めかり瀬戸
午後の日を浴びた白亜の灯台はあの時のままだった。胸の高さほどの塀越しにウバメガシが生い茂っている。塀の下の崖の向こうに早春の青い海が広がっていた。眼を海面に転じると、幾重にも分かれた海水が縞模様を作って速い速度で流れている。
この海で龍生さんは死んだ。私一人を残して。・・・あれから四十年がたった。ちょうど今頃だ。大学の二年生が終わろうとしていた。
勤めている中学校の終業式が終わった。残りは休暇にしてこの日を最後に職場を去った。
楓は、その足で夫の墓にお参りして香華を手向けた。龍生の入水によって生きる望みを失っていた自分が、救いを求めるように結婚した夫だった。二人の子どもを産み、勤めながら夫とともに育てた。そして子どもたちは結婚し孫も生まれた。六歳年上の夫は三年前に亡くなった。一番に、その夫に今日定年退職を迎えたことを報告した。
さらに退職したら父母の墓に詣で、報告することに決めていた。大学を卒業し、教員になるまで面倒をみてもらった。本当はもっと長生きしてほしかったが、仕方がない。その両親が生きていて、定年まで勤めましたと報告して、直接ご苦労さんと言ってもらいたかった。でもそれはかなわぬ夢だった。だから、せめて墓所にまで行って伝えたい。きっと墓石の下の両親も喜んでくれるだろう。子どもの頃は、はるか彼方の大人の人生など見えはしなかった。働くことで人生というものを少しずつ感じながら、気がついたら人生の半ば以上を終えていた。お母さんお父さん、あなた方と同じように働けるだけ働き、人生の大部分を終えました。あなた方のところへ少し近づきました。私にも少しだけ人生というものがわかるようになりました。・・・こういうような会話をしようと決めていた。
墓参りを終えて妹夫婦の住む実家に帰った楓は、尾道の叔母に電話をかけた。
「叔母さん、楓です。今、妹のところ。さっき両親のところにお参りして定年退職したと報告してきましたわ。叔母さんにもお世話なりました。ありがとう」
「そう、長い間ご苦労さん。おめでとう。どう、帰りにこちらにも寄ってくれたら。いらっしゃいよ」
「ええ、ありがとうございます。でも、今日はもう一つ行くところがありますから。また今度おじゃましますわ」
「そうだったわね。じゃあ、お気をつけてね」
ちょっと間をおいて、叔母は答えた。叔母にはもう一つのところが、わかったのだろうか。おそらくそうに違いない。伯母があの時のことを覚えてくれていると思うと、複雑な気持ちになった。「はい、では」と言いながら、楓は叔母の家に下宿させてもらっていたときのことを思い出していた。
龍生からの手紙は叔母がいつも楓の机の上に置いてくれていた。そして龍生の死を新聞で見つけて楓に知らせてくれたのも叔母だった。
龍生とは島の高校の同級生だった。楓は尾道の大学に進学した。はじめの一月は自宅から船とバスを乗り継いで通ったが、結局叔母の家に下宿させてもらった。龍生は一浪して岡山の大学に入った。龍生が大学へ入ってから二人は手紙のやりとりを始めた。二人は倉敷や岡山でも逢ったが、龍生が帰省のついでだからと言って尾道でよく逢った。一年後、龍生はめかりの瀬戸に身を投げた。白い灯台の下だった。
「もうすぐ行きますよ。私の人生もほぼ終わりましたからね。あなたでない別の男性と結婚し、子どもでき、孫もできました。みんなバトンタッチしたから、心おきなくあなたのところに参りますよ。もうすぐですよ。
でも、そこにはあなたはいらっしゃるかしら。二十歳のあながたがいるのでしょうか。あなたはいなくて三年前に逝った夫がいるだけかもしれない。それでも、いいわ。その時はまた助けてもらいましょう。でも二人ともいるような気もするな。夫よりも、息子たちよりも若いあなたも」
早春の海はまばゆかった。楓は眼を細めた。眼の前の海が、あの時の海と重なってきた。
ここからでは、花束は海に届かない。四十年前と同じように砂浜に降りた。龍生が亡くなって二週間後、楓は花束をもってここへ来た。あれから一度も来ていない。あの時は龍生が亡くなったところへお参りに来たつもりだったのに、置いていかれたことへの怒の気持ちだけしかもてなかった。その思いが続いていたせいか、再びここへ来ることはなかった。だが長い歳月が、怒っていた気持ちすらも記憶の彼方に押しやってしまっている。
風はなくても、静かに波は押し寄せてきては引いていく。あの時と同じだと思った。
灯台の下のところで砂浜は切れ、岩肌が露わになっている。波に削られた岩で、平らになったところがあった。花束を砂浜におろしてから、楓はバックを開けた。包んでいる紙を開いて長方形の石板を出した。横書きに「TとKの墓」と彫り込まれている。一月ほど前にインターネットで作ってもらった小さな墓標だ。
「ここがいいかしら」と言って、小さな墓標を岩の上に置いた。
「龍生さん、あなたと私のお墓よ。あなたはあなたの家の墓の中。私は入れてもらえないわ。私が死んだら子どもたちは夫の隣りに入れてくれる。あなたは来られないでしょう。でも、私の魂は時々ここに来るわ。あなたに逢いに。あなたの魂がここにいるのですもの。だから、ここが龍生さんと楓のお墓。いいでしょう、龍生さん」
楓はもってきた花束を小さな墓標の前に置くと、両手をあわせて目を瞑った。
早春の風がやや白いものの混ざった前髪を揺らせた。押し寄せた波の中の泡が、音もなく割れて海水の中に散った。目を開けて砂浜に戻った。静かな海は午後の陽を受けて銀色に輝いていた。
あの潮の中へ龍生は行ったのだ。もう一度海に呼びかけたくなった。
「龍生さん、あれから四十年よ。あなたは、仕事に就く前に逝ってしまったけれど、私は、三十八年働いた。嫌なこともあったわ。苦しいこともあった。そんなとき、ふと先に逝ったあなたはずるいなと思ったわ。私一人を残して。・・・何を言っても、置いていかれた者の愚痴ね」
今朝家を出るときは、愚痴は言うまいと決心してきた。でも、押さえることができなかった。
「これを最後にするから、許して。・・言わせて。あなたの弱虫。人生を歩み始める前に一人だけで、抜け出して。私一人を残して。今から思えば、若さってあんなものよ。未来なんかなかった。将来のことを考えると不安だった。不安な未来を振り切って逃げ出せたら、これほど楽なことはないと私だって思ったわ。あなたが誘ってくれていたら、私だってそうしていたわ。でも、誘ってくれなかったじゃない。自分だけ一人で逝ってしまって。残されたものの気持ちを考えてよ。一人じゃ死ねなかったわ。一緒なら、ともかく。
黙って逝ってしまったんだもの。だから、だから、生きていくしかなかった。働くしかなかった。途中で投げ出したら、あなたに笑われてしまうように思った。途中で投げ出すくらいなら、どうして俺の後を追ってこなかったのだ、と。今だって遅くはないよ、と。
あなたが笑っている声が聞こえるようだった。・・バカ、手遅れよ。どんどん手遅れになっていくのよ。一緒につれていってもらえなかったのに、後から追いつけないわ。
必死に戦ったわ。そう、あなたに笑われまいとして。必死で働いたの。あなたに笑われるのが嫌で、必死で生きてきたのね。そうね、だから・・・あなたの分まで働いたみたい。あなたの分まで生きたみたい。
あなたは働かなかったけれど。あなたは生き続けなかったけれど。あなたの分まで働いたわ。あなたの分まで生きたわよ」
ここまで言って、楓は空を仰いでから、大きく息を吸った。目の前の海水が流れながら波に混ざった。
「許してあげる。もう恨まないわ。あなたの分まで生きたのだから。もう言わない。もう愚痴は言わないわ。許してあげる・・・」
足もとまで潮がひたひたと押し寄せてきていた。白い砂が海水を吸って灰色に変わった。
「あなたは死んだ、二十歳で。私は生きた、さらに四十年。あなたとは恋愛、もし恋愛と呼ばせていただけるならね。夫とは結婚。恋愛と結婚。別々だったけど、どちらもあった。ないよりはましね」
顔をあげて再び海を見た。近くの海も遠くの海も、同じようにかすんで見えた。
「もちろん夫には感謝しているわ。そして、あなたにも。さようなら。また来るわ。きっと来るわ。さようなら」
楓は踵を返した。足跡を波が少しずつ消していった。
待ってもらっていたタクシーでバス停まで戻った。バスの時刻表をみたら、高速バスもあることがわかった。これなら広島駅まで行く。尾道までバスで出て電車に乗ろうと思っていたが、高速バスが間もなく来る。こちらに乗ることにした。
バスは出発した。左手眼下に白い灯台が見える。青い海。あなたのお墓。さようなら。私も死んだら、時々ここに来るわ。それまでしばらくお別れね。さようなら。
バスはあっという間に橋を渡り、灯台も海も視界から消えた。
これですることはした。疲れたわ。年のせいね、と楓は思った。瞼が重くなった。
尾道駅だった。間もなくあなたが降りてくる。こうして四十年前の私は、あなたが改札口に出てくるのを胸をときめかせて待った。楽しかったわ、あの頃。
バスの中から尾道駅を見ていると思っていたら、いつのまにか改札口に立っていた。
あなたが出てくる。あの時のままだ。
「お待たせ」
「ちっとも」
彼と歩いているとだんだんと自分が若くなっていくように感じられた。もう、自分はそんなに若くない。やはり夢なんだ。その証拠に、まわりが霞んで見える。でも、夢でもいいわ。お墓参りも済ませたんだし。
「やっぱり、幽霊なのね。でも、怖くないわ」
「幽霊じゃないよ。僕だよ。君もまだ若いよ。二人とも二十歳だよ」
「ええ、あなたは二十歳、でも私は・・・」
「二人とも二十歳だよ。三日前に会ったばっかりじゃないか。今日はどこへ行こうか?」
「どこでもいいわ。あなたが望むところでいいわ」
「じゃ、海を見に行こうか」
「いいわ。うれしいわ」
「怖くないかな」
「全然。怖くないわ」
「灯台を見る約束だったね」
「白い灯台?」
「そうだよ。君のワンピースが灯台に映えるよ」
「そうかしら」
「とても素敵だよ」
「ありがとう」
「さあ、見てごらん。あの海を」
「美しいわ」
「君の瞳のようだよ」
「ねえ、ひとつ尋ねていい?」
「なあに」
「今までどうしていたの?」
「ずっと待っていたよ」
「何を?」
「君が来るのを」
「それではなぜすぐに、迎えにきてくれなかったの?」
「君が怒っていたからだよ」
「今日、迎えにきてくれたのはなぜ?」
「許してくれたからだよ」
「では、ずっと見ていたの? 私を」
「そうだよ」
「私が困ったときも?」
「そうだよ」
「なぜ助けてくれなかったの?」
「助けられなかった」
「なぜ?」
「・・・」
「今なら助けてくれる?」
「そうだよ」
「一緒にいてもいい?」
「いいよ」
「ずっと、一緒にいていい?」
「そうだよ」
「そうするわ」
「でも、もうすぐ帰らないといけない」
「どこへ?」
「海の中へ」
「一緒に行っていい?」
「いいよ。君が望むのなら」
「行くわ、連れてって。あなたと行くわ!」
「しっかり握って」
「離さないわ。いつまでも」
「ねえ、あなたは二十歳でしょ?」
「そうだよ」
「私はいくつに見える?」
「二十歳だよ」
「そんなことないわ」
「僕たち同級生だよ。僕が二十歳なら、君も二十歳だよ」
楓は夢をみていたようだ。顔を上げ、そして目を開くと、道路にイノシシの絵と動物注意と書かれた標識が見えた。その標識が後へ遠ざかっていくと、再び瞼が重くなった。
「わかったわ。あなたも二十歳。私も二十歳」
「そうだよ。ずっと二十歳。二人とも」
「二十歳のままね」
「そうだよ。二人とも二十歳のままだよ」
「二十歳のままで、いつまでもいっしょ?」
「そう、永遠に」
「ちょっと待ってて」
こう言うと、楓は手を離してさっき岩礁に置いた花束を右手で取り上げた。「TとKの墓」と書かれた墓標が現れた。
右手で花束をもって、龍生のところに戻った楓は再び左手を出した。その手を龍生の右手がしっかりと掴んだ。
二人はくるくると廻りながら、海水の中に沈んでいった。
海の中は白い光で満ちていた。白くて明るい光の道が遠くまで続いていた。
花束を包んでいたセロハン紙が水の中に消えると、金色の花びらが花吹雪のように舞った。
二人の衣服が溶けてしまうと、二人は抱擁した。
二人は魚になって近づいたり離れたりしながら、光の彼方へと遠ざかった。
小さな墓標の前の砂浜では、水着を着た幼い姉妹が遊んでいた。
上の子が足元のピンク色の小さな容器から、ヤドカリを一匹つまんで、左胸の下のほうにもっていくと、ヤドカリはしっかりと水着を掴んだ。手を離すと、下の子がうれしそうに、くくっと笑った。上の子も一緒になって笑った。
西に傾いた日は、海面に反射して揺れていた。