照りながら雨が降る。
野らの狐の嫁入が
楢の林を通るげな。
潤也が一通り目を通すまで待って、真鍋は再び口を開いた。
「泣菫滞在中は、狐の嫁入りは見られませんでした。しかし、彼は日向雨(ひなたあめ)にあったと見えて、それを詩にしました」
「え? 日向雨以外の狐の嫁入りというのが、あるのですか?」
「ああ、そうですね」と、少し間をとってから、潤也のほうをじっと見つめた。「狐の嫁入りというのは、日向雨のことを言うことが多いようですが、伊沼島では、狐火のことです。狐火というのは、夜、人気のない山を青っぽい光りが通ることです。そして伊沼島の狐火は狐の嫁入りと言われて、有名です」
ここまで言って、潤也の感想を聞くかのように真鍋は黙った。
「ということは、時々伊沼島では狐火を見ることができるということですか?」
始めて聞く話に潤也はただ、繰り返すだけだった。
「ええそうですよ」
「それは、今でも見られるのですか?」
「もちろん今でも見られますが、電気がついてから夜も明るくなってますから、昔ほどは頻繁でないと言われております。まあ、伝説ということでキャッチフレーズにしているが」
真鍋が少し笑ったので、潤也もつられて笑った。