ふるさとの史跡をたずねて(391)
藤井神社(尾道市因島重井町片山)
重井町の藤井氏の先祖碑は52回で紹介した、船奉行片山数馬氏の居城跡だと伝わる天秀庵城跡の横にある。あるいは島四国74番甲山寺の前だと書けばわかり安い。これまでのように藤井土廟と書くのが正しいのだろうが、どこにもそう書かれていないので、藤井神社としておく。
重井町藤井氏は、土生町巻幡氏の分家である。すなわち大西屋嘉平太(巻幡氏)の子が寛永年間に重井村に住み姓を藤井とし橋本孫兵衛(橋本屋)と称した。その子は寛文4年に油屋茂平(茂平屋)として分家した。
巻幡氏については16回で記したが、その後例の釣島箱崎浦の合戦の時
来島したと書いてあるものを知った。岡本氏や楠見氏の先祖伝承では、村上師清が和歌山県雑賀から伊予大島へ来たときに来たと書いてあるが、巻幡氏もそうなのであろうか。對潮院にある先祖碑や大山神社にある耳明神社が共に市民会館周辺にあったという話とは符合する。
だから藤井氏の先祖の流れを平泉、津軽牧畑、京都、雑賀、伊予大島、土生、そして重井と素描しても悪くはないだろう。しかし、サザエの殻に米と日本酒を入れるという耳明(みみご、耳護?)神社に伝わる風習や、土生町の一部にあったという、鯉幟を上げない風習(全国のいわゆる負け組の集落によく見られる風習)は、重井には伝わらなかった。あるいは初期にはあったのかも知れないが、私の知る限りでは重井町では聞かれない。
ふるさとの史跡をたずねて(392)
大出神社(尾道市因島重井町片青木上)
大出神社は重井川に沿って散歩していると見える。文化橋の少し上の辺りから見えるが逆方向になるので、上流から下流に向かって歩くと良い。一本松から下流に向かって重井川の土手を歩くと、やがて右手に島四国84番屋島寺である川口大師堂とその特徴である石段が見える。しばらく歩くと大師堂の左手に視界が開けてくるので、少し低いところを見ると石でできた灯篭と小さな祠が見える。
ここに行くには文化橋を通ってフラワーセンターに向かう道路脇である。青木山の山裾のみかん畑の中である。登り口はバス通りが大きくカーブしていて、見通しの悪いところなので注意が必要である。
さて、重井町大出家のことについては231回の大浜町の大出家先祖碑のところで簡単に触れた。永享元年(1429)に北面に勤仕した大出左衛門太夫藤原清宗の嫡男大出太郎太夫藤原宗高と弟の次郎太夫は諸国歴訪ののち因島に来た。兄は重井に住み、弟は南部に住むも、北部に移る。兄の方を重井大出氏の初代とする、と。
因島村上水軍の時代である。その関係については系図の中には書かれていないが、水軍との関係があったとしてもおかしくはない。また、大出というのは、元は大江だったが武運下降の際、世を忍んで大出にしたという話がある。勿論、因島ではなく関東で。大江氏というのは宮地氏の姓である。全くの私の邪推であるが、因島宮地氏の分家の一部に大出氏を名乗った人たちがいたと考えられないであろうか。
ふるさとの史跡をたずねて(393)
村上神社(尾道市因島重井町丸山)
重井町の一本松は信号こそないが現在も各方面の道路が交わる結節点であり、どちらを向いてもそれぞれ異なる歴史を書くことができる。
今回は北を眺めて、右手の小山沿いの北に向かう路地の彼方を見てみよう。この先にフラワーセンターがあり、さらにその先には因島鉄工団地がある。
この右手の小山は太陽電池で覆われているが、頂上付近に石造物があるのがわかるだろう。村上氏の先祖碑である。重井町の村上氏は、異なる先祖によって、大元(本)屋系、丸本屋系に分けられるが、さらに長右衛門系もある。ここは、丸本屋系の先祖碑である。二基あり元は同じであるが先祖祭りをするのに別れたとのことである。村上義光と書かれている。六代吉充と同音である。この程度の漢字の違いはよくあることで、六代吉充のことであろう。しかし、吉充には子はなく二代にわたって養子を後継者としている。四国の方では晩年の子があったのかもしれないが、その子孫が重井に来ることはあるまいから、吉充の弟あたりの子孫であって偉大な六代吉充を家祖と仰いでいるものと私は思う。
丸上本家だから丸本屋であり、その前の山が丸本山、略して丸山である。一町田の干拓で山は削られ低くなったので丸小山と呼ばれた。現在の山の名である。
丸本屋村上氏の初期の墓は無量寺(柏原神社のあるところ)にあったと言われるから、上坂(かみざこ)に住んでいて、川ノ本柏原氏に少し遅れて川ノ本柏原氏の南に住むようになったと思われる。
ふるさとの史跡をたずねて(394)
仲屋墓(尾道市因島重井町善興寺)
戦国時代が終わるやいなや二軒から出発した柏原氏が重井町を中心に多人数になったのは、江戸時代の農村社会における薩摩芋の普及にあったことは確かであろうが、それは他の苗字の家についても同様であった。個別的な理由として初期の分家が大きかったのだと思う。
次男家の川ノ本柏原家では、初代甚之助の二男久助が分家して仲屋となる。久助は24歳の時、家を脇田へ移す。少し東である。私は現在の丸本屋村上氏宅のところだと思う。その周辺に仲屋系柏原氏が多いので。
仲屋初代久助の娘亀は、三男家・蔵本初代平ヱ門(和貞で医師をしていた)の二男久左衛門を夫に迎えて仲屋2代目とする。次男三男家の間ということで中(仲)屋と称したのだと思う。
仲屋の墓の一つには、「先祖代々墓 仲屋本家 廿代 柏原伊太郎」と彫られている。また別面に「昭和十二年十月建之」とあるので、重井柏原氏は江戸時代初期から川ノ本家、蔵本家、仲屋家と3軒がそれぞれ分家を出しながら代を重ねて来たことがわかる。
なお、仲屋2代久左衛門は医師であったので、弓削に診療に行き久司浦で急死、当地で葬られた。妻亀の兄か弟である仲屋初代の二男が弓削に養子に行っていたから親戚であった。久左衛門は高齢であったので仲屋家は当然3代七左衛門の代に移っており、絶えることはなかった。
写真・文 柏原林造